やりなおしたい
目が覚めた結衣は、泣いていた。薫の上着もソファーも涙でぐっしょりと濡れている。夢を見たのだろうが、内容はどうしても思い出せない。
ただ、暖かく、柔らかく、そして悲しい夢だった。
翔太はまだ眠っている。時計のないこの店では今が何時なのかわからないが、外からは物音が聞こえてくるので夜ではないのだろう。薫から借りた上着をカウンターチェアにかけてスモークの張った窓を覗き込む。外からは見えないのだろうから、すっぴんでも泣きはらしていても問題はない。
商店街の端に位置する探しもの屋の周りの店は、まだシャッターが下りたまま。それでも、すでに通勤通学のためにパラパラと通る人がいる。当たり前だが、皆行くべき場所があり、迷うことなく前に進んでいる。進むべき場所もなく、動けずにいるのは自分だけではないのか、皆前に進んでいるのに、自分は何をやっているのだろう。こんな場所に逃げ込んで、こんなことが、母親になった者のやる事なのだろうか。
「親になったら、もっとしっかりするんだと思っていたんだけどなぁ」
母親になったのに、翔太を何よりも大切にしてあげられない自分が情けない。母親になりきれず、女性としての自分を諦めきらないことが情けない。
でも、どんなに情けなくても、出来ないものは出来ないのだ。
逃げだしたい。何もかも放り出して、逃げ出したい。そう思うのに、何度もそうしようと思ったのに、腕の中の暖かさはそれを許してくれなかった。
「困った、ねぇ」
いつも腕の中にいる翔太は、ソファーの上でぐっすりと眠ってる。いつもこうなら、もう少し穏やかでいられるのにと思うと、悩みのなさそうに眠る翔太が憎らしい。
憎らしいのに、愛おしい。どうしたって、翔太からは逃れることができない。子供は、愛おしく憎らしい、足枷なのだと思う自分は、やっぱり母親に慣れていないのだろう。
「雄大が会社に行った頃に、帰ろうね」
眠る翔太に、そっと話しかける。どんなに逃げても、帰る場所はあのアパートしかないのだ。仕方ない。人生、こんなものだ。溜息を隠さなくてもいいだけ、今朝は安心できる。
「結衣さん、まだ戻っていなかったのですね」
カウベルの音と競うように薫の声が店内に響く。言葉とは裏腹に、その声は少しも驚いていない。
「翔太が、機嫌良くって、なんとなく……」
いつも朝目覚めると一度は大泣きをする翔太が、今日は目が覚めた瞬間から笑っている。窓から入る光が珍しいのか、興味深げにユラユラと動く影を見つめて一人遊びを楽しんでいる。いつもは降ろせば泣くので、片手に翔太を抱きながら雄大のお弁当を作っていると言うのに。
「翔太君は、いつもご機嫌ですね」
ニコニコと笑いながら翔太に話かけた薫を結衣は複雑な思いで見ていた。家でもスーパーでも、公園でも児童館でも、翔太は良く泣く子供だ。だが、探しもの屋にいる時には泣いたことがない。いつも、興味深そうに店内を眺めて、笑っている。
「いつもは、よく泣くのよ。本当、私、翔太を抱いていない時間が無いくらいに……」
「そうですか。翔太君は、いつも抱っこしてくれるお母さんが居て幸せですね」
淡々とした声が、胸に刺ささった。翔太が泣けば、必ず抱く。抱いたところで泣き止まないけど、それでも抱く。こんなに泣かせていたら、誰に何を言われるかわからない、また、『若いお母さんだから』と言われてしまう。
それが嫌で、抱いているだけなのに。
「一度帰るね。また来る」
「ええ、いつでもどうぞ」
にっこりと見送ってくれた薫と目を合わせることもなく、カウベルを鳴らして店外に出た。賑やかな商店街の空気にむせそうになる。
「さぁ、帰るよ。翔太」
勢いをつけるように、腕の中の翔太に話かければ、訳も分からずキャッキャと笑う。そういう所が、愛おしくて憎らしい。
「ただいまぁ」
誰も居ない事が分かっているのに、つい声に出してしまうのは子供の頃からの癖。部屋で誰かが待っていると、自分で思いたかったのかもしれない。
「嫁も子供もいないのに、なんとも思わないで仕事に行けるって、すごいかもねぇ」
出勤した時間を狙って帰ってきたくせに、部屋にいない雄大に腹が立つのは、我儘なのだろうか。
テーブルの上で、結衣の携帯がチカチカと光っていた。LINEを起動すると、雄大からメッセージが大量に来ていた。
ー昨日は、ごめん。帰ってきたら、連絡くださいー
―まだ帰ってない?―
―今日は、早く帰るから。ちゃんと話そう―
―何か、あった? 大丈夫?―
自分も翔太もいないのに平気で仕事にいった雄大に腹が立っていたくせに、届いたメッセージを見ると不快になるのはどうしてなんだろう。雄大の、なにもかもに腹が立つ。
雄大が帰ったら面倒な話し合いが待っている。でも、何の改善にもならない事を知っている。
冷静に話をしているときは、良い事ばかり言うのだ。
早く帰れるように努力する。家に帰ったら、子供の相手も世話も、なるべくする。家事も、出来る限り手伝う。『仕事が大変だけど、なるべく頑張る。だからお前も頑張れ』そんな言葉が聞こえてくるようで、次の日からの私のプレッシャーはひどい物だ。それなのに、雄大は『なるべく』『できる限り』『努力する』なので、本当に大したことはしてくれない。食器を下げる、お弁当箱を袋からだして水につけておくくらいで洗う事はしてくれない。文句を言えば、『まとめてやった方が合理的だから』とかいうので放っておいたら朝までそのままだったことが何度もあるし、翔太の相手をしていたのにそのままスマホゲームに夢中になって大泣きさせていたことも一度や二度ではない。
結局、結衣がやった方が早いのでやっていれば2日も持たずにいつもの暮らしに戻ってしまう。
翔太が産まれてから、もう何度繰り返したかわからない。
―私も翔太も大丈夫です―
短いメッセージを送って、携帯の電源を落とした。返信があっても無くても腹が立つのだから、いっそわからない方がいいのだ。結衣は洗濯機を回して、台所にたまった洗い物を片付けて、冷蔵庫にあった昨日のオムレツをむさぼるように食べた。ちゃんと話そうなんて言う前に、出来ることをしてくれたらいいのに、それをしないで何を話すと言うのか。
食べ終わるころ、翔太がふぇふぇと泣き出した。探しもの屋にいた時には、あんなに機嫌がよかったのに。
「はいはい、一人でいるのに飽きたのね。飽きるの早いねぇ」
結衣は録画してある子供向けの番組をつけて、翔太を抱いて座った。意味は分かっているのかはわからないが、翔太はこの番組を楽しそうに見ている。子供は子供が好きなのだろう。
洗濯機が、ピーピーと完了を告げているが、結衣は動けない。
「一人でおすわりできるクッションでも買おうかなぁ」
まだ一人では座れない翔太は、テレビを見るときは結衣が座椅子替わりをしなければならない。小さなソファーに座って翔太と一緒にテレビを見ている時間は、大切なんだろうと思う反面、翔太が機嫌よくしている間に家事を済ませてしまいたいとも思う。
洗濯物を干し終わる頃には、すでに翔太の機嫌は悪くなっている。朝から随分機嫌よく遊んでいた分、眠たいのだろう。翔太を抱いてユラユラと身体を揺らしていると、溜息が漏れる。
「まぁた、なんにも出来ないで一日が終わるなぁ」
掃除、洗濯、料理。専業主婦がやるべきことをきちんとできていない自覚はある。翔太がいるから仕方ない、と雄大には言っているが本当だろうか。他のお母さんたちは、きちんとしているのではないのか、と卑屈な気持ちが溢れて部屋の中の空気がどんよりと重くなっていく。何とかしなくては、と思うがどうにもできない。どうしたら、良いのだろう。
「やっぱり、やり直したいなぁ」
「探しもの屋に、行こうか」
探しもの屋の言葉を覚えているのか、目を合わせて話しかけるのが嬉しいのか、翔太はキャッキャと笑いだした。




