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赤字領地に飛ばされた会計官、公開照合で汚職網を断ったら契約の婚約が再定義されました  作者: 夜摩 高嶺
第一章「乾いた解任通知」

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第1話「解任通知は乾いていた」

 解任通知は、涙の余地がないほど乾いた紙だった。


 王都会計監査局第三課の机で、私は封を切る。

 紙縁が指腹に触れ、薄く痛む。

 痛みの方が、文面より先に身体へ入った。


『ルチア・ヴァレリを本日付で監査三課より外し、ノルデン辺境領会計顧問へ転任させる』


 理由欄は空白。

 空白は、いちばん高価な説明だ。

 誰にも責任を持たせない形で、全部を終わらせる。


 私は通知文の署名を見る。

 局長印の欠け位置は本物。

 偽造なら怒れた。

 本物だから、怒り方が分からない。


「……本当に出すんですね」


 向かい席の補助書記が、小さく言った。

 彼はすぐ目を逸らし、帳簿へ視線を落とす。


「出します」


 私はそれだけ返し、抽斗から私物の算盤を取り出した。

 木珠の角が少し磨り減っている。

 王都で積み上げた年数は、こういう場所にだけ残る。


 荷物は少ない。

 着替え二組、帳票袋、算盤、規程集。

 泣く時間を計上していない旅支度だった。



 王都からノルデン辺境領まで、馬車で四日。

 二日目から舗装が剥がれ、三日目の宿では湯の温度が半分になった。

 四日目の朝には、道端の草にまだ霜が残っている。


 到着したのは昼前だった。

 領主館へ向かう前に、私は会計庫へ案内される。


 案内役の書記は、名をミレナと名乗った。

 細い肩、速い歩幅、眠れていない目。


「荷ほどきより先に、こちらを」


 彼女が会計庫の扉を押す。

 冷たい空気と、紙と煤の匂いが混ざって流れ出る。


 棚には帳簿がぎっしり並ぶ。

 ただし奥の二列だけ、背表紙が不揃いだった。

 新しい綴じ紐と古い煤汚れが同じ棚にいる。


「火事でもありましたか」


「冬に、第1倉庫が半焼しました」


 私は一冊抜き取る。

 表紙には『第1倉庫帳』。

 焼失報告欄にだけ、別筆の補記が重なっている。


「半焼で、在庫損失は麦袋三つ?」


「……報告上は」


 報告上。

 この三文字は、実務で一番危ない。


 私は別の台帳を開く。

 北門通行許可簿。

 同じ週に、同じ許可証番号が逆順で並んでいた。


 四一七四。

 四一七四。


 数字が重なる時、現場はたいてい嘘をついている。



 午後、領主執務室。

 カイ・ノルデンは地図机の前に立っていた。

 机にあるのは勲章ではなく、配送路の線引きだ。


「王都の監査官が、なぜここへ来る」


 最初の問いは短い。

 私は通知文を差し出す。


「来たのではなく、来させられました」


 彼は一読し、机へ置いた。

 顔色は変わらない。

 ただ視線だけが、通知文から私へ移る。


「この領地は赤字だ。会計顧問の椅子も、名目に近い」


「名目でも、空席よりましです」


 私は帳票袋から二枚の紙を出す。

 北門通行許可簿の重複写し。

 第1倉庫帳の損失欄写し。


「条件があります。第1倉庫帳と北門通行許可簿を、今夜中に封緘してください」


 カイは黙る。

 三拍置いて問う。


「私の帳簿もか」


「例外を作ると、最初にそこから腐ります」


 彼は窓外を一度見て、印章を手に取った。


「例外なしでやれ」


 領主印が紙へ落ちる。

 重い音はしない。

 だが、決裁は確かにそこへ残った。



 封緘は日没直前に始まった。

 会計庫、法務庫、兵站庫から立会を呼ぶ。

 蝋を温め、票番号を読み上げ、封紐へ印を打つ。


 封緘作業の途中、ミレナが私の袖を軽く引いた。


「顧問、北門の交代表です」


 彼女が差し出した票には、増員欄があった。

 先週だけ一名増。

 理由欄は空白。


「この増員、誰の決裁ですか」


「旧会計責任者の回覧印が……」


 その時、扉が開いた。

 柔らかい靴音。


「はじめまして、ルチア様」


 男は丁寧に一礼した。

 旧会計責任者、グレゴル・ハルト。

 笑っているが、目は笑っていない。


「辺境へようこそ。まずは落ち着いて、要約帳から見ていただいた方がよいでしょう。現場帳は荒れていますから」


 要約帳。

 その言葉だけで、喉の奥が冷える。

 整いすぎた数字は、だいたい誰かが削っている。


「現場帳を先に見ます」


 私は即答した。

 グレゴルは一瞬だけ指先を止め、すぐ笑みを戻す。


「なるほど。監査官らしい」


「元、です」


「肩書は剥がせても、癖は剥がれません」


 彼はそう言って、私の手元を見た。

 赤鉛筆を持つ指へ、視線が落ちる。


「ところで、封緘は今夜中に終わりますか」


「終わらせます」


「終わらない方が、現場は助かるのですがね」


 私は返事をしない。

 返事より先に、票へ印を打つ。

 赤い小印がひとつ、欄外に増える。


 第一の赤印。



 封緘が終わったのは、第八刻を少し回った頃だった。

 会計庫の灯は一つだけ残し、他は落とす。


 私は机へ戻り、北門通行許可簿を開く。

 四一七四の重複行をもう一度追う。

 荷姿欄が微妙に違う。

 塩袋二十。

 機械部材三箱。

 同じ番号で、違う中身。


 その下の行に、薄い擦り跡。

 誰かが一度別の数字を書き、消している。


 私は算盤を弾く。

 珠が一つ、乾いた音で跳ねる。


 扉の下から、紙切れが滑り込んだ。


 私は立ち上がらず、足先で止める。

 拾い上げる。

 短い文。


『王都へ戻る道はまだある。深追いするな』


 裏面に、薄い香油の染み。

 さきほどのグレゴルの袖口と、同じ匂いだった。


 脅しは、証拠になりにくい。

 けれど、経路の痕にはなる。


 私は紙片を証拠袋へ入れ、封をした。

 袋の端に、赤鉛筆で小さく印を打つ。


 第二の赤印。


 会計庫の窓を開けると、夜気が紙を揺らした。

 辺境の夜は王都より暗い。

 暗い分だけ、灯りの位置はよく見える。


 遠く、北門側で灯りが一つ動いた。

 時刻は第八刻二十三分。

 交代表では、誰も動かない時間だった。


 私は時刻を記録する。

 疑義欄へ追記。

 北門、規程外移動、一件。


 まだ始まったばかりだ。

 それでも、始まり方としては悪くない。

 数字が、すでに何かを喋っている。


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