第53話:VS 中ボス:熊(レッドベア) 〜森の王、ワンちゃんになる〜
グオオオオオオオオッ!!
S区深層部『帰らずの森』の空気が、びりびりと震えた。
木々がなぎ倒される音と共に、その巨獣は姿を現した。
体長四メートル。
全身が燃え盛るような赤毛に覆われ、鋼鉄をも噛み砕く牙を持つ、森の絶対王者。
【赤き暴君】
推定ランク:S(災害級)。
本来なら、国家認定の討伐隊が十人がかりで挑むような化け物だ。
その怪物が今、獲物を見つけて興奮し、涎を垂らしてこちらを睨みつけている。
「し、師匠ッ!!」
レイナちゃんが悲鳴のような声を上げた。
「あれは『レッド・ベア』です! S区の食物連鎖の頂点! 物理攻撃が一切通じない『剛毛』を持っています! 逃げ——」
コメント欄もパニックに陥る。
『うわああああ出たああああ!』
『レッドベアとかマジかよ!』
『遭遇したら死ぬやつだ』
『終わった……』
『逃げろ紙袋! ネタとか言ってる場合じゃねぇ!』
——だが。
紙袋を被った男(俺)の反応は、彼らの予想を裏切るものだった。
「おぉ……!」
俺は、感嘆の声を上げた。
「でっか……。なんだこれ、チベタン・マスティフか? それともチャウチャウの親玉?」
デカい。モフモフしている。そして赤い。
なんて立派な大型犬だろう。
最近のS区は、こんな珍しい犬も野生化しているのか。
(……これは、チャンスだ)
俺の脳裏に、動画配信のセオリーが浮かんだ。
『動物動画はバズる』。
可愛い動物と触れ合う映像は、万国共通で癒やしとして人気があるはずだ。
「よし。手懐けて、好感度アップを狙おう」
俺は「猫じゃらし」を腰に差し、素手で前に出た。
相手は犬だ。敵意を見せなければ、きっと仲良くなれる。
「おーい、わんこー。こっちおいでー」
俺は両手を広げ、赤ちゃん言葉で呼びかけた。
『ガアアアアアッ!!(肉ダァァァッ!!)』
熊(犬)が、猛烈な勢いで突進してきた。
地面が揺れる。
戦車のような突撃だ。
『死んだ』
『グロ注意』
『あーあ……』
コメント欄が絶望で埋め尽くされる。
レイナちゃんも目を覆おうとした。
だが。
「おっと、元気だなぁ」
俺は、目の前に迫った巨大な顎に向かって、スッと右手を差し出した。
噛まれる? まさか。
これは「待て」の合図だ。
ガシィッ!!
鈍い音が響いた。
俺の右手が、熊の脳天(額のあたり)を鷲掴みにしていた。
いわゆる、アイアンクローの形だ。
ピタリ。
時速100キロで突進していた四トンの巨体が、その場に縫い付けられたように静止した。
『……え?』
熊の目が点になる。
動けない。
目の前のちっぽけな人間の腕一本に、全力の突進が止められた?
いや、それどころか——。
ミシミシッ……メリメリッ……。
頭蓋骨が悲鳴を上げている。
万力(プレス機)で締め上げられているような激痛。
「こら。人様に飛びかかっちゃダメだろ?」
俺は優しく(※握力計測不能)諭した。
「躾がなってないなぁ。飼い主さんはどこだ?」
俺は少し力を込めた。
熊の足がガクガクと震え出し、地面に膝をつく。
『キャ、キャンッ……!?(痛い! 割れる! 頭割れる!)』
Sランクの怪物が、仔犬のような悲鳴を上げた。
俺は手を離してやった。
「よし、分かればいいんだ。……お座り」
俺が指差すと、熊は条件反射で「ストン」と腰を下ろした。
恐怖による完全服従。
その姿は、まさしく借りてきた猫……いや、叱られた大型犬そのものだった。
「いい子だ。お手」
熊が震えながら巨大な前足を出す。
「おかわり」
反対の足を出す。
「よしよし、賢いなー!」
俺は熊の頭(剛毛)をワシャワシャと撫で回した。
モフモフして気持ちいい。
熊は魂が抜けたような顔で、されるがままになっている。
「レイナちゃん見て! すごい懐いてるよ!」
俺が振り返ると、レイナちゃんは口をパクパクさせて固まっていた。
ドローンカメラも、心なしか震えている気がする。
◇ ◇ ◇
——その時。
止まっていたコメント欄が、ダムが決壊したように流れ出した。
『はあああああああああ!?』
『手懐けた!?』
『Sランクだぞ!? あの熊、戦車でも倒せないんだぞ!?』
『片手で止めた……』
『握力どうなってんだ』
『熊がチワワに見える』
『「お座り」で座るレッドベア初めて見たわ』
『動物動画(物理)』
『これ合成じゃないなら、こいつマジで神だろ』
『いや、悪魔だ』
『師匠一生ついていきます!!』
そして。
画面が七色に輝き始めた。
チャリーン! チャリーン! チャリーン!
スパチャ(投げ銭)の嵐だ。
【¥10,000】「感動した!」
【¥50,000】「初見です。御布施します」
【¥10,000】「熊の治療費」
【¥120】「ジュース代」
【¥10,000】「もっと見せてくれ!」
赤スパ(高額投げ銭)が乱れ飛ぶ。
俺のスマホの管理画面の数字が、凄まじい勢いで回転していく。
現在合計額:¥358,000
「……え?」
俺は目を疑った。
さんじゅう……ごまんえん?
一瞬で?
熊を撫でただけで?
「目標金額(3,000円)、達成してる……!」
いや、達成どころか、百倍だ。
DLCどころか、廃課金ガチャまで回せる金額だ。
「す、すげぇ……。これが、ダンジョン配信ドリーム……!」
俺は震えた。
現代社会の錬金術、恐るべし。
「あ、ありがとうございます! 皆さん、ナイススパチャです!」
俺はカメラに向かってぺこぺこと頭を下げた。
紙袋がガサガサと音を立てる。
「よし、目標達成したな」
俺は満足した。
これ以上長居すると、ボロが出るかもしれない。
それに、熊(犬)も怖がってるみたいだし、そろそろ解放してやろう。
「じゃあ、今日はこの辺で! 見てくれてありがとー!」
俺は唐突に切り出した。
「えっ!? 師匠、もう終わりですか!?」
レイナちゃんが驚く。
まだ配信開始から十分も経っていない。
同接は200万人を超えようとしているのに。
「うん。お小遣い稼げたし、早く帰ってゲームしたいから」
俺は正直に言った。
35万円あれば十分すぎる。これ以上は強欲というものだ。
「じゃ、お疲れっしたー! ポチっとな」
俺はスマホの『配信終了』ボタンを押した。
ブツン。
世界中が熱狂の渦に包まれている最高潮のタイミングで、画面は無慈悲にブラックアウトした。
◇ ◇ ◇
——配信終了後のネット掲示板。
【悲報】紙袋の師匠、Sランク熊をワンパンで躾けて即終了
1:名無しの探索者
伝説を見た。
2:名無しの探索者
終わるの早すぎワロタwww
もっと見せろよ!
3:名無しの探索者
「ゲームしたいから」で切断とか、大物すぎるだろ。
200万人見てたんだぞ?
4:名無しの探索者
あの熊、最後めっちゃ安心した顔して逃げてったな。
二度と人間の前に現れないと思う。
5:名無しの探索者
これ、世界中でバズるぞ。
「Japanese Paper Bag Man」として。
6:名無しの探索者
あいつ何者なんだよ……。
握力でSランクねじ伏せるとか、物理法則バグってる。
7:名無しの探索者
とりあえず、俺たちの新しい神が生まれたことは間違いない。
崇めよ。
……こうして。
俺のたった十分間の「お散歩配信」は、ネットの歴史に爪痕を残し、切り抜き動画となって世界中へ拡散されていった。
そして、その映像を見た一人の男——アメリカ最強の探索者が、静かに立ち上がることになる。
「Fake(偽物)だ……。こんな人間がいるわけがない」
新たな波乱(噛ませ犬)が、太平洋を越えてやってくる。




