始まり:ベアトリス
目を開けたら鏡の前だった。
その鏡は亀裂が走り、映る自分の体は歪んで見えた。
こんなのは夢だと思っていたのに、手を血塗れにしても、手首を切っても、痛いだけで目は覚めなかった。
「ヒロキ……貴方、どこなのよ……」
外は豪雨で部屋の中は灰色。
映る自分の容姿は日本人ではなかった。
烏の羽のような黒い髪は刃物のように真っ直ぐで、目は鮮血の如く赤く、肌は雪のように白い。
西洋人や北欧人ともどこか違うが、どう見ても東洋人ではなかった。
けれど、私は東洋人だった。
日本人だったはずなのだ。
あれは、最愛の彼氏——ヒロキが目の前で光の粉となって急に消え出した夏の夜。
その手を掴んだ私も粉となったはずだった。
けど目を覚ました私がいたのは豪奢な天蓋ベッドの上で、容姿はこの通り全くの別人だった。
さらに年齢は五歳。
ここにくる前は十八。
また人生を五つという幼な子からやり直すということに途方もない徒労感を感じたし、何よりこの意味不明な現象に頭を悩ませていた。
今の私は『ベアトリス・ラ・ヴァルデン』
この国の宰相であり伯爵を父に持つ、公爵家に劣らぬ身分を持つ令嬢だった。
彼女自身が体を支配していたときは、それはそれは病弱で私が目が覚めた時は死んでしまったと思われた後だったらしい。
ドレッサーの前で立ち尽くしていた私を見た侍女の悲鳴は今でも覚えている。
けれど、日本人だったころ——つまりは前世の運命と同じなのか、私は病に嫌われておりそれから体調を崩したことがない。
一度罹ってみたいものだ。
父である宰相は私を溺愛していた。
病から奇跡の復活を遂げたということで、まさに神から祝福されたものだと持ち上げて欲しがるもの、欲しがっていないもの、何から何まで渡してきた。
一方、母親からは嫌われていた。
というのも、母親は実母ではなくいわゆる義母でその人は私の実母が亡くなった後に来た後妻。
私から、二つと三つ違いの弟を育てている。
私が病弱だったのはどうやら遺伝だったらしい。
ハンカチを手に取り手についた血を拭う。
もちろん自分の血なので拭いてもまだ溢れ出る。
痛いが、痛みを感じないとやっていけないのだ。
私は宰相に溺愛された令嬢で、その立場から第二王子殿下の婚約者候補だった。
候補というのは、他にも二人候補者がおりどれが妻として相応しいかに悩みあぐねているから未だ候補に留まっていた。
もし、王子との婚約が成立しなければ他の良縁と結ばれるのだろう。
それが嫌なのだ。
私にはヒロキがいる。
彼も光の粉に包まれて消えたのだ。
私としっかり手を握って。
なら、必ずこの世界にいるはず。
彼以外と結ばれることなんて私には耐え難い。
一つ拳を握ると傷はもう癒えていた。
顔についた切り傷も、足についた傷も。
この世界にある魔法とか言う意味不明な現象だ。
私は治癒という非常に希少なものを扱えるらしい。
他人の傷や病も癒せるし、自分にもこのように可能だ。
だから自傷しようが、誰かを傷つけようが瞬きする間に癒せる。
傷の度合いによっては時間はかかるが致命傷でなければ大体五分とせず治せるものだ。
この力もまた婚約者候補とかいう面倒くさいことを招く一因だった。
光魔法とも揶揄される治癒、生命促進能力は一世紀に一人現れるかどうか、現れたとしてその者自体が非常に短命であるのだという。
ただ私は……聖女とかいう人格者でははなかった。
「ベアトリス様!」
また侍女の叫び声。
蔑む目でその侍女を見つめながら言う。
「怪我はない。当たり前。何回も言わせないでちょうだい。鏡は適当に片付けといて」
言い放って柔らかな羽織を肩にかけ自室を後にした。
廊下にいる使用人たちは私を見ると怯えた様子で頭を深々と下げていく。私は無視をするように歩みを止めない。
そんな時、一人の女の子の使用人が私の足元に箒を倒してしまった。
幸い足先に当たらなかったものの、その使用人は謝罪の言葉を叫びながら箒を急いで取り上げた。
私は嘲笑を向けただけで、謝罪の言葉も無視してまた歩みを進めた。
使用人たちの囁き声が背後から北風のように聞こえてくる。
——悪女。
だとか……
——あれで、聖女と言われているのか。
だとか……
——冷酷無情のわがまま令嬢。
だとか。
どれも聞き飽きた。
だから?
じゃあ私の立場に立ってみる?
好きでここにいるわけじゃない。
愛する人と訳も分からず離れ離れになってしまったこの十年の虚無を知るものはいないのに、何を言われたところで響かないのだ。
「馬鹿にしやがって……」
爪をかみながら小さく呟くと、執事に馬車の手配をさせ屋敷の外に出た。
苛立ちで熱った頭を冬の冷気が冷ましていく。
白い吐息をついて門まで歩いた。
「これはこれは姉上ではありませんか」
話しかけられた声に冷めていた苛立ちが熱ってくる。
「またどこかにお出かけへ?聖女様はお忙しいことで」
そう嘲笑しているのは二つ下の義弟——ジュリアンだった。
黒い髪に母親譲りの橙色の瞳。高貴な身分だと一目見れば分かる程度の端正な容姿。
「ええ、あいにく私の両手にはたくさんの命が乗しかかっているの。貴方も後継者教育で忙しくしているとか、ご苦労様ね」
褒められているような、ないような……
そんな言葉にジュリアンは少しだけ気分を害したように眉根を寄せたが、すぐに気を取り直したらしく微笑みをたたえて言う。
「聖女様は毎日帰ってくるのが遅いようですが、一体何をしているのですか?傷ついた兵士や平民を助けるために毎日、どこか奔走を?」
そんなわけないだろ。と言いたげな彼の眼差しを私は軽くあしらう。
「もちろん、そういった方々にもご奉仕はさせていただいています。ただ、私にも私の仕事というのがあるのですよ。貴方のように毎晩お母様を困らせるほどご友人とお酒を嗜むような仕事ではななく、また違ったお仕事が」
最後の嫌味にジュリアンの眉が痙攣する。
「そうなのですね。ならば、どんなお仕事かお聞きしても?私は姉上の身を案じているのですよ」
「まあお優しい弟だこと。こんな弟を持てて私は幸せものですわ。そんな優しい貴方が気にするようなことではありませんよ。何せ、私は貴方の姉なのですから。貴方は貴方の弟を心配なさいな。上は下を、下はまた下を案じるものです」
ニコリと微笑みかけて私は踵を返した。
ジュリアンはまだ何か言いたそうだったが、彼も彼でやはり忙しいのでそれ以上は追求してこなかった。
私は御者の元へ向かうとその手を取って馬車に乗り込んだ。
少しして馬車は不規則に動き出す。
屋敷の敷居は広く、門から出た先もしばらくは舗装された道でありそこは豊かな自然が広がっていた。
大体、ここの家門は自然の保護を領地に課していることで有名であり、そうすることで伯爵、また宰相という高い身分でありながら領民やその他平民からの信頼を勝ち取ってきた。
自然に囲まれた道の先にある、また大きな門を出るとそこは賑わう街だった。
舗装された道なので馬車はそこまで揺れず、カーテンのを合間から流れる人並みを茫然と眺める。
ヒロキを探してもうすぐ11年。
足取りさえ掴めず、諦めかける心がどこかにはある。
けれど、実際問題。私の人生はまだまだこれからなのだ。
なぜなら、この国は16歳から成人であるゆる制限が解除されるのだ。
飲酒はもちろん。夜中の外出。あるゆることへの親に一々許可を求めなくても問題にはならなくなった。
貴族の娘であればこそ、こうした規則は厳守しなくてはならず中々行動の制限は酷かった。
何より父親だ。
溺愛が行きすぎた過保護は鬱陶しいだけ。
どこに行くにも、何をするにしても一々許可、許可、許可!
心の中で何回目の前の机を蹴り飛ばしたか分からない。
ただ、この聖女とかいう肩書きも父親相手には有効だった。
とりあえず聖女ぶって、出かける理由も偽って、何かをすることにもそう偽って、何とかやりくりしていた。
それでバレたとしても、必殺泣き落としがあるので割とどうにかなっている。
しかし!成人すればそれまでなのだ!
もう父親の言いなりになっていることに意味はなく、自分で本格的にヒロキを探しに行けるのだ。
「フフフ……待っていろよ……ヒロキ!」
拳を握り馬車の天井を見上げた。
そして、その拳を天へと突きつけてこの意味の分からない世界に連れてきた彼への怒りと寂しさを、記憶にあるヒロキの脇腹に入れる。
そうしたら記憶の中にいるヒロキは、痛い!と叫びながら私の頭をチョップしてくるのだろう。
ため息をついて、俯いて……握る拳を見つめる。
会えたとして、彼はまだ私のことが好きなのだろうか……
私と分かるのだろうか……
様々な疑問が脳裏を過るが彼を諦めた時、それが今世の最期だと決めているからそれまでは頑張るしかないのだった。




