自由への凱旋
白銀の光が甲板を舐めるように広がり、夜の闇を剥ぎ取っていく。
それはかつて聖都の広場を照らした「奇跡」とは対極にある、すべてを無に帰す冷徹な輝きだった。
「な……っ、なんだ、この光は! 聖女、やめろ! 器が、器が持たないぞ!!」
ガッサが悲鳴を上げ、腕で顔を覆う。
だが、もう遅い。
私の手首に食い込んでいた「沈黙の銀」が、内側からの圧倒的な情念に耐えきれず、耳障りな音を立てて砕け散った。その瞬間、私の肉体を繋ぎ止めていた最後の一線が消失する。
「……さよなら、ガッサ。あんたには、感謝しているわよ。……あんたのおかげで、私は『自分を切り売りしてまで守りたいもの』が何なのか、はっきり分かったから」
私が指先をひと振りすると、白銀の衝撃が波のように押し寄せた。
用心棒たちの剣が、ガッサの強欲な瞳が、そして私を屈辱で縛り付けたこの忌まわしい商船のすべてが、音もなく白い塵へと分解されていく。
破壊ですらない。それは、この世の理から彼らを抹消する、静かなる断罪だった。
騒乱が止み、沈みゆく船の甲板には、私とエドモンだけが取り残された。
「……あ、は……。……見て、エドモン。……綺麗よ」
私は崩れ落ちる膝を叱咤し、彼の隣へと辿り着いた。
魔力を出し尽くした私の体は、端からガラス細工のように透き通り、崩れ始めている。
エドモンは、力を振り絞り、震える腕で私の体をしっかりと抱き寄せた。
「……アンジェリカ。……自由だ。……やっと、自由になったんだな」
エドモンの声は、かつてないほど穏やかで、温かい。
彼の傷は癒えていない。けれど、死を目前にしたその瞳には、かつての騎士としての気高さと、一人の男としての深い情愛が満ち溢れている。
「ええ。……もう、誰の道具でもない。……あんたの隣にいる、ただのアンジェリカよ。……ねえ、エドモン。……こんな不浄にまみれた私でも、まだ『女』に見えるかしら?」
私は、彼の胸板に顔を寄せた。
不浄にまみれたドレスも、偽りの香水の匂いも、白銀の光がすべて焼き尽くしてくれた。
今の私からは、ただの土の匂いと、エドモンの血の匂いだけがしている。
「ああ。……世界で最も、美しく……誇り高い、私の女だ。……許してくれ。貴女にこんな重い荷を背負わせた、不甲斐ない私を」
エドモンは、私の頬を包み込み、宝物を扱うような手つきでその涙を拭った。
「貴女が私を救おうとしてくれたその心こそが、私にとっての唯一の光だった。……汚れなど、どこにもない。……貴女の魂は、あの日、霧の中で笑った時のまま、何一つ変わっていないんだ」
その言葉が、私の凍りついた心を、ゆっくりと溶かしていく。
あんたがそう言ってくれるなら、私がしてきた不忠も、嘘も、すべてが報われる。
「……エドモン。……地獄の底まで、一緒に行くって……約束したわよね?」
「ああ。……どこまでもだ。……神の天国が貴女を拒むなら、私はその門を叩き壊して、貴女と共に墜ちよう。……地獄こそが、私たちの聖域だ」
エドモンは、私の額に自分の額を合わせ、深く、慈しむように息を吐いた。
沈みゆく船は、ゆっくりと海の下へと引き込まれていく。
王国の法も、教会の戒律も、商人の秤も、もう届かない。
私たちはただの男と女として、互いの体温を分かち合い、最後の一秒まで抱きしめ合った。
エドモンの唇が、私の唇に重なる。
それは血の味が混じった、けれど世界中のどんな蜜よりも甘い、永遠の誓いだった。
「……愛しているわ、エドモン。……私の、騎士様」
「……愛している、アンジェリカ。……私の、愛しい人」
神様。
あんたがくれた「聖女の命」は、ここで使い切ってやったわ。
後のことは知らない。結界が解けようと、国が滅びようと、私の知ったことじゃない。
私は、この男の腕の中で死ねる。
それ以上に価値のある「奇跡」なんて、この世には存在しないんだから。
海の底へと消えていく黄金と白銀の粒子。
それは、かつて彼らを縛り付けた「聖女」と「騎士」という名の枷が砕け散った、最期の輝きの名残だった。
誰に称えられることも、誰に看取られることもない。
ただ静寂だけが支配する深淵で、二人が描いた光の軌跡は、名もなき恋人たちのための、たった一度きりの凱旋門のように揺らめいていた。
暗く冷たい死の水底は、今、あらゆる呪縛を拒絶する二人を優しく招き入れる、温かな揺りかごへと変わっていく。
もう、祈る必要はない。
もう、誰かを守るために自分を殺す必要もない。
エドモンの腕の中で、アンジェリカは微かに微笑んだ。
その瞳に映るのは、不浄な現世ではなく、ただ愛する男の穏やかな眼差し。
絡め合った指先から伝わる体温が、永遠の静寂に溶け合っていく。
悲劇の幕は、音もなく閉じた。
けれど、すべてが失われたはずの灰の中から、世界中のどんな神殿にも咲くことのない、汚れなき純粋な愛が、静かに、そしてあまりに美しく花開いた。
二人の鼓動が、ひとつの静寂へと重なる。
その先にあるのは、もう誰も邪魔することのできない、ただの男と女としての、深い、深い眠りだった。




