第二章 - 犬猿の宣誓(B-7)
彼を知り己を知れば百戦殆うからず。
孫子の言葉だ。あたしの座右の銘でもある。
相手の実情を学び、自らの実力を正しく把握することで負けない戦ができる、という意味。
「鬼頭真澄。あいつ、1年生の頃に高校テニス界から除名されてるの」
「はぁ? なにか問題起こしたのか? そんなふうには見えなかったけど」
「問題といえば問題。けれど、その本質はあいつのプレースタイルにある」
鬼頭真澄はベースライナー。
ダブルスでは主に後衛をつとめるタイプのプレイヤーだ。
後方に待機し、正確かつ力強いストロークで敵を崩していくのが特徴だ。男子の中でもかなり小柄な部類
に入る彼からは一見、想像もつかないようなスタイル。
けれど――それは、鬼が被った人の皮。
あたしはソファに座る申渡に背を向けて、プラズマテレビの脇でリモコンを操作する。
やがて目的のシーンにたどり着いて、あたしは画面の一部分を指さした。
「ここ、見て」
それは2年前におこなわれた新人戦決勝、シングルスマッチの映像。
決勝に駒を進め、鬼頭真澄と相対した大柄で屈強な高校3年生。身長は一八〇㎝ほど。高い打点から放たれた勢いのあるサーブを、対する真澄は――いとも簡単にレシーブする。
『くくっ』
すべての運動エネルギーを、真澄は柔軟なラケット捌きで吸収して。
変幻自在のフォームから繰り出される、精密機械のようなドロップ。
どういう物理原則が働いたのか、皆目見当もつかない。
ネット際に落ちた球に、しかし相手は必死に食らいついた。
決死の覚悟で上がったボール。
その着地点に――鬼が、すでに入り込んでいた。
『――――死ね』
そして。
『らぁぁぁぁ殺ァぁあ――――――――――――――――――ァァァッッッ!』
雷鳴のような金切り声とともに、裂帛の気合いをつけ、ラケットを振り切って。
閃光のごとく――ボールが、相手プレイヤーの身体へと突き刺さった。
あまりの衝撃に、大柄な選手がたやすく吹っ飛ばされる。
小柄な身体のどこにそんな膂力が眠っているのか。
そして、画面の中の鬼頭真澄は。
『笑う鬼』と呼ばれる少年は――画面の中で、恍惚とした笑みを浮かべていた。
その後、3分間の怪我による中断を挟み試合は続けられたものの、真澄の圧勝で終わる。
一部始終を見終えてから、ディスプレイの電源を落として。
呆気に取られている申渡へと、語りかける。
「ラケットを握って試合に臨んだ瞬間、人格が変わるのよ、あいつ」
「人格って……どういうことだ……?」
「どうもなにも、いま見たものがすべて。彼を知り、己を知れば百戦殆うからずというでしょう。あんたが本気で大会に出るなら、知っておかなければいけないことだと思ったのよ」
そこには暗喩も比喩も存在しない。
あたしは端的に事実を述べる。
「鬼頭真澄はね。相手を壊して勝つテニスプレイヤーとして有名だったのよ」
テニスには突き球というプレーがある。
プレーヤーの身体を直接狙う打球のことを指す。
本来なら、この競技は相手のいない場所にボールを運び、得点を獲るものだ。相手を撹乱し、打球の進路に割り込みながら戦っていく。
この応酬を拒否する意図を持つのが突き球。自らの身体へ一直線に向かってくる飛来物に対しては、とっさに防衛本能が働く。
この際に手元が狂い、甘い球が返ってしまう――これが本来の突き球。
けれど鬼頭真澄は……これを意図的に繰り返すのだ。
何回も、何回も、何回も――相手の心が折れるまで。
「あの、真澄が……? 一度話しただけだけどさ、すげえ明るいやつだったぜ?」
「そのときあいつ、ラケット握ってた?」
「いや、持ってきてないって言ってたな。で、レンタルを勧めたとき、あいつ……確か……」
――壊しちゃうといけないし。
真澄はあの時、そう言った。
「……ラケットを持っていないときの鬼頭真澄は、明るくて活発な弟だそうよ」
「真尋がそう言ってたのか?」
「ええ」
ふうむ……と、申渡が似合わない思案顔で頬杖をつく。
あたしは反応を待たずに先を続けた。
「いつも元気で明るくて、人懐こくて、誰からも好かれるような男の子。けれど、ひとたびラケットを握った瞬間に、眠る『鬼』が牙を剥く――あたしはそれが、こわい」
あの時――鬼頭真澄に声をかけられた瞬間、あたしは動けなくなった。
両足を震わせ、地面に貼り付けていたのは、まぎれもない恐怖心。
自分のことは、自分が一番わかっている。
唸りながらなにごとかを考え続けている申渡に、あたしは声をかけた。
「あんたに話しておかなきゃいけないことが、もうひとつあるの」
「…………おう? なんだ?」
思考の海から戻ってきたバカ面と、目が合う。
「正直に言うわね。あたしは大会に出るのが怖くなった。出たくないとすら思ってる」




