先に、すすめ
「こんにちは、入ってもいい?」
カウベルの大きな音に隠れるような、小さな声。カウンターには先客がいた。結衣が探しもの屋に出入りを許されているのは、本来のお客の邪魔をしないからだ。カウンターにいるのが探しものをしている客なら、結衣は入れない。だが、今日の客は見たことがある。
「ああ、こんにちは。私はすぐにお暇しますから、どうぞどうぞ」
笑って自分の隣の椅子を引いてくれたのは、この町にただ一軒のケーキ屋の店主だ。甘いものが好きな雄大のお気に入りで、この町に来たばかりのころは休みのたびに買いに行った。
「ありがとうございます」
「いいえ、可愛らしい赤ちゃんですねぇ。見かけないからどうしたかな、と思っていたんですけど、会えて良かったです」
店に行ったのなんて、翔太が産まれるよりも随分前なのに、覚えていてくれた。
柔らかく微笑んで翔太を指で触れるしぐさを見せた男性は、触れることまではしなかった。
「触れたら、壊れてしまいそうでね。おかしいでしょう? 小さな子供が、怖いんです」
「いえ、おかしくは、ないです」
結衣だって、初めて翔太を抱いた時は怖いと思った。他人の子が怖いのが、どうしておかしいと言うのだろう。
「あの、なにを、探しているんですか? 聞いたら、ダメですか?」
意を決したように問いただした結衣に、男性は面食らったように目を丸くして、すぐにクスクスと笑いだした。
「残念ながら、僕は探しもの屋のお客さんではないんですよ。商店街の、役員です。今度の集まりの事で、ちょっと伺っただけなんです」
「そう、ですか……」
「じゃぁ、僕はこれで。探しもの、見つかると良いですね」
「……あ、はい」
カウベルの重い音色と共に、男性は明るい世界に帰っていった。薄暗い探しもの屋に、翔太と2人。空気が重いと感じるのは、結衣の気のせいなのだろうか。
「結衣さん、探しものですか?」
カウンターの中で、薫がコーヒーメーカーのスイッチをいれながら声をかける。
口に出してしまったら、もうここには来れないかもしれない。結衣は大きく息を吸い込んだ。
「はい、探しものです。私の、一人の、翔太のいなかった時間を探してほしいの」
「……」
静かな声に反応するように、ルナの長い尾がピシりとテーブルを叩いた。月色の瞳と薄く小さな耳は、真直ぐに結衣に向けられている。
「もう少し、詳しく伺いたいのですが、よろしいでしょうか」
「はい」
もう、戻ることは出来ない。
「私、母親の再婚から逃げて一人暮らしをして、仕事から逃げて雄大にくっついてここに来て、出産を決めるプレッシャーから逃げて、雄大と結婚して翔太を産んだんです」
「ええ」
「ずっと、逃げてばっかり。でも、逃げないで頑張っていたら、ともずっと思っていて。逃げなかったら、今頃はママなんかじゃなくって、一人暮らしして、働いて、上司の愚痴言いながら友達と飲んだり、合コンとかにも行ってみたり、普通に21歳らしい遊びとか仕事とかしているんじゃないかって思うんです」
「そうですか」
「だから、翔太のいない時間を探しているの。自分じゃ探せないから、お願い」
「……探しものは出来ますが、魔法ではありませんので過去に戻る事は出来ません」
「わかっている。だから、翔太のいない未来を探したいの。私一人で、生きていく方法を……」
「……翔太君から、逃げるのですか?」
「そう。逃げるの。翔太からも雄大からも、私じゃ母親になんてなれない、もう、逃げたいの」
「未来の探しものは、できません。それは私ではなく、あなたが探す事のできるものです」
「……そう」
項垂れながらも、そうがっかりとした姿には見えないのは、最初から期待していなかったのだろう。そんなことができるなんて、思っていたわけではない。ただ、言葉にして吐き出したかったのだ。
「これからの、翔太君のいない人生をイメージして下さい。あなたは、何をして、どこにいるのでしょう?」
「翔太のいない、人生……」
翔太が居なくても、雄大と一緒にこの町には来ていた。あの時、翔太が出来なければきっと雄大とは別れていただろう。だからと言って、母の元には行けない。それなら、ここで仕事を続けて、一人暮らしをして、同僚とお酒を飲んだりカラオケに行ったり、仕事なんて辞めたい!って愚痴を言って、合コンだって行くだろう。
そんな、当たり前に見える日常が全てキラキラと輝いて見える。
「きっと、楽しいんだろうな」
「そうですか。では、そのように生きるにはどうしたらいいのでしょう」
目の前に置かれたコーヒーが、ユラユラと揺れる。翔太のいない人生を、楽しいとしか思えない自分はきっと母親には向いていない。
わかっている。
探しもの屋を出てから、向き合って抱いているはずの翔太を見ることができない。
翔太なんていなければいい、そんなことを思ったことの罪悪感、その気持ちを打ち消す事の出来ない自分の薄っぺらい母性に、情けなさが募る。
私の気持ちは、もう決まっている。
「ただいまぁ」
気まずそうな雄大の声。喧嘩の後はいつもこの声で帰ってくる。
「おかえり、ご飯は?」
なんとなく、いつも喧嘩の後は雄大の好物を並べることにしている。
「あ、ああ。食べる。食べながら?」
「ううん、食べ終わってからでいい。私、翔太と遊んでいるから食べちゃって」
お腹が空いていて冷静じゃなかったなんて言われたら、たまらない。
部屋の中は、昨夜の公園よりも冷えている気がする。昨夜の探しもの屋で飲んだのを真似してジンジャーミルクティーをいれるが、胸の冷えは収まらない。
部屋が暖かくても、身体が暖かくても、雄大といると、心が冷えていく。
どうして、いつからこんな風になってしまったんだろう。
冷えた胸をごまかすように、まだ熱いジンジャーミルクティーを一気に飲み干して翔太とテレビを見る。今夜の翔太は、簡単には寝そうにない。
普段はしない、食器洗いまでした雄大がテーブルに座る。仕方ない。逃げきれない。覚悟を決めてテーブルのそばに立って身体を揺らす。
「座って抱くと翔太が泣くから、このままでいい?」
「あ、ああ」
そうだよな、といってぽつりぽつりと話し始めた。
「結衣が、大変なのはわかっている。でも、俺も仕事始めたばっかりで、同期の奴らが先輩や上司に呑みに連れて行ってもらっているのに、俺だけ行かなかったら、ちょっと気まずいんだ。これから仕事を続けて二人を養っていくのに、今は家の事は結衣に頑張ってもらいたい。勝手なのはわかっている。休みの日は、なるべく手伝うから」
ほら、やっぱり。
わかって欲しい、譲って欲しい。そんな言葉を悪気もなくぶつけてくる雄大に、胸の中で舌打ちをする。自分は譲れない。頑張って欲しい。俺は働いているんだから。
そんな言葉を並べることが、話し合いになるのだろうか。
でも、人の事ばかり言えない事もわかっている。
もっと早く帰って、翔太のお世話を手伝って、家事を手伝って、私だって家事と育児で大変なんだから。
結衣が雄大に伝えたいことも、同じなのだ。
結局、似た物夫婦なのだろう。
「雄大の気持ちは、わかったよ。思う存分仕事をしたい、んだよね?」
「……ごめん、勝手言って」
「ううん、いいの。じゃぁ、私も、勝手なこと言ってもいい?」
「……うん」
話し合いと言った手前、聞かなくちゃいけないけど、結衣の要望受け入れる気なんて欠片もないのだと言うように、雄大の視線が泳ぐ。結衣の言葉はわかっている。どうやってごまかそう、というのは目に見えてわかる。
「あのね、離婚したいの」
「……は?」




