第8話:別れを言うことすら赦されなくて sideゼノ
その日は朝から嫌な予感がしていた。
それでもこの痛みのせいで満足に動けない。仕方なく目を閉じる。
この痛みには百年以上たって今でもなれないけれど、この痛みを我慢すれば彼女の隣にいられるのならばやすいものだ。
彼女はと初めてあったのはいつだったか。追い出されて泣いていた彼女が酷く小さな声で願った。
「一人で生きていく」と。
だから俺はその願いを受けた。捻じ曲げて、「生きていく」という願いに変えて。なんでかは今でもよくわからない。人間風に言うならば、これが一目惚れというやつだったのかもしれない。
倒れながら、俺に必死に手を伸ばす彼女を見て俺は最早無意識に「大丈夫、助けるから」と口にしていた。それに安堵したように眠りについた彼女。
人の子の世話なんてしたことが無い。そんな俺に声を掛けてきたのが夜匀神だった。俺に子供の育てかたを教えてくれた人だ。
そして、彼女は夜と月に愛されているという話を聞いた。それで、俺がこんなに惹かれているのかと納得した。頭を撫でると落ち着くし、愛おしいと思う。
彼女の髪の色は黒髪から紺色に変わり、瞳も俺の契約色の金に変わっている。そのことが不思議と嬉しかった。夜匀神は事ある事に彼女の世話を焼きたがった。
彼女は俺の契約者だ。神がホイホイ現し世に干渉するな。帰れ。いやいや、彼女は私の愛し子だよ。君の契約者である以前からね。そんなやり取りが普通になっていた。
俺は彼女にユグ・クロックワーカーとなずけた。彼女は知らないだろう。悪魔にとって名字はその存在を唯一縛れるもの。普通は教えない。必要でも少し変えたものを名乗る。
その名を人に与えるなんてもってのほかだ。だから、俺は彼女にその名を与えた。これでも悪魔を統べる悪魔帝だ。その名を持つものがどれだけ魅力的だろうとも彼等は手出しが出来ない。
彼女には知られたくない、俺の嫉妬心。こんなに器の小さいやつだとは思われたくない。
なんで?契約がある限り俺は彼女の「気配」を感じ続けることが出来る。
そこに彼女の感情なんて必要無いのに。その事を三年程考えてから仕方なく夜匀神に相談してみた。すると彼は笑いながらこう言った。
「確かに彼女には月と夜がある。
でも、それは悪魔帝である君を魅了して離さないほど強いものでは無いんだよ。
そもそも、君にとってこれは居心地が地上にしてはいいな、くらいにしか感じないものだ。
いつからだろうね?君が彼女に惹かれていたのは。」
俺が惹かれていた?そんなはずは、と思う反面、どこか納得している自分がいた。最初から、というのが答えだろう。
あの時、酷く小さく見えた彼女を抱きしめたいと思った。それが始まりだったのだろう。抱き締めると彼女は嬉しそうに目を細める。撫でれば笑う。
そんな彼女はもう俺の中で大きくなり過ぎていた。そして、事件は起こる。彼女と出会い二十年ほどだった時の事だっただろうか。街に二人で買い物に出かけていた時のこと。
いきなり彼女の肩が誰かに掴まれた。
地球という星が比較的平和ということと、俺自身が彼女と買い物することに浮かれていたせいで気がつけなかった。そこに居たのは五十歳くらいの女性だった。
どうしたんだ?そもそも誰だ?と思っていると、彼女が絞り出すように呟いた。「おか、あさん……」そこでようやく気がついた。こいつは、彼女を産んだ親。彼女に暴力を振るい暴虐な夫と結婚したんだったか。
その母親だった人間はさぞ恨めしそうに彼女に言う。彼女の色彩の、容姿の変化なんか目に入っていないようだった。
「アンタのせいで!あんたがいなくなったから、警察に何度も何度も調べられて!あの人にも暴力を振るわれて!最悪よ!全部アンタのせいで!」
あの人、というのは暴力癖のある旦那の事だろう。ただ、ユグという対象がいなくなったからお前に向いただけだろうがな。警察と言い、自業自得だ。
むしろ、ユグが行方不明で処理されたお陰でお前は児童虐待で捕まるのを免れてるじゃねぇか。話を聴けば聴くほど、殴り飛ばしたくなる。いつものユグなら反撃して笑っているだろう。
なのに、俺の腕の中で顔を真っ青にして震えた音にならない声を紡ぐユグ。見ていられなかった。その時、ユグの神威が暴走した。神威とは俺達が『月』や『夜』と称するモノの本質。神の力の根源であり、神は持たない矛盾したもの。
だから、神は神威を持つ人間にその神威の属性に近しいものを司る神が加護を与えて守護するのだ。夜匀神とユグのように。地球は特殊な星だ。神が、管理する者がいないのにも関わらず成り立っているという。
俺は神じゃないから詳しくわ知らない。でもそれがおかしいということは分かる。宇宙と呼ばれる何かに阻まれて神が入れない世界。
今まで神威持ちが生まれたことすらなかったらしい。そこで生まれた特異点のユグ。ユグの存在のお陰で夜匀神は地球に加護と弱い分身体を送れるようになった。
そして、そのお陰で俺たち悪魔も地球に強い個体が僅かならば入り込めるようになった。だからこそ起きてしまった事だった。
本来神威は暴走なんて起こさない。神が真綿に包むように愛するのだから。でも、地球ではそれが出来なかった。だから、彼女は暴走させてしまった。
その時、俺がそばにいたお陰で直ぐに夜匀神を呼び、錠という封印を施すことで事なきを得た。彼女の母はたまたま巻き込まれて、一部を見てしまったため、それ以来彼女の前に姿を現すことはなくなった。
完全に封印できたかに思えたが、分身体では無理があったらしい。彼女には後遺症が残った。彼女はそれを『破壊衝動症候群』と呼称した。
神威にできた粗のせいで、この世界では外に出ることがない魔力が溢れてしまい、彼女の精神を乱す。この時から俺は契約の代償として魔力を貰うようになった。
それでも抑えきれずに暴発させることがあった。そんな時は、抱きしめて、撫でてやった。彼女は得られない何かを得ようとするように手を伸ばして泣き叫ぶ。それは、俺では埋められないもので。理不尽な悔しさに襲われる。
俺の手をとる代わりに手放した「家族」に糾弾されたことは彼女に傷を残した。そして、彼女はその時の記憶を手放した。だから、彼女は自分のその症候群が何に起因しているのかを知らない。
それでいいと思う。もし、彼女が知ってしまえば、今度こそ心を、感情をいらないものだと捨ててしまいそうだから。
彼女の強さは、儚さと脆さと少しの脆弱さの上に無理矢理に成り立った不完全なもの。
それがいつか崩れてしまいそうで目が離せない。
目が覚めた。どうやらあのまま寝てしまったらしい。今は何時なんだろうと思い、だるい体を無理やり動かしてリモコンを取るとテレビをつけた。
時間を確認するためだけにつけたのに、目を話せなくなった。『謎の少女の宣戦布告!?制限時間残り30秒!』その題が打たれたテロップが流れる。
そこに映るのは間違いなくユグで。軋む体に鞭打って立ち上がる。魔力が散っているのに加えて、集中出来なて転移陣が上手く組めない。いつもの倍以上の時間をかけてそれを組むとすぐに転移した。
すると、彼女がこちらを向いていた。そして、彼女の方に飛んでくる弾丸。太陽の気配がする。彼女のように神威ではないが、彼女を殺すには十分な量のそれ。
そして、弾こうとして気がつく。体が動かない。彼女は神威すらも解放して俺を押さえ込んだ。そして、痛々しい笑みでこういった。
「大好き。さよなら、どうか、どうか、幸せに。」
やめろ!やめてくれ!俺の幸せは、お前が隣にいなきゃ成り立たないんだ!なんで……
目の前で弾丸を受けて倒れた彼女を抱き上げる。
目から涙がこぼれた。泣いたのは初めてだったが、いいものでは無いな。彼女を殺したやつを見やる。
「お、お前は……」
「俺か?悪魔だ。そして、今は最悪な気分だ。」
普通なら信じ難いだろうが、何も無い空間から出たからか信ぴょう性が増したらしい。一気に騒がしくなる。時間が惜しかった俺はさらに空間を歪めて夜匀の野郎の所へ向かった。
そして、夜匀いや、時雨に話を聞いて呆然とする。こいつはシグレにすら相談していなかったらしい。そして、彼女の、ユグの計画は完璧だった。
自分に関係のある人には迷惑をかけず、地球には一番被害の少ない方法で。最悪地球はほかの神々によって滅ぼされていたかもしれないからな。
その恩恵は多大で、彼女は記憶を持ったままの転生が赦されたらしい。それが、一番望むことだったと。ならば、することは決まっている。
俺は、彼女に会いに行く。この力が下がってしまっても、悪魔帝の名を返上しても。
もう手段は選ばない。彼女を手に入れる。そのためだけに。俺はシグレと契約をした。
それは、『ユグを幸せにする』。
必ず叶える。だから、もう一度この腕に帰ってきてくれ。
お前以外考えられないんだ。
ユグ、大好きだ。
だから、だから……