7. 憑依スキル
〈試しに一度、乗っ取ってみようではないか〉
新たな力が己に宿ったフォードに対して、悪霊王エリゼーラがそう提案する。
フォードは、訝しそうに訪ねた。
「乗っ取る、ですって? 随分と不穏な響きですが、それはどういった能力なのです?」
〈百聞は一見に如かずという言葉があるだろう? 我が説明するより、ぬしが身を持って知る方が良い〉
脳裏でエリゼーラの声が木霊する。頭蓋の奥に、直接響く甘い女の声。
どうやら、エリゼーラは自身の声を脳内に響かせる事が可能らしい。
そして姿の鮮明さも、ある程度変えられるようだ。エリゼーラの姿が、目の前で消えたり、色濃く現れたりしている。妖艶な容姿の美女が、ふわふわと浮かび、楽しそうに笑っていた。
「判りました。ではその力を使って脱獄してみましょう」
〈くふふ。では使い方を教えよう。心の中で、自分と外界の檻を壊すのだ〉
エリゼーラは優しく、子供に聞かせるようにさえずった。
〈自分が浮遊する、という光景を浮かべるが良い。鳥のように、ではなく、煙のような自分だ。形もなく、重さもなく、空気に流れるがままに体から離れる光景。それを思い描くのだ。強く、描くのだぞ。さすればぬしの体は、肉体という楔から解き放れ、我が力を行使できるであろう〉
なかなかに難しい注文だったが、フォードはやり遂げることを決意する。
その場で床に座り込む。瞼を閉じる。手足を楽に保ち、そして深く呼吸を繰り返す。
瞑想の仕草である。フォードは、一度自分の中の感情や気持ちを切り捨てた。
〈うむ。良い状態だ。それを保て。ゆっくり思い描くのだ。ぬしの体と魂が離れる情景を浮かべよ――〉
フォードは自分が人間であるという気持ちを一端捨てる。
人ではなく煙であると定義する。
煙は形がない。煙はどんな姿にもなれる。煙は千変万化の象徴だ。兎、鳥、蛇、犀、象、鼠、魚、馬、獅子……木々に山々に大河……この世にあるあらゆる物になれる。
人ではない。人ではない。人ではない――ずっとずっと、あやふやで、曖昧で、どこまでも儚く、けれど、自由なもの――。
〈良いぞ。くふ。その調子だ、我が契約者よ〉
フォードの総身が、かっと熱くなる。
重さが感じられなくなった。音が、匂いが、触感が、全て消え失せた。血の流れから毛穴一つ一つまで、細胞の全てが別のものへと置き換わる。
それはまるで生まれ変わりだ。脱皮という能力がもしフォードにあるのなら、それが一番近いだろう。
古い体を捨て、新しい体へと生まれ変わる感覚。
頭から何か抜け出すのを感じた。軽く、ふわりとした、何か掴みどころがない、曖昧で、半透明なもの。それが頭から音もなく、何もなく、ゆっくりと、湧き出るようにフォードの体から離れる。
不思議なことに意識は一つなのに魂は二つ存在する。いや、一つなのか? 感覚が曖昧になり、存在が希薄になり、己が千切れそうだった。油断すれば空気の中に霧散し、永遠に消えてしまうような、根源的な、恐怖。
〈自分を強く保つのだ、ぬしよ。無心になりすぎてもならぬ。ぬしは煙の如く自由だが確かにここに存在する。己を強く保て。自身の名前や故郷、希望、絶望――何でも良い、ぬしを構成する強き記憶や感情を思い出すのだ〉
このままでは消えるという恐怖のままに、フォードはエリゼーラの言葉に従う。
厳しかった父と母。死なせてしまった妹。ギルドでの鍛錬。冤罪の無念。レミリアへの怨み。ルザへの怒り。鞭の激しい痛み。牢獄の辛い日々……それらを思い描くことで、希薄だった己が再び鮮明になるのを感じる。
〈くふ。よし、目を開けるのだ。これよりぬしは紛れもない煙(憑依体)。自由にこの世を闊歩できる存在よ。フフっ〉
ゆっくりとフォードは目を開けた。
ひどく眩しかった。頭に直接映像が入る感覚。
薄闇の牢獄の中なのに、鮮明すぎる。ここまでひどく明るい光景は、いったい何なのだろう。
すぐに理解する。人ではなく煙の状態で景色を見ているからだ。
眼球ではなく煙という全体で景色を見ている。認識している。
だから過剰なまでの情報が自分の中に注ぎ込まれているのだ。ほんのわずかな光でも、今のフォードには太陽を直視したかの如く激烈な明かりに変容している。
「う……少し吐き気が……めまいも……これは、なんです?」
〈ぬしの意識が『憑依体』に慣れておらぬ証拠よ。こればかりは慣れぬしかないな。なに、数日もすれば馴染む。肝要なのは新しき自分を受け入れること。人に戻りたいだの、後悔だのは禁物。あるがままの今を受け入れよ〉
「なる、ほど……彫像に封印されていた悪霊の経験談は、頼りになりますね」
軽口を言うと、エリゼーラは嬉しそうに笑った。
〈言うではないか。我が契約者よ。然り。我もかつては封印され、実体なき存在へ落とされた。その時は悩んだものよ。だが無形というものはな、慣れれば煩わしさとは無縁。どこへでも行けるし、どこにも制約はない。自由なのだ。くふふ……〉
エリゼーラは空中でくるりと一回転しると、艶美な笑みを見せた。豪奢な衣装のスカートが、風のように揺れる。フォードは一瞬目を奪われた。
〈さて我が契約者よ。自分の抜け殻があるのが判るかな? 完全に本体と離脱したとき、ぬしの『憑依体』は完成する〉
言われ、フォードが真下を見てみれば、瞑想姿の自分がいる。
まるでへその緒のような細い煙が、今の自分と、本体である自分を繋いでいるのだ。
瞑想状態の自分は微動だにせず、呼吸も、まるで感じられない。かといって死体のように冷たくなっているのではなく、生きている証である肌の赤みが見て取れる。
フォードは、先ほど床に置いた『冥王臓剣』の刃の反射で自分を見てみた。今は自分が、直径一メートルほどの『煙』になっていることが判る。
フォードは、さらに天井付近まで上昇した。へその緒のような管が切れる。
これで完全にフォードは煙として体から分裂したことになる。
〈説明しておこう。《憑依体(煙)》と《本体》が分かれたとき、《本体》――つまりぬしの元の体は、生きた彫像になる。ぬしが《憑依体》――煙の姿でいるうちは、呼吸せずとも、何も食わずとも生存できるが、元の体は、自律して動くことは叶わぬ〉
「なるほど。煙のうちは、僕の元の体はただの生きた彫像。……では、煙の方は?」
〈同じく何もせずとも、存在に支障はない。煙の状態でも、水、呼吸、肉、睡眠――いずれも不要。完全に人間を超越した存在というわけだ。フフ、判ったかな?〉
「なるほど。あなたと同じようなものになるわけですね」
〈然り。我と同類の存在になれて、嬉しいぞ。我が契約者よ〉
エリゼーラは艶やかに笑い、フォードを掻き抱くために近づいた。
「うわ、やめてくださいよ。まだこの状態に慣れてないのですよ。それに女性から抱きつくのは少し破廉恥ではありませんか?」
〈むう。我は喜びを共有しようとしたというのに。なんたる言葉よ。……やはりレミリアのような豊かな胸の娘が好みか〉
「いやいやいや。あのですね? いま彼女は関係ないですからね?」
心なしかすねたような表情で浮かぶエリゼーラに、フォードは焦った。
というより、エリゼーラもドレスで体の輪郭はわかりづらいが、胸部に関しては結構盛り上がっていて、見劣りするようなものでは……
いや、何を考えているのだ。フォードは己を引き締めた。
「さて。無駄話で時間をふいにしたくありません。さっそく脱獄といきましょう」
〈やれやれ。我が契約者はいけずでいけない。まあ良い。では……見えるかな? 通路の端に一人の番兵がおる。その者の体を乗っ取り、この牢屋の鍵を開けるのだ〉
見れば、確かに通路端に、眠そうな顔をした番兵が立っている。
彼の腰には鍵束があり、それをこの牢屋の格子にはめろと言うことなのだろう。
〈ぬしは憑依体――『煙』の状態ではあらゆる生物に取り憑くことができる。あの者がたとえ一騎当千の強者だとしても、ぬしにかかれば傀儡よ〉
艶然と、笑みを深めるエリゼーラ。
フォードは煙の状態で、移動することにした。
人間のときとは違って脚を動かさずとも、「前に」と念じるだけでいい。鉄格子など関係ない。隙間からするりと抜け、空気のように、風のように、たゆたうことができる。
どうやら『煙』は人間の視界には映らないようだ。他の牢屋から、囚人がフォードの方を向いたが、何の反応も現さない。あくまでフォードとエリゼーラだけが知覚できる存在。
眠そうな番兵ももちろん、フォードには気づけない。
その体の中に、フォードは煙のまま飛び込む。
薄い壁のようなものを感じた。彼の肉体だ。だがすぐに突破する。フォードの煙――『憑依体』は番兵の内部に侵入すると体の隅々まで広がり、浸透し、指の先から髪一本にまで、余すことなく融合する。
ハッと意識を切り替えれば、視界が変わっている。
番兵の男の視界だ。彼の視覚を乗っ取ったのだ。
いや、そればかりではない。今、フォードの体は完全に番兵の体を乗っ取っている。
身長百七十八センチ、体重六十七キロ、利き腕は左で、耳たぶには古い切り傷があり、背中には戦闘で負った火傷の痕がある。肩に昔刺された毒牙の名残があり、虫歯によって失いかけた右奥歯が判る。左手の小指がないのは昔ヘマをしたのだろうか? 憑依したことでフォードの二刀流や投擲技能こそないが、番兵の槍術が使えるのが判る。
戦闘は長槍が得意で、牽制に投げ槍を使う技もある。突きよりは払いを好みとし、そのための筋力が発達している。
なかなか強い。少なくとも一対一では今の弱体化したフォードを上回る。名前は……ロス――ロスゲス。番兵の中では中堅と上位者の間に位置し、それなりの修羅場をくぐってきたことまで把握できた。
「エリゼーラ」
〈なにかな? 我が契約者よ〉
悪霊王はフォードの真上にふわふわと漂いながら応えた。
「憑依した時、相手のことがある程度判るのは仕様ですか?」
〈ほう? いや、それは我もよくは知らぬ。《憑依》は通常、ただ相手を支配できるのみ。なんだ、ぬしはその者の記憶や戦術など、何となく判るというのか?〉
「判るようですね。おぼろげですが……この番兵、ロスゲスは長槍の使い手。それなりの強さを持ち、なかなか良い体のようです」
〈ほう。ほうほう! なるほど我が契約者は特別な素養を持つようだ。憑依に関して並々ならぬ才があると見た。では我が契約者よ。その力でもって己の呪縛を解くがいい。牢の鍵を開け、自由の身となるのだ〉
「言われるまでもありません。そのつもりですよ」
フォードは番兵ロスゲスの体のまま、元の牢屋の前にまで移動する。
腰の鍵束から合いそうなものを選び、鍵穴に挿入。回すと同時に、カチャリ、という軽い音が響く。
格子が開いた。いとも簡単に。
番兵を操り、鍵穴に鍵を差し込む――そんなあり得ない行程を経て、脱出できた。
「ふふ……」
思わずフォード(ロスゲス)の口から、笑みがこぼれた。
「これは素晴らしいですね! ロスゲスの体は、まるで自分の手足のようです! この目、この口、この体! 僕の思い描く通りに動く! 動くっ! ハハハ!」
〈気に入ったか、我が契約者よ〉
宙に漂い、ドレスをなびかせ、甘い声でエリゼーラが問う。
「ええ。でも脱獄はこれからですね。僕の本体も連れ出さなければなりませんし。バカ正直に、たとえば僕の体ごとロスゲスが運んでも、ただの不審者です」
〈然り。であるならば、『冥王臓剣』を使うのが上策というもの。あれは、冥界の覇竜の臓物から作りし魔剣。人間の番兵ごとき、容易く斬り伏せられようぞ〉
「了解です。ではその『冥王臓剣』を使わせてもらいましょう」




