62. 月の微笑
それを聞いた、彼の腕の力が弱まった。
「自分だって、私を帰そうとしていたじゃありませんか。なにを偉そうに」
彼の顔を見上げてそう不満を口にすると、彼は困惑の表情を浮かべている。
「いや、帰りたがっているだろうと思ったから」
「ええ、帰りたいです。当たり前です。でも私、妊娠しているんです」
「それはそうだが」
「陛下は私に、この子を一人で産んで育てろって仰るんですか?」
「いや、もちろんできる限りの援助はするつもりだった。医師なり産婆なり、こちらから名のある者を派遣することも……」
「そういうことを言っているのではありません」
「じゃあどういうことだ」
「あなたの子ですよ?」
「知っている」
思わず、ぽかんと口を開けてしまった。どうしてそんな返事が返ってくるのか。
もしかしたらとんでもなく無神経な人間なのか。頭の中はアダルベラスの運営のことしかないのか。
……いや、ないのだろう。
「……もう、よろしいですわ」
ため息とともにそう話を打ち切ると、両手で彼の胸に手をやり押し返す。
呆然とこちらのやりとりを眺めていたらしいエルフィの民たちを振り返る。
「ごめんなさい。私、今はあちらで静養しようと思います。私は私とこの子を大事にしたいの」
「姫さま……」
「今後については、また話し合いましょう。私も一人では無理だと思うの。あなたたちの協力が必要だわ」
そう話すと、口元に弧を描いた。
今から話すことは、とてつもなく困難なことだけれど、笑顔で伝えたかった。
不可能ではない、と思って欲しい。
「ねえ、私、私も含めて皆で幸せになりたいし、したいと思うの。綺麗ごとだと思うかもしれないけれど」
そう語りかけると、彼らはなぜか泣きそうな表情になった。
「でも私には、三人の天使さまのご加護がある。できないことと思わないで。皆で協力して、きっと実現させましょう」
しばらくの間、天幕内には静寂が落ちた。
しかし少しして、サーリアの顔をじっと見つめていたエルフィの民たちは、一人、また一人と膝を折っていく。
「女王陛下の仰せのままに」
二国が、その国民が、皆で幸せになるために行く道。平坦な道ではないことは、誰もがわかっているけれど。けれど最初から不可能だとは思いたくない。
自分の希望が受け入れられたことを知ると、サーリアは書記官のほうを振り向いて手を差し出した。
「ペンと便箋を貸してくださる?」
そう請うと、書記官が慌ててそれらを用意して差し出してきた。
机上に置いて、手短に連絡事項を書くと、それを民の一人に手渡す。
「今回の協定のことと、これからの私の身の振り方、簡単ではあるけれど書きました。叔母さまに渡してくださる?」
「は、はい」
「しばらくは叔母さまに女王代行をお願いしています。彼女の指導に従うように。こちらからも指示を出しますから」
「はい」
レーヴィスはそれらのやりとりを、黙って見つめていた。
エルフィの民たちは小さくため息をつきながら、立ち上がる。そしてレーヴィスに視線を移した。
「少なくとも、姫さまが大事にされていることはわかった」
「でもお前を許したわけではないからな」
「姫さまを泣かせてみろ、今度こそ、周辺諸国を味方につけて潰してやる」
ぎゃんぎゃんと喚くように浴びせられる言葉に、レーヴィスは軽く肩をすくめて返した。
「肝に銘じておこう」
そして軽く口の端を上げた。
それを見た民たちは、はあ、と息を吐き、囁くようにサーリアに訊く。
「本当に、こんな男でいいんですか」
「どうかしら。よくない気がしてきたわ」
頬に手を当てて、ほう、とため息をつく。
「嫌になったら今度こそ、すぐに帰るわ」
「そうしてください。きっといつか、天使さまから天誅が下されるでしょうし」
「お身体を大事になさってください。我々の無礼は謝罪します」
「我々はいつも、姫さまの幸せを願うばかりです」
どこか晴れやかな顔をした彼らは、ゆっくりと頭を下げた。
◇
サーリアは天幕の端から、エルフィの民たちが立ち去って行くのを見送っていた。
お互い、姿が見えなくなるまで手を振り続けている。
サーリアが手を下ろしたとき、レーヴィスは彼女に歩み寄って、そして横に立った。
「いいのか」
「いけないんですか?」
少し不貞腐れた様子で、彼女はこちらを見上げてきた。
どうも今日は、彼女の表情が豊かで困惑してしまう。怒り心頭、という感じか。
「いや。以前、そなたは自分を愛しているのは神ではなく、魔性の者かもしれないと言っていただろう」
「え? ええ」
「その魔性の者が、私なのではないかと思ってな。だから離れたほうがいいかと」
そう説明すると、彼女はぱっと視線を逸らして、俯いた。
「ず、ずいぶんお粗末な魔性ですこと」
「粗末なほうがいいだろう」
まともに魔性だったなら、彼女にこれ以上の、どんな不幸が訪れるかわかったものではない。
「それにしても、無茶をする」
苦笑してそう話し掛けると。
「……もうしません」
叱られた子どものように、しゅんとした。
一瞬、その銀の髪を撫でたいような衝動に駆られたが、手を引っ込める。
本当は、抱き締めてしまいたかった。けれど、あの天使たちを見たあとでは、それがどれほど大それたことであるかと思わざるを得ない。今までどれだけ神を冒涜する行為をしてきたか。それは、どれだけの罪だろうか。
彼の思いを打ち消すように、サーリアが口を開く。
その声は澄んでいた。さきほど聞いた天使の歌声のように。
「ここに戻ってきた理由ですけれども、もうひとつ」
サーリアはそう話すと、人差し指を立てた。
「私は、私の言った言葉を取り消すために参りました」
「言った言葉?」
「はい」
そう頷いて、そして彼女は微笑む。
見るものを幸せにするという、その至高の微笑みは初めて彼に向けられた。
それは美しく、柔らかく、彼の心を癒すがごとく。
「お世継ぎは他の方にと」
「……ああ」
「もし、このお腹の子が姫であっても、お世継ぎが産まれるまで私が産みましょう」
レーヴィスは、その真意を量ることができずに、眉根を寄せた。
「どういう意味だ?」
「愚問ですわ」
そう返して小さく笑うと、手を伸ばし襟元を掴んできて引っ張り、すばやくレーヴィスの唇に自分の唇を触れさせた。
「え……」
一瞬の静寂のあと。
一部始終を見ていた兵士の間から、口笛や拍手のひやかしが飛んできた。
雨が降っていることと、戦が始まらなかった安堵感からか、彼らは遠慮というものを知らなかった。相手が国王であろうとおかまいなしだ。
「……まいったな」
辺りを見回し、そして肩を落として彼は愚痴る。
「必死になって王としての威厳を保ってきたというのに、台無しだ」
「それは申し訳ないことをいたしました」
さして申し訳ないとは思っていなさそうな謝罪を口にして、彼女は笑う。
彼女の笑みが自分自身に向けられていることを知ったレーヴィスは、自分がどれほどの果報者かを同時に知った。
しばらく彼女に見惚れていたが、その姿を改めて目に映すと、はっと現実に引き戻される。
「ああ、そんなに濡れて風邪でもひかせてしまったら」
「ベスタに怒られますわよ」
「そう、生きた心地が致しません、と」
侍従たちが慌てて敷布などを持ってくる。レーヴィスはそれを受け取ると、彼女をそれで包んだ。
自分の腕の中で敷布にくるまれた彼女は、銀の髪を伝う雨粒さえも装飾品であるかのように思わせる。輝かしい笑みを浮かべる彼女のなんと美しいことか。今までに見てきたどんな彼女よりも美しい。
サーリアはそっとそんな彼の手に自分の手を乗せ、口を開いた。
「陛下はエルフィの民たちにずいぶんと嫌われてしまいましたわ」
「仕方ない。甘んじて受けよう」
嫌われるどころか殺されてもおかしくはない状況だったのだ。
これから彼女は前代未聞の、王妃であり女王であるという重責を担うことになるが、彼女がそれに潰されぬよう、最大限の支援をしていきたいと思う。
せめてそうやって、彼らに報いていきたい。
「ああ、それから」
「なんだ?」
サーリアが思いついたように続ける次の言葉を、レーヴィスは首を傾げて聞く。
「私は勝手に飛び出して参りましたの。私の侍女たちをお責めにならないでくださる?」
サーリアの問い掛けにレーヴィスは苦笑して答える。
「いい。どうせ誰もそなたには逆らえない」
もちろん、自分も。いったい誰が『神に愛でられし乙女』に逆らえようか?
「陛下、馬車の用意ができました」
侍従が傍に寄ってきてそう報告してきた。
「さあ、帰城しよう」
サーリアの肩を抱くと、そう促す。
「ええ」
彼女はレーヴィスの呼び掛けに頷いた。そうして二人は連れ立って歩き出す。
今まで黙って二人を見守っていたゲイツが声を上げた。
「我が国王陛下は『神に愛でられし乙女』に選ばれた!」
その宣言に兵士たちは歓喜する。
「帰城する!」
歓声が上がる。降りしきる雨にもその声は消せなかった。
◇
「なに……?」
撤退を余儀なくされるオルラーフ軍の中に、その女性はいた。侍女に身体を抱かれ、天幕の中に匿われるように、身を隠していた。
急な撤退のために混乱している軍の者たちは、彼女の存在すら、忘れているかのようだった。
「セレスさま、なりません!」
天幕からふらりと身体を出そうとする彼女を侍女が押さえつける。しかし彼女はそれを振り切り、幕から顔だけを覗かせ、そして輝いた瞳で一点を見つめていた。
馬が一頭、降りしきる雨と混乱の中をすり抜け、彼女のほうに向かって走ってきていた。
彼女はその馬をよく知っていた。失われた過去の想い出の中で、その馬だけは彼女の中で輝き続けていた。
彼女は侍女の制止の声も聞かず天幕から出て、その馬を迎えるように手を広げる。
馬は驚く兵士たちの視線を尻目に、彼女に向かって走る。そして彼女の前で歩を緩めた。
そして手を広げる彼女の前で立ち止まると、甘えるように自分の首を彼女に差し出す。彼女はそれに応えるように、その馬の首筋を撫でてやった。
「ありがとう」
正気を失ったはずの彼女はその言葉だけを明確に発してみせた。馬はその声に反応するように嘶く。
彼女は馬の首に抱きつくと、声を殺してむせび泣いた。
◇
「あ……」
ふと、サーリアが足を止めた。
「なんだ?」
少し遅れてレーヴィスも足を止め、彼女の顔を覗き込む。
サーリアはそっとお腹に手を当てて、しばらく目を閉じ、それから顔を上げると微笑んだ。
それは初めて彼女が自分自身に向けた微笑だったかもしれなかった。
そして彼の顔を見上げて報せる。
「今……動きました」
彼女は天空を仰ぐ。
雨を降らせる厚い雲が一瞬割れたかと思うと、そこから一条の光が射し、そしてまた閉じていった。
どこからか、天使の歌声が聞こえたような、そんな気がした。
了
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