第1話「解任通知は乾いていた」
解任通知は、涙の余地がないほど乾いた紙だった。
王都会計監査局第三課の机で、私は封を切る。
紙縁が指腹に触れ、薄く痛む。
痛みの方が、文面より先に身体へ入った。
『ルチア・ヴァレリを本日付で監査三課より外し、ノルデン辺境領会計顧問へ転任させる』
理由欄は空白。
空白は、いちばん高価な説明だ。
誰にも責任を持たせない形で、全部を終わらせる。
私は通知文の署名を見る。
局長印の欠け位置は本物。
偽造なら怒れた。
本物だから、怒り方が分からない。
「……本当に出すんですね」
向かい席の補助書記が、小さく言った。
彼はすぐ目を逸らし、帳簿へ視線を落とす。
「出します」
私はそれだけ返し、抽斗から私物の算盤を取り出した。
木珠の角が少し磨り減っている。
王都で積み上げた年数は、こういう場所にだけ残る。
荷物は少ない。
着替え二組、帳票袋、算盤、規程集。
泣く時間を計上していない旅支度だった。
*
王都からノルデン辺境領まで、馬車で四日。
二日目から舗装が剥がれ、三日目の宿では湯の温度が半分になった。
四日目の朝には、道端の草にまだ霜が残っている。
到着したのは昼前だった。
領主館へ向かう前に、私は会計庫へ案内される。
案内役の書記は、名をミレナと名乗った。
細い肩、速い歩幅、眠れていない目。
「荷ほどきより先に、こちらを」
彼女が会計庫の扉を押す。
冷たい空気と、紙と煤の匂いが混ざって流れ出る。
棚には帳簿がぎっしり並ぶ。
ただし奥の二列だけ、背表紙が不揃いだった。
新しい綴じ紐と古い煤汚れが同じ棚にいる。
「火事でもありましたか」
「冬に、第1倉庫が半焼しました」
私は一冊抜き取る。
表紙には『第1倉庫帳』。
焼失報告欄にだけ、別筆の補記が重なっている。
「半焼で、在庫損失は麦袋三つ?」
「……報告上は」
報告上。
この三文字は、実務で一番危ない。
私は別の台帳を開く。
北門通行許可簿。
同じ週に、同じ許可証番号が逆順で並んでいた。
四一七四。
四一七四。
数字が重なる時、現場はたいてい嘘をついている。
*
午後、領主執務室。
カイ・ノルデンは地図机の前に立っていた。
机にあるのは勲章ではなく、配送路の線引きだ。
「王都の監査官が、なぜここへ来る」
最初の問いは短い。
私は通知文を差し出す。
「来たのではなく、来させられました」
彼は一読し、机へ置いた。
顔色は変わらない。
ただ視線だけが、通知文から私へ移る。
「この領地は赤字だ。会計顧問の椅子も、名目に近い」
「名目でも、空席よりましです」
私は帳票袋から二枚の紙を出す。
北門通行許可簿の重複写し。
第1倉庫帳の損失欄写し。
「条件があります。第1倉庫帳と北門通行許可簿を、今夜中に封緘してください」
カイは黙る。
三拍置いて問う。
「私の帳簿もか」
「例外を作ると、最初にそこから腐ります」
彼は窓外を一度見て、印章を手に取った。
「例外なしでやれ」
領主印が紙へ落ちる。
重い音はしない。
だが、決裁は確かにそこへ残った。
*
封緘は日没直前に始まった。
会計庫、法務庫、兵站庫から立会を呼ぶ。
蝋を温め、票番号を読み上げ、封紐へ印を打つ。
封緘作業の途中、ミレナが私の袖を軽く引いた。
「顧問、北門の交代表です」
彼女が差し出した票には、増員欄があった。
先週だけ一名増。
理由欄は空白。
「この増員、誰の決裁ですか」
「旧会計責任者の回覧印が……」
その時、扉が開いた。
柔らかい靴音。
「はじめまして、ルチア様」
男は丁寧に一礼した。
旧会計責任者、グレゴル・ハルト。
笑っているが、目は笑っていない。
「辺境へようこそ。まずは落ち着いて、要約帳から見ていただいた方がよいでしょう。現場帳は荒れていますから」
要約帳。
その言葉だけで、喉の奥が冷える。
整いすぎた数字は、だいたい誰かが削っている。
「現場帳を先に見ます」
私は即答した。
グレゴルは一瞬だけ指先を止め、すぐ笑みを戻す。
「なるほど。監査官らしい」
「元、です」
「肩書は剥がせても、癖は剥がれません」
彼はそう言って、私の手元を見た。
赤鉛筆を持つ指へ、視線が落ちる。
「ところで、封緘は今夜中に終わりますか」
「終わらせます」
「終わらない方が、現場は助かるのですがね」
私は返事をしない。
返事より先に、票へ印を打つ。
赤い小印がひとつ、欄外に増える。
第一の赤印。
*
封緘が終わったのは、第八刻を少し回った頃だった。
会計庫の灯は一つだけ残し、他は落とす。
私は机へ戻り、北門通行許可簿を開く。
四一七四の重複行をもう一度追う。
荷姿欄が微妙に違う。
塩袋二十。
機械部材三箱。
同じ番号で、違う中身。
その下の行に、薄い擦り跡。
誰かが一度別の数字を書き、消している。
私は算盤を弾く。
珠が一つ、乾いた音で跳ねる。
扉の下から、紙切れが滑り込んだ。
私は立ち上がらず、足先で止める。
拾い上げる。
短い文。
『王都へ戻る道はまだある。深追いするな』
裏面に、薄い香油の染み。
さきほどのグレゴルの袖口と、同じ匂いだった。
脅しは、証拠になりにくい。
けれど、経路の痕にはなる。
私は紙片を証拠袋へ入れ、封をした。
袋の端に、赤鉛筆で小さく印を打つ。
第二の赤印。
会計庫の窓を開けると、夜気が紙を揺らした。
辺境の夜は王都より暗い。
暗い分だけ、灯りの位置はよく見える。
遠く、北門側で灯りが一つ動いた。
時刻は第八刻二十三分。
交代表では、誰も動かない時間だった。
私は時刻を記録する。
疑義欄へ追記。
北門、規程外移動、一件。
まだ始まったばかりだ。
それでも、始まり方としては悪くない。
数字が、すでに何かを喋っている。




