前編
【あらすじ、ひけらかさな→ひけらかさない】「アンナは上手ねぇ」
その言葉の陰には、いつだって“それに比べてマリアは”という言葉が隠れていることを知っていた。
マリアとアンナは一つ違いの姉妹だ。
娘しかおらず、親類から養子を迎えることもなかったグレイ伯爵家は、長女であるマリアが婿をとり爵位を継ぐことが決まっていた。
3年前に決まった婚約者はグレイ伯爵家が統治するピアズ領の隣に領地を構えるディールス子爵家の次男で、名をマイクという。
金髪に碧眼というお伽話に出てくる王子様のような容姿を持つ青年で、あと半年もすればマリアの夫となるはずだった。
そう。だった。
今この時、この瞬間までは。
「君との婚約を解消したいんだ」
「え」
改まった様子で目の前に座る婚約者に呼び出された時から嫌な予感はあった。隣に妹のアンナが寄り添うように座っていたからなおさら。義理の兄弟になるとしても近すぎる距離だ。
そして彼から発せられた一言は、身構えていたはずのマリアの思考を止めるのに十分な威力を持っていた。
「どういう……こと、ですか」
「悪いが君と結婚して幸せになる未来が僕には見えない。君をどうしても好きになれなかった。僕の心はアンナにこそ向いている」
「そんな……っ!」
「婚約者である僕に向き合うこともせず机に向かってばかりの君と違い、アンナは僕をちゃんと見てくれた。君が誘いを断り効率悪く仕事をする間、申し訳ないと君の代わりに謝って僕とともに居てくれた。好きな本を語り合い、狩りの成果を誉めてくれた。僕の想いが君でなくアンナに向くのは当たり前のことだろう?」
「ごめんなさい、お姉さま。マイク様といろいろお話ししているうちに、いけないとは分かっていても好きになってしまったの」
隣に座る同士手を握り合って二人が言う。絡む指の力が強まるのがテーブル越しにも分かった。
二人の関係を知らない者が見たら二人こそが婚約者同士だと思うだろう。お互いを見つめ合う姿も大変様になっている。
アンナに向けるマイクの柔らかな笑顔は婚約してから一度もマリアには見せたことがない。熱の籠った目線も、ほんのりと赤く染まった頬も。彼のその姿を見るだけで、アンナを好いているのだと理解できる。
マイクは、こんなにも感情がわかりやすい男だったのね。
あまりにもわかりやすい恋する男の姿に、マイクの心が一度もマリアに向けられたことがないという悲しい事実を思い知らされてマリアは一層惨めになった。
「この婚約は、跡取りのいないグレイ家を継ぐための政略的なものだろう?だったらアンナが相手でもいいはずだ」
「わたくしはまだ当主教育を受けてはいないけど、マイク様と結ばれるためなら頑張ってみせます」
「同じ家庭教師に習っても上達はアンナの方が早かったから、きっと君ならあっという間に追い越してしまうさ。二人で力を合わせてこのピアズをさらに栄えさせていこう。きっと素晴らしい未来となるさ」
すでにマリアのことなど見えてないかのように二人で見つめ合い将来の展望を語る。
そこに立場を奪われた者への配慮など何一つ為されることはない。
「素晴らしい領主となる君を、僕がしっかりと支えてみせるよ」
「まぁマイク様。わたくしはお姉さまより少し要領が良いだけです。お姉様も領主となるためとても頑張っていらっしゃいましたわ」
「頑張ってその程度、というのが問題なんだ。領地を治めるのは子供のままごとではない。あれだけ時間を浪費して頑張って、それで妹であるアンナに劣るというのならそもそも領主としての才能がないんだろう」
失望を隠さず横目でチラリと一瞥しマイクはまたすぐに視線をアンナへと戻す。
婚約して3年。マリアの長年の努力をずっとそんな冷めた思いで見ていたのかと思えば、もはや悲しいを通り越して虚脱感さえ感じてしまう。
確かにマリアは決して優秀と言える継嗣ではなかったのだろう。それでも領地のため、家のため、民のために最良の結果を少しでも多く残そうとするマリアの努力など、彼は何一つ理解しようとはしてくれなかったらしい。
なんて無意味な3年だったのだろう。
「……お父さま、は」
「すでにグレイの義父上には相談させてもらっている。義父上からも許可をいただいたよ。義父上も、アンナの方がピアズの領主にふさわしいとお考えのようだね」
「……」
想像していたが、やはり父もすでに了承していた。ならばすでに外堀は埋められ、後継者交代は確定事項だろう。
マイクはおろか、父親であるグレイ伯爵家当主の評価すら得られなかった。
ーーーいや、評価されたからこその今回の交代劇なのだろう。マリアに当主の資格なし、と。
マイクの話す一言一言が、マリアを深く傷つける。
家族にとって、婚約者にとって、マリアという存在はどれほど軽い者だったのか。
たった数分で嫌というほど思い知らされる。心の裡が絶望に黒く黒く染まっていった。
いっそ大きな声をあげて泣き喚いてしまいたいのに、跡取り娘としてのなけなしの矜持が口を縫い止めている。
代わりに爪が手のひらをぐいぐいと傷つけて、やがてぶちりと皮が破けたのをどこか他人事のように感じた。
「招待状も先日から取り掛かり始めたばかりだし、まだ修正がきくだろう?」
「すでに発注している仕様もありますし、お姉さまの案をそのまま引き継がせていただきますね」
「……そう」
本来ならばマリアが成人となる半年後に合わせてお披露目のパーティを行うはずだった。
そのための招待客のリストや招待状の装丁など作業を少しずつ進めていたのだが、詳細についてもう一人の主役であるはずのマイクに相談をしても反応が鈍かった。君の好きにすればいいよ、なんて突き放して一緒に考えてくれる素振りも見せてくれず、マリアは自分だけが楽しみにしている気がして寂しく思っていた。
きっとその時からすでに彼が婚約者交代を目論んでいたのだろう。
一人浮かれて、頑張っていたのが馬鹿みたいだと、纏まらない思考の中でマリアは毒付いた。素敵なパーティとなるよう一生懸命考えたのに、と。
そんなマリアの心の声を読んだのか、マイクは形の良い眉を顰めてトドメの一言を言い放った。
「この際だから忠告しておくが、君は苦労して出来たことを素晴らしいことのように自慢するだろう?あれは止めた方がいい。君が自慢するのはみんな当たり前のように出来ていることだし、出来て当然のことを自慢するのは令嬢としてとてもはしたないよ」
「……」
目の前が真っ暗になったのが目を閉じたからなのか心を閉したからなのか、すでにマリアには判らなかった。
その夜、マリアは父であるグレイ伯爵に呼ばれた。
「この家はアンナとマイク君に任せることにした。お前には嫁に行ってもらう」
「……はい」
「ステラ商会はお前も知っているだろう。あの商会を経営するドラーフ家と養蜂に関して業務提携することに決まった」
ステラ商会は低位の貴族と平民でも富裕層向けの商品を中心に展開する中規模の商会だ。商会を抱えるドラーフ家は三代前にとある伯爵家の従属男爵位を独立させた家柄で、ある侯爵家を寄親とするグレイ伯爵家とは対立こそしていないものの決して親密な間柄というわけではない。
派閥の異なる、今まで大した交流もしてこなかった家に嫁に出されるということは、嫁入り先でどんな対応をされても表立って文句を言うつもりはない、ということだ。
跡取りという立場を取り上げておきながら、嫁ぎ先すら配慮もしてもらえないのか。
一粒も雫をこぼすこともなく涙は枯れ果てて、マリアはただただ惰性で父の言葉に返答を返す。
「良好な関係を築くために嫁いではもらうが、養蜂業以外であの家と深く関わるつもりはない。お前とは縁が切れたと思うこととする」
「……はい、お父さま」
「元は伯爵家に連なる男爵家といえど所詮は商人貴族。我がグレイ家とは格式から違うのです。寂しくはありますが仕方ありませんわ。今後は婚家に尽くす様に努めなさい」
「……わかりましたわ、お母さま」
表情なく頷き続けるマリアに満足した両親はもはや彼女を視界に入れることなく次女の縁談の話題で盛り上がり続ける。切り捨てた長女はその瞬間もう誰からも価値なく顧みられない家財の一つと成り果てた。
この日、マリアは跡取りという立場だけでなく家族のつながりまで失った。
『お母さま、みて!』
『まぁ、マリア。ほとんど正解しているわね』
『でしょう!わたし…』
『でもアンナは全部正解しているわ。だというのに主張もせず、姉であるマリアを立てて口を閉ざして、本当に偉いわ』
『ありがとうございます、お母さま』
『一つ下のアンナができることが、どうしてお前にはできないの。恥ずかしげもなく自己主張する前に、もっとしっかりなさい』
『…申し訳ありません、お母さま』
妹のアンナは、とても要領の良い子だった。
マリアが四苦八苦して学ぶその隣で、アンナは最も簡単そうに答えを得てしまう。
勉強も、魔法も、礼儀作法も、刺繍も詩歌も、交友関係だって。
全部全部アンナの方が優秀で。
『アンナ様の方が効率よく魔法を展開できてますね』
『マリア様が間違えた箇所も暗記されているなんて、さすがですね』
『まだアンナ様には教えていないステッチなのに、お姉様の手をみただけでここまで刺せるなんて素晴らしいわ』
『アンナさんの方が、わたくしたちのことをよく理解して下さって話していて楽しいの』
マリアがアンナに勝てたことなど、人生で何一つとしてなかった。
「男爵家でも頑張ってね、お姉さま。男爵程度ならきっとお姉さまでも大丈夫よ」
「お前はもうドラーフの嫁です。よく向こうの家に仕えるのですよ。決して実家を頼ろうなど甘えた考えを持たないよう」
「努力をひけらかしたり恩着せがましくして相手を不快にしないようにな」
「物事を無駄に仰々しくして向こうの家に迷惑をかけぬよう気をつけなさい」
「……お世話に、なりました」
たとえ不出来でも、頑張っていることの一つくらい認めてほしいと思うことは、そんなにいけないことなのだろうか。
判らないままマリアは独り生まれ育った家をあとにしたのだった。
ドラーフ家は今まで住んでいた歴史を感じさせる重厚感ある伯爵家よりもやや小さな館だったが、商家の家柄らしく華やかで明るい雰囲気を放つ流行りを取り入れた美しい造りだった。玄関の周囲には季節の花であるアネモネが色とりどりに植えられていて、ようやく今は春だったことに気がつく。
馬車から降りたマリアを使用人だけでなく家人も出迎えにきてくれたようで、明らかに血のつながりを感じさせる似た顔立ちの男女数名がにっこりと顔を綻ばせてマリアを取り囲む。
その中でも一際人好きする笑顔を浮かべた同じ年頃の男性が、右手を差し出して明るく言った。
「はいはーい、君がマリア? 俺が君の旦那さん。気楽にジョナサンって呼んで。これからよろしくね」
「あ……はい。よろしく、お願いいたします」
「こら、ジョナサン! うちと違ってちゃんとした貴族のお嬢さん相手なんだから少しはちゃんとしないか!」
「そんなこと言ったってこれから夫婦として一緒に過ごすんだよ? 気取ってばっかじゃ肩凝っちゃうじゃないか」
「お前は軽すぎなんだよ」
「はぁ、もっとちゃんとレディに対する教育を仕込んどくべきだったわね」
いっそ喧しいといったほど賑やかな会話にマリアは目を白黒させる。
グレイ伯爵家はどちらかといえば静謐を好み、声に感情を多く乗せることを下品な行いであると恥じていた。いつでも微笑みと共に優雅に悠然と構え、努力や心の葛藤は見せずに過ごすことこそ貴族としてあるべき姿だと誇っていた。
ジョナサンたちのように喜びや楽しさを露わにするあり方など、グレイ伯爵家の面々が見ればさぞ「さすが商人」と鼻で笑うだろう。
慣れない歓迎に呆然とするマリアに気付いたジョナサンが腰を屈めて顔を覗き込む。
「あれ、大丈夫?」
「あ……、はい。少し、驚いてしまって……」
「ほらやっぱり引かれてるのよ。グレイ伯爵家はうちと違って格式ある貴族なんだから」
「お前は距離の詰めかたが性急すぎるんだ。いくらこれから家族になると言ってももう少し順序を経なさい」
「はぁい。びっくりさせたかもしれないけど、うちはこんな感じだから慣れてくれると嬉しい。これからよろしくね、花嫁さん」
にっこり笑って手を差し出す新郎に、恐る恐る、マリアはそっと手を握り返した。




