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「王子様!」
彼の言葉に被せるように叫び、セシリアは手すりに腰を下ろした。そのまま足を上げ、くるりと体の向きを変える。
足を手すりの外に出してから体を捻って振り返り、にっこりと笑ってみせた。
「……わたしの事、諦めてくれますよね?」
ぎょっとしたように見開かれた金色の瞳を見つめる。
「じゃないとここから、飛び降りちゃいますから!」
「セシリア!?」
ぶらりと足を揺らすと、ヒール靴が片方脱げた。放物線を描いた靴は、そのまま地面へと落ちていく。
「あ、近づかないで下さい」
慌てて駆け寄ろうとしたラッセルに、セシリアは強い声で言い放った。もう片方のヒール靴を爪先に引っかけてぽーんと蹴り飛ばせは、彼はぴたりと動きを止める。顔色が悪い。
「さすがの王子様も、死体のお妃様なんて嫌ですよねぇ?」
ぷらぷらと足を揺らしつつ、満面の笑顔で問いかける。硬直したエドマンドとクラレンスの後ろで、ため息をついたリタがヴェロニカを引っ張って部屋を出て行くのが見えた。
「待てセシリア、落ち着け、お前が死んだところでなんの意味もないだろう!」
ずいぶんな言い方だ。
「お妃様にならずに済みます」
ぐっと身を乗り出し、眼下に広がる芝生や植え込みを眺める。
(……うん、ドレスでもこのくらいならいけそう)
いざという時には本当に飛び降りる算段をつけつつ、セシリアはラッセルに顔を向けた。
「で、王子様。諦めてくれるんですか?」
背後でパトリシアが「よくやった!」とばかりに親指を立てている。
「ああ……!」
反対の手に持った扇で立てた親指を隠し、彼女は悲痛な声を上げた。
「どうしましょう、わたし達のセシリーがこのままでは死んで……いいえ、殿下に殺されてしまうわ!」
またまたぶっ飛んだ事を言い始めた御仁である。
「この高さから飛び降りたら死んでしまうわ! 殿下が伯爵令嬢に望まぬ婚姻を迫った挙げ句に殺してしまうなんて、なんという醜聞なのかしら……!」
はきはきとした口調で言い放ち、パトリシアはよよと泣き崩れた。
「王宮に軟禁しただけでも許し難いというのに、必死に拒む令嬢に無体を働こうとするなんて、本当にとんでもない方だわ! もしセシリーが殺されてしまったら、わたし、きっと社交界に出るたびに思い出して泣いてしまうでしょうね……」
(……えっと、悪い噂をばらまくぞ、って事?)
恐るべしお祖母様だ。王子様よりもすごい。
感心しつつ庭を見下ろすと、まっさらなシーツを抱えたリタが、ヴェロニカを連れて庭に出るところだった。ひらひらと手を振るセシリアに、ヴェロニカが肩を竦める。
「で、王子様。どうなんです?」
ぴしりと硬直したラッセルに向かって、セシリアは再度問いかけた。庭ではリタとヴェロニカが待機している。声をかければ、庭師や他の使用人達も駆けつけてくれるだろう。飛び降りる準備は万端だ。
黙りこくったラッセルの様子を窺いつつ、庭へと視線を向ける。
門が開き、一台の馬車が入ってくるのが見えた。玄関広間で止まった馬車の扉が開き、そこからヴィヴィアンと――
「ギルバート様!?」
思わず声を上げ、セシリアはさらに身を乗り出した。馬車から降りたギルバートが顔を上げ、ぎょっとしたように動きを止める。
「セシリア!?」
「セシリー!?」
ギルバートの叫びとヴィヴィアンの悲鳴が重なった。慌てて眼下まで駆け寄ってくる二人に視線を取られた瞬間、ふと背後にけはいを感じる。
「セシリー!」
パトリシアの声を聞き、セシリアはとっさに体を捻った。ラッセルがセシリアへと手を伸ばし、腕を掴もうとする。
それをがむしゃらに振り払った瞬間、一際強く風が吹いた。慌てて体勢を立て直そうとしたが、遅い。
(やば……!)
一瞬の浮遊感が全身を襲う。
直後に手を掴まれ、一拍遅れて肩に衝撃が走った。振り子の要領で体が揺れ、体が外壁にぶつかりそうになる。
「セシリア!」
真っ青になったラッセルが、セシリアの手を掴んでいた。
彼はセシリアを引き上げようとしたが、体勢が不安定な上に、ドレスが邪魔になって上手くいかない。
(……飛び降りた方が早いかも)
そんな事を考えつつ、セシリアはラッセルを眺めた。
「わ、分かったから手を伸ばせ! 死んだらどうする!」
「お墓に入ります」
「そういう意味ではない!」
彼とは違い、いまいち危機感を感じられないセシリアである。
スプーンより重たいものを持てない深窓の令嬢ならぽっくりと逝ってしまいそうだが、セシリアならせいぜい擦り傷とねんざ程度だろう。頭から落ちなければ問題ない。
「セ、セセセセシリア!? 殿下!?」
「ギルバート様、お義姉様、おはようございますー!」
そういうわけで、セシリアは足元まで駆け寄ってきたギルバート達に平然と挨拶した。
「何をのんきな!」
ラッセルの言葉は、さっくりと無視する。
「何やっているの!?」
「交渉? です、多分。ギルバート様こそ、今日は午後に来る予定じゃ……」
「ヴィヴィアン様からの早馬で殿下が来ると聞いて駆けつけたんだよ! 馬車で迎えまでしていただいて!」
なるほど、だからヴィヴィアンの姿が見えなかったのか。
「ていうか大丈夫なのセシリア! のんきに話しているけど!」
「あたしは大丈夫ですー! ちょっと待ってて下さい!」
こくこくと頷くギルバートを見てから、頭上へと視線を戻す。
「何をしているセシリア、早く手を伸ばせ!」
焦ったように声をかけてくるラッセルを見つめ、セシリアは口を開いた。
「王子様、わたしを諦めてくれますか?」
「そんな事を言っている場合か!」
「言っている場合です。わたしにとっては大切な事ですから」
にっこりと笑ってみせる。
「で、王子様、どうなんですか?」
「……」
途端に彼は口を閉ざした。セシリアは顔をしかめる。面倒な王子様だ。
仕方がないので、外壁を軽く蹴ってみる。
体を揺らしたセシリアを見下ろして、ラッセルが顔を引きつらせた。
「わたし、本気ですよ?」
もう一度外壁を蹴ると、ラッセルは追いつめられたような表情で頷いた。
「わ、分かった!」
「何が分かったんですか?」
首を傾げる。
「お前を妃にする事を諦める!」
「それだけですか?」
ぶらんぶらんと体を揺らす。
「……フォルテ家との婚姻を認める!」
「誓約書を書いてくれます? それをカルデローネ家とフォルテ家に誓えます?」
「分かった書く! 誓う! だから手を伸ばせ!」
(よし!)
心の中で拳を握りしめ、セシリアは歓声を上げた。
「分かりました」
真面目な顔で頷き、眼下ではらはらと見守っている使用人達やギルバートへと視線を向ける。
「ギルバート様ー!」
不安そうに揺れる琥珀の瞳を見つめて、セシリアは微笑んだ。
「今の、聞こえましたかー?」
「き、聞こえた!」
「お祖父様達も、聞いてましたかー?」
「もちろんですわセシリー!」
「エドとクレアは腑抜けていて聞いていないかもしれませんけれど、わたしは聞いたわよ」
ふむ、と頷く。
セシリアは頭上のラッセルを見上げ、目の前の外壁を眺め、それから眼下のギルバートへと視線を下ろした。
大丈夫、いけそうだ。
「じゃあギルバート様、飛び降りますので受け止めて下さいね!」
そう口にするなり、セシリアは思いきり外壁を蹴った。
同時に、ラッセルの手に爪を立てる。
「……っ!」
ラッセルの手が、セシリアから離れた。
つかの間の浮遊感、そして落下。
目の覚めるような青色のドレスが、きらきらと輝く金茶の髪が、風を纏ってふわりと広がる。爽やかな空気がセシリアを包み込み、温かな日差しが一瞬だけ視界を白く染めた。
次の瞬間、セシリアの体は受け止められる。色が戻ってきた視界いっぱいに、大好きな琥珀色が広がっていた。
「やりましたギルバート様!」
自分を横抱きにするギルバートへと腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
「これでカルデローネ家も王子様も、全部解決です!」
謀は、成功したのだ。
しばしぽかんとしていたギルバートが、その言葉に噴き出した。
「……まったく、君って人は……」
きょとんとしていると地に下ろされ、強く抱きしめられる。
瞳を伏せると、柔らかなものに唇を塞がれた。甘酸っぱさが胸に広がり、幸せが込み上げる。
唇が離される。
「本当に、とんでもないお姫様だ……!」
瞳を開けば、とろりととろけた琥珀の瞳が、これ以上ないほど優しく笑っていた。
自分の手をいとも簡単にすり抜けていった少女を、ラッセルは呆然と見下ろした。
庭では、彼女とシルワ子爵が使用人達にもみくちゃにされている。
「殿下」
自分を呼ぶ声に振り向けば、いつの間に戻ってきたのか、ヴェロニカが扉の前に佇んでいた。
「……誓約書、だったな」
そう口を開けば、彼女は問うように顔を覗き込んでくる。普段はさざなみ一つ立てない緑の瞳が、珍しく感情を露わにしていた。
心配、されているのだ。
ふっと口元を緩める。
じわじわと広がっていく喪失感は、多分、まだそれが受け入れられないからだろう。しかし胸はかすかに軋むだけで、痛みを訴える事はない。
嵐の後に広がる突き抜けた青い空を見上げた時にも似た、何とも言えない感覚だった。
「……あそこまでされたら、お手上げだ」
彼女は己の望むものをもぎ取って、彼の元へと舞い降りてしまったのだ。
本当にかしましくて、強かな少女だ。
「……多分」
セシリア達を見下ろしていると、ヴェロニカがぽつんと口を開く。
プラチナブロンドに覆われたつむじを眺めていると、彼女はぎこちなく言葉を紡いだ。
「セシリーは幸せを掴みたいのです。もらうのではなく、自分の手で」
だからラッセルは彼に敵わないのだと、そう告げられた気がした。
自分がしたのは、彼女の羽をもいで、籠の中に閉じこめる事だったのだから。
「……そうか」
「はい」
ヴェロニカが頷く。
「それを好ましく思う方もいるでしょう。けれど、セシリーは嫌がった。それだけの事です」
これは叱られているのだろうか、それとも慰められているのだろうかと。
ヴェロニカの事をよく知らないラッセルには、考えても分からなかった。彼女は長らく侍女として勤めているが、己の意見を口にするのは初めてのような気がする。
「……ヴェロニカ」
優秀な侍女の名を呼び、ラッセルは口を開く。
「誓約書を書いたらさっさと帰るぞ。あのじゃじゃ馬は手に負えない」
その言葉に、いつだって側に控えている彼女は、ほんのりと笑った。




