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6. 悪霊王との出会い

 ガルグイユ監獄の最奥部、第九層。

 フォードは絶望に絡め取られていた。

 レミリアが詐欺師だったという真実を告げられた直後は、「そんなまさか」「あり得ない」「何かの間違いだ」と思っていたが、楽観的な思考は、数日も経てばどこかに消える。

 代わりに脳裏に漂うのは、寂寥と、納得による失望だ。

 レミリアはそういえば妙に冷静だったとか、少し大げさ過ぎだったとか、金剛力珠の使いが様になりすぎていたなど、今さらながらに納得がいく。


「……レミリア……」


 何度もフォードの口から、彼女の名が洩れる。


「レミリア……」

 彼女との時間は一日だけではなかった。二週間以上も一緒だった。

 格子の隙間から少女と手を重ね、言葉を交わし、希望を語り合い、励まし合い、その果ての、裏切り行為だった。


「ひどいですよ、レミリア……」

 まなじりから、涙がこぼれる。悔しい。悔しい。情けない。騙された過去の自分への呆れ。レミリアへの怒り。失望。そして未来への不安――全てが折り重なった。

 三日間、フォードは牢獄の中で、ろくに身動きもしなかった。

 フォードは牢屋の中で、飯もろくに食べず、ただ死体のように寝そべっていた。


 信じていた人に裏切られ、傷つけられ、虐げられ、ばかりか、大切な雷紋剣まで奪われてしまった。体の中にぽっかりとできた喪失感は、簡単に埋まるものではなかった。

 レミリアの笑顔が何度もちらついた。彼女の暖かい声や励ましが、幻影や幻聴となって、フォードの周りに漂った。「フォードさん」「フォードさん凄いですわ」「わたくし、フォードさんのことが……」様々な思い出の中のレミリアが、声をかけてくる。

 けれどもそれは全部まやかしだと判っているフォードは、やるせなさと失望感の中で、ぐったりとしていた。


 時間は刻一刻と進み、このままでは断頭台の露と消えると判っていても。

 一刻も早く脱獄し、安全な場所にいかなければならなくても。

 喪失感や失望感に蝕まれたフォードは、朝起きて、ぼうっとして、そのまま日が暮れて、レミリアの幻影と幻聴に包まれながら、過ごすしかない。そんな生活を三日も繰り返していた。


 ――転機が訪れたのは、四日目である。


〈――よ、こ から たいと思わ い ね?〉

 

 ふいに、異変が生じた。

 牢屋に、声が響き渡った。

 それはかすかで、だが不思議な旋律を帯びていた。


「え……?」


 一瞬、フォードは幻聴かと思った。

 しかし身を起こして耳を澄ましても、何も聴こえない。空耳だろうか? それとも風の聞き間違い? そう思いかけ、横になる直前。


〈ぬしよ、ここか 出た と思わ いかね?〉


 声は再び、今度は少し鮮明に聞こえてきた。

 それは、若い女の声だ。わずかにかすれ、色香を含んだ艶めいた声。

 それがフォードの下、牢屋の石床の下から、流れ込むように聞こえてきたのだ。


「誰ですか……?」


 フォードは声の在り処を頼りに、床の石を調べた。

 すると、床石は外れることが判った。

 奇しくもフォードが先日、レミリアに語った通り、ガルグイユ監獄は古い神殿を改装したものである。

 かつて神に祈りを捧げるため、多数の部屋が作られた。現在の牢屋はそれらを改装したものであり、場所によっては神殿時代のものが埋められたまま、隠されていた。

 そして今、フォードが床石を外した先には――。


「彫像?」


 悪魔めいた造形が成された、古い彫像が出てきた。大きさは腕に抱えられる程だ。

 蝙蝠のような翼とヤギのような曲がった角が特徴的。尖った尾がとぐろを巻いている。

 全体として黒曜石のような色だが、どこか不気味だ。美しくもどこか禍々しさも感じさせるフォルム。彫像の血のごとき赤い双眸が、よりそれを掻き立てていた。

『声』が、再び意志を伝えてくる。その彫像から、はっきりと。


〈ぬし、ここから出たいと思わないかね?〉

「うわっ」


 思わず、フォードは彫像を取り落とした。

 弾みでガシャン、と彫像の一部が欠ける。からかうような声が聴こえる。


〈おっと、気をつけよ。封印が狂う。爆発するかもしれぬ〉

「……な、何者です?」


 フォードは見回りの番兵に聞こえぬようささやいた。


〈フフ、やっと通じたな。一時はどうなるかと我は思ったぞ? ここ四日、ずっとぬしに話しかけたというのに、ぬしはまるで気づかん。くふ。じつに喜ばしい〉


 声は楽しげに、滑らかな口調で歌うように言う。

 フォードは意味が判らない。何だ、これは、何が起きている?


「質問をしたのに返さないとは、ずいぶん無礼な……女性ですね」

〈フフ。すまんな、人間。ずいぶんと久方ぶりに『素養』ある者と話せたゆえ、興奮していたのだ。許せ〉


 ずいぶんと尊大な態度の女である。しかしふてぶてしいというより、自信に満ちあふれている。余裕のある響きだった。王者の持つ威厳、とも言うべきか。

 声の女は楽しげな響きを宿し、こう言った。


〈問われたからには我が名を教えよう。我は『エリゼーラ』。太古に生きし悪霊の王である〉

「……悪、霊? まさか。そんなもの……」


 『悪霊』。邪悪な力を使いこなす、超自然的存在。

 はるか太古に滅んだとされる超越者。童話、説話、伝承、さまざまな媒体の中で悪役として描かれ、悪魔そのもの、あるいは邪悪の化身とされる。

 悪霊達が生きた数千年前、つまり古代文明が全盛だった頃に、彼らは『魔徒』と呼ばれる邪悪な下僕を率い、人間を苦しめたとされる。

 だがそのような存在が、現実に生き延びている事は疑わしい。遥か昔、神との争いで滅んだというのが定説だ。今時、ホラ話でも使われないだろう。フォードの口から、呆れが出てしまったのも無理はない。


〈むう? ぬしよ、信じておらぬな? われが、虚言使いの阿呆とでも?〉

「いきなり声が聞こえて悪霊の王などと言われても、到底信じられませんね」

〈これは意外。我の威厳をもってすれば万人が信じるに値すると思ったのだが、ぬしはなかなか慎重な男なのだな〉

「いえ別に……そもそもあなたが本当に悪霊などという、旧世界の支配者だとして……こんな所で何を?」

〈それがな、よくは覚えておらぬが、封印されてしまったらしいのだ〉

「封印?」


 フォードは首をかしげた。


〈然り。いやはや我も迂闊だった。人間相手に好き放題をしていたところ、神々の粛清に遭ってしまうとは。確か三十柱くらいかな? 戦闘の神どもに囲まれ、神術を使われ、絶世の美しき悪霊王は、この通り〉


 彫像がカタカタと揺れ、愉しそうな響きが聴こえる。


「自分のことを美しいなどと言う自画自賛者は信じられませんね」

〈おやおやこれは困った。我の言葉が信じられぬとあれば、事態は好転せぬ。くふ。まあ良い。怪しげな声が聞こえれば、警戒心も湧くというもの。ふむ……ならば試しに我の力を見せてやろうか?〉


 言うなり、エリゼーラは、フォードには聞き取れない文言を唱え始めた。

 空気が、床が、わずかに震動している。

 薄く、暗い靄のようなものが天井、壁、床問わず湧き上がる。

 極彩色の螺旋の微光が宙を舞い、濃密な力が凝縮される。

 大気ごと怯えるかのような、わずかな異変の後――。


障害たる壁よ、(ア・ゾル・ゲス)砕けよ(ロイェス)


 フォードの眼前で、牢獄の壁が、いきなり蜘蛛の巣状にひび割れた。


「なっ――」

〈おや? 久々ゆえ、思うほど力が出んな。いかんいかん、これではぬしに信じてもらえぬ。ふむ……では、これならどうかな?〉


 悪霊が再び文言を口にすると、今度は中空に細長い影が現れた。

 黒鉄色の、金属的な光沢を持つ剣である。先端は鋭く、柄は絢爛豪華。鍔には悪魔のかおのような印章が不気味に光っている。

 装飾剣――禍々しく、黒く輝く長剣が、ゆっくりと、フォードの手元に降りて来た。


〈――『冥王臓剣めいおうぞうけん』という。使ってみるがよい〉


 フォードは、中空から降りてきた剣を手に取り、言われたまま剣を振るってみた。

 ひび割れている壁に、真一字の斬線が走る。

 フォードは驚愕の顔を浮かべた。なまくら刀とは比べ物にならない威力だ。牢獄の強固な壁に傷をつけるなど、尋常な剣ではない。

 しかし悪霊はその結果に不満そうに、目の間の斬痕を評する。


〈我の力も落ちたものだな。昔は一振りで陸地を寸断できたものだが。だかが壁一つ吹き飛ばせんとは。妖気の集束が遅い。むう……これでは我の力を示せぬ〉


 いや、これでも十分に脅威なのだが……

 悪霊王として不満なのだろう。エリゼーラはぶつぶつ言ってじつに無念そうだ。

 しかしフォルムの呆然とした顔を見ると、優しく語りかけてくる。


〈まあ、これでも我の力はわずかにでも判ったろう。これ以上は時が進み我の力が万全になった時に見せてやろう。――さて、理不尽なる罪を架された人間よ。我を信じ、邪悪なる契約を結ぶか? さすれば我は、ぬしをここから出してやるぞ?〉


 機嫌良さそうに、弾んだ声音で、悪魔王エリゼーラはそう声をかけてくる。


「……契約、ですか? それは対価に、何か差し出させなばならないのでしょうか」

〈対価? 何だそれは?〉

「よくある話でしょう。力を渡す代わりに魂を寄こせ。大事な人を差し出せ。使う毎に寿命を頂くぞ。……古今東西、うまい話にはそういう逸話が多いです。貴方のその力、大変魅力ですが、契約するには、酷い対価がいるのでは?」

〈なんだその戯言は。我らの事を記した、つまらん娯楽書の話か?〉


 悪魔王エリゼーラは、一笑に付して否定する。


〈そんなつまらぬ物を望むわけなかろう。我が望むのは人の幸福。あるいは絶望。魂だと? 命だと? そんなもので本当の絶望は作り出せぬよ。それに、絶望は神代に食い飽きた。ぬしが幸せな姿を見せてくれれば、それで良い〉

「え……?」


 にわかには信じられない話だった。悪霊王の求める対価が、幸せを見せる事? 本当に? そんなもので良いのか?

 しかしエリゼーラから漂う気配に嘘偽りはなく、まるで今日の天気でも語るように滑らかだ。それは、単なる事実を語る口調であった。


「……それは少々、僕に都合が良すぎるのですが」

〈疑り深い男よな。ふむ、まあ仕方ないな。ぬしの境遇を思えばな。――では、こう言えば伝わるかな? 我はな、ぬしの事が気に入ったのだよ〉

「……気に入った?」

〈然り。ここ最近、ぬしの様子を見ていたのだ。冤罪に抗うその姿。レミリアとの脱出劇。雷紋剣を使っての戦闘術。脱獄自体は失敗に終わったが、ぬしのその気概、機転、実力、全てが我の契約者に相応しいと判断した。我と共に歩む者はぬししかいない。ぬしこそが我の相棒と思った。――これでは不服かな?〉


 フォードは、即座には、返答できない。

 裏切られたばかりの彼には、契約、などと持ち込まれても尻込みするしかない。

 だがエリゼーラの声音は、レミリアのそれと違って虚飾がなかった。

 素直な自分の心情を吐露していることが判る。一度巨大な悪意というものに晒されたからだろうか。フォードは他人の言葉の裏にあるものを鋭敏に感じ取ることができた。


 ――エリゼーラを信じてみよう。フォードはそう決意した。


「……悪霊王さん」

〈エリゼーラで良いぞ。これからぬしとは末永く付き合う間柄になるのだ〉

「……三つだけ、あなたに聞きたいことがあるのですが」

〈おおっ、なんだ。何でも聞くが良い!〉

「その契約とやらは、本当に、僕の幸せを見せるだけですか?」

〈そうだ。ぬしの幸福なる姿。幸せな時間。それを我は望む〉

「期限はあるのでしょうか。その契約に」

〈そうだな、ないとつまらぬゆえ、作ったほうが良いかな? ――では一年間。ひとまずその間に……ぬしは幸福を得ること。心からの充足を感じること。それがぬしに課す期限としようか〉

「……もし僕があなたの機嫌を損ねたり、一向に幸福に至らなかったら?」

〈それはぬしを殺すに決まっておるだろう。我は聖人でもなければ善神でもない。われがぬしを不必要と判断したとき、ぬしは地獄よりも恐ろしい光景を目にするだろうな〉

「……それを聞いて安心しましたよ」


 ひびきの良いことばかり言う者は信用できない。エリゼーラはなかなか気さくな悪霊だが、最後の質問にははっきり殺すと答えた。それは彼女の本心だろう。エリゼーラはフォードを不要と判断すれば、本当に切り捨てるのだ。

 その言葉が逆にフォードに信用を抱かせた。悪霊王に己を賭けてみよう。


「判りました。その契約、結びます」


 フォードははっきりと、己の意志を伝えた。未来を、幸福を、この悪霊王へ賭けてみる。エリゼーラは、嬉しげな気配を発して言った。


〈くふ。よかろう。フォードよ。これよりぬしの命は我と共にあり。我の力はぬしに宿り大きなしるべとなる。手を差し出せ、フォード。我との契約たる刻印、その手に刻んでやろう〉


 フォードは、言われるままに右手を差し出した。

 瞬間、熱い波動がその手を覆う。火よりも熱く、闇よりも濃い、黒き禍々しい波動。

 その波動がフォードの体の一部であるように同化していく。血流に乗る強く激しい力の根源。心臓がドクンと高鳴る。総身が細胞の一つから生まれ変わる感覚がする。視覚、聴覚、触覚――あらゆる感覚器官や筋肉の一つまでもが最適化され、数秒前と今のフォードを隔絶させる。


「う……く……」

〈完了した。これでぬしは我の契約者よ〉


 契約の証たる紋章がフォードの右甲に現れる。黒い花弁の如き刻印だ。しかしフォードの体は、熱に浮かされたように、熱く、まともに動かせない。『減霊凰薬』で弱体化した体は元に戻ったようだが、それでも指一本動かす事すら困難だった。


〈慣れるまでしばし時間が掛かるだろう。だが喜べフォード。ぬしは我の加護を得て、新しき力を手にした〉

「それは……どんな力、ですか?」


 問われ、悪霊王エリゼーラは、艶然と笑みを浮かべる。

 契約をした事で、神の封印が解けていた。


 フォードの目の前には、麗しい美女が浮かんでいる。

 黒き長髪に紅き瞳。鼻梁は一流の彫像すら上回り、美の化身といって差し支えない。

 身にまとうは豪奢な闇色のドレス。所々で肌が露出した、艶美で華美な衣装。

 唇はピンクローズ。妖しき色香と、慈愛の笑みが湛えられている。

 体が宙に浮いているのは神秘の証だろう。風に吹かれるように、神威を刻みつけるように、黒き美しい髪とドレスをなびかせ、彼女は微笑んでいる。

 悪霊王エリゼーラは歌うように答えた。


〈ぬしはこれより、『他者の意識を乗っ取れる力』を得た。英雄も、賢者も、聖者も、ぬしの前では支配されるべき傀儡よ。それは至高にして始原なる力。《憑依能力》――それが、ぬしに宿りし最強の力よ〉


 くふ、と彼女は笑う。

 それが、苦難の果てに手にした悪霊王の加護。

 それはフォードが何者も敵わない――最凶の力を得た瞬間であった。


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