8
ラッセル・ハヴェストがカルデローネ家のタウン・ハウスを訪れたのは、セシリアが帰宅した翌日の事だった。
来客を知らされたセシリアはリタに寝台から引っ張り出され、押しつけられた深い青のドレスと空色のペチコートに着替える。顔を洗い、髪を梳ってもらうと、ようやく頭がはっきりとしてきた。
「おはようセシリー」
「おはよ、リタ。なんでこんなに朝早くからあたしは起こされたの?」
首を傾げると、リタが呆れたようにため息をつく。
「……あんた寝ぼけてたの? 来客よ、来客。王宮から王子様が来てるの。あんたと二人きりで話をさせろってうるさくて、エドマンド様達も困ってるのよ」
その言葉にセシリアはそっか、と頷きかけ、
「……王子様!?」
一気に目が覚めた。
さあっと血の気が引いていく。
セシリアが帰って来てまだ一日しか経っていないというのに、なんて行動の早い王子様だ。まだ気合いも作戦も不足しているというのに!
(……寝台に戻りたい)
ふかふかの寝台に沈みたい。枕を抱きしめて、毛布にくるまって、朝の光を浴びながら微睡みたい。
「……まだ寝てちゃだめかな」
「だめに決まってるでしょ」
やっぱりだめか。とても残念だ。
リタにずるずると引きずられるように廊下を進み、階段を下りて二階の客室に向かう。本来ならば応接間に通すべきなのだが、来客の予定があるため、客室に通したとの事だった。
でんとそびえる扉は、いつになく威圧感を放っている。
「……お部屋に戻りたい」
ぽつんと呟くと、後ろに控えていたリタにばしっと背を叩かれる。
「戻っても良いけど、いつまでもギルバート様と結婚できないんじゃないの?」
それはいやだ。
「さっさと諦めてもらわないと困るのはセシリーでしょ。昨日の気合いはどこに行ったわけ?」
「……置いて来ちゃったかも?」
「……あんたね」
腹がくくれずにぐずぐずとしていると、焦れたリタがおもむろに扉に手をかけた。
目の前で音もなく開く扉を眺め、セシリアはごくりとのどを鳴らす。
この先に、王子様がいる。
握りしめた拳は、氷のように冷たかった。指先を擦り合わせようとして、手が震えている事に気づく。
(……ああ、そっか)
セシリアは、ラッセルに会うのが怖いのだ。
「……ギルバート様」
冷たくなった手を組み合わせ、祈るように呟く。
大丈夫だ。ギルバートは、セシリアがまた閉じこめられたら迎えに来てくれると言った。遅くはなったけれど、王宮から逃げ出した時も迎えに来てくれた。
だから、大丈夫。
「……お久しぶりです、王子様」
やや掠れた声で言葉を紡ぎ、セシリアは顔を上げた。
朝の光がたっぷりと差し込んだ客室は掃除が行き届いており、優美な曲線を描くテーブルや美しい浮彫の刻まれた家具類は、つややかな光を纏っている。
中央に据えられたソファに腰かけていた男が顔を上げるよりも早く、側に控えていた少女が駆け寄ってきた。
「セシリー!」
「ヴェロニカ!?」
思ってもみなかった再会に声を上げ、セシリアは抱きついてくる彼女の背に腕を回す。
「どうしてここに!?」
「殿下の付き人としてです。わたし以外に手が空いている人がいなくて……という事にしました。とりあえずは無事で良かったです」
後半の部分を、こそこそと耳元で囁かれる。
『共同戦線を張りましょう』
彼女の言葉を思い出し、セシリアははっと息を飲んだ。
『これはあなたとわたしの謀』
『わたしはわたしのために、あなたはあなたのために動くのです』
そうだ。
この場にはギルバートやエドマンド達はいないけれど、ヴェロニカがいる。セシリアが本当に困ってどうしようもなくなれば、きっと彼女は何か道を示してくれる。
だからセシリアは、自分にできるところまでがんばるのだ。
これは勝手に突っ走って逃げ回った結果だ。セシリアはけじめをつけなければならない。
「……がんばる」
ぽつんと呟いて拳を握りしめると、ヴェロニカがかすかに笑うけはいがした。
「はい、がんばって下さい」
その言葉に頷く。
「ヴェロニカ、彼女から離れろ」
つかつかと足音を立てて近寄ってきたラッセルが、眉間にしわをよせてヴェロニカの肩を掴んだ。そのまま二人を引き離し、セシリアの腕を掴む。
「……あ、鷹だ……」
「……あなたまでセシリーと同じ事を……」
ぽつんと呟いたリタに、ヴェロニカが呆れたような視線を向ける。
腰に手を添えられ、ぐっと引き寄せられた。彼の胸元に頭を押し込まれ、息が詰まりそうになる。
「無事だったか……!」
セシリアを抱え込み、彼は心底安堵したように呟いた。
「まさか王宮から逃げ出すとは思わなかったが、……なんともお前らしいな」
「それはどうも……って放して下さい!」
じたばたと暴れて逃れようとするが、彼は全く意に返さない。
そうこうしている間に、意地悪く笑う顔が近づいてきた。唇は弧を描いているが、金色の瞳には、炎のように怒りが揺らめいている。
(ひぃいいいいい……!)
思わず硬直しかけたが、口づけられそうになっている事に気づいたセシリアは慌てて手を伸ばした。
彼の口を手で覆い、ぐいぐいと力の限りに押し返す。とりあえず口を押さえておけば口づけはされない。我ながら良い考えだ。
「はな、して、くだ、さいっ、てば!」
踵で思い切り彼の足を踏みつける。ぐりぐりと体重を込めて抉れば、さすがのラッセルもたじろいだようだった。
その隙に彼の腕を逃れ、さっと距離を取る。視界の端に映り込んだリタが、良い笑顔で親指を立てていた。踵が痛くなるからと渋るセシリアにヒール靴を押しつけたのは、このためだったらしい。
(さすがリタ、えげつない! でも助かった!)
心の中でリタに喝采を送り、セシリアは再びラッセルと対峙した。今度はきちんと距離を取って、彼の接近を許さない構えだ。
「率直に言います王子様! お妃様になりたくないです! あと王子様の事は好きじゃないです! 婚約の話取り消して下さい!」
「断る」
「こっちもお断りです!」
ほう、とラッセルが目を眇める。なんだかますます鷹っぽい表情だ。獲物を見つけて滑空する直前の鷹だ。獲物は言うまでもなくセシリアである。
「俺はお前が欲しい。愛している。不満か?」
「不満じゃないですよ! 嬉しくないだけで!」
「好きなだけ贅沢ができるぞ」
「別に良いです」
「美味いものが好きなだけ食えるぞ」
「…………お、王子様と食べても美味しくないです」
危ない、ちょっと揺らぎかけた。
リタとヴェロニカの呆れたような視線が胸に突き刺さる。
じりじりと後退り、一定の距離を保つ。
背がひんやりとしたものに触れる。セシリアは後ろ手に窓を開け放ち、そのままテラスに出た。今日は風が強い。
「大体、どうしてあたしなんですか! 王子様ならよりどりみどりでしょう!」
「俺がお前を愛しているからだ。お前は見るたびに口づけたり抱きしめたりそれ以上の事もしたくなるが、他の女達は見ても何とも思わん」
それはそれで問題ではないだろうか。それ以上って何だ。聞いてはいけない気がする。
「こんなに嫌がってるのに無理強いするなんておかしいです! 悪人です! 極悪人です!」
「お前が泣いたり暴れたりしているのを見ると征服欲が湧くんだ」
変態だ! 変態の王子様だ!
頭をガツンと殴られたような気分だった。ラッセルから見えないのを良い事に、リタもどん引きしている。ヴェロニカの顔も引きつっている。
「とにかく! あたしは絶対、絶対、ぜええええったいに、お断りです!」
「シルワ子爵がいるからか?」
「そうです!」
ぎゅっと拳を握りしめて、セシリアは叫んだ。
「あたしはギルバート様と結婚するんです!」
ふっとラッセルの瞳が細められ、口の端が吊り上がる。
「何度も言っているだろう。お前達の家は仲が悪い。結婚などできるものか」
「できます!」
きっと彼を睨みつける。
「カルデローネ家は、ギルバート様との婚約を認めました!」
ちなみにヴィヴィアンとパトリシアの入れ知恵でエドマンドに誓約書を書かせ、昨日の間にアーネッド家に預けてある。レイラが「命に替えてでも守り通して見せますわ」と言っていたので、ラッセルが取り上げようとしても不可能だ。
「誓約書も書いてもらいました!」
「まさか」
ラッセルが鼻で笑って足を踏み出す。セシリアはさらに数歩下がった。
「嘘ならもっとまともな事を言え、セシリア。まさかあの石頭の伯が認めるわけが……」
「認めて誓約書も書きましたよ、殿下」
「……なんだと?」
不意にラッセルが足を止め、振り返った。セシリアも部屋の中に視線を向け、いつの間にか佇んでいるエドマンド達を見つける。
「ですから、わたしは認めましたよ、殿下。カルデローネ家は、セシリアとシルワ子爵の婚約を認めました」
いささかげっそりした様子のエドマンドの横で、クラレンスとパトリシアがうんうんと頷いている。ヴィヴィアンの姿は見えない。
「……ばかな」
「近々正式な書類を提出いたしますわね、殿下」
愕然と呟くラッセルににっこりと笑いかけ、パトリシアが扇を開いた。流れるような仕草で床を指し、挑戦的な眼差しをラッセルに送る。
(……やりすぎですお祖母様……!)
彼の額に青筋が浮かんだ事に気づき、セシリアは引きつった笑みを浮かべた。開いた扇で床を示すのは、軽蔑を現す仕草だ。王子様に向かって、堂々と喧嘩を売っているのだ。
「もちろん、受理、していただけますわよね?」
輝くような笑顔で、念を押すようにパトリシアが言葉を句切る。
「聡明で素晴らしいお人柄と噂の殿下が、当家の大切な姫を軟禁して迫った挙げ句に当主を石頭と愚弄し、その上さらに帰ってきた彼女の幸せを壊したりは、し・ま・せ・ん・よ・ね?」
さすがにエドマンドとクラレンスが顔を引きつらせているが、彼女はさっくりと無視した。栗色の瞳を細め、貴婦人然と佇む彼女は、なんだかとても……迫力がある。
ラッセルが気圧されたように後退った。条件反射のようにセシリアも後退ると、腰に手すりがぶつかる。もう下がれない。
書類を受理するという事は、セシリアとギルバートの婚約を認めるという事だ。同時に、ラッセルがセシリアを諦めるという事でもある。
だからきっと、彼は簡単に受理しない。この場で受理すると言っても、口約束なら簡単になかった事にできてしまう。
(どうしたら……)
「俺は――」
ラッセルが口を開く。
ぴこーんと閃いたのは、その瞬間だった。




