10。エピローグ
身頃にびっしりと、夫となるエイルの瞳の色をしたアクアマリンを縫い付けたその豪奢なドレスは、金の髪を持つアーマニによくとても似合った。
ほつれぬようにきっちりと編み上げた髪にもアクアマリンのピンを差し、より華やかで美しいラインを作り上げている。それはほっそりとしたアーマニの細い首をより細く見せていた。
周囲で世話を焼く侍女達は皆その美しさに感嘆の声を上げずにはいられなかった。
「すばらしいですわ、姫様」
「お美しいですわ、姫様」
「氷の宰相と名高いトフラン公がメロメロになるだけはありますわね」
きゃいきゃいと娘らしい華やいだ声が上がる。
緊張のあまり息を止めていたアーマニは、鏡に映る自分の姿に、いまだ信じられない思いでいた。
(本当に、結婚するのだ。心には他の方を住まわせたまま。あの日、ガイル様に言われた心を繋ぎたいと思える縁なのかどうかも判らないのに)
確かに、条件だけ見ればこれ以上の縁はないだろう。
見た目もいい。家柄もいい。
アーマニに心を捧げてくれるとも言ってくれた。
でも、アーマニ自身の心が、どこにそれを置けばいいのかが判らない。
(せめて、この日を迎える前に、ひと目でいいからガイル様にお会いしたかった)
そうすれば、心に区切りをつけることが出来たのかもしれない。
しかし、リーディアル侯爵家へと送った招待状の返事はリィンの代筆で『連絡を取るよう努めます』と書いてあるだけだった。
出席するのかしないのかすら判らない。
突然の結婚であったし、仕方がない部分もある。それは判る。それでも、アーマニは、ガイルに会いたかった。今すぐ。
「アーマニ殿下、トフラン公がお呼びです」
後からそう声を掛けられて、どきりとした。
もうすぐ式が始まるというのにどうしたのだろうと訝しみながらも、アーマニは侍女に誘導されるまま腰を上げた。
「こちらで少々お待ちください」
案内されたのは、賓客用の控室の一つだった。
綺麗な生花が盛られた花瓶が部屋の中央にひとつ飾られていた。
待てといわれても時間もあまりない筈なのに、と思いつつ窓辺によって空を見上げた。
そこに、人の気配を感じて振り向くと
「……どちらさまでしょうか」
見覚えがあるようなないような。名前を知らない正装の男性が立っていた。
王位継承権第二位として教育をされてきたアーマニは、国内の貴族の名前も顔もすべて判る。
今日、ここに招待しているのはたった1人を除いてすべて国内の貴族だけだ。
だから、アーマニに名前が判らない目の前の男は今日の招待客でも、その代理人でもない、という事になる。
なにより式を挙げるまではアーマニは未婚である。名前も知らない男性と二人きりで部屋にいるなど言語道断である。
どこから迷い込んできたのか知らないが、ここはアーマニの住まうフォルト王国の王城であり、これからアーマニの聖なる結婚式が挙げられる特別な日だ。
どうしてこんなところに招待客以外が紛れ込んでいるのか判らないがすぐにでも退出願わねばならない。
「どなたか知りませんが、今すぐ出て行って下さるかしら。ここは貴方のいる場所ではないわ」
今すぐ、早くエイルが来てくれないだろうかと焦るアーマニを、目の前の男が嘲笑った。
「ふん。確かに俺がいる場所ではないな、こんな場所。来たくて来た訳ではない。しかし、お前には用があるんだ。アーマニ・イル・フォルト」
アーマニは、自分の名前を呼んだ声に、覚えがあった。必死にそれを思い出す。
そして何よりこの不快な言葉遣い。──!?
「…リニア・ジャオユの、弟?」
確信があった訳ではない。しかし、それでもその名を口にした時、その男が不快そうに声を上げた。
「そんな呼び方をするな! 俺はラトル。ジャオユ国の王太子ラトル・ジャオユだ。お前の夫になる男の名だ」
ちゃんと覚えろと言われて眩暈がした。
「兄を廃嫡に追い込んでくれたことに関しては礼を言ってやろう。しかし、その後がいかんな。俺が結婚してやろうといったのに、勝手に他の男のところに嫁ごうとするなど。我が国に迎えた際はきちんと躾けてやろう」
なぜ、こんなところにそんな男が紛れ込んでいるのか。
アーマニの中で怒りが膨れ上がり、それまで感じていた困惑や恐怖が一気に吹き飛ぶ。この男に現実を見せてやらねば気が済まないと思った。
まっすぐに姿勢を正し、目を見据えてはっきりと、アーマニが選んだ正道を告げる。
「私の夫になる人は、エイル・トフラン。このフォルト王国の公爵です」
アーマニ・イル・フォルトの夫になる男の名前は、エイル・トフラン。
目の前に立つ、濁った瞳の狡猾で野蛮な男とは違う。
まっすぐ嘘のない瞳で、アーマニを求める男だ。
「売女が。まさか処女を散らしてなどおるまいな? それなら種をやるのは一年後になるな。まぁどうせお前は名ばかりの王妃だ。それまでの間といわずそれからもだが他に幾らでも女は抱けるから構わん」
「下衆が」
あまりの暴言に思わず手を振り上げる。
そのアーマニの手が目の前の下衆男に触れる前に、
「うぎゃあっ」と叫んで、誰かに蹴り飛ばされて床に踏みつぶされていた。
どこかで見た記憶のあるその光景に、思わず呆然とする。
武骨で大きな背中をした、男の姿がそこにあった。
「お久しぶりです、アーマニ殿下。よくよく、貴女様は私の前で暴漢に襲われるようですな? 間一髪なのも同じようで…うわっ?!」
ずっと会いたかったその人の背中に抱き着く。
「会いたかった。ずっとお会いしたかったのです! どうしてここへ?!」
「どうしてって…その、アーマニ殿下、少々お時間を戴けますかな? この足元にいる悪漢を始末してからゆっくりと旧交を温めようではありませんか。あ、そうでした」
にやりと悪い顔をした笑ったその人は、いいことを思いついたと言わんばかりにその提案を口にした。
「兄の方を蹴っ飛ばしてやりたかったんですよね? 弟相手ですけど、一発やっときませんか」
蹴っ飛ばすのは捻挫すると困るので足の付け根をその高いヒールで踏み抜くのがお勧めです、と言われたので気を失ってぐったりした男のそこを、指示されるまま全体重を乗せて踏み抜いた。
「※●□%▲×&#!!!!!」
声にならない声で悲鳴を上げて、その卑劣漢は口から泡を吹いて再び男は気絶した。
アーマニに丁寧にどこを踏み抜けばいいのか教えてくれたその人は、自分で指示を出したくせに結果を見て真っ青な顔になって震えていた。
そして、お互いに顔を合わせて笑った。
そのガイルの笑顔に、アーマニの胸はいっぱいになり、涙が溢れた。
部屋から出ると、城の中ではいなくなったアーマニを探して、大捜索が行われていた。
ガイルが自分のベルトを使って拘束したジャイユ国の王太子を突き出すと、当然のことながら大騒ぎになった。警備網が見直されることになり、式は午後まで延期となった。国を挙げての式典をそれ以上延期にできなかったのだ。
エイルが「私との結婚が嫌で逃げ出したのかと思った」と洩らし、アーマニを「わたくしは、結婚したくないならそうハッキリ言いますわ。何も言わずに逃げたりなど致しません」と怒らせる一場面もあったが、ラトルの話を知るとアーマニを強く抱き寄せて、「私が助けに入りたかった。でも、まずは貴女様がご無事でよかった」とぽろりと涙を見せた。
周囲にいた全ての人間が息を止め、視線がそこに集まる。
勿論、アーマニの視線も。
「氷の宰相」と呼ばれ、冷酷とも冷徹とも言われるその人が静かに涙を流す姿を見て、大人の男の人が泣くと思ってもいなかったアーマニは声を失って呆然とその姿を見上げて、そうしてひと言、「綺麗」と呟いた。
大人の男が泣く姿を見て、情けないと思うのではなくそんな風に感じること自体がアーマニは自分でも不思議で、知らずそのとても綺麗だと思った涙を指でなぞる。
「…あなたが、泣くとは思いませんでした」
その言葉に、エイルはようやく自分が涙を流している事に気が付いた。しかし、その涙を拭う事も隠すこともしない。彼にはもっとしたいことがあったからだ。そうして心のままに言葉を紡ぐ。
「私だって自分が泣くとは思いませんでした。でも、あなたを、アーマニ様を失ったかもしれないと思ったら…ご無事で本当によかった」
そう言って更に強くアーマニをその腕の中で抱きしめた。
ちなみに、あの部屋は教会のすぐ近くにあって予備の控室だったようだ。
人通りがそれなりにある場所だったので逆にノーマークになっていたようだ。
ちなみに、アーマニを呼びに来た侍女はラトルに騙されていたらしい。
『密かに恋仲に合った姫様と強引に別れさせられた。最後に一目だけでいいお別れが言いたいんだ』と言われて、『姫さまにはずっと忘れられない初恋の方がいると聞いていたので、つい信じてしまった』のだと泣きながら告白したそうだ。彼女は城勤めをクビになる。更にどこかにやられるようだが、それがどこかはアーマニには知らされなかった。
皺になってしまったウエディングドレスに悲鳴を上げた侍女たちの手によって、アーマニは普段のドレスに着替えさせられた。
そうして化粧も一旦すべて落とされ肌を休めましょうと言われて今はすっぴんだ。
そのまま、こうしてみんなと一緒にサロンへと集まっていた。
それぞれの前に紅茶と甘い物が配られている。
勿論、城の中ではまるで戦場のようになっていた。主に、侍女や厨房の料理人たちや近衛たちによって。
近衛たちは無法者が他に紛れ込んでいないか血眼になって虱潰しに探して回っていたし、侍女は皺になったドレスの手入れと、縁起が悪くなったと少しでも手を掛けて生まれ変わらせようと躍起になっている。そうして厨房は、食材が無駄にならないよう昼から始まる筈だった披露宴を夕方以降にするためのメニュー変更に奔走しているところだ。
だからこそ、アーマニ達はこうしてある意味のんびりとしている。
尤も、今日の主役達の心の中はもっとずっと大騒ぎだった。
主にアーマニが。しかし、それを押し隠してアーマニはガイルへ話し掛けた。
「そういえば、ガイル様はどうしてあそこへ?」
「西にある外つ国にいたのですが、そちらにリィーディアル侯爵家から連絡が入ったのです。『アーマニ様がご結婚なさる』と招待状が同封されていたのですが日程的にギリギリでしたので、トリントンへ帰らずそのままこちらへ参りました。長旅だったもので日を数え間違えたのか明日だと思っていたんです。それがなんと今日が当日だと言われまして慌てて招待状を掲げて王城に入れて貰いまして。門番の方に『教会へはこちらが近道です』と教えて貰ったので裏から入ろうとしたのですが、アーマニ様の緊迫したようなお声が聞こえてきたので気になって近付いたのです」
その場面を思い出したのだろう。
ガイルが微妙な顔をして笑い出した。
「どこかで見たことのあるような場面がそこにあって。思わず身体が勝手に動いて窓から入ってアレを蹴り飛ばしてたんです。まぁ、あの時はズタ袋入りでしたけど」
その袋に何が入っていたのかだとか、どの時かなどは誰も問わない。
ここにいるのはそれを知る者だけだからだ。
「間に合って良かった。アーマニ殿下がご無事で何よりでした」
その言葉に、心から頭を下げる。
「ありがとうございました。ガイル殿は間違いなくこの国の神の遣いです」
アルフォンス王のその言葉に、周囲から同意の声が上がり、ガイルが頭を掻いた。
「ご勘弁下さい。私はトリントン王国の外交官です。このフォルト王国の友好国の者ですよ。それにしても、アーマニ殿下はお美しく成長なされましたな」
話を変えようとでもいうのだろうか、ガイルが結婚式当日の話題として当り障りのない話題を持ち出す。
しかし、皆はそれに乗ることにしたようだ。お祝いの席でいつまでも暴漢の話題をしているのも相応しくないと思ったのかもしれない。
「えぇ。私の妻になる人は美しいでしょう? でも、もうお渡しすることはできませんよ」
そう言って、エイル・トフランはガイルを見つめた。
その若き公爵の顔をじぃっと見たガイルが好もしいものを見たと目を眇めて笑顔になった。
「貴方がアーマニ殿下の伴侶となられるトフラン公エイル卿ですね。お初にお目にかかります。トリントン王国外交官ガイル・リィーディアルと申します」
ガイルはそっと席を立ちあがり、他国の外交官として高位貴族に対する礼を取る。
それを見て、ようやく自分が名乗りもしていなかったことに気が付いたエイルは慌てて席を立って名乗る。
「失礼いたしました。私はフォルト王国トフラン公爵エイルと申します。エイルとお呼びください。この度は私達の結婚式の為に遠路はるばるようこそお越しくださいました。なにより妻を暴漢から守って下さったこと、心より感謝いたします」
正式にはまだ式前であるからアーマニは妻ではない。
しかし、ガイルに対して”妻”だと言いたい気持ちはよく判るので、苦笑しただけで誰もそれを訂正しようとしなかった。
「アーマニ殿下は、素晴らしい伴侶をお選びなさったようですね。昔、私が話した伴侶の条件をちゃんと覚えていて下さったようでなによりです」
その言葉に、周囲は弾かれたようにガイルを見つめた。
「ガイル殿の、お薦め伴侶の条件、とは?」
勢い込んで訊ねるエイルを余所に、アーマニが心に引っ掛かっていたそれを訊いた。
「本当に、そう思われますか?」
アーマニはじっとガイルの目を見つめる。そこに嘘も適当な言い逃れも見逃さないと決意を秘めた光を乗せている。
「はい。エイル様からは、誰よりもアーマニ殿下を大切に思われている事が伝わってくるようです。今日が初対面の私ですらそれが伝わるのです。その想いは誰よりも強いに違いありません」
目を眇めて、そう伝えるガイルの顔はとても優しくてアーマニには眩しい。
「そして」
そういって、ガイルはアーマニに顔を向け、にやりと笑って続ける。
「あの時、『 私の夫になる人は、エイル・トフラン。このフォルト王国の公爵です』そう言い切った時の、あのお声。そこにはしっかりとした信頼がありました。なによりアーマニ殿下がご自身の言葉に自信を持っていらした。いやぁ、恰好良うございました」
このガイルの話を聞いて、一番びっくりしたのは一体誰だったろう。
ずっと娘の恋の行方を心配しながらも見守ってきたアルフォンス・デル・フォルトか、自身の恋が生涯片恋のままであることを受け入れてこの日を迎えたエイル・トフランか、それとも今も心の真ん中にいる初恋の人から伴侶と迎える男に対して太鼓判を貰ってしまったアーマニ・イル・フォルトだろうか。
それともこの場にてアーマニの恋をずっと見つめてきた全ての人間だろうか。
どちらにしろ、このガイルの話を聞いて喜ばなかった者はいないし、誰がより喜ぼうがどうでもいいことだ。
誰もがこれから人生を共にしていく二人の事を心から応援し、この日を迎えられたことを寿いでいるのだから。
「おめでとうございます。心を繋ぎ、縁を結びたくなる御方と出会えた事、このガイル、心よりお祝い申し上げます。どうぞ、お幸せになってください。アーマニ・イル・フォルト殿下」
「はい。ありがとうございます。ガイル・リーディアル様。わたくしの、初恋の方」
「わっはっは。ここでそれを言うとは。光栄ですが、新郎に殺されそうです」
笑い飛ばしてくれたことに、アーマニもエイルも頭を下げた。
「エイル・トフラン様。私がいうのもなんですが、アーマニ殿下はすばらしい資質を持った、すばらしい女性です。どうかいつまでも大切になさって下さい。どうぞ、いつまでもお幸せに」
その祝福の言葉に、ふたりはお互いの手を取り、大きく力強く頷いた。
ちゃんとジャオユに「ふざけんな!」が出来ているといいのですが。
これにて完結です。
お付き合いありがとうございましたv




