12.点滅〜Flashing〜
遡ること十数時間前。同日の早朝。ベッドの上で身体を起こしたマラカイトは今日も習慣通り枕元の時計の針に焦点を合わせた。気だるく重々しげな動きはこれのせいではないか、というくらい重そうに盛り上がっている上半身の筋肉はタンクトップ一枚の装いで更に際立っている。
ハーフパンツから伸びる長い両脚が冷えたコンクリート床に降り立つ頃、地響きのような重低音…もとい、腹時計が朝食を催促する。しかし日々のルーティンを崩さない彼はやはりいつものように洗面所に向かい、冷たい水で虚ろな目をこじ開けるところから始める。
ひとしきり洗い終えた彼は顔を上げた。濡れて光る顔とビリジアングリーンの髪から滴る水滴。正面の鏡に映る自身の姿を何処か懐かしげに眺めていた。
部屋に戻ると脱いだ上下の服をベッドに放り投げ、まず細身の黒のパンツを穿く。少し余るウエストをベルトで締めて、上には新しいタンクトップ、黒いシャツと順番に。ここで目覚めたときにはすでに身に付けていた長い鎖の輪を二重にして首から下げると彼は再び部屋を後にした。
「マラカイト!」
廊下に出るなり背後からの声が呼んだ。振り返ったマラカイトの元に強張った表情を貼り付けた人間の若い男が二人近付いていく。片方は金髪で細面、もう片方は黒髪でいかつい顔立ちだ。
見つめ返すマラカイトは訝しげに眉をひそめた。そもそもシャウラ以外とはほどんど口を聞いていないのだから自然なことかも知れない。
「…何スか?」
冷たく青みがかった黄色の双眼に間近で見下ろされた二人が一層その顔に緊張を走らせる。しかしすぐに我に返ったような金髪の方が、まぁ来いよ、と言いながら手を添えて促した。黒髪の方も遅れてその後ろに着いた。
きっと訳もわからないままのマラカイトが背中を押されるようにして連れられたのは館内の奥まった場所に位置する狭い喫煙所。ドアを閉めると二人の男は慣れた手つきで煙草を咥え火を付け始めた。無言で半開きの箱を差し出されたマラカイトは首を横に振った。
「俺、吸わないんで」
「マジで?お前いくつよ?」
「…わかりません」
歳とか関係ねぇだろ、フィジカルじゃあるまいし、と笑う黒髪の方は実に美味そうに煙草をふかしている。しかしやがて気付いた。副流煙の中で不機嫌そうに押し黙るマラカイトの姿にそもそも好きじゃないのだと察したのか、引きつった苦笑を浮かべて悪りぃ、と呟く。慌ててまだ長い煙草を押し潰したもう片方の男が言う。
「すぐ終わるからよ、ちょっと…」
三人しか居ないそれも個室の中だというのに何故か手招きをする金髪の彼の側へマラカイトはしぶしぶ耳を傾ける。そこで潜めた声が囁く。
「お前さ、記憶喪失って…マジ?」
「…そうですけど」
肯定が返るなり何やら意味ありげに顔を見合わせる二人。マラカイトはいかにも苛立った様子で目を尖らせる。
「それが何か?」
「いや待て、落ち着け!」
「喧嘩を売ってるつもりとかないから!煙草ももう吸い終わるし…ホラ、消したぞ、なっ?」
武器でも突き付けられたみたいに顔の横まで両の手のひらを上げる二人。マラカイトははぁ、とため息を落とし、いくらか表情を緩めていく。
「…怒ってませんよ。ただ記憶喪失がどうしたんですか、と聞いているんです」
「お、おう!そうか」
命拾いでもしたみたいに金髪の方がヘラッと締まりなく笑った。少し遠慮がちながらも彼は再びマラカイトの細長い耳へと唇を近付けた。そこで言った。
「…ハダルとバーダン、知ってるか?」
少しの間の後、マラカイトの黄の瞳がふっと上を向いた。短い記憶の中から探し出そうとしているようだがその表情にやがて困惑が浮かんでくる。
「誰ですか?」
「ホラ、烏魔族のちっこい方がハダルで、バーダンは確か牛魔族…」
そう!こういう奴だよ。
両の人差し指で角の形状を作る仕草を見たマラカイトがあっ、と声を漏らした。
「そいつらだったら、一応」
最後に会ったのはトレーニング後、給水所の前だ。あれから数日が経っている。しかしそもそも親しくもないどころか嫌味くらいしか言われたことのないマラカイトは、何故今この話題が上るのかやはりしっくりきていない様子だ。
出し惜しむように互いに視線を交わす二人の次の言葉を今度は急かしもせずに待っていた。切り出されたのはしばらく後だった。
…殺されたんだ、多分。
「え…?」
確かに耳元で響いたはずなのに聞き返してしまうマラカイト。数秒宙を彷徨っていた目はやがて次の疑問に辿り着いて元の方向へと定まる。
「誰にですか?」
彼に問いかけられた金髪の男が視線を落として黙り込む。怯えているようにさえ見える彼の代わりに、生唾を一回飲み込んだ黒髪の方が小声で告げる。
「…ミンタカ様だ、多分」
「そんな馬鹿な…」
呆れたように笑ったマラカイトは直後に強張った。見開いた目から爪先まで、全身が動きを止めた。
何か、思い出してしまったかのように。
「何だ?マラカイト」
「心当たりが…あるのか?」
動揺を隠せず不安定に泳ぐマラカイトの目の動きに二人は気付いたようだ。恐れと期待の混じった視線を揃って彼へと向けている。
「いえ、別に」
マラカイトが答えた。しかしその視線は向けられるものに耐えられず斜め下へと落ちている。返って確信を覚えてしまったのかお喋りな金髪男はなおも言う。
「何かやべぇ事が起きてんだよ、多分。」
この組織も、そして…お前も。
さすがに顔を上げたマラカイトが真っ直ぐ彼の方を向いて問う。
「何で、俺…?」
怪訝な表情ながらもうっすらとべたつく汗を滲ませている。口数の少なかった黒髪の方もやっと語り出す。
「お前は…妖精族だ。間違いなく」
「…それは知ってますけど」
肯定するマラカイトの口調にはまた苛立ちが滲んだ。妖精族。いつだって否定的な言葉に添付されたものだったからなのか。
しかし今この場で持ち出されたその言葉の意味は、彼が感じたものとは違ったようだ。
「そうじゃなくて…っ!」
睨み付けていた方ではなくもう片方から伸びてきた腕にマラカイトの肩が強く掴まれた。驚いて目を見開く彼に金髪の男が続けて言った。
「お前は普通の妖精じゃない!純血なんだよ、多分ッ!」
「純…血…?」
訳がわからず戸惑うマラカイトに、ただでさえ細面な顔を更にこけさせた男が青い顔でああ、と頷いた。彼は言った。
「純血の妖精は2000年も前に滅びているんだ。現代に存在するはずがない。マラカイト、お前は何処かから引っ張って来られたんだよ…!」
存在しないはずの…存在?
ついにマラカイトが小さく漏らした。助けでも求めるみたいに動いた双眼の先にいくらか落ち着いた様子で腕組みをしているもう一人。黒髪の被さる彼の額もまたじっとりと湿っている。
「異世界か、それとも過去か…お前は知らないだろうが次元を超えた者がこの組織に居るなんて、俺らは聞いたことがない」
「一度疑うとみんな怪しく見えるぜ。そう言えば他にも数人、いるよな?やたら波長の濃い魔族…」
「アイツらも、多分…」
続く二人の男のやり取りの間でマラカイトはただ呆然と立ちすくんでいる。行き場を失くした視線が灰皿の中で無残に潰れた二つの吸い殻へ落ちている。
「ハダルとバーダンは俺らより先に気付いたんだ、多分。だから消されて……っ」
ふと怯えた声色が途切れた。直後、同じ方からひゅっ、と吸い込む息の音がした。
動きを失い固定されている視線。金髪の方も、黒髪の方も…
マラカイトはその視線を追った。ドアのガラス張りの部分からじっと内部を眺めている、姿。
ミンタカ様…!
マラカイトが呟く横で二人の人間の青年は今にも足元から崩れ落ちそうになっている。それでもドアは開かれた。お構いなし、とばかりに。
「やぁ、おはよう」
『おはようございますっ!!』
シャン、と背筋を伸ばす三人を眺めたミンタカは渋みのある顔にニヒルな笑みを浮かべ、懐から煙草の箱を取り出す。我に返った黒髪の男がすかさずライターを向けて咥えられたばかりの煙草に火を付ける。
壁にもたれたミンタカはフゥーッと豪快に煙を吐き出した。青年二人のものより遥かに濃い副流煙はすごく煙たいはずだが、ゆらりと視線を向けられ更に強張るマラカイトにもはやそんなことを気にしている余裕はない。
「君が彼の肩を掴んでいるから、喧嘩でもしているのかと思ったよ」
「いや、まさか!」
「そんなことないですよぉ!」
笑って誤魔化す男二人にミンタカも冗談っぽい笑いで返す。まだ十分に残っている煙草を垂直に灰皿へ押し付けた彼はすぐにドアノブに手をかけて言った。
「まぁゆっくりしたまえ。遅刻してはいけないよ」
「はいっ!」
「お疲れ様ですっ!」
出て行く直前、肩越しに視線が投げられた。同じ色の目を持つマラカイトへと絡み付く。怪しげな光まで放って。
ガラス越しに見える外からミンタカの姿が完全に消えた頃、緊張から解き放たれた二人の男がはーっ、と深く息を吐いた。
「…びっくりしたぜ。ミンタカ様、普段この部屋には来ないのに…」
「危ねぇところだった…」
寿命が縮まるとはまさにこのことだろうか。短く息を切らせているマラカイトもそれは同じであるよう。
「わかっているとは思うが…お前、言うなよ?それからお前も早く自分なりの結論を出した方がいい」
落ち着きを取り戻した黒髪の男が言った。鋭く威圧的な目つきを前にしたマラカイトはやがて逃げるみたいに視線を落とした。それから答えた。
「…言える訳がないじゃないですか」
またしてもため息をつき胸を撫で下ろしている二人には目もくれず、マラカイトの視線はまた一定の場所で止まっていた。見入っていた。
三つに増えた吸い殻。とりわけミンタカの残したそれは内部の葉まで吐き出して散らばっている。
頭から突っ込み、砕け、脳みそでも散らしたみたいに。
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あのキャンプファイヤーの夜から一夜明けた日、セレスはレグルスから話を受けた。今日トレーニングの成果を見て、早くて明後日、組織本部へ攻め込むと。
大切な王女、いやそれ以前に婚約者であるスピカの命がかかった重大な決断を下した彼に、ただ真摯な姿勢で向き合うくらいしかできなかった。
彼を相手にした戦闘シミュレーションを行った結果は合格。決戦の日は、決まった。
万が一スピカの身に何か起きてしまったときの為の優秀な医療チームと、以前にも耳にした稀少生物研究所職員を明日王宮に招いて会議を行うと言う。
着々と進む計画。迫るタイムリミットを実感して焦った。
夕食を終えて少し落ち着いたら、今夜にでもミラとメイサに…そう考えていたにも関わらずやたらと眠くてベッドに雪崩れ込んだ、夜。
前倒しになってしまった問題の解決が迫られているのにと虚ろな意識の中で思っていた。こんなところで力尽きている場合では…しかし、想定外の事態は、これで終わらなかった。
まさか順調であるように見えた計画さえもが思わぬ形で前倒しになってしまうなんて。
ビーッ!!ビーッ!!
同じ日の夜、何時頃だったかはわからない。
ただ耳障りな甲高い機械音に反射的に身体を起こした。赤く点滅する窓が目に飛び込むと共に思いのほか大きかった音に驚いていた。そして、直後…
ドンドンドンッ!!
セレス!!いるのっ!?セレスッ!!
揺れる程に激しく叩かれるドアとそれを突き抜ける叫び声に耳を突かれた。開ける前からわかった。呼んでいる声の主も、ただ事じゃない事態が発生していることも。
ドアを開けるなりのしかかった重量感にセレスの身体はよろめいた。涙目のクー・シーが胸元から見上げていた。
「良かった、セレス、居た…!」
でも…
状況も理解できないまますがる彼を抱き締めていた。それから気付いた。開いたドアの枠の中、はめ込んだみたいに立ち尽くしている姿に。
「レグルス…?」
「セレス……っ」
赤の点滅にせわしなく照らされてなお、こちらを見つめる顔が何か言いたげなのがわかった。問いかけようと出かかったセレスの声を先に上がったクー・シーのそれが遮った。
「スピカ様がいないんだ!!ミラちゃんと、メイサも…!!」
「え…っ」
あまりにも唐突なその言葉を何かの冗談だと思いたかった。だけど眼下で泣きじゃくる少年の姿がその期待を容赦なく打ち砕いていく。
反して徐々に鎮まっていく自身を怖く思った。それでも問いかけた。真っ直ぐ、彼に向かって。
「この警報音は、その為の…?」
静かに放ってみせた声に影響でもされたのか、少しばかり落ち着きを取り戻したレグルスが頷いた。
彼は、言った。
「…王宮のセキュリティも破壊された。もう敷地を覆うバリアもない。奴らに攻め込まれるのも…時間の問題だ」
いつか取り返しのつかない事態が起こるかも知れない、と心の何処かで覚悟していたせいだろうか。
そのとき胸を占めた、いや、強く締め上げた思いはただ一つ。
もう隠せない。
それだけだった。




