地獄1:究極の虚無!究極の地獄!
新暦208年、春。
「新王都」の空は、分厚くどす黒い灰の雲に覆われ、太陽の光が地表に届くことはもはやない。
魔導炉の青き光はとうの昔に失われ、崩れ落ちた建物の残骸の間を、毒を孕んだ酸の雨が絶え間なく打ち付けている。ここは今や、諸外国が開発したキメラ兵器や最新型の魔導爆弾の効果を測定するための「実験場」に過ぎない。
だが、時計の針をたかだかほんの数十年前巻き戻せば、この場所は間違いなく人類にとっての「希望の到達点」であった。
歴史を振り返れば、そこには二人の偉大な女性の姿がある。
一人は、世界に圧倒的な繁栄をもたらした偉大なる魔導技師、エラーラ・ヴェリタスである。
そしてもう一人は、エラーラの死後に現れた、狐獣人のニーア・ヴェリタス。彼女は、種族間の果てしない抗争と、獣人が奴隷として酷使されていた野蛮な時代に終止符を打つべく立ち上がった。
エラーラが地ならしをし、ニーアが種を撒き、花を開かせた世界は、これ以上ないほどの黄金期を迎えていた。
新暦180年の秋。新王都はかつてない熱狂と感動の渦に包まれていた。
国営魔導回線を通じて、ある「歴史的真実」が大々的に発表されたのである。それは、かつての偉人であるエラーラ・ヴェリタスとニーア・ヴェリタスの孤独な戦いの裏には、常に一人の匿名の後援者が存在していたという衝撃的な内容だった。
歴史学者たちの証言、当時の手紙や資金提供の記録。それらはすべて、一人の老人に焦点を当てていた。
その男の名は、リュジュンパ・キルポ。
当時90才を迎えていた彼は、柔和な目元と、いかにも人の良さそうな白髪の風貌を持っていた。
発表によれば、彼は若き日から『自らの人生を投げ打ち』、エラーラが研究に没頭できるよう影から援助し、ニーアが迫害から逃れるための隠れ家を手配し続けていたというのだ。そして、その功績を自ら誇示することなく、ただ、静かに市民の幸福を祈りながら生きてきた「真の聖者」であると。
街中が感動の大団円に酔いしれた。リュジュンパは王都の最高名誉勲章を授与され、彼は恥ずかしそうに目を伏せ、穏やかな声でこう語った。
「私は『何もしておりません』。ただ、彼女たちの純粋な想いに、少しばかり『寄り添った』だけなのです。今のこの素晴らしい新王都こそが、彼女たちへの何よりの恩返しでしょう!」
誰もが彼を信じた。彼こそが、この国の道徳と良心の最高峰であると。
だが、誰も知らなかった。
歓声に包まれながら微笑み返すリュジュンパ・キルポの頭蓋の内側に、腐臭を放つ暗黒の泥濘が広がっていることを。
リュジュンパ・キルポという男の本質を言葉にするならば、それは「虚無」である。
彼は、決して狂信的なテロリストではない。
社会を特定の思想に染め上げようとする左翼でもなければ、復古的な全体主義を夢見る右翼でもない。
ましてや、敵国から金をもらって祖国を売る「純粋な売国奴」ですらなかった。
もし彼が売国奴であったなら、まだ理解の余地はあっただろう。
利益という論理が存在するからだ。
しかし、リュジュンパに、論理など、なかった。
彼はただ、豊かになりきった時代にたまたま生まれ、特権的な家系に属していたがゆえに、何の努力もせずに莫大な地位と富を与えられた世代の残骸に過ぎなかった。
すなわち、「金は何もしなくても無尽蔵に湧いてくるもの」であり、「自分は死ぬまで社会から手厚く保護され、決して罰せられることはない」という前提を心の底から信じ切っていたのだ。
彼の内面を占めていたのは、底なしの幼児性と、肥大化しきった自己愛、そして女性に対する醜悪極まりないミソジニーであった。
とりわけ、エラーラという「女」が自分では理解も及ばない天才的な頭脳で歴史に名を残したこと、ニーアという「獣人」が自分よりはるかに高潔な精神で世界を変えたことが、彼の自尊心を傷つけていた。
一般的な悪人であれば、他人の手柄を自分のものにして満足するだろう。
今回彼が仕掛けた「美談の捏造」も、一見すれば他人の手柄の横取りに見える。
しかし、リュジュンパにとっては、そんなものは単なる前座に過ぎなかった。
リュジュンパの「善意」による破壊工作は、彼が国政の最高顧問に就任した翌日から、まるで真綿で首を絞めるように静かに、かつ周到に開始された。
最初に標的となったのは、エラーラが残した魔導インフラの数々だった。
リュジュンパは、市民の健康を憂う慈悲深き老人の顔で、議会にこう提言した。
「魔導炉から発せられる微弱な魔導波動が、若者たちの精神に不可逆的な悪影響を与えているという研究結果が出ました」
もちろん、そんな研究結果は存在しない。
しかし、「あのニーアとエラーラを支えた偉大なるリュジュンパ様」の言葉を、市民は疑わなかった。
「危険を排する」という美名のもと、新王都の魔導炉は次々と解体されていった。街を繋いでいた魔導回線は切断され、情報の流通は数十年前に逆戻りした。
夜の王都から輝かしい光が消え、工場は動力を失って停止し、産業の心臓が確実に止まり始めた。
さらに彼は、教育制度にもその汚らしい手を伸ばした。
「過度な競争は子供たちを不幸にします。真に必要なのは、人間としての豊かな心です」
そう嘯きながら、彼は論理学や高等魔導工学、歴史学といった「思考力を養う」授業を次々とカリキュラムから廃止させた。代わりに必修化されたのは、空虚な自己啓発と、組織への絶対服従を説く洗脳教育であった。
有能な若者たちは絶望の淵に立たされた。
彼らがどれだけアイデアを出そうと、どれだけ研究しようと、すべてが握り潰された。
産業が死ねば、当然ながら物流も死ぬ。失業者が街に溢れ、人々の生活が困窮し始めたタイミングで、リュジュンパは次なる劇薬を投下した。
「かつてない環境変動と未知の疫病の兆候が見られます。市民の安全を守るため、旧来のパン、肉、野菜の流通を段階的に廃止し、国家が徹底的に管理した『完全栄養食』を配給します」
食糧危機という名目で彼が導入したもの。それは、「ジュギル」と呼ばれるおぞましい魔導生命体であった。
ジュギルは、巨大な節足動物でありながら、体液には魔導重金属を含み、その姿は直視するのもおぞましいほどグロテスクであった。
だが、流通を完全に絶たれ、飢餓に追い詰められた新王都市民には、配給されるジュギルの死骸をすり潰した泥のようなペーストを口にする以外の選択肢がなかった。
ジュギルを常食した者の末路は、まさに地獄絵図であった。
魔導的な毒素が体内に蓄積し、まず視力が奪われ、次に歯が抜け落ち、そして内臓が溶け出し、皮膚の下をどす黒い体液が這い回るのが外からでも見えるようになる。人々は、文字通り「内側から腐りながら」悶え苦しみ、血を吐いて死んでいった。
市民の代表者がリュジュンパに助けを求めた。しかし彼は、慈愛に満ちた表情でこう答えたのだ。
「神聖なる試練を乗り越えれば、真の健康が手に入ります。どうか、耐えてください。私も心を痛めております」
そう言って涙を拭うふりをしたリュジュンパの胃の中には、その日の朝に諸外国から密輸させた最高級の霜降り肉と、新鮮な果実がたっぷりと収まっていた。
産業が崩壊し、人口が激減し、ついに新王都の通貨「クレスト」の価値は紙屑以下のレベルにまで暴落した。他国からはもはや「終わった国」として見放され、投資は完全に引き揚げられた。
ここで、リュジュンパは最後の仕上げに取り掛かった。
彼は、悪辣な政策を進めるずっと前の段階で、自分自身の莫大な資産をすべて他国へ移し、自らの国籍すらも他国へと変更し終えていたのだ。
そして、王都の経済が完全に底を打ち、クレストの価値が無に等しくなったこのタイミングで、彼は新王都にその身だけを戻し、蓄えていた莫大な外貨をクレストに換金した。
通貨の暴落により、外貨の購買力は天文学的に跳ね上がっていた。リュジュンパは、新王都の土地、かつてエラーラが建設した魔導施設の権利、残されたわずかな地下資源のすべてを、事実上「タダ同然」で買い叩き、独占したのである。
彼はただ、社会を破壊し、価値を暴落させることで、新王都一の大金持ちへと成り上がった。
あまりにも稚拙で、簡単すぎる、悪辣極まりないマネーロンダリングである。
普通の思考力があれば、彼こそが国を売り飛ばした張本人であることに誰かが気づき、暴動が起きるはずだ。
だが。
リュジュンパの教育破壊によって論理的思考力を奪われ、ジュギルの毒によって脳神経を侵されていた「馬鹿な愛国者」と「馬鹿な売国者」たちは、目の前で行われたこの巨大な強盗行為の真実に、誰一人として気がつかなかった。
あろうことか、市民たちはこう叫んだ。
「誰もが王都を見捨てる中で、リュジュンパ様だけは御自身の全財産を投じて王都の経済を救おうとしてくださっている!」
「なんという自己犠牲の精神か! 彼こそが努力の偉人だ!」
飢餓で骨と皮だけになった市民たちは、なけなしの金と資材を出し合い、街の広場にリュジュンパの巨大な銅像を建設した。リュジュンパは、自分の銅像が建つ除幕式で、またしても謙虚に微笑んだ。
ジュギルの毒と絶望的な貧困によって、新王都市民の数は最盛期の三分の一にまで激減していた。
するとリュジュンパは、「労働力不足の解消と、開かれた新王都の実現」というこれまた美しいスローガンを掲げ、彼が国籍を移した祖国から、大量の移民を受け入れ始めた。
しかし。
彼には移民たちを助けたり、新たな労働力として尊重したりする気など毛頭なかった。
リュジュンパは、表向きは移民に対して手厚い保護を与える法案を通し、彼らを歓迎するポーズをとった。
しかしその裏では、国営のプロパガンダ機関を使い、新王都の残党に向けて執拗なヘイトスピーチを垂れ流した。
『移民たちが、あなたたちの残された仕事と食料を奪っている』
『彼らは犯罪者であり、私たちの文化を破壊しようとしている』
ただでさえ飢えと苦痛に苛まれていた新王都市民の心は荒みきっていた。彼らは誘導されるがままに移民への憎悪を募らせ、街のあちこちで移民に対する暴力事件が頻発するようになった。
結果として新王都の国際的な印象は、これ以上ないほどにまで地に落ちた。エラーラとニーアの功績は、物理的だけでなく、精神的にも完全に破壊されたのである。
さらにリュジュンパは、移民に対しても、新王都市民に対しても、人間として生きていくことすら不可能なレベルの重税を課し、ジュギルの生産工場などでの危険で過酷な労働を強いた。
誰もが、一体何のために苦しんでいるのか、分からなかった。
なぜ、自分たちは、飢えているのか。
なぜ、自分たちは、憎み合わなければならないのか。
なぜ、自分たちは、生きているのか。
移民たちは騙されて連れてこられた新天地で地獄を見て左翼になり、新王都市民はかつての栄光に縋りながら右翼になり、どちらも内側から確実に腐っていく。
意味のない、苦痛。
意味のない、絶望。
それらが濃密な瘴気となって、街全体を覆い尽くした。リュジュンパ・キルポという一人の老人の「遊び」によって、新王都は完璧な地獄の坩堝と化したのである。
新暦188年。
リュジュンパ・キルポは、この世を去った。
自殺であった。
病を苦にしたわけではない。
良心の呵責や罪悪感に苛まれたわけでもない。
理由は、ただ一つだった。
「飽きた」のだ。
すべてを、破壊し尽くした。
これ以上壊すものが、残っていない。
彼は、ただ、暇つぶしとして社会を壊し、そして、暇つぶしでしかない自分の人生を、ただ、終わらせたのである。
虚無の化け物が行き着く先は、虚無でしかなかった。
飽きるまで精神を強姦しつくした老人が、飽きて、ただ、生きることも、ついでにやめた。
最期まで満ち足りた、どこまでも身勝手な終わりだった。
だが。
この最悪の老人の真の悪意は、彼が死んだ後にこそ発動された。
血の海となったベッドの傍らの机に、一枚の上質な羊皮紙が残されていた。遺書であった。
そこに書かれていたのは、自らの罪の告白でも、財産の分与でもない。たった一言、震える文字でこう書かれていた。
『自分は、嵌められた』
誰に?
何の目的で?
どのように?
一切の記述はなかった。
しかし、このたった一言の『デタラメな他責に見える』妄言が、疑心暗鬼と憎悪に満ちていた新王都に、決定的な、そして永遠の破滅をもたらした。
根拠のない陰謀論が爆発的に広がり、遺書の文言を自分たちの都合の良いように解釈した各派閥が、血みどろの抗争を始めた。
誰しもが、当のリュジュンパを疑わなかった。彼は「悲劇の死を遂げた偉人」として神格化され、残された者たちは、彼が残した存在しない敵と戦うために、なけなしの命を削り合う狂気の連鎖へと突入していったのである。
そして現在、新暦208年。
リュジュンパの身勝手な死から十数年の歳月が流れてもなお、王都の政治は完全に停滞している。
各派閥は「リュジュンパ暗殺の真犯人」をでっち上げることにのみ血道を上げ、誰一人として社会を立て直す責任を取ろうとせず、何も決まらないまま、ただただ腐敗し続けている。
食糧危機は一切解決されていない。
未だに人々はジュギルの残飯を啜り、腹を抱えて悶え死に、その死体から這い出たウジ虫をまた別の誰かが食らっている。
「自分は、嵌められた」という呪いの言葉だけが、亡霊のように政治家たちの口実として使われ、終わりのない魔女狩りが日常の風景となっている。
かつて、惑星一の経済大国であり、希望の象徴であった新王都。
その美しい姿は、もう、どこにもない。




