現世
ゴリエル少佐の怒涛のしごきを丸六日受け続け、やっと休日に突入した。前回の休暇は体の節々を痛めつける筋肉痛を押して野球をやったせいで休暇という休暇を過ごせなかったわけだが、今日も休むことはできないらしい。
「なるほど、現世に降りたいということね」
神様は静かな声で言った。現在、俺とマリエルは神様の住む城、ノイシュバンシュタイン城の玉座の間である。
「ああ、俺の周りが今どんな風になってるのか気になってな」
「まあ拒否する理由もないし、いいわ。許可してあげる」
「なんだ、ずいぶんとあっさり許可してくれたな」
この人、いやこの神は俺を嫌ってそうなのだが。
「当然の権利だからね。特別な理由がなければ許可するわ」
そう言うと、神様は右手に持っていた羽ペンを机に置いた。
「じゃあさっそく現世に送るからこっちに来なさい」
神様は手招きをした。俺とマリエルは神様の前に歩いていった。すると神様は俺たちの頭の上に手を置いた。
「今日の日没までには帰ってきなさい。目をつぶって帰りたいと祈れば帰れるから」
「ちなみに日没に帰ってこなかったらどうなるんだ?」
「地獄に叩き落とします」
「一時間前には帰ってきます」
そう返事したと同時に、俺の意識は飛んだ。
「新井起きろー」
目を覚ますと、マリエルが俺の頬を軽く叩いていた。
「おう、おはよう。今何時だ」
「現世の時間ではお昼過ぎくらいかな」
「そういえば現世に降りたんだっけ?」
辺りを見渡すと確かに見慣れた風景が広がっていた。ここは俺が死んだ踏切である。ていうか踏切の上空……?
「ぬお!? マリエルさん! 浮いてる! 俺、浮いてる!」
「とりあえず今からいろいろと説明するから落ち着いて」
マリエルは空中で正座しながらなだめてきた。
「まず前に言ったかもしれないけど、私たちは今、霊体になってるの。だから浮いてる」
「なるほど、浮遊してるし現世からも浮いた存在というわけか」
「質量がないのでモノに触ったりすることはできないから、見るだけって感じだね。もちろん他の人に私たちの姿は見えないし声も聞こえない。まあ私たち天使は神様に申請すれば実体のまま現世に降りられるんだけど」
「あの、何かしらの反応をください」
結構うまいこと言ったよ、俺。
「移動は行きたい方向を頭に思い浮かべるだけでできる」
「ツッコミ……」
「他に何か質問は?」
「もういいです……」
そこまで無視されたら逆にすがすがしいわ。
「じゃあ、最初はどこ行く? 新井と関係が深かったところとか」
「まずはやっぱ野球部じゃないか?」
むしろ今のところそこ以外思いつかない。
「家族のところはいいの?」
「まあ、後でもいいんじゃねえか?」
完全に忘れていた。
「そう? まあ新井がいいならいいけど。じゃあ、野球部だね。案内してよ」
「おう、任せろ! まあそんな遠くないけどな」
俺とマリエルは俺が通っていた高校に向かった。なるほど、たしかに行きたい方向を思い浮かべるだけで移動できる。これはかなり楽だ。
「でも今日は日曜日だけど、野球部やってるの?」
「ああ、弱かったけど練習はほぼ毎日してたぜ」
たぶん練習時間なら強豪校にも負けない。時間なら。
学校に近づくと、快い金属音と煩わしいくらいの大声が聞こえてきた。今日も部活はやっているらしい。グラウンドの上空に着くと、金属音と声はさらに大きくなって耳に響いてきた。
「ていうか練習試合かよ」
グラウンドではうちの野球部の白いユニフォームのほかにオレンジ色っぽいユニフォームの球児たちが一心に白球を追いかけていた。
「新井の学校、試合してるんだ。どんな試合になってるの?」
「ん? ああ、多分いつも通りの展開だと思うけど」
俺はあまり期待を込めずにスコアボードを眺めた。相手は地元の人しか知らないような無名校である。現在は九回裏ツーアウトランナーなし。スコア30‐0である。もちろんうちが負けている。
「予想通りのボロ負けだな」
過去の成績を振り返ってみてもこんな試合はザラである。我ながらなんでこんなに弱いのか疑問になるほどだ。今回もとっくに集中力が切れてベンチ内では好き勝手に晩ご飯の話でもしていることだろう。
「とりあえずうちのベンチでも見に行くか」
俺はきっと思い思いに適当な話をしているであろうダグアウトに降りていった。マリエルも俺に続いて移動する。しかしベンチ内で発せられていた声は俺の予想を裏切るものだった。
「三十点差が何ぼのもんじゃい! 野球は九回からじゃあぁぁぁ!」
「誰だお前はぁぁぁ!」
いや、よく見るとキャプテンだが、あんたそんなキャラじゃないだろ! そもそも東京出身なのになんだその方言は!
「隼人、お前は馬鹿で馬鹿で馬鹿な奴だったが、野球バカさなら誰にも負けなかったお前のために、俺たちは全力で戦うぞ! 天国で見ていてくれ隼人ぉぉぉ!」
「馬鹿しか言ってませんよキャプテン……」
俺は馬鹿なだけだったんですか……。
「目指せ甲子園じゃあぁぁぁ!」
「そんな目標初めて聞いたんですが!?」
この前まで一勝が目標だったチームとは思えない変わりようである。
「新井がいた野球部ってすごく活気があるチームなんだね」
ダグアウトの予想外の熱気に気圧されたマリエルがつぶやいた。
「ああ。俺も初めて知ったよ」
俺がいたころはみんな負けるのが当たり前と思っていた。なぜこの気合いをもっと前から出せなかったのだろう。
「でも、新井ってやっぱりそういう人だったんだね」
「そういう人?」
「うん。たぶん新井は真剣に一生懸命に野球をやってたんでしょ? そういう人は仲間から信頼されるし、その人のために頑張ろうって気持ちにもなるもん。だからみんな新井のためにって頑張ってるんだよ」
「そう、なのかな? でもそうだとしたら、俺が死ぬ前から頑張ってほしかったな」
それならもう少しマシな強さになってたんじゃないかと思う。
「そういう気持ちになっても実際に頑張れる人って少ないからね。それこそ失った後とかにやっと決心が固まるんだよ。もう手遅れだったとしても」
「手遅れね」
俺はそうつぶやいた後、無言で上昇した。マリエルも少し遅れて上昇してくる。
「試合、最後まで見ないの?」
「もう関係ないしな。勝負だってついてるし」
もう勝敗は決している。ここからの逆転は不可能だ。
「もしかして、見てると一緒にやりたくなっちゃうから、とか?」
「違う。次行くぞ」
俺は振り返ることなく、高校を離れた。
野球部を後にした俺たちは、いったんスタート地点の踏切に戻ってきた。
「次はどこに行く?」
マリエルは線路の電線を歩くように飛びながら言った。辺りはまだ明るく、日没までは時間がある。
「野球部が終わったらなんもないな。もう自宅ぐらいしか思い浮かばない」
「家と学校を往復するだけの学生生活だったんだね」
「うっせえ! それだけ部活に精を出してたんだよ!」
十七年間彼女ができなかったのだって部活とゲームで時間がなかったからである。決して俺がモテないからとかそんなんじゃない。
「じゃあ、新井の家に行こっか」
「まあ、それ以外の選択肢はもうないな。って、ん?」
俺がマリエルの提案を承諾しようとした瞬間、下の方に人影が現れた。
「どうしたの?」
「いや、なんか」
俺はその人物を凝視する。長いスカートをはき、全体的に落ち着いた服装のかわいらしい女の子である。両手では小さな花束を抱えている。
「へえ、ずいぶんかわいらしい女の子だね」
マリエルは俺を細い目でにらんできた。
「何、誤解してんだよ。俺は別にかわいい女の子だから見てたわけじゃないぞ」
いや、たしかにすごくかわいい娘だからちょっと見とれていたけど。
「なんか見覚えあるんだよな」
「知り合い?」
「いや、俺の現世での知り合いにあんなかわいい女の子はいなかったと思うが……」
その少女を観察していると、少女は踏切のわきでしゃがみこみ、その場に花束を優しく置いた。そして目をつぶって手を合わせる。よく見ると踏切わきにはいくらか花束が置いてあった。
「あの人ってもしかして、新井が助けたっていう……」
マリエルはちょうど俺が思っていることを口にした。
「ああ、思い出した。たしかにあの娘だ」
当時と服装が違うのでとっさに気づけなかったが、たしかにあの娘は俺が死ぬ直前に助けた女の子だ。
「わざわざ花なんて供えてくれてたのか」
しばらくして少女は周りの落ち葉や枯れた花束を持って立ち上がり、ゆっくりとした足取りで来た道を戻り始めた。
「なあマリエル、付いてってみないか?」
「え、ストーキングするの?」
「違うよ! なんでそんな解釈になるんだよ!」
こんな真面目な雰囲気でストーキングなんてするか!
「なんつーか、俺が助けた娘がどんな人なのか気になるんだよ」
「まあ霊体だからストーカーにはならないけどさ。考えようによっては幽霊に付きまとわれてる方が怖いけど。いいよ。ただし着替えとか覗こうとしたら全力で妨害するから。そのために私が来てるんだし」
「安心しろ。覗くつもりはねえよ」
俺たちは距離を取って少女の後を付けた。少しだけ歩くと、彼女は小さな一軒家に入っていった。辺りは一般的な住宅地で、俺の家もこの近くにある。表札には『能見』と書かれていた。俺たちも恐縮しながらスチールのドアをすり抜けて中に入った。
「お邪魔します……」
先方には聞こえないから意味はないのだが、無言で上がり込むのも何なのでとりあえず言っておいた。少女は洗面所で手を洗っていた。
「弓子、またお花を供えてきたの?」
後ろから高い声が聞こえた。振り向くと、若々しい顔立ちの女性が立っている。おそらく少女の母親だろう。ということは弓子というのが彼女の名前か。
「うん」
弓子さんは蛇口をひねり、水を止めてから返事をした。
「いい加減にしたら? 毎日毎日お花持って行って周りの掃除して。そんなこと一生続けるつもり? ご遺族の方々も許してくださってるのよ? 悪いのはあなたじゃないからって」
「でも私が猫を助けようとして線路なんかに出なければ、事故は起きなかったんだし。天国の新井さんがどう思ってるかわからないけど、私の気持ちがおさまらないんだよ」
弓子さんは顔を俯かせ、弱々しい声で言った。母親は小さくため息を吐いて戻っていった。
「そんなに気に病まなくていいんだけどなあ」
俺はため息交じりにつぶやいた。だって俺は弓子さんのことを一切恨んでない。現世に未練はいくらかあるが、今は天国で楽しくやれているのだからあまり気にしてない。
「自分のせいで人が死んじゃったんだからね。罪悪感はすごく感じるだろうし、新井がどう思ってても気に病んじゃうんだよ」
「本人よりも遺った側の方がつらいのか」
そう考えるとむしろ申し訳ない気持ちになってしまう。
「あの娘に対して、俺は何もしてあげられないんだよなあ。勝手に助けて勝手に死んで。今思えば、俺も助かる賢いやり方があったのかもしれないな」
「何かできたとしても、今何かしたら逆に驚かせちゃうしね。これも気づいたときにはもう手遅れなんだよ」
マリエルはしんみりした声で言った。
「もう出よう、マリエル。弓子さんに申し訳なさ過ぎてつらい」
「そうだね」
俺とマリエルは静かに能見家を出た。
「じゃあ、最後は新井の家だね」
能見家から少しだけ離れ、近くにあった十字路の防犯ミラーの下でマリエルが言った。
「なんかもう帰らないか? 心労が半端じゃないんだけど」
自分の死の影響が予想以上に大きくて頭がついていかない。
「ダメだよ! 家族のところには絶対行かなきゃ!」
しかしマリエルは許してくれなかった。
「まあ、そこまで言うなら行くけど」
マリエルの普段は感じないよう威圧感で、俺は思わずうなずいてしまった。
一分ほど進むと、黒い屋根の家が見えた。表札の文字は『新井』。我が家である。
「正面から入るのはなんか気が引けるな」
「自分の家なのに?」
「もう何日も家に帰ってないからな。まあ正面から入っても見つからないんだけどさ」
俺はなんとなくさびしい気持ちになりながらも、親父の趣味のガーデニングの影響で小さくなってしまった庭から裏に回り、二階の窓から生前俺の部屋だった場所に入った。
「うわ、なんか予想外に片付いてる」
部屋に入って一番に口を開いたのはマリエルである。俺はそんなガサツな男に見えるのか?
「ああ、たぶん母さんの仕業だな。俺が学校行ってる間によく勝手に片づけられたんだよ」
そのせいでエロゲの隠しどころには本当に困った。結局ギャルゲの棚にそれとなく入れておくことで全部似たようなゲームであると錯覚させることで落ち着いたのだが。しかしよく見ると減っているものはない。まあたぶん整理が面倒だからだろうが、できればパソコンの破壊ぐらいはしておいてほしかった。中の画像とか履歴を見られたらやばい。……まさかもう見られてないよな?
「じゃあそろそろ下行こうか」
そう言うとマリエルは床をすり抜けようとした。
「あ、タイム。階段から降りないか?」
俺はマリエルを制止した。
「なんで?」
「いや、なんとなく。久しぶりの我が家だからさ、思い出をかみしめたいというか……」
「そっか。うん、わかった。階段で降りよう」
マリエルは正面の木製のドアをすり抜けた。俺もマリエルに続いてドアを抜けると、階段の前でマリエルが待っていた。
「降りないのか?」
「お先にどうぞ」
マリエルは微笑みながら先導を促して来た。俺はマリエルの前を、階段を歩くように降りていった。階段を降りて左に進むと居間がある。しかし居間には誰もいなかった。親父は仕事があるのでいないのはわかるが、母さんはこの時間には大抵居間で寝ているはずだ。
居間の隣にあるふすまを抜けて畳部屋に入った。電灯はついていないが、日差しがあるのでほどよく明るい。奥にこげ茶色の仏壇がある。母さんはその前で丸くなって寝ていた。
「なんだって移動したんだ……? て、風通しがいいからか」
俺が窓辺に目を向けると、すだれが少しだけ浮いた。
「この人がお母さん?」
マリエルは正座して、母さんの寝顔を見ながら言った。母さんは小さく寝息をたてている。
「ああ」
「きれいな人だね」
「そうか? 普通だと思うが」
自分の母親をきれいだなんて思ったことは一度もない。ていうかお世辞だな、きっと。
「しかし仏壇に自分の写真が置いてあるというのは、見ててなかなかつらいものがあるな」
真新しい仏壇には俺が中学野球部のユニフォームを着て笑っている写真が入れてあった。おそらく引退時の記念写真だろう。湯呑に入ったお茶も供えられていた。
「新井、何かあるよ」
マリエルが母さんの横で何かを発見した。俺はマリエルの指先に視線を移す。
「……ノート?」
そこには一冊の大学ノートの一ページ目が開いて置いてあり、その上に鉛筆が一本転がっていた。俺は一番新しい書き込みを見た。
「えーと、『隼人が亡くなって十日』……」
思わず声が止まった。そして声に出さずに黙読を始める。続きには『あなたがいなくなってから廃人のようだったお父さんも、最近やっと以前のように仕事ができるようになりました』と書いてある。
「もしかして、これって新井が死んじゃってから毎日書いてるのかな」
「いや、四日目からだな。それから毎日だ」
ページ最上段には『隼人が亡くなって四日が過ぎました。私もようやく落ち着いてきたので、これから日記をつけてみようと思います』と書いてある。俺はさらに読み進める。すると六日目に『能見』という文字を見つけた。その文章をよく読むと『能見さんがまた謝罪に来ました。私たちは、あなたのせいではないと伝えました。でも彼女には悪いですが、やっぱり本当は許せません』と書いてあった。
「大事な一人息子が死んじゃったんだもん。当然だよ」
マリエルはノートを眺めながらつぶやいた。マリエルも同じところを見ているようだ。
「でも、もう許してあげてほしいよな。弓子さんだってあんなに気に病んじゃって」
「それは難しいと思う。あの娘に責任はないとわかってても恨んじゃう。自分たちの子供が自分より早く死んじゃうなんて、それ以上の不幸はないよ。表では『私たちの息子は立派だった』なんて言ってても」
「そういえば、俺はまだ母さんたちに何の親孝行もしてないのか。逆に先に死ぬなんて親不孝をしてる。でもそれに気づいてももう手遅れということか」
俺は薄暗い天井を見上げてつぶやいた。
「もう天国に戻ろう」
「うん」
俺とマリエルは玄関から家を出て、一緒に家の前で目をつぶった。
「あら、ずいぶん早かったのね。まだ日没には三時間以上あるわよ? マリエルもお帰りなさい」
すぐに聞こえてきた神様の声で目を開けた。目の前にはきらきらした部屋が広がっている。
「で、どうだった? 久しぶりの現世の感想は」
俺とマリエルが神様に顔を向けると、神様はそう聞いてきた。
「思ったより影響が大きくて驚いたよ。俺の死でこんなに人が変わるんだなって」
「あら、そう」
神様はあまり表情を変えずに言った。
「なんかどうでもいいって感じだな」
神は無情か。
「どうでもいいとは思ってないわよ。慣れてるの。初めて現世に降りた感想はみんなだいたい同じだから。それでいちいち感傷的になっていたら神様なんてやってられないわ」
神様はため息交じりに言った。神様も大変なんだな。
「ちなみに聞いておくけどさ。神様が人を生き返らせた、みたいな感じの伝説とかあるだろ? それってできたりするのか?」
「何? 生き返りたいの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ。天国の生活は楽しいし、何の不満もないんだけどさ。いや、忘れてくれ、すまん」
俺は口に出しかけた言葉を飲み込んだ。
「できるわよ」
神様は簡単に言った。
「え、できんの? 生き返らせるの? 全然期待してなかったんだけど」
「当然よ。私、神様だもの。そんなこと造作もないわ。私が認めれば生き返らせてあげる」
「認めるって、どうやったら認められるんだ?」
「なんでもいいわ。私が生き返らせてもいいと思うほどの働きを天国で見せたら認めてあげる。まあ他にも条件があるけどね」
「条件?」
「そう。まず老死でないこと。これは老死というものが人生のタイムリミットだから。そこで生き返らせるのは自然の摂理に反する」
俺の死因は事故なのでそれはクリアである。
「そして第二に、死後二週間以内であること」
「二週間? 短いな」
「生き返らせるといっても、魂を肉体に戻すわけじゃないからね。その人が死ぬ直前に時間を巻き戻して過去を少しだけ変えるという方法で死ななかったことにするの。二週間が時間を戻しても影響が出ないぎりぎりのライン」
「なんでそんな面倒な方法使うんだよ」
普通に魂を肉体に戻してはいけないのだろうか。
「よく考えなさい。時間がたてば肉体は腐ってるか灰になってるのよ。それにもし仮に健康な肉体に戻ったとして、現代の現世で死人が甦るのを奇跡で済ませられると思う? 少なくとも生き返った本人は平穏な人生を送れなくなる」
「なるほど一理ある」
生き返ったやつが『天国で神様にあって生き返らせてもらった』なんて言ってもまず誰も信じない。確実に事故で頭をやっちゃったと思われる。
「でも過去を変えて大丈夫なのか? 俺が死ななかったことで本来は死ななかったはずの人が死ぬ、みたいなのとか。あとタイムパラドックスだっけ? そんな感じのやつ」
ゲームやアニメでこういうのをいくらか見たことがある。
「戻った後に起こったことが事実になるだけよ。難しく考えることはない。あなたを過去に飛ばすのではなく時間を巻き戻すだけだし、それに介入するのは神である私なんだから」
「要するに神様だから大丈夫ってことでいいのか?」
「そう思ってくれて構わないわ」
すごいな神様。なんでもありか。
「新井、やっぱり帰りたい?」
俺が神様とばかり話していると、マリエルが服を引っ張ってきた。
「あ、いや、そういうわけじゃねえよ。ただなんとなく気になっただけで」
「それならいいけど……」
「当たり前だろ! こんな恵まれた生活、自分から手放すわけねえよ!」
俺は笑い飛ばすように言った。
「本当?」
「本当だ、本当」
本当のはずだ。今のマリエルとの生活以上に楽しいことなんて、きっと現世にはないはずだ。だから生き返りたいなんて思うわけがない。
「無理してない?」
「してない」
「新井、嘘つくの下手すぎるよ」
マリエルは小さな声でつぶやいた。俺はそのつぶやきを聞かなかったことにした。
「さあ、もう帰ろうぜ。俺は心身ともに疲労困憊だ。じゃあな神様」
俺はそういうと、扉に向かって歩き出した。マリエルもため息をついて俺の後をついてきた。
「じゃあねマリエル。それと新井隼人、あなたもそんなに心配することはないわ。期日まではあと四日しかないんだから、そのうちにあなたが私に認められる可能性は限りなくゼロに近い」
神様は馬鹿にするように言った。
「そうだな」
「あら、『嫌味かよ』とか『馬鹿にしてんのか』とか言うと思ったけど、もしかしてあなたの中でもかなりの葛藤があるのかしら」
「そんなわけないだろ。そんなに俺を現世に帰したいのかよ。って、そういや俺がいない方がいいんだったっけ」
防衛軍に入隊させられたときにそんな会話をした気がする。
「そんなこと一言も言ってないわよ。少なくとも今はあなたがいた方がいいと思ってる。別にあなたが好きになったとかではないから勘違いしないように」
「しねえよ。神様と俺の接点なんてほとんどねえし」
いや、もし好かれてたらそれはそれで嬉しいけど。神様かわいいし。
「とにかく、あなたは余計な心配をせずに普段通りの生活をしていればいいわ。では、もう家に帰りなさい」
神様は俺とマリエルを追い出すように言った。俺とマリエルはもう一度別れの言葉を言って退室した。
ノイシュバンシュタイン城からの帰路、俺とマリエルは会話もなく並んで歩いていた。空は日が傾いて黄金色をしている。
「なあマリエル。もし俺が神様に認められて生き返る権利を得たとして、俺は生き返った方がいいと思うか?」
俺は城を出たときから用意していた質問を、正面を向いたまましてみた。
「それは、その。私は……」
マリエルは戸惑っている。突然の質問だったために返事がすぐに出なかったのだろう。きっと。
「そうだよな。そんなこと、聞く方が野暮だよな」
俺はマリエルの返答を待たず、下を向いて言った。そう、こんなことは聞く必要もない。俺の中ではとっくに答えが出ているのだ。たとえそんな権利を得たとしても、俺は天国に残る。
「マリエル、さっさと帰ろうぜ! いろいろあったから腹ペコだ!」
俺はマリエルの左腕を引っ張り、走り出した。
「うわっ、突然走り出さないでよ! びっくりするじゃない!」
マリエルは怒りながらも俺のスピードに合わせて走り出す。俺とマリエルはそのまま走って帰った。心拍数を上げながら。