第一章 - 犬猿の邂逅(A-1)
『テニスはひとりじゃできないって習わなかったの?』
『あなたは上手だけど、良いプレーヤーじゃないわね』
『狗上は部の調和を乱している。自覚したほうがいい』
『厳しい練習を否定はしないけど、限度があるでしょ』
『なにムキになってんのよ、たかが部活のことなのに』
頭の中に残る不快な記憶が、ひとりでに語りかけてくる。
「――うるさい……ッ!」
ギリ、と奥歯を噛み締めて、ラケットバッグを背負い直す。
退部してから1ヶ月が経とうというのに、あたしの足は自然とコートに向かっていた。
身体が勝手にラケットを振りたがる。ちいさな頃からの癖。それが抜けるはずもない。
テニスは生涯スポーツと言われている。子どもから高齢者まで老若男女楽しめる競技。
ゆえに、公営のテニスコートは休日の予約が常に埋まっている状態。
基本的に抽選順。
その倍率は数十倍に及ぶこともあり、例に漏れずあたしが使えるコートは存在しない。
――まあ、そんなことを考える前に、打ち合える相手もいないのだけれど。
まだ朝早いというのに、土曜日のスポーツセンター周辺にはボールを弾く軽快な音と、それに呼応する歓声や拍手が響いていた。
楽しそうに身体を動かす人々を後目に、あたしは外れにある壁打ち場へと向かう。緑色の壁面にネットの高さを想定した線分が引かれていて、擬似的にラリーを交わすことができる。
壁打ちはフォームが崩れるので練習には適していない……という考えは深く浸透していて、事実あたしもそう思うのだけれど、相手がいないのでは仕方がない。
さいわい、壁打ち場にはあたし以外の姿はなかった。背負ったラケットバッグを背後のフェンスに立てかけて、その中から愛用の一本を取り出す。使い込んだ相棒のグリップはすっかり剥がれかけていて、面も緩んでしまっている。
そろそろ張り替えないといけないかな……という気持ちが湧いたところで、今更なにを考えているんだと雑念を振り払った。
ボールをふたつ手にとって、ベースラインに立つ。
ポン、ポン……といつものルーティン。球をバウンドさせて、それを真上にトス。
ふわりと浮かんだボールが重力に負けて、あたしの顔めがけて落下。
同時に、腕を振りかぶり、足首に力を入れ、背筋をしならせて――。
「――んッッッ!」
パコンッ! と小気味よい音を立てて、サーブを射出する。
それが、壁面に走る線分のわずか上を通過して、反射する。
――ファーストサーブ、成功。
テニスにおいてゲームをスタートさせる役割を持つサーブは、1プレイあたり2本打つ機会が与えられる。一打目はファーストサーブ、二打目はセカンドサーブ。2本失敗するとフォルトという判定が取られて、相手側に得点が入る。
つまり1本目は攻めの姿勢、2本目は慎重さと正確性が重要だ。特に、速さと力強さの詰まったファーストサーブを決めることで、相手のレシーブを崩したり、次のプレーを致命傷につなげたりと、優位的に立ち回れる。
存在しない敵を思い浮かべながら、跳ね返ってくるボールを打ち返す。
パコンッ! パコンッ! とラケットの真芯で球を捉える。二の腕に確かな手応え。
心地良い。
やがてあたしの放ったボールは、架空のネットの下へと吸い込まれる。
ラリー終了。
「……もう一本」
この心地よさを、もっと味わっていたい。
もう一本。
もう一本。
さらに、もう一本。
ボールを打っている間は無心になれる。
頭蓋の中に沈殿する雑念が溶けていく。
あたしは繰り返し、サーブを打っては帰ってくるボールを打ち続けた。
どれくらいの時間が経っただろう。
ちょっと休憩しようかな……とボールを回収して、背後のバッグへと向かう。
ラケットをフェンスに立てかけ、財布を取り出し、自販機へと向かおうとしたところで。
突然、声をかけられた。
「――なあ、あんた! ちょっといいかッ!?」
「ふあぁっ!?」
び、びっくりした……。
思わず手の中の一切合切を取り落としてしまう。カラン、と音を立てて転がるラケット。間抜けな音を響かせるボール。地面の上でぱかりと開いた二つ折りの財布から、数枚の硬貨がチャリンとこぼれ落ちる。
そんなあたしのもとに、声のした方角からパタパタと小走りの足音が近づいてくる。
「……っと、ごめんな、驚かせてしまって」
男の人。
よく通る声だな、と思った。
その場にしゃがんで、転がっていったボールを拾い上げてくれる。
ふわりと風が吹いて、さわ……とあたしの髪がなびく。
空気の動きに合わせて、そっと視線を上げた。
そこに立っていたのは、上下ジャージ姿の男の子。
あたしと同年代くらいに見える。
身長はそれほど高くない。あたしと同じくらい。
顔は……まあ整っているほうかな。
しかしそれ以上に、あたしはその瞳に吸い寄せられた。
意志の強さが表に表れたような、印象深い双眸。
「はい、これ。ほかになにか落とし物は?」
「ええ、特にないけど……ありがと」
「いきなり声かけて、ごめんな」
目の前に差し出されたボールを反射的に受け取る。
他に人影のない壁打ち場に、よく通る声が響いた。
あたしが言葉を発する前に、ずい、と一歩詰め寄られる。
なに? なにが起こってるの?
「あんたの壁打ちを、さっきからそこで見てた」
同年代の男性に、真正面から見つめられる。こんな経験がかつてあっただろうか。
「サーブもストロークも、まったく無駄のないフォーム。次に飛んでくる位置を正確に把握する眼の良さ。左右に振られてもブレない安定した弾道。それがあの壁打ちから見て取れた!」
浴びせかけられた声の意味を、じっくり咀嚼する。
褒められている……のよね?
「それは……どうも」
うつむき加減に、ポツリと答える。賞賛されて悪い気はしないから。
「で、改めて言わせてほしいんだけど――」
神妙な表情ながら、はっきりとした声音で、目の前の男はこんなことを口にした。
「俺は、あんたが欲しいんだ!」
一瞬、時間が停止した――そんな錯覚を覚える。
呼吸も止まったような気がした……というか、たぶん止まっていた。
かけられた言葉が、耳から脳へ到達する。そして反射的に口をついたのは。
「なっ――なによ、あんたッ!?」
「おぶぅッッッ!?」
自衛本能が勝手に右腕を振り上げ……おもいっきり頰に平手を張る。
いきなりなにを言い出すのよ、この男ッ!?




