11.予兆〜Herald〜
いつの日からか朝食後のコーヒーを楽しむ習慣がついていた。甘い飲み物はあまり好きではないから砂糖は入れず代わりにミルクを多めに溶かし込んである。このコクとほのかな苦味が冬の朝に抗う頭を冴えさせてくれると気付いて以来、かつての紅茶派からすっかりコーヒー派へと変わっていた。
元の世界に戻ったら是非とも勉強のお供にしたい。これは実にはかどりそうだ。だけどそれは一体いつの日になるのだろう、と時折考えてしまうセレスは今日も一人ため息を落とす。やっぱり本来生きるべき場所は違うのだと実感しながら。
ふと顔を上げて目を止めた。食堂の入り口からひらひらと手を振る姿を捉えた。いかにもだるそうに虚ろな目をした彼は自分でコーヒーを淹れ、椅子を引いて向かい側に腰を下ろす。
「みんなと一緒じゃなかったのか?」
その問いかけにセレスはええ、と答えてカップを一度口に運ぶ。
「トレーニングが始まって以来、時々こうして放っておいてくれるの。私に一人の時間が必要だってみんな気付いているみたい」
「そうか、それは邪魔をして悪かったな」
そう言って苦笑しながらレグルスもカップを手にする。口に運ぶもすぐにしかめっ面になって唇を離してしまう。かなりの猫舌のようだ。
「冷ましてあげる」
「ああ、わりぃ」
返事を受けたセレスは淹れたてのコーヒーが湯気を上げるカップに手を伸ばす。中身はブラック。それも透明感などほとんど感じられないくらいに濃い。空腹時に飲んだら間違いなく胃を荒らしそうだと思いつつもカップの1センチくらい外側を両手で丸く覆った。
手のひらから溢れ出した水がボウルのように形を変えて浸ったカップの底から熱を奪っていく。徐々に薄れていく蒸気。おそらく70℃を下回ったであろうという頃合いで妖力を解き、静かに彼の方へ押しやった。
「ミルクを入れることをお勧めするわ。朝食もとっていないんでしょう?」
「アンタが心配してくれるとは珍しいな。それにしてもこの妖力は便利だ。羨ましいよ、俺には炎属性の魔力しかないから」
はぐらかすような返しが気に入らない。セレスは頬に軽く息を含ませる。しかしレグルスはお構いなしだ。ぬるいコーヒーを一気にあおり、爽快な表情でカップをどん、と置いた。
「…っはぁ!目が覚めた」
「そういう気がするだけよ。カフェインの効果が現れるのは摂取した一、二時間後よ」
「アンタなぁ…」
これだから理屈っぽい女は…などとぼやくレグルスはまだ何処かヘラヘラしている。何でも気合いとか根性とかでどうにかなると思っているの?そう言ってやりたいところだがどうも張り合いがないような気がして唇を尖らせてしまう。
流れが変わったのはすぐ後だった。なぁ、セレス…小さく呟き静まった彼の様子にセレスまた静まった。
「俺の胃よりもっとやべぇことがあるんだ」
「…?」
認めるのはいささか悔しいが当初より確かに冴えているような赤の目を前に尖った唇もゆっくり引っ込んでいく。
「ここではなんだ、場所を変えよう」
そう言ってレグルスは出入り口の方向を親指で指し示して促す。食堂に人の姿はごくまばらにしか見えないのにやけに慎重な提案。おのずと腰を上げていた。
言われるがままに付いていった先は小さなテーブルと椅子がセットで置かれたあの温室側の裏庭だった。ミラが近くに居るという可能性はないのだろうか、とわずかに気にはなるものの人目に付きにくいのは事実、実際この場を用いるのは今や近しい間柄のごく数人だともう気付いていた。
「あの日会議で伝えた作戦のこと、覚えてるか?」
譲ってもらった椅子の上、セレスは口にしていいの?と視線に込めて彼を見上げる。対して彼はここでなら、といった風に頷く。それならば、とセレスは口を開いた。一応、小声で。
「ルナティック・ヘブンにスパイを送り込む、というものね?」
レグルスがもう一度静かに、頷いた。
スピカの部屋にて執り行われたあの沈黙の会議の日、配られた書類にそれは示されていた。ルナティック・ヘブンの潜伏場所と見られる地図と後日そこへスパイを向かわせる計画が。
綿密に練られた計画に特に粗があるようには思えなかった。事実その後の報告は未だになく、計画通りに事が運んでいる証だと信じるどころかむしろ考えすらしていなかった。
その話題が今、彼によって持ち出された。それは…セレスの脳裏に不穏な感覚がよぎってくる。
「消息が途絶えたんだ。潜入には成功していたはずだけど、その次の日から…」
潜入先の情報をより早く詳細に伝える目的に担ったスパイ。そんな人物が連絡を発せないとしたら…
「見つかった、ということ?」
恐る恐る発した問いにレグルスは首を横に振る。重い口調で彼は言う。
「わからない。アジトに到着したのは夜。明日できるだけ多くの部署を回って情報を集める、というのが最後の報告だった」
固く目をつぶるレグルス。一度同じようにぎゅっ、と結ばれた唇が次の言葉を発した。
「人質として監禁された可能性もあるが、最悪の場合…」
「…消された……」
ああ、だから…と納得がいった。薄く血の気のない唇を再び真一文字に結んだ彼に見入った。
この作戦はレグルスの下した判断だと知っていた。こんなにやつれて目の下にクマまで作って責任を重く実感するのも無理はない。
「連帯責任よ、レグルス。私だってあなたの提案に同意したわ」
笑顔の戻る様子もない陰った顔に胸が詰まった。それでも口にしたのは今目の前の彼が一人で背負おうとしている重みを自身にも課す為だった。
スパイ、それは危険を伴う任務でありながら顔の割れていない人物にしか務まらない。そしてルナティック・ヘブンは“強さ”に固執し、命あるものに優劣をつけるという理念を掲げた組織だ。目的とする存在は限られていて、それ以外はおそらく彼らが根絶やしにしようと目論む“弱者”の類。その上組織の機密に触れたとあってはきっと虫けらのように容赦もなく…思い浮かんだ残虐な光景にセレスの背筋がぞくりと波立つ。
私でさえこれ程までに実感しているのだ、何年もの間戦い続けた彼ならなおさらある程度の確信を持っているのではないか、と考えてみながら。
「問題はもう一つ、ある」
レグルスがぽつりと口にする。
「この計画はごく限られた者しか知らない。あの日集まったみんなと極秘部隊の指揮官、そして今回潜入に赴いたスパイ役のヴォイドだけだ。その人数は…」
わずか、8人。
見上げるセレスの瞳は震えた。恐れに砕けそうな彼の赤と同じように。そして言った。
「計画が…漏れている…?」
斜め下へ視線を落としともかくは心当たりを探そうと努めてみる。そこへレグルスの声がああ、と肯定を示す。
「先手を打たれた、とでもいうところか…」
「まさか、王宮の中にすでにスパイが…?」
「…そう考えるのが妥当だろうな」
一つの結論を出したばかりの彼の視線が一度離れ、そしてもう一度ためらいがちに元へ戻る。仕草だけで十分に伝わる、動揺。彼にとっても自身にとっても絶対的だったものが崩れていく音が聞こえるみたいだった。
「どのようにして情報を入手したか…よね。手慣れたスパイが潜り込んだとしたらこちらの動きにも気付くでしょうし、変装、盗聴…考えられる可能性はいくらでもあるわ」
あくまでも冷静を決め込んでいるセレスに対するレグルスが困ったようにへっ、と笑った。
「まずアンタを疑ってはいねぇよ。そもそも現代のアストラルに来てから日が浅い」
何処か遠い場所へと視線を送りながら彼は続ける。
「真実が見えない限り、俺は疑わないし決めつけねぇ…誰も」
「そう、でも…」
うつむき加減のセレスはためらった。すでに浮かんでいる次の言葉を発することができるまで少しの間ができてしまった。
「見極めは大切よ」
赤の横目でちら、と見られるとまた胸が詰まってしまう。何が自分をそうさせるのかもちろんわかっていた。だけどそう容易く打ち明けられるはずもない。これ程複雑に絡み合った事実など。
俺は…
ふと届いた声にやっと顔を上げた。いつになく儚げな苦笑を浮かべたレグルスの姿が目に飛び込んで奥深くが跳ねた。
「気が付くといつも情を優先させてしまっている…悪い癖なんだ。だから洞察力に優れたアンタの力が必要なんだ。気付いたことや意見があったらすぐに言ってほしい。俺もできるだけ落ち着いて対応するし、何を言われても…逃げはしない」
表向きの平穏の裏側まで見透かしたような哀しい赤色に見入っていた。きっと転生を繰り返した者にしか出せないような色。数多の痛みを乗り越え、別れに涙し、それでも歩を止めなかった魂の姿がここにある。
そうだ、とセレスは思い出した。あの夜もこんな目をしていたと気付くなり顔をそむけた。何か適当な理由でもつけてもう去ってしまおうか、と考え始めていたときだった。
セレス…
彼の声が呼んだ。どうやら逃がしてなどくれそうにない声色はためらいがちながらも続けて言う。
「俺、やっぱりあんな約束…」
ふっ、とこぼれたのはあろうことか笑みだった。観念したセレスは振り返った。そして歩き出した。目を見張っている彼の傍へ。
本当に、不器用な人。
「お、おい…」
冷え切った頬を両手で包んであげると例によって戸惑いの声を漏らすレグルス。何を今更…そう可笑しく思いながらセレスは言う。
「どうもあなたは言わないとすっきりしないみたいだから…言ってあげる」
純度の戻った赤色を間近から見上げて語りかけていく。
「あなたと私は…仲間よ」
同志よ、紛れもなく。
「セレス…」
名を呟く彼に教えてあげる。
「あなたも気付いているんでしょう?この世界で守っていきたい存在が変わらないことも、私とどうあるべきなのかも、もう…知っているはずよ」
だから彼女…スピカ様にも言ったんでしょう?
丸く見開かれた赤色はやがて細く形を変えた。見届けたセレスは自身の熱でいくらか温まった頬から手を離す。安堵と思われる息を漏らした彼がやっと呟く。
「だよな、そうだよな…ちょっとびっくりしたんだ。こんな感覚きっと初めてだったんだ。過去のものと似ているような気がして焦ったけど、やっぱり…」
「そう、かも知れないわ」
焦燥した笑混じりの声に被せて言うと、え、と間の抜けた聞き返しが返ってきた。もう正直になってもいいと思って、告げた。
「あなたに惹かれていたところがあったのかも知れない」
「ア…アンタ…」
少し顔を赤くして口元を空回らせているレグルス。可笑しくって思わず吹き出してしまった。このままではあまりに可哀想だ、全部伝えてあげようと決めた。
「考えてもみて、レグルス。私はあなたに二度も助けられているのよ?あんな力強く、あんな勇ましく、あんな姿を間近で見せつけられて、喧嘩もして……何も感じないなんて無理だったわ」
「……っ」
何か発しようとしているみたいだけどどうやら言葉にならないらしい。ついには震える口元を手で覆ってしまっている。もういいだろう、もう安心させてあげよう。
「私も気付いたとき、怖かったの。カイトを裏切ることになるんじゃないかって自分を責めていたわ」
だけどね、レグルス。
転生を繰り返した者とは思えないうぶな少年みたいな仕草の彼へ、自分なりの結論を伝える。
「私たちは、何?肉体を纏っていても幽体であってもその内側にある素は…魂、でしょう?磨いていく為に生まれ変わって、数々の出会いを重ねていくの。そこに新たな感情が生まれるのは自然なこと」
「スピカと…同じことを言うんだな」
ええ、そうよ。セレスは頷いた。あの人なら気付いていると思っていたから特に驚きもしなかった。
「繋がり方は一つだけじゃない。レグルス、私たちはこの形がいいの」
身の引き締まるような早朝の空気が高度を増す陽によって暖められていく。足元の芝生を、天使の彫刻を、見下ろす彼の銀色の髪をキラキラと眩しく照らしてくれる。青の空は更に深く、遥か遠くを感じさせてくれる。
もうわかってる。道は長い。終わりなんて、ない。
「…セレス、俺も言っていいか?」
どれくらいか後にレグルスが鼻の下を擦りながら切り出した。いくらか鎮まった白い顔色で。
「俺もアンタが大切だ」
「うん」
「その、何だ、仲間としてだ」
「わかってるわよ」
相変わらずうろたえているけれどこちらへ送る視線は真剣なものだった。真っ直ぐですごく彼らしい。
「だから絶対に守りたいんだ。あんなの認めたくない…!」
がし、と両肩を掴むレグルスの声はついに荒立った。悲壮に寄せられていく銀の眉がはっきり見えていた。それでも、かぶりを振った。
「もうあんなことを繰り返したくはないの。私の魂の為にどうか…」
お願い、レグルス。
ぶれずにはっきりと告げると一瞬見開かれた彼の目。それはやがて静かに伏せられた。痛みに耐えるみたいな目尻の皺を前にこの胸も同じように傷んでしまう。
「もちろん最善は尽くすわ。だからあなたも…」
「ああ、わかってる」
ついに彼が目を伏せて頷いた。やっと観念してくれたのだろうか。きっと煮え切りはしないだろうとわかりながら、意味を為さないかも知れない笑みを浮かべて見せた。
「トレーニングの前にちょっと休憩させて」
「…ああ、また後でな」
ひらりを裾をなびかせてセレスは立ち尽くす彼に背を向けた。ガラス張りの戸を開けて室内へと入った。何処へ向かうのかもわからなかった。きっとただブラブラと歩くだけ。そしてただ、必要な時間だっただけ。
ーー今もなお自分を責め続けているであろう、レグルス。彼はきっと想像もしないだろう。
恐れている“裏切り”が実際にこの場所で行われていることなど。それに手を染めているのが裏切りなどとは最も縁遠そうな可憐な少女であることも、厚い信頼を置く才女がその手助けをし、許されざる存在がこのテリトリーに踏み込んでいることも、彼は知らない。
そして罪と呼ぶべきこの事態を知りながら、しれっともっともらしいアドバイスなんかで誤魔化している共犯がここにいることも、知らない。
信頼を得るのは得意だった。むしろこれだけが売りと言ってもいい。だけど常に冷静さと客観的視点を貫いた結果がこれなのだから皮肉なものだ。
そろそろ王宮の一日が幕を開ける。しん、と静まっているこの冷たい廊下もやがて従事者たちが行き交い始める。時は確かに動いている、と実感を覚えるセレスの脳裏にあの言葉が蘇る。鈍い痛みと共に。
ーー僕はアイツ信用できないーー
ーー何か怪しいと思うんだ!ーー
まだいくつも言葉を覚えていない少年の放った響きは幼く根拠もなく、でも真っ直ぐだった。
対して表向きばかり少女であるミラの目的はただ一つ。育ての兄であり恋心を抱くシャウラとの繋がり。おそらく今の彼女がそれ以上を求めることはないのだろう。だけど…
ふっと足を止めたセレスは発作にでも耐えるように胸元を握る。強く込められていく手の力に服の生地が深い皺を寄せる。
もし、もしも彼がそんな彼女の気持ちを利用して情報を得ることを思い立ってしまったら…?心を許した相手には意識せずとも余分な情報を漏らしてしまいがち。それは彼女だけに限らず誰もがではないだろうか。そして私には確信がない。
直接言葉も交わしていない、人となりさえ知らない彼が本当に信用に足る人物である、確信が。
無数の針が臓器を刺すようないたたまれない感覚を覚えながらも考えていた。あってはいけないことを野放しにした結果、人ひとりの身に最悪の事態が起こったのかも知れない。だけど真実を打ち明けてしまえば今度はミラが…などと。
いつかクー・シーの腕の中で生気が感じられない程にぐったりとしていた彼女の姿が浮かんで背筋が凍ってしまう。だけどこのままという訳には、もういかないとわかる。
「何か…考えなくちゃ、ね」
止まったままの足元、鏡のように磨かれた床に薄く写っている自身の姿にぽつりと呟きを落としたセレスはやがてまた歩き出す。反対側から感じる人の気配を受けて、青の双眼は強く光った。
いずれ争いが終わって守ってきた秘密が知るところになったとき、それでもこれ以上の悪いことは起きなかったのだから、と受け入れられる未来なんかを思い描いてみる。そんな都合のいい話はない、と内なる自分、おそらくはリアリストの典型である桜庭伊津美が否定したけれど、今は気付かないフリをしようと付けた平静の仮面を、守った。
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ーー仕事を終えた彼が帰宅するとそこに二人の少年が居た。同じ色の髪を持つよく似た二人。片方は涙目でうなだれ、もう片方はツンとすましている。
「おや、来ていたのかい、レグルス君」
彼が声をかけるとすまし顔の方の少年がぱっと笑顔を咲かせて駆け寄る。
「おかえりなさい、叔父さん!」
「ああ、ただいま。随分大きくなったねぇ」
優しげな言葉を受けたレグルスは得意気に鼻を鳴らす。実にわかりやすい子ども、褒めてやるといつもこうだ。
「こっちも大きくなったんだよ!」
すっかり上機嫌になった様子の少年はホラ!と言って翼を広げて見せる。よしよし、と頭を撫でる彼の眼差しは温かい。しかしその意識の大半はじゃれつく目の前の子の更に後ろへ向かっている。
ところでレグルス君…
彼は切り出す。
「何故シャウラは泣いているんだい?」
問いを投げると白目を赤くしたシャウラがぴく、と跳ね上がった。呆れ気味な顔で後ろを一瞥したレグルスはすぐに元の方へ向き直って口元に手を添える仕草をした。すらりと高い背丈の彼が腰をかがめ耳を寄せる頃、レグルスは声をひそめて言った。
「いじめられたんだよ。商店街のクリーニング屋の奴に」
「ほう…それでレグルス君が助けてくれたのかい?」
瞳の赤を輝かせた少年がぴん、と背筋を伸ばす。待ってました、とでも言わんばかりの様子で言う。
「そうだよ!俺が翼を出して怒ったらアイツびびってやんの」
さっきまで声をひそめていたのがもはや無駄だというくらいに声を張り上げ、翼を広げて噛み付くような再現までして見せる。強さを誇りたいのだろうがその姿はさながらエリマキトカゲの威嚇のようだ。それを前にした叔父の方はもはや吹きだしそうになっている。
「強くなったもんだね、君は」
やがて降りてきた言葉にレグルスはようやく動きを止めた。何言ってるの、叔父さん。キョトンと見上げながら少年は言う。
「俺は元から強いよ!」
自信満々に胸を張る。
空気が変わったことにも気付かずに。
…元から強い、か。
その声は地中深くから沸く唸りのように低かった。再び見上げた少年の表情が静止した、その刹那。
……っ!!
凄まじい勢いが迷う様子もなく伸びた。いや、もはや当人にも止められない本能であるかのように。
大きな手に締め付けられ気道を塞がれたレグルスが身をよじらせて悶える。宙ぶらりんの両脚がしきりにもがいている。恐怖に染まった赤の両目が大きく見開かれていく差中も首を絞める叔父は凍り付くような冷たい表情を崩さない。
「元から強い者などいないのだよ…ただの一人も、ね」
ましてや貴様など…!
片手にギリギリと喉を締め上げられる少年の顔からは徐々に意識が薄れていっているよう。その後ろから血相を変えたもう一人が駆け寄ってくる。
「父さん、やめてよぉ!レグルスが死んじゃう…!!」
泣き叫びながら父の足元にすがるシャウラ。激しく抵抗していたレグルスの手足はぴく、ぴく、とわずかに震えるだけの弱々しい力にまで縮小し、ただでさえ血の気のない顔は紫色に変化しつつあった。
「父さん…っ!何でだよ…何で…!!」
普段の自信なさげな口調からは想像もつかない程に張り上げているシャウラの声が聞こえていないはずもない。それでも勢いは止まらない。白く細い首を掴んだ手の指先からは獣のような鋭い爪が伸びていき、やがてぴたりと止まった。的確に、頸動脈の位置で。
「…貴様は何もわかっていない。浅はかで、無様で、無力…」
強さなど口にする資格はない…!!
すっかり力を失った少年から
吹き出す飛沫。
ペンキで塗り潰すみたいに一面が鮮やかな紅に染まる。全てが覆い尽くされていく。
耳をつんざくような悲鳴が占めた。殺気をみなぎらせた彼の意識が遠く…何処かへ。
…はぁ……っ!!
吐き出される喘ぎと共に開かれた瞼。浅い呼吸が汗だくの顔が酸欠状態を示している。起こしかけてもすぐにベッドへと沈んでしまう身体。
背中を丸めてうずくまるルシフェルはやがてはだけた胸元を押さえながら目を剥いた。少しずつ整っていく息の中にかすれ気味な呟きが混じる。
何故…お前なんだ。
何故、シリウスの子などに…
いくらか汗の引いた顔が本来の白さを取り戻す。鈍い動きで身体を起こしたルシフェルの赤と紫のオッドアイがぎゅっ、と固くつぶられた。何か振り払うようだった。
これは運命…
もう二度と“宿命”などに惑わされはしない。
呟く彼の瞳はやがて開かれたゆっくりと移行していく。動きを止めたそこへ向かって言う。
「もう少しだ、ニコル。もう少しで…」
懐かしむように緩まっていく表情、だけど身体はかすかに小刻みに揺れている。武者震い、そんな表現が相応しい。
「臆病な獅子の首を狩るときが来たのだよ」
永遠を引き継ぐあの子はすでに動いている…
未来が。
低く唸るように言うルシフェルの瞳は動かなかった。本棚の隅、珍しく表に出ている二枚の写真立てを見ていた。
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ーー翌る日、昼下がりの中庭。穏やかな日差しと緑の景色にまるで相応しくない鋭い声が飛び交い続けていた。
「だから!それでスピカに何かあったらどうすんだよ!?」
「でもそうするしかないでしょう?大体あなた、あの茨の呪いの意味もよくわかっていないじゃない」
「…っ、それは、きっとスピカの命を…!」
「いつでも命を奪えるようにする為?だったらとっくに実行しているはずよ。私が察するに多分それは口実ね」
あ、あのー…
遠慮がちに挟まってこようとする声を向かい合うセレスとレグルスは気付きもせずに両側から潰す。
「アンタっ…スピカの命がどうなってもいいってのかよ!?」
「そんなこと言ってないでしょう?人の話を正しく聞きなさい!」
レグルスさんっ!セレスッ!!
悲鳴のように上がった名の響きにようやく気付いた二人が声の方へはた、と目を止めた。そこにはすぐ近くで立ちすくむ三人。オロオロとうろたえるミラ、半ベソ状態のクー・シー、そしてその後ろに唖然とした様子のメイサ。
「…何してんだ?アンタら」
「そうだよ!二人とも…仲良しになったんじゃなかったの!?」
「お困りのことがあるなら私も一緒に…!」
口々に言う三人を見ていたセレスとレグルスはふとお互いに顔を見合わせ、また元の方へ戻す。
「えっと…何がだ?」
「私たち意見を出し合っているだけよ?」
困惑した二人と向かい合う三人との間に流れたしばしの沈黙。
「え…喧嘩じゃなくて?」
「いいえ」
「全く」
サラッと返答する二つの涼しい顔を前に三人の顎がカクーン、と落ちる。
『紛らわしいよッ!!』
見事に波長の揃った皆の剣幕に今度はセレスとレグルスがうろたえる番だった。
数分の後、同じ中庭の木陰に五人、腰を下ろしていた。
「…で、トレーニングの後に意見交換しているうちに白熱した、と?」
メイサの簡潔なまとめに対してセレスは隣の彼と共に頷き“異議なし”を示す。反対側の隣ではクー・シーが心底安堵したように良かったぁ、と呟いている。申し訳ないことをした、とセレスは思った。綺麗な部分も醜い部分も互いに目にし、互いに吹っ切れた間柄だからこその討論だったが、はたから見たら確かに危なっかしく映るのだろう、と。
それからふと視線を落とした。斜め向かい側に予想通り、と言える表情を捉えて口を開いた。
「大丈夫よ、ミラ。例え私たちが相手の元へ攻め込むことになっても…お兄さんを傷付けたりしないわ」
「セレス…」
か細く弱々しい視線を受けて、締め付けられる胸の奥の感覚に耐えていた。
ーー結局、レグルスを止めることはできなかった。良くも悪くも真っ直ぐな彼はスパイ失踪の件をみんなに打ち明けたのだ。そしてスパイを送り込めない以上、トレーニングで能力を高めたレグルスとセレスを中心にこちらから攻め込む戦法を考えていたことも。
重々しくもはっきり告げたレグルスは少なくとも今ここに居るメンバーのことは誰一人として疑っていない様子だった。当然ミラは不安に支配されたかのように気力を衰えさせてしまった。だからこそ彼女へのフォローは今何より必要なことだとセレスは判断したのだ。
きっと悪気などないだろう。だけど情報が漏れた件に彼女が関わっている可能性は十分に考えられるのだから、と。
「よっし!そうとなったら今日はBBQだな!」
あまりに唐突な提案を持ち出したのはメイサだった。何処からともなく、は?という声が上がったが、彼女はそれでもお構いなしとばかりに得意そうな笑みを浮かべて言う。
「決戦前の親睦会みたいなもんさ。王宮の全員を集めようぜ!楽しみがあった方がみんな頑張れるだろ?」
そんな急に…と呆れながら辺りに目を配ってみるとすでに目を輝かせているクー・シーの姿が飛び込んでくる。幼い少年の無邪気な心はまん丸に満ちてもはや準備万端といったところか。セレスはやむなく腹を括って口を閉ざす。
「まぁ…それもいいかもな」
少し考えていたレグルスも乗り気になってきているようだ。希望が前に進み出しそうな空気の中、まだ表情の晴れない一人の少女…いや、女性にセレスはためらいながらも手を差し伸べた。
「行こ?ミラ」
涙の膜に覆われた瞳で見つめ返す彼女。純度の高い浅瀬の海のようなあまりの綺麗さに息を飲んでしまった程。
悲壮の顔はやがて柔らかい笑みへ変わった。苦痛に耐えながら作り上げたこちらの笑顔を応えてくれた。
すでに昼を過ぎてしまった為。夕方から行われたBBQ。笑い合って過ごすうちにあっという間に日が暮れた。藍色と白い星々が見下ろす広い中庭では今、季節外れのキャンプファイヤーまで始まっていた。
久々の休息がよほど嬉しかったのだろうか、王宮の従事者たちは互いに手を取り子どものようにはしゃいでいる。仲の良さそうな男女の様子が垣間見えると、恋人なのかな、と勝手に推測してみたりもした。遥か昔、同じようにしていたことを思い出す。だけどあの頃のような寂しさや虚しさは、もうない。
上司、部下関係なく友達のように酒を飲み交わす親衛隊たち。服の汚れも気にせずに地べたに腰を下ろす執事やメイド。大好きなお肉をたらふく食べてまん丸になったクー・シーのおなか。それをつついて遊ぶメイサ。
レグルスは…と目で探してみると遠くでスピカと二人、何やらいい雰囲気を漂わせている。見ているだけで恥ずかしい。
わかってはいた。これは束の間の幸せなのだろうと。それでも今は満たされていく心に身を委ねていたかった。無邪気になってしまいたかった。
地べたに腰を下ろして天の闇を貫くように伸びる炎の柱を見上げていた。その隣では食事にもほとんど手を付けなかったミラがぼんやりと同じ方を見ている。オレンジ色に照らされた哀愁の横顔にセレスは視線を落とした。
ねぇ、ミラ。
呼ぶと返ってきた寂しげな微笑み。かすかに唇を震わせるだけのセレスは声には出せず、胸の内から問いかける。
ミラ、あなたの前世は…
シャウラとは何があったの?
いつかメイサから聞いた話が脳裏に浮かび上がってくる。ミラは前世の記憶を持つ7歳児。兄代わりの彼を生まれる前から知っているけれど、何があったのかは決して口にしない、と。
すぐには何も変わらないかも知れない。それでも話して少しでも楽になるのなら、と口を開いてみた。
だけど…やっぱり。
セレスは開きかけていた口を再び閉じた。それからまた開いた。何事もなかったかのように精一杯の笑顔を向けて。
「一緒に踊ろう!」
花のように愛らしく儚げな彼女の顔を見る度に思い知らされる。このままではいけない、時間がない、何とかしなければと考えながらも実感させられてしまう。
その扉を開くのは私ではない。これだけは変えてはならないのだ、と。
小さな女の子の姿をした淑女の手を引いたセレスは熱気を放つ炎を元へと歩き出した。