第七章 冬(2)
一月二十一日
雲一つない晴れ渡った空に浮かぶ太陽が、目に痛いくらい雪原を輝かせている。
レオンハルトが部屋の中で軽いストレッチをしていると、掃除道具を持ったミーナが入ってきた。
「ミーナ、いいよ。そんな、毎日やらなくたって。」
ミーナは濡れ布巾でまずサイドテーブルを拭く。
「だめよ。清潔にしなくっちゃ。洗濯物があったら、出しておいてね。」
レオンハルトは、ミーナが自分の服やら下着やらを洗う姿を想像した。
「オレ、結構元気になったし、自分のことくらい自分でするよ。ちょっと、手を見せてごらん。」
布巾をもぎ取り、彼女の手を取ってまじまじと見る。
「ほら、こんなに荒れて……頑張り過ぎだよ。たまには休んでゆっくりしなきゃ。オレのことはいいからさ。」
視線を感じて顔を上げると、ミーナは悲しいような、怒っているような複雑な目つきで自分を見つめていた。
「……その優しさ、少しでいいからジークにも分けてあげてよ。元気になったんだったら。」
レオンハルトは花が萎れるみたいに持ち上げていた手を下へ下ろした。
「屋根裏に閉じ籠ったきりなの。ご飯は食べてくれるようになったけど、全然口をきいてくれない。もう一か月にもなるっていうのに……このままじゃ、腐っちゃうわ。」
レオンハルトは、一つ瞬きして言った。
「ミーナはジークのことを許しているんだね。」
「許す? 許すって、何を?」
「理由はどうあれ、ジークはオレたちを裏切った。オレたちを殺そうともしたし、お兄さんを傷つけもした。死んでいたかもしれないよ。それに、氷の一族を苦しめ、世界のあちこちで不幸の種を撒いてきた。沢山の血と涙を流してきたんだよ。」
ミーナは唇を噛んだ。
「悪いことをした人にこそ、救済が必要なの。あたしが助けてあげられたらいいんだけど、何を言っても耳に届いてないって感じで、どうしたらいいのか……。あんた、お兄さんでしょ? たった一人の兄弟なんだから、助けてあげなさいよ。」
ミーナは視線を一旦床に落とし、言いにくそうに付け加えた。
「あんたはまだ、ジークのこと怒っているの? 嫌っているの?」
レオンハルトはふっと笑った。
「まさか。一度も怒ったり嫌ったりしたことはないよ。可愛い弟だと思っているよ。」
「じゃあ、何で助けてあげないの? 心配にならないの? 一か月も顔を見せてないっていうのに。」
レオンハルトはミーナの手を離して、ベッドの縁に座り、窓に目を向けた。
「ミーナ。ジークが求めているのは、救済ではないんだよ。」
「えっ? どういうこと?」
ミーナの疑問には答えず、独り言のように呟く。
「……そうだね。ミーナが許していて、助けてあげたいと言うのなら、一つ、やってみようか。」
きょとんとしているミーナを振り向き、言う。
「ジークをここへ呼んできて。いいかい? オレに連れて来いって言われたんだって言うんだよ。オレに言われて呼びに来たって。」
「え……そんなんで降りてくるの?」
レオンハルトはそよ風みたいに微笑む。
「それで降りてくるよ。絶対に。」
ミーナは首を傾げながら部屋を出て、屋根裏へと向かった。レオンハルトに言われた通り、膝を抱えて床に座り込んでいるジークフリートに告げると、今まで石のように動かなかった彼が、何と顔を擡げて立ち上がったのである。
驚いて言葉を失うミーナを尻目に、ジークフリートはゆらりと歩いて床の中央にある階段へ足を降ろした。ミーナは慌てて彼の後について行く。ジークフリートは糸で引っ張られているかのように迷いなき足取りでレオンハルトの部屋へ入った。ノックはしない。妖精城でもそうだった。この世界でのルールは知っているが、レオンハルトの部屋のドアはノックしないと決めている。ただそれだけのことだ。
いきなり入ってきた来訪者に対して、レオンハルトは動じることなく、自然に微笑みかける。
「やあ、ジーク。久しぶりだな。」
自分から呼んでおいて、白々しい態度ではあるが、ジークフリートにはすっかりお馴染みであった。
「何の用だ?」
一月ぶりに発せられた言葉は短い中に様々な思いが込められた、彼らしい緊張感を漂わせたものだった。レオンハルトは口元をきゅっと上げて、弟の顔を観察し、その後ろでもじもじしているミーナに言った。
「ミーナ、もういいよ。ありがとう。」
二人きりにしろ、ということか。ミーナは置いていた掃除道具を持つや、急いで部屋を後にした。
静かな部屋に二人きり。余裕の笑みで具に観察されるジークフリートは、出荷寸前の豚か、実験中のモルモットになった気分だった。それでも、負けじと睨み返す。お前は敵だと言うように。彼の自己防衛スタイルである。
「ちょっと手伝って欲しいことがあるんだ。」
先程の質問の解答だと気付くまで少し時間がかかる。
「手伝う?」
レオンハルトはせせら笑う。
「そう。お前にしか頼めないんだ。試したいことがあってね。失敗すると、ちょっと危ないけど……やってくれるよな?」
拒否権があるのだろうか。いや、初めからそんなものが用意されていないことくらい、彼は知っていた。自分は大きな歯車の中に嵌め込まれた小さな歯車に過ぎない。大きな歯車が回れば、自分も回るしかないのだ。妖精界から人間界へ、場所を移しただけで、その仕組みに変わりはない。彼にできる最大の抵抗といったら、睨むくらいなものであった。
昼になっても、ジークフリートはおろか、レオンハルトさえ部屋から出てこない。物音ひとつしない部屋の中で、一体何をしているのだろうと、さすがに心配になったミーナは、様子を見に行った。
ノックして返事を待たず、薄っすらとドアを開けてみる。と、信じられない光景が目に飛び込んできて、勢いよく部屋の中へ入るや、大声を出そうと、唇を上下に全開させた。それを見たレオンハルトが無言で、しっ、と人差し指を立てた。静寂は守られた。
ミーナが驚いたのは、ジークフリートが床に倒れ伏していたからである。その傍らに立っていたレオンハルトは、ミーナが大声を出さないのを見計らってしゃがみ、弟の腕を自分の肩に回しかけ、そっと身体を起こし、半ば引き摺るようにしてベッドの上に横たえた。ジークフリートはぐったりして、動く気配がない。
「大丈夫。眠っているだけだよ。」
毛布を被せて、戸口のミーナにそっと囁く。ミーナも小声で尋ねる。
「寝てる?」
「そう。しばらく眠ってなかったみたいだね。」
そこまで言うと、ミーナを部屋の外へやり、自分も出て、ドアを静かに閉めた。一息ついてからミーナが尋ねる。
「中で何をしていたの?」
穏やかに答える。
「ちょっと試したいことがあって、手伝ってもらっていたんだよ。」
「試したいことって?」
二つ目の質問はにこやかに黙秘する。ミーナは口をポカンと開けて、別の質問に取り掛かった。
「この一か月、何を言っても降りて来てくれなかったのに、どうしてあんたの言うことはすんなり聞いてくれたの? お兄さんの命令だから?」
レオンハルトは笑って首を振った。
「そういうことじゃないよ。いいかい、ミーナ。第一にオレが命令したのはミーナに対してであって、ジークにじゃあない。ミーナに呼んで来てって頼んだだろ? もし、ジークが拒否したら、ミーナが困ることになる。言われた通りできなかったことになるからね。ジークはミーナがオレに言い訳しなきゃならないのが気の毒だと思ったんだよ。」
「どうしてそんな風に思うわけ?」
「そりゃあ、ミーナが好きだってこともあるだろうけど、根本的に優しいんだよ。前に、いい人だってミーナも言ってただろう? あれは間違いじゃない。」
ミーナは呆けた顔でレオンハルトの緑の瞳を見ていた。
「第二に、彼が求めているのは、必要とされることであって、助けられることじゃない。ミーナがこの一か月、ジークを助けてあげようと頑張る気持ちは十分伝わっていたと思う。だけど、それじゃあ彼は救われないんだ。あれをやって欲しい、これをやって欲しいって、頼まれたいんだよ。渇望しているんだ。だって、ジークは、今まで誰からも必要とされていなかった。父親からも母親からも。終いには殺されかけて……愛されることはとっくに諦めていたけれど、まさかここまでとは思っていなかったはずだよ。眠れないくらい塞ぎ込んでも仕方ないさ。ショックから立ち直るのは時間がかかるだろうけど、ミーナが助けてあげたいと思うのなら、少しずつ、頼みごとをするといい。それでジークは安心して、眠ることはできるようになるよ。」
大きな目を赤くして、唇をかみしめ、泣くのを必死で堪えるミーナが、やっとのことで言う。
「ジークがそんなことを話したの?」
「まさか。言うわけないよ。」
「じゃあ、何で分かるのよ。」
レオンハルトは真顔でしばし考える。
「そこが、兄弟なんだろうな。」
一月二十七日
ジークフリートは、毎回とまではいかないが、食事時には屋根裏から降りて来て、皆と食卓を囲むようになった。また、ディーンもリハビリを兼ねて、夕食だけは下で食べるようにしていた。
これに、妖魔王と竜を加えると、ダイニングテーブルは実にバラエティの富んだメンバーでぎゅうぎゅうづめとなる。妖精のハーフと妖魔王が隣り合って、同じ料理を口に運ぶさまは、傍から見てもおかしな気持ちがして、脳天気なルイもさすがに軽口をきくことなく大人しく食事を摂っていた。
「何ていうか、壮観だね。」
レオンハルトが途中、思い出したように感想を述べた以外、誰も声を発することはなかった。
全員食事を終えると、レオンハルトは必ずジークフリートに食器洗いを命じた。ジークフリートは良いとも悪いともつかぬ表情で従い、黙々と食器を洗い上げる。似合わないし、手伝いに入る雰囲気でもなく、その場に微妙な空気が流れているのを、人間たちはじっと耐え忍んでいた。
ジークフリートが最後の皿を洗い終える頃、人数分の茶がテーブルに並べられる。茶葉をスパイスと一緒にミルクで煮込んだもので、身も心も温まろうとレオンハルトは言うのだが、本人でさえその実感はなく、くつろぎの時間とは程遠い、ぎこちない空気の塊が食卓に留まっているのだった。
カップがテーブルに置かれたり、茶を啜る僅かな音しか聞こえない中、ふと、独り言みたいに呟く声がする。
「王子にお尋ねしたいことがあるのですが」
彼を王子と呼ぶのはここでは一人しかいない。
「何ですか、先生。」
ディーンを先生と呼ぶのもただ一人。
「王子は、去年の誕生日に、私から逃れるため出国されたのですか?」
ただでさえぎこちない空気はあっという間に凍り付いた。レオンハルトはカップを手にしたまま、背もたれに仰け反って息を吐き出した。
「すごい質問をしますね。」
視線は自然と妹の方へ移る。大きな空色の瞳が心配そうにこちらを見ている。
「いいんですか、ここで話して。」
ディーンは確信的に頷いて見せる。
「どうぞ。遠慮なさらずに。ありのままをお聞かせください。皆が知らなければならないことですから。」
レオンハルトはカップをテーブルに戻して、一つ咳払いをした。
「逃げるように仕向けられた。それが正しい表現です。オレ自身は逃げる気なんかなかった。それこそが問題だったのです。この話をするには、もう一年前、一昨年の誕生日まで遡る必要があります。」
レオンハルトの二年前の話
一昨年の誕生パーティに、マーナからある医師がやって来ました。オレがいかにも食いつきそうなプレゼントをぶら下げて。
魔法アレルギーの治療に関する重大な情報でした。魔法アレルギーを治す鍵はシザウィー・ホワイトにあるというのです。彼は言いました。その力を引き出すには、妖魔王と接触して協力を仰ぐ必要があると。もちろん、妖魔王がラエルだなんて考えたこともない時の話です。
妖魔王は当然ながら妖魔界に住んでいるはずだから、妖魔界へ行かねばなりません。昔の記録を辿ると、妖魔界の入り口はまさにシザウィーにある、マーナの医師団を派遣するので、共に妖魔王のもとへ行ってもらえまいか、と言うのです。これで、はいはい、そうですか、なんてことにはなりませんよね。初代国王と妖魔王に何らかの関わりがあったらしいことは知っていましたが、妖魔界の入り口がシザウィーにあるなんて聞いたこともないし、第一、その情報源がどこから来たんだか、正しいかどうかすら怪しい。到底信じることなんてできません。ティルート教徒ならともかくね。
でも、相手はとても真面目で誠実な感じの医師でしたし、彼が嘘をついている節は見当たりませんでした。もしかしたら、いいように使われているのかもしれない。それで、この場は取り敢えず納得したふりをして、自分の一存ではどうにもできない、城の者と相談してから返事をするのでしばらく時間が欲しいと言いました。
魔法アレルギーの治療法を見つけたいのは山々ですが、自分の置かれた立場とか、シザウィー国内外の現状とかを鑑みて、今は不確かな希望のために時間も金も人材も費やすことはできないというのが、オレの結論です。後で適当な理由を付けて、彼の申し出をやんわり断ろうと思っていたのです。
ところが、この話はこれで終わりではありませんでした。
パーティの翌日、客人が皆帰って、一息ついた頃、夕食の席でアルバート王が急に告げたのです。魔法アレルギーの治療法をマーナの医師団が発見したが、それを薬に変える技術がない。シザウィーの医師団と連携して、新薬の開発をしたいと思っているのだが、許可してもらえまいか。そう、マーナの外交官に相談されたのだと。
まさか、別経路で王の耳に直接吹き込まれていたなんて考えもしませんでしたから、オレは驚いて熱いスープをそのまま飲み込んで、強かにむせてしまいました。
「それで、父上は何とお答えになられたのです?」
咳が収まったところで、オレはそっと聞きました。
「もちろん、許可するに決まっておる。不治の病を治せるようになるのだから、こんなに良いことはあるまい。」
得意そうな王を見て、オレは自分の顔面にへばりつく嫌な汗を掌で拭いました。叔父のガストンを責めるように睨むと、彼は何も知らないと言う風に首をぶんぶん振りました。オレやガストンの見ていない所で、上手い具合に王は丸め込まれていたのです。
「いつ、どこで、誰が、どんな段取りで、その新薬の開発が行われるのでしょう? 何か、具体的に決まったことがあれば、伺いたいのですが。」
作り笑いもいいところで王に質問してみました。王は口を尖らせて肩を竦めます。
「それは、これから煮詰めていくのじゃ。ただ、シザウィーで魔法アレルギーの第一人者と言ったら、レオンよ、おぬしじゃし、対するマーナではディーン・カウラという司教が一番なのだそうじゃ。この二人が中心になってやっていうことになると申しておったぞ。」
「ディーン・カウラ司教は魔法使いですよ。ご存知とは思いますが……。魔法アレルギーの患者は例外として、魔法使いが我が国へ入国することは法律で禁止されております。私が医師団を連れてマーナへ行くのなら問題はありませんが、その件について外交官殿は何と言っていましたか?」
王はみるみる狼狽えて、髭をいじりだしました。
「いや……カウラ司教の方がマーナの医師団を連れて、シザウィーへ赴くと申しておった。」
そわそわする王に、オレはそっと尋ねました。
「もしかして、書類にサインをさせられませんでしたか?」
「うむ。サインもしたし、印も押したぞ。一枚はわしが持っておる。」
悪びれもせず言うものです。
「……後で見せてください。」
王から書類を受け取り、部屋に戻ってしげしげと眺めました。紛れもない、正式な入国許可証でした。諸手続きをお互い済ませた、一年後、オレの誕生日が来訪日に当てられていました。他の国の人が多くやって来る日だから、抵抗感が少ないと思ったのでしょう。オレが深く長いため息をついていると、ガストンがノックもそこそこに入って来ました。
「王子、それには何と書いてあるのですか?」
「カウラ司教の入国を許可するって。割り印までして、念がいってるよ。王に直接頼み込むとはね。王が許可したものを、オレたちにとやかく言う資格はない。してやられたな、ガストン。」
ガストンはずんぐりとした拳を震わせました。
「どうするのですか」
「どうって……どうもこうもないよ。オレたちにできることは、魔法使いの入国を禁じている法律の例外を増やすことくらいさ。王に法律違反をさせるわけにはいかないからね。滅茶苦茶手間がかかるけど、背に腹は代えられない。まさか、王がご乱心ゆえの間違いだなんて言えるわけないじゃん。魔法アレルギー治療薬の開発っていう大義名分があるだけましだよ」
ガストンは鼻息も荒く詰め寄ってきます。
「何? 大義名分ですと? すると、あれは真っ赤なウソでございますか!」
オレは飛んでくる唾を躱しながら答えました。
「全部が嘘とは言わないけど、この話には何か裏があるよ。」
前の日にマーナの医師が話してきた内容について、ガストンには教えませんでした。妖魔王に会いに行くとか、妖魔界の入り口がシザウィーにあるとか、気の毒な叔父にこれ以上心配の種を増やしたくなかったのです。
「それにしても、気に入らないね。人の良いアルバート王を利用して、誰もいない所でサインさせるなんて、やり口が強引で汚い。聖職者のやることか?」
「確かに、怪しいですな。司教の経歴を送らせましょうか?」
オレは鼻で笑いました。
「向こうから送られてきたものなんて、いくらでも好きなように書けるんだ。信憑性ゼロだぜ。こっちから出向いて調査しなきゃ意味がない。」
「誰が、調べに出しますか?」
オレは少し考えてから言いました。
「この件はオレが手配する。ガストンは法の書き換えの方を頼む。見てろよ。生臭坊主め。尻尾を掴んで、シザウィーに足を踏み入れられないようにしてやる。」
「すると、法の書き換えは無駄に終わりそうですな。」
ガストンとオレはにやりと笑い合いました。
「そういうことだ。だけど、一応、やっといてくれよ。」
その日の夜遅くに、シグマという諜報部の者を呼び、先生の調査を命じました。彼はシザウィー科学研究所の所長を兼任しておりまして、二つの地下組織を統括する、とても有能な男なんです。シザウィーを陰で支えているのですよ。
「ディーン・カウラ司教の生い立ち、人となり、家族構成、親しい人物、生活習慣、ありとあらゆる面から徹底的に調べて欲しい。それから、彼の三代まで遡って、シザウィーと関わりのあるものがいなかったか、その辺も頼む。」
オレの命令に、シグマは表情一つ変えず言いました。
「調べるだけでよろしいのでしょうか」
彼の言わんとするところは分かっていました。シザウィーに害をなすと判断した場合、始末してもよいか、ということです。彼や彼の部下は秘密裏に問題を処理するのかが恐ろしく上手なのです。オレは、まだ会ったこともない人が、遠い異国の地で静かに殺される姿を想像して、固唾を飲みました。
「取り敢えず、調べるだけでいい。たとえ悪党だったとしても、坊さんに手を出すなんて気持ちのいいものじゃないよ。」
シグマは良いとも悪いともつかない表情で、
「承知いたしました。王子がそう仰るのでしたら、私は従うだけです。」
と、言い残して立ち去りました。
彼は愛国心の強い男で、シザウィーの脅威となる者をそうと知っていて見逃すなんて、本来ならあり得ないのです。けれど、忠誠心の方が勝っているから、命令違反はしません。彼のそんな性質に感謝しています。だって、今こうして先生と会うことができなかったかもしれないのですからね。
一月経って、シグマが調査報告してくれました。
「遅くなりまして、申し訳ございません。情報収集に手間取りました。」
彼から受け取った資料に早速目を通しました。
「何か妨害でも?」
「いえ、妨害などあの国ではありはしません。全くの無警戒で、潜入は容易でした。ただ・・・」
「ただ?」
「カウラ司教という人物の情報があまりにも少なすぎるのです。」
「へえ……」
確かに、もらった資料は、若干二十六歳にして司教の座まで登りつめた華々しい経歴を持つ者にしては、薄っぺらで乏しい内容でした。
「家族は妹一人か。」
「はい。十六年前に、故郷の村が魔物に襲われ、火事になって焼け出され、生き残ったのは兄妹二人きりだそうです。父母も祖父母もその時に亡くしています。彷徨い歩いて辿り着いた街で、たまたま通りかかったティルート教の修行僧に拾われ、マーナへ渡り、孤児院に入りました。」
お兄さんの方はその後すぐ修道院へ行き、魔法と学問を修得しつつ、信仰の道へ。妹さんも十二歳でやはり修道院へ。二人は大変仲の良い兄妹で、週に一度必ず会っていました。兄妹とは言え、厳しい戒律がある中、修道士と修道女がお互いの施設を頻繁に往き来するのはあまり好ましいことではなかったはずです。特に、出来の良い兄は着々と上位へ登りつめている最中。出世街道を突き進む障害になり兼ねない行為だったはずです。けれど、大切なかけがえのない存在である妹を、放ったらかしにはできない。責任感が強くて、思いやりがあって、誠実で……これがディーン・カウラという青年の人となりでした。
「エルファソ……聞いたことのない村だな。」
「マーナの南西に位置する、小さな集落だったようです。随分古くからある、特定の血族のみで組織された自治体で、他にも同じ構成の集落が世界にいくつか点在しているとマーナの古文書にありました。」
「特定の血族?」
オレの問いに、シグマは口の中の空気を噛むように顎を動かしてから答えました。
「エルファソの場合、時の部族と呼ばれています。他に、火の部族、水の部族、風の部族などの血族があって、それぞれ自治体を構成して、この世界を陰で支える役割を担っていたのだとか、統治していたのだとか諸説あるようですが、今はどこも廃れていて、確かな文献もなく、伝説と化しています。ただの作り話と考えている有識者もいるほどです。我が国では一切の記述が見当たりません。恐らく初代国王が亡くなった時に全て処分されたのでしょう。」
途中からシグマの声は遥か彼方へ遠のいてしまいました。風の部族という単語が耳に入った、その時から。眠っていた記憶が叩き起こされた瞬間でした。
数年前、オレを護衛していて命を落としたアーサー・フロントの言葉が蘇ったのです。彼は風の部族の末裔で、全ての部族は結晶を守る責を負っているのだと、そう言っていたのです。顔色が悪くなったオレを見て、シグマが聞いてきました。
「この件について、もっと詳しく調べた方が宜しいでしょうか? 時間の都合上、エルファソにも行かず戻ってきてしまいましたので……」
オレは首を振りました。
「いや、いい。調べた結果、シグマはカウラ司教に対して悪印象を持つことがなかった。だから深入りせず引き返してきた。そうだな?」
「はい。彼の部屋も捜索しましたが、シザウィーの脅威となるようなものは出てきませんでした。鍵の掛かった引き出しに入っていたのは、ウィスキーの小瓶と煙草だけです。このようなものが見つかったからといって、彼の人間性が疑われるものではありません。返って人間味が増して好印象を抱きます。我が国で、酒と煙草を鍵付きの引き出しにわざわざ隠す者が果たして何人いるでしょう。ほんの少しの嗜好品をも罪とみなす意識がある。その彼が敢えて犯罪行為に走るとは考えにくいことです。もし、万が一そのようなことがあるとすれば、私たち人間に対してではなく、故郷と家族を奪った魔物へ矛先が向くはずではないでしょうか。少なくとも、シザウィーはマーナと中立の立場ですし、エルファソなどという辺鄙な村のことなど知りもしない。恨みを買ういわれは微塵もないということです。」
オレは笑って頷きました。
「分かった。手間を取らせて悪かったな。カウラ司教が率いるマーナの医師団と我々は良好な関係を築けそうだ。魔法アレルギーの治療法を確立できる日も、そう遠くないだろう。」
シザウィーホワイトや妖魔王云々の話はしませんでした。不確かなことで彼を混乱させたくなかったのです。それに巻き込みたくないというのが正直な気持ちです。オレの訳の分からない人生なんかに。
さて、それから程なくして、おれはマーナへと旅立ちました。トビーにテッドという機転の利かないとぼけた兵士二人を護衛に見立てて連れて行きました。もちろん、行き先がマーナであることは城の者に秘密です。どこか適当な国を挙げて、親睦を深めるためとか言い訳して出掛けました。トビーもテッドも脳天気な性格ではありますが、口止めはある程度できます。オレの行動を妨げる程の気概もないから、融通が利いて丁度良いパートナーなんです。
前年、様々な国を親善大使として訪れていましたが、マーナは初めてでした。シザウィーの敵となりうる国だけを巡っていたので、マーナは全くの対象外でしたから。
国民の殆どがティルート教徒ということもあるのでしょう。道行く人、皆穏やかで親切で、妙に心が疼いたものです。兵士二人を置いて、先生か暮らしている修道院へ早速忍び込みました。修道士の出で立ちをして。でも、その時間帯は礼拝で廊下にも部屋にも誰もいなかったので、変装する必要もなかったようです。シグマが言っていたように、無警戒で、どの扉も鍵はかかっていませんでした。先生の部屋も例外ではありません。
静かな昼下がりでした。遠く礼拝堂から讃美歌が響いてきて、外では小鳥の囀りが聞こえてくるんです。こんな平和な場所で、悪いことなんか思い浮かびもしないでしょう。家探しするのも忘れて、オレは柔らかな旋律に耳を澄ませ、佇んでいました。
そんな時、自分の視界に歪みみたいな感覚が生じたのです。瞼を何回も瞬かせ、擦ったりしましたが、違和感は治りません。おかしいな、と歪んでいる部分をよくよく目を凝らして見てみました。板張りの床の一部なんです。そこが光を吸収して黒ずんでいるようにみえるのです。
オレは恐る恐る、床板を剥がしにかかりました。縁を傷つけたりしないよう、ナイフを慎重に刺し込んで、刃先をちょっと傾けました。すると、床板はこともなく浮き上がって剥がすことができたのです。
その下に、白い布で包まれた太い棒状のものが納められていました。からからの喉を鳴らし、白い布を取り払ってみると、中から……白い宝剣が出てきて、危うく声を上げるところでした。閉じられていた記憶の蓋が開け放たれ、過去の致命傷ともいうべき出来事が一気に脳内へ流れ込み、充満した瞬間だったのです。
アーサー・フロントがオレを殺すために持っていたのと、全く同じ代物でした。そして、彼はオレを殺すことができず、殺しを命じた化け物たちに寄ってたかって傷つけられ、発狂したオレは魔法を発動して化け物たちを消し去り……城へ兵士を呼びに行って戻ってきたら彼は細切れにされていて……オレは、そんな記憶と共に生きていくことに耐えられなくて、この剣で死のうとしたのです。それをある人物に止められ、この時の記憶を封じ込めてもらったのです。でも、記憶の蓋は開いてしまった。
アーサーさんの惨殺死体。それに、魔法という名の、醜い感情の塊。オレはあの時同様、気が気じゃなくなって、咄嗟に剣を抜き、喉元に突き刺そうとしました。けれど、寸手で踏み止まりました。あの時とこの時とでは、大分状況が違う。背負っているものが違っていたのです。王や妃やガストンや、城の皆、シザウィーの国民を遺して無責任に死ねない身になっていた。そういう状況へ知らず知らず追い込まれていたのです。
騙された、してやられた、と思いました。それと同時に、カウラ司教がアーサーさんに殺しを強要した首謀者なのか、それともアーサーさんと同じく身内の命と引き換えで殺しを強要されているのか、どちらなんだろうとも思いました。それをまずは知る必要がありました。後者であることは分かりきっていたのですが。
さて、発見した宝剣はどうしたかと言いますと、持参していた組み立て式の棒を布にくるんですり替えました。長さといい、重さといい、まずまずの感じで、ディーンさんが余程悪趣味でない限り中身を確認することもないだろうと考えたのです。オレが見て、何の魅力もない代物ですし、ましてや聖職者が剣の手入れをしたり、眺めて愛でたりするなんて、到底思えませんからね。聖職者の手元に置いておくには、あまりに物騒で汚らわしい。こんなもの持たせてはいけないし、使わせるなんてもってのほかです。
オレは外へ出て変装を解き、街行く人を捕まえて尋ねました。
「私は旅の者で、悩みを抱えております。ご高名なディーン・カウラ司教様にお話を聞いていただきたいのですが、お目通りするにはどうしたら良いのでしょう?」
その人は恐らく四十代のふくよかな女性でしたが、我が事のように気の毒がって真剣に答えてくれました。
「まあ、悩んでらっしゃるの? 司教様に直接お会いしなければいけないほどだなんて、お気の毒に……。そうねえ。司教様はお忙しい方だから、個人的な用事では難しいと思うわ。運が良ければ、大聖堂の懺悔室でお話を聞いてもらえるかもしれないけれど、週に一回だけで、それもいつか分からないし、お互い顔が見えないようにしてあるから、どの方が司教様かも分からないでしょうね。」
オレは遠回しに言いました。
「実は、司教様のお顔も声も存じ上げません。こちらへは今日初めて伺ったもので。」
「まあ、そうだったの。なら、まずは日曜礼拝へ行くといいわ。聖書の一節を読み解いてくださるのよ。一般の人も参加できるから大丈夫。」
オレは残念そうに言いました。
「日曜まではいられないのです。仕事で国へ帰らなければならないもので……」
「まあ……それは困ったわね。」
彼女は本当に困った顔をして、手を組み、胸に当てて祈るような仕草をして考え出しました。そして、何か思いついて、戸惑いながらもそっと教えてくれました。
「これはね、あまりお話ししちゃいけないことなんだけど、悩める人のためなら、きっと神様も司教様もお許しくださると思うの。司教様はね、週に一回、妹さんと会うために公園へお出かけになるのよ。妹さんは修道女で、本当はお二人とも自分たちの用事で外出したり、兄弟だからって男女が気軽にお喋りしたらいけないんだけど、たった二人の肉親で、お互いが心配なのよね。それで、公にはできないけれど、こっそり会ってらっしゃるの。皆が知っていて、知らないことにしているのよ。見ても見ないふりをするの。もちろん、話しかけるなんてダメ。司教様のお立場が悪くなってしまうもの。でも、遠まきにお顔と声を確かめるくらいなら、問題ないと思うわ。今日が丁度その日なの。あと一時間くらいしたら、西の公園へ行ってごらんなさい。黄金色の巻き毛で空比呂の瞳をした、天使のようなご兄弟よ。すぐにわかるわ。」
親切な女性にお礼を言って別れ、教えてもらった公園へ向かいました。公園は思ったより広くて、上手く狙いの人を見つけられるか不安になりましたが、人影もまばらで、待ち合わせに適した場所は噴水かベンチくらいしか見当たらなかったので、オレはその二つが見える茂みに隠れて、時が来るのを待ちました。
小一時間が過ぎた頃、ほぼ同じタイミングで二人は現れました。白いローブを身に纏う、やせ形で背の高い男女。午後の陽ざしを受けて金の巻き毛が神々しいまでに光輝いていました。いや、光っていたのは髪の毛だけではありません。全身が暖かな光で包まれていたのです。オレには、この世の全てが光って見えるのです。光り方には違いがあって、心のこもった物程、心ある人程、綺麗な光を持っている。オレはそんな光を渇望し続け、常に飢えたまま生きてきました。あなた方兄妹の光は格段に美しい、独特な種類の光り方をして、オレの心に迫ってきたのです。
アーサーフロントが大事に持っていた息子さんの花の絵の栞。あれも確かに素晴らしい強烈な光を放っていました。それから、アルキース・ブレイズマン。彼はオレがかつて研修医をしていた魔法アレルギー専門病院の患者でしたが、彼の光もまた、華やかで魅力的なものでした。
どちらもオレにとって特別で、かけがえのない光です。これらを超える光に出会うことはないと思っていました。けれど、あなた方の光は、今まで味わったことのない、別次元の光り方をしていたのです。どこまでも穏やかで、煌びやかに自己主張するような激しさがないのです。愛情による輝きというのは、どこにでもあります。優しさとか、喜びとか、直向きさ、そういうのとも違う。
では、何なのだろう? オレは二人の様子を食い入るように見つめていました。たぶん、お互いの近況とか、体調とかを確認し合っているだけなのでしょう。二人とも、噴水の縁に腰かけて、終始笑顔でいかにも仲の良い兄妹って感じで話をしているのです。そんなに遠くないのに、不思議と二人の声は耳に届かず、会話の内容は全く分かりませんでした。
おかしいな、と思うより早く、オレの耳に飛び込んできたのは、自分の泣き声、嗚咽だったのです。いつの間にか、オレは涙をボロボロ零しながら、声を上げて泣いていたのです。
この時、ようやく光の正体が分かりました。慈しみの心です。あなた方兄妹の、お互いに慈しみ合う心が、光となってオレの胸に染み入り、魂を揺さぶっていたのです。シザウィーではあまりない感覚だったから気付くのに時間がかかりました。本で読んだことのある、辞書に載っているだけだった言葉の意味を、オレは初めて知りました。これが、慈しむということなんだって。
二人に見つかる前に、その場を立ち去りました。泣きながら歩いているオレを、道行く人が何人も心配して声を掛けてくれましたが、上手く答えることもできなくて、首を振って誤魔化すばかりでした。悲しいのか、嬉しいのか、良く分かりません。色々な感情が溢れてきて、自分でもどうしようもなかったのです。
そうして、当て所なく彷徨い歩いているうち、マーナの郊外まで来てしまいました。びっくりしました。どれくらいの時間、どのくらいの距離を歩いたのものか、見当もつかないのです。空は曇っていて、太陽の高さも分からない。街には所払いしたトビーやテッドが帰りの遅いオレをさすがに心配しているはずです。
辺り一面は背丈ほどもある夏草に覆われているし……。取り敢えず、懐中時計を見ようと懐に手を突っ込んだ時、ふと、誰かに呼ばれた気がして、耳を澄ませました。それは、人の声ではないようでした。頭の中に信号が直接送られて、何かを知らせようとしているみたいなんです。オレはその信号に導かれて、ふらふらと歩き出しました。
草の海を掻き分けて行くと、やがて大きな空間へ抜け、目の前に広がる光景に思わず息を飲み、立ち止まりました。一見、荒れ野原に見えました。でも、よく見ると、草叢の下に黒いものが沢山転がっていて……木造家屋が焼け崩れた跡だったのです。それが至る所にあって……つまり、ここが、あのエルファソなんだってことは容易に想像できました。高鳴る胸を押さえつけて歩を進めると、煤けた石造りの建物が見えてきて、オレは否応なしに飲み込まれるようにしてその建物の中へ入りました。
建物の二階、中央部に円蓋の付いた部屋があって、ぼんやりとした光の中、老紳士が揺り椅子に揺られて、こちらを窺っています。オレは言葉もなく、その落ち窪んだ瞳を見つめました。どこかで会ったことがあるような気がして……。すると、老紳士の方から話しかけてきたのです。
「ほほう。どうやら君には私が見えているようだね。こちらで見えるようにしているわけでもないのに、大したものだ。」
言っている意味が分かりません。暗闇ならともかく、少しは光が入っているのだから、姿が見えて当然じゃないかって思ったのです。でも、オレはそのことには触れず、別の質問をしました。
「私を呼んだのは、あなたですね?」
老紳士は笑うように、顔を少し歪めました。
「君を呼ぶ? 私がかね? 私はただの幻だよ。幻は人を呼び寄せたりしない。人が勝手に引き寄せられるのだよ。」
「え……? だって……」
声が聞こえたような気がしたのに、と言うより先に、老紳士が告げるのです。
「いや、ただの、はちょっと違うかもしれないね。私はある方のご命令でここに留まって行く末を見守っているエネルギー体のようなものだよ。人間に分かりやすく表現すると、幻、ということになる。君が見ているこの姿は、ここに強く残っていた思念と結びついて作られたもの。」
「残留思念……?」
「そういうことだ。知っているじゃないか。」
オレは首を振りました。口から出してみたものの、どうもピンとこない語彙でした。
「君を呼んだものがあるとすれば、それはたぶん、この残留思念の仕業だろうね。」
オレは勇気を出して聞きました。
「誰の残留思念なんですか?」
老紳士はにやりと笑ったみたいです。
「誰のって、決まっているさ。ここに留まっている思念なんだから、ここに元々住んでいた人間のものだよ。」
「つまり、エルファソの村長さん……時の部族の長、ということですか?」
オレの声は震えていました。老紳士は答えず、ただにやにや笑っています。オレは本題に入りました。
「ここ数年、毎年こちらへ来ていた若い男性がいるでしょう? その人のことで知っていることがあれば教えてもらいたいのですが。」
老紳士は少し言い淀んでいました。
「そんなことを聞いてどうしようというのかね?」
「……彼を、助けたいのです。」
口を突いて出た言葉に、我ながら驚きました。助けたいって何だろうと。老紳士はオレの目をしばらく見つめてから、観念したように話してくれました。
この村で昔、何が起こったのか。先生がどんな思いでここを去り、戻って来たのか。そして、オレに何をして、自分はどうするのか……。震えながら聞いたものです。
アーサーさんと同じく、先生も世界を滅ぼす破壊者たるオレを、あの宝剣で葬り去るよう人ならぬ者に命じられて苦しんでいました。アーサーさんは元剣士でしたから、まだ理解できます。でも、先生は刃物と全く無縁な聖職者です。悪党であろうと、人は人。人を殺すなんて別世界の話だったでしょう。なのに、選ばれてしまった。しかも、大切な妹の命を天秤に掛けられ、引き下がることもできない。先生の決断は、オレを殺す方へ下されました。その決断は正しかったと思うのです。何と言っても、オレは世界を滅ぼす破壊者で、ミーナは天使みたいに清らかな聖女である上に、血を分けた唯一の肉親ですからね。比べる必要もないのです。そこまではいい。問題は、その後です。先生は、オレを殺したその後で、自分も死ぬのだと老紳士に宣言しました。
オレは、アーサーさんが殺されたしまったあの日、確固とした決意で死に臨まなかったこと、そして、逃げ道を用意され、ほいほいと忘却を選んだ自分の不甲斐なさを鑑みて目の前が真っ暗になりました。死なないなら死なないなりにやるべきことが沢山あったのです。あれから五年の月日が流れていました。自分なりに必死で生きてきたつもりです。けれど、今となっては貴重な時間を無駄に費やしたとしか言いようがありません。オレは、自分が何者であり、醜い感情の塊が何で、強制的に生かされている理由は何なのか知っていなくてはならなかったのです。現実から安易に目を逸らしてしまったために、同じ過ちを繰り返そうとしていました。罪のない人を恐怖と絶望の淵に追いやり、死に至らしめようとしている。これではアーサーさんの二の舞です。最悪の事態を何としても阻止しなければなりません。過去の出来事は変えられない。でも、これから起こる出来事なら・・・オレは、老紳士に訴えました。
「彼を助けたい。人を殺すことも、命を絶つことも止めさせたいのです。」
老紳士は冷ややかに笑いました。
「だったら、世界が滅ぶのを、君の手で止めてみるかね?」
オレの手で止める? そういう選択肢があるなんて考えもしていませんでした。諸悪の根源たる自分にできることは死ぬことくらいだと思っていました。だから、おれが老紳士に聞きたかったのは、自分が死ねば世界も先生も助かるのかってことだったのです。シザウィーの行く末も気掛かりではありましたが、世界がほろんでは元も子もないですから。老紳士に自殺の後押しをしてもらいたかった、即ち、「だったら、お前が死ねばいいのだ」と言ってもらいたかったわけです。けれど、老紳士の問いかけに、ふと思い起こすことがありました。人ならぬ者が、仮に世界を救うため、オレを殺す算段をしていたにせよ、アーサーさんのように善良な人間を操り、痛めつけ、挙句の果ては残酷に殺したのです。そんな者たちが救った世界に、何の意味があるのでしょう。いっそ、滅べばいい。一人を犠牲にして成り立つ世界なんか、いらない。オレは、心を奮い立たせて、老紳士に言いました。
「そうします。そのために必要なものは何ですか? 知っていたら教えてください。」
老紳士は呆れたような顔をしていました。
「世界が滅ぶのは、時の流れで仕方のないことだよ。誰が悪いと言うのではない。君のせいでもね。それとも、時の流れを変えよというのかね、人間の君が。」
おれは間髪入れず、迷わず答えました。
「時の流れは変えられません。でも、運命を変えることはできます。必ず変えてみせる。どんな辛いことも耐えてみせます。だから、ヒントでも、試練でも何でもいい。あなたの持ちうる全てを私にください。」
図々しい申し出なのは重々承知です。けれど、何と言っても世界を救おうというのですからね。それはもう、藁にも縋る思いでした。老紳士はしばらく顎に手を当て考えていましたが、次第と嬉しそうに口元を綻ばせてこう言いました。
「なるほど。君はおもしろい人間だ。気に入ったよ。だが、今の君に私がしてあげられることは、昔話をすることくらいなものだ。それで構わないかね?」
オレは少し安堵して頷きました。
「構いません。聞かせてください。」
老紳士はそれから人間界のルーツや千年前の話をしてくれました。世界が滅びに向かっているわけを教えてくれたのです。気が遠くなる程壮大な話でした。老紳士が先に告げた通り、人間のオレに何ができるんだろうと頭を悩ませないわけにはいきません。それを察してか、老紳士はほっほと笑って助言をしてくれました。
「ここと同じような村が、世界のあちこちにあるのは知っているね?」
「はい。部族の村のことですよね。」
「そのとおり。部族の村には、城と呼ばれる、結晶を守るための建物がある。私たちがいる、この場所もかつてそうだった。今、ここには時の結晶はないのだがね。」
オレは公園で輝いている聖なる兄妹の姿を思い浮かべました。
「ここを去った兄妹が持っている……」
「そう。時の結晶のことは置いておくとしよう。君にひとまず伝えたいのは、それぞれの城にいるであろう、結晶の守り人のことだ。」
「守り人?」
「いや……人ではないね。厳密に言うと。人に代わって結晶を守っている存在がいる。私のようなものがね。彼らに会いに行きなさい。そして、話を聞くといい。君ならきっと良案が思いつくはずだよ。その上で、私の力が必要となったら、喜んで協力してあげよう。」
老紳士は、部族の村のある場所を大体ですが口頭で示してくれました。エルファソにこうして来られたように、必然的に手繰り寄せられるから心配いらないと老紳士は保証しました。一筋の光が見えた瞬間でした。
「何とお礼を言ったらいいのか……本当にありがとうございます。」
「礼を言うには、まだ早いと思うがね。次に会う日を楽しみに待っているよ。その時君は……これは私の勘だが、結晶を必要としていることだろう。君には知恵と勇気がある。ちょっとしたきっかけさえあれば、力を生み出すこともできる。そのきっかけが、結晶なのだよ。君にとってはね。いずれ分かる時が来る。望もうと望むまいと。」
こうして、おれの一年に及ぶ旅が始まりました。部族の城を巡り、結晶の守り人たちに会い、昔話をただ只管きいたのです。土の城では危うく連れの兵士を死なせるところでした。闇の城を探すことで、アルテイシアに出会い、多くの情報をもらい、その代償としてオレを幼い頃から支えてくれた大切な人を一人失ってしまいました。どの城で聞いた話も愉快なものはなく、その後には深い悲しみと絶望の源泉を掘り当ててしまったような気持ちで一杯になりました。老紳士が教えてくれたのは、火・風・土そして闇の部族の城だけです。他のは既に守り人がなく、魔物と化した妖精たちが蔓延って危険だと判断したのでしょう。
ちなみに、旅を始めるに当たり、一旦シザウィーへ戻ったオレは、すぐさま科学研究所へ降り、シグマに例の宝剣を渡しました。ダミーを作ってもらうためです。いくらなんでも、棒を布に包んだままってわけにもいかないと思ったので。ダミーは翌日、あっという間に出来上がりました。シグマの仕事の速さにはいつも感心させられます。その彼に七か月を費やさせたものがありました。オレが検査を依頼していた、砂と言うか土です。宝剣のダミーを受け取りに行った時、検査結果を教えてくれました。その土は、元々メキア産の園芸用土だったのです。先生も聞いたことはあるでしょう? シザウィーの墓地は巨大な温室の中にあって、まるで植物園なんです。そんな風にしたのはおれで、花好きなフロント一家へのせめてもの償いのつもりでした。アーサーさんの亡骸が眠っているのですからね。ぞんざいにはできません。アーサーさんの故郷であるメキアの花を咲かせたくて、メキアから取り寄せた園芸用土を墓地に敷きました。植物がうまく根付いて、花が咲き綻ぶようになった頃、奇怪な出来事が起こりましてね。オレが精神的にも肉体的にも弱っていた時期なんです。アーサーさんの惨殺事件の記憶には蓋がされていましたが、消えたわけではなく、夢の中で別の形を取って現れます。例えばそれはアーサーさんではなく、アルバート王になったりします。そして、オレが剣でもって切り刻んでいたりします。凶暴な夢から飛び起きて、まずすることと言ったら自傷行為です。無意識にやっているんです。ナイフで首や手首を切っていたことも、窓から身を乗り出していたこともあります。刃物を手の届かない所へ置き、窓には厳重に鍵を掛けるようにすると、今度は壁に頭を打ち付けたり、シーツを首に巻き付けて締め上げたりするのです。さて、そんな状況下で、食事が満足に喉を通るでしょうか? 無理ですよね。夢の中で切り刻んでいた相手を前に、平気な顔して肉料理を頬張るなんて考えられません。周囲が心配するから、少しは口にしなければなりませんでしたが、その後で慌ててトイレへ駆け込み吐くってことを、日々繰り返していました。当然、栄養不足になりますし、夢を見たくないから極力寝るのも避けて睡眠不足にもなります。体力は落ち、何より精神的に参っていました。
そんな時でも墓地の植物のことが気掛かりで、よく出掛けていたのです。その日、顔色の悪いオレを墓守のテオが気遣って休むよう声を掛けてくれました。オレもさすがに疲れて、小屋で休憩しようと思ったのです。でも、小屋に辿り着く前に、倒れてしまいました。起き上がろうと顔を地面から離した時、異変に気付きました。黒いはずの土が、真っ白になっていたのです。上半身を起こして、辺りをみると、自分を中心にして地面がどんどん円形に漂白されるみたいに白くなっていくのが見えました。上に生えていた植物はみるみるうちに枯れていきます。その先にテオが立っていました。こちらへ来ようとしています。オレは咄嗟に叫びました。
「来るな、逃げろ!」
テオは危険を察知したらしく、全速力で逃げてくれました。漂白は半径五メートル付近で止まりました。何だったんだろう? オレはしばし呆然と白くなった地面を眺めていましたが、自分の身に起きたある事実に気付いて恐怖しました。さっきまで汚水をたっぷり含んだ雑巾のようにクタクタで重たかった身体が、すっきりと軽くなっていたのです。この場所で、どんな足し算、引き算が行われたのか、容易に想像できました。
オレは、植物を枯らし、黒かった土が白くなる程栄養という栄養、エネルギーというエネルギーを文字通り根こそぎ吸い上げたのです。何が怖いって、これはオレの意志とは無関係に起きたことなんです。もし、テオがあの時オレの側にいたら、どうなっていたことか……! 危うく殺してしまうところです。オレは過度に疲れたり、栄養不足、睡眠不足になってはいけない体質なんだとこの時初めて知りました。中途半端に死へ近づいてはいけないのです。残酷な夢は終わりませんでしたが、この日を境にオレは睡眠も食事もしっかり摂るようになりました。悪夢を見るために眠り、惨殺した相手を目の前に、ありありとその情景を思い浮かべながら食事を口の中に押し込み、飲み込んで・・・ああ、だから、風の城でルイが話してくれた、春夏秋冬眠、生きるためだけに眠り、食べるってことの意味がオレには痛い程理解できたんです。
さて、話を元に戻しましょう。その時白くなった土をハンカチに包んで城へ持ち帰り、科学研究所で調べてもらうことにしました。科学研究所へ行くのは初めてでしたが、どこにあってどうやって行くのかは大体察しがついていました。シグマはオレの来訪に驚きながらも、快諾してくれました。七か月後の検査結果は想像以上のものでした。メキアの園芸用土に魔法が掛けられている、とシグマは言いました。そこまでは想定内です。問題はどんな種類の魔法か、ということでした。
「光の魔法、それもマイナスの性質のものが、この土には掛けられているようです。」
シグマの説明にハッとしました。ちょっと前に聞いたばかりの語彙があったからです。シグマはさらに言いました。
「これは、私の仮説ですが、シザウィーホワイトもこの土と同様、マイナスの性質を持った魔法が掛けられているのではないでしょうか。魔法エネルギーをほぼ無限に吸収してしまうような、強力な魔法ということです。こちらの器材でそれを実証できないのが残念な限りですが……」
オレは悩みましたが、シザウィーホワイトの研究に人生の全てを捧げているシグマのために、言うことにしました。
「シグマ、つい先日、、私の誕生祝の席にマーナの医師が来ていたのを知っているだろう?」
「存じ上げております。」
「その医師が言っていたのだ。シザウィーホワイトにはマイナスの魔法が掛けられていると。マーナの魔法使いたちが気の遠くなるような種類と数の魔法を掛けて、それが確認されたのだそうだ。つまり、シグマの仮説はマーナで実証済みということだ。」
冷静沈着なシグマも、さすがに動揺を隠し切れない様子でした。
「王子、どうか教えて頂けませんか? この砂は、土は、どこでどのようにして手に入れられたのですか?」
オレは首を振り言いました。
「こうなってはますます答えるわけにはいかないよ、シグマ。」
肩を落とすシグマを見て、気の毒に思い、言い訳みたいに付け加えました。
「ただ、一年後に物事は随分はっきりしてくると思う。私はとんでもない賭けをするのだ。吉と出るか凶と出るか、分からない。それでも真実を掴むことはできるだろう」
自分が始めようとしている旅は、自分探しの旅。オレ自身のルーツを探る旅になることは明らかでした。いずれ結晶を必要とする時が来ると、老紳士は言いました。それはオレが魔法を身に付ける時が来るということです。吉と出るか、凶と出るか・・・世界を救うのか、それとも破滅に導くのか。魔法の力をどちらに使うことになるのか、まだ確信は持てません。でも、自分の正体と生まれた意味、生きている理由を掴むことはできる。そこからどうするのか。まさに賭けだったのです。
一年後、旅を終えてまず思ったのが、世界を救うには、力が必要なんだということ。それも絶対的な力です。その力をオレは手にすることができる。しかし、どんなに強い力を手に入れたとしても、コントロールできなければただの災害です。世界を救う方向へシフトさせないといけないのです。オレが魔法をマスターするまで一年はかかると、アルテイシアは宣言しました。先生がシザウィーへ来る約束の日まで間がありません。まず、こちらの問題を解決してから、魔法の修得に取り掛かろうと考えました。
先生を来させない方法はいくらでもありました。けれど、どの方法も先生やミーナに良からぬ結果をもたらすことが目に見えていました。先生の手元にある宝剣はダミーです。ただの剣、ということです。それで、たとえオレを刺したとしても、十中八九死なない……強活性作用があるから、生半可なやり方では死なないし、下手をすると墓地の土や植物のように、生気を吸い取って先生を殺してしまうかもしれません。先生は宝剣を持って、シザウィーへ来なければいけないのです。アーサーさんがそうしたように。それが先生とミーナが生きる道なんです。でも、オレと出会ってはいけない。情が移って、オレを殺せないと判断されたら、この世ならぬ者たちに惨殺されてしまう。アーサーさんがそうであったように。万が一、非情に襲いかかれたとしても、死ぬ確率は先生の方が高い。うまくオレを殺せても、自殺するって言ってましたしね。それなら、とオレは思ったのです。オレの方から逃げればいいんだって。
でも、勘違いしないでください。おれが考えた逃避とは、単純に城を抜け出して、すたこら逃げるなんて子供じみた真似をすることではないのですから。敵の動きを封じること。それを最優先に行わなければなりません。負の連鎖を断ち切るのです。
世界を救うなど二の次。慈愛の光を放つ一組の兄妹を破滅から遠ざけることが何より大事でした。敵と戦うには、まず敵と会う必要がある。人ならぬ者、それ自体はオレの敵ではない。単なる操り人形なのですから。オレは、この時既に敵の本性を掴んでいました。部族の城を巡り、結晶の守り人から聞いた昔話を繋ぎ合わせるにつけ、答えはただ一つ、標的とすべきはただ一人に絞られてきたのです。誰なのか……皆はもう知っていると思うけれど。敵の本拠地の当たりもついていましたが、当時のオレでは自力で到達するのは無理です。それで、敵とオレとを繋ぐ接点に着目することになりました。即ち、例の宝剣です。
本物の宝剣は、シグマに預けていました。一年近く経っているから、もう調べているんだろうな、と思いつつ、結果も聞かずこっそりと研究所へ取りに行きました。
聞かずとも分かっているのです。アルテイシアの話の中で出てきたものに違いありません。不死身の男が自ら胸に刺して、仮死状態になった、まさにその剣です。オレは考えました。敵はあんなまどろっこしい真似をしてオレを仮死状態にしてどうするつもりだったのかと。アーサーさんや先生に刺させることにどんな意味があるのでしょう。せめて、善良で清らかな人間にっていう、優しさ? いや、そんなわけがない。優しさなんか微塵もない。人を八つ裂きにした挙句、惨たらしい殺し方をする連中なんです。じゃあ、何でしょう。オレに最悪な記憶を作って、絶望とか憎しみとか悲しみとか、そういうイメージを植え付けたかったのかな? それで世界を滅ぼしたくなるように仕向けたのでしょうか。仮死状態から覚めた時、悪魔に生まれ変わるようにって……。だったら、仮死状態にされて、行きつく先は決まっています。敵の本拠地に運ばれるのです。そこで、悪魔の教育を施されて、世界を破滅へと導く。そういうシナリオでしょう? オレは敵のシナリオを逆手に取る作戦で行こうと試みました。つまり、敵の望み通り、宝剣を刺してやろうじゃないかってことです。そうなったからには、オレを本拠地へ連れて行く他ないはずですから。で、オレは大人しく言うことを聞くふりをして、敵を討つ。討てなくてもいい。殺されても、最悪自殺したっていい。敵の狙いを外させて動きを封じることさえできれば、後はどうでも良かった。何せオレは、世界が滅んだって構わない、かけがえのない二人が助かればいいって考え方でしたからね。二人が助かったのを確認してからでなければ、世界を救おうなんて行動に出られなかったのです。本拠地へ行ってしまえば、先生から逃げることもできるし、連中にとって先生はお払い箱。まさか、わざわざ危害を加えられることもないでしょう。
オレとしては完璧な筋書きが出来たと思っていました。うまく敵をやっつけられたら、改めて結晶を取りに行って、魔法をマスターし、崩れた世界のバランスとやらを治してやろう。永遠の命を糧に、世界の未来を守っていくのだ。マイナス志向のくせに、この時はなぜか脳天気に構えていたのです。吹っ切れたというより、吹っ切らないと先に進めなかったんですよね。
誕生日の前夜を決行の日としました。長い長い夜の始まりです。王や妃、城の皆、それに世間一般には、自殺したのだと受け取ってもらわないといけなかったので、美辞麗句を並べ立てた遺書を認め、机の上に置きました。当てが外れて本当に死ぬかもしれない。その方が自然だとも思えましたしね。死んだと判断されてから火葬されるまで一週間。一週間あれば、人ならぬ者たちも余裕を持って迎えに来ることができるでしょう。
ところで、事を起こすに当たって、前もってやっておいたことがありました。自己暗示です。今まで無意識のうちにやったことはあるものの、自分の意志でやるのは初めてでした。掛かればもうけもの、というくらいの気持ちです。どんな暗示かって? 将来への絶望と自分自身への憎しみを込めて、死ぬ気で宝剣を胸に突き刺すのだ、そして敵と出会った暁には、断固として打ち倒すのだ、という内容です。情にほだされて敵を討ち損じるようなことがないようにしなくてはならなかったし、何より死ぬかもしれなくて痛いと分かっていることを思い切りやるっていうのは、とても勇気のいることでした。どれだけ痛いのか、苦しいのか、何度も似たような経験をしているのえ、余計に怖かったんですね。アーサーさんが亡くなったあの日の出来事を思い起こせばいつでも死ねるようなきがしていましたが、大事なのは、確実に宝剣を刺すことであって、死んでしまうことじゃあないんです。死んでしまえば全て終わるし、楽なんでしょうけれど、この時のオレにはそんな無責任でつまらない選択肢はありませんでした。
鏡に向かって、自分の目をしっかりと見つめ、指先で鏡を小突きながら、自らに命じました。命じたのだと思います。気づいた時には、床に座り込んでいて、何をしていたのか分からなくなっていました。暗示にかかりやすいというのは本当だったのですね。しかも予想以上の掛かり具合になっていました。ゆっくり立ち上がると、生気の失せた自分の顔が鏡に映っていて、一秒でも早く死にたい気持ちになりました。机の中にしまっていた宝剣を取り出して鞘から抜き、月明かりの差し込む仄暗い部屋の中で、宝剣の切っ先をぼんやり眺めて、切れ味の程を確認しました。ちっとも光らない刀身に絶望感を募らせて、切っ先を自分の心臓へ向けて一息に突こうとした、その時、背後に気配を感じて、宝剣をだらんと下へ下ろしました。ドアも窓も鍵が掛けてあったのです。天井の排気口には鉄格子が嵌っています。どうやって入ったものか……とにかく、後ろに誰が立っている。振り返るしかありません。そこにいたのは、見たこともない男でした。黒装束に身を包んだ、長い黒髪の男。真っ白な顔についている二つの目は瞳に色がなく、瞳孔が僅かに開いて、こちらを見ていました。白と黒のみで構成された、なかなかインパクトのある人物です。通常なら、びっくりして飛び上がりたいくらいのビジュアルでしたが、自己暗示が掛かりっ放しでぼーっとしているオレは、表面的な事でさして驚かない状態になっていたみたいです。
それよりか、この男が放つ雰囲気というか、存在感のようなものを、どこかで触れた気がして、何やら体中ざわざわ騒いでしかたありません。やがて、岩に水が染み出すみたいに、ゆっくりと脳裏へ浮かび上がってきました。彼は、あの男だと。オレは何故がおかしくなって、口の端を歪めました。
「あんた……アーサーさんが亡くなったあの日、会ったよな。この剣で自殺しようとした、オレを止めた……また止めに来たのか?」
男は答えず、彫像みたいに突っ立って動きません。オレの声だけが薄暗い部屋の中に響きます。
「今回ばかりは口車に乗らないぜ? オレが死なないと困る人がいる。いや、世界中が困ったことになるんだ。オレ一人の問題じゃない。」
ここで、ようやく男の声が聞けました。抑揚のない、単調な話し方です。
「何故、赤の他人のために命を投げ出す? 人が、世界がお前のために何をした? お前は世界を滅ぼす資格を持って生まれてきたのだ。部族の城でそれを確かめてきたはず。」
オレは首を静かに降って拒絶しました。
「何と言われようと、オレの気持ちは変わらない。」
オレの揺らぎない決意を前に、それこそ鉄壁であったろう、彼の精神は、脆くも突き崩されてしまったようです。見た目は無表情で何も変わっていませんでしたが、話が急展開したのです。
「彼を殺したのは、私だ。」
「……は?」
眉を額へ押し上げて、眠たそうに男の白い瞳を睨みました。
「彼だけではない。おまえが世話を焼いていた男を馬に撥ねさせたのも、私だ。」
男の言わんとするところを飲み込めず、何度も頭の中で反芻してみました。『彼』と『男』について、過去に出会った人々の中から抜粋しなければなりません。『男』の特定はすぐできました。オレの知り合いで馬に撥ねられたとなると、一人に限られました。アルキース・ブレイズマンです。ならば、『彼』は、オレにとってアルキース・ブレイズマンに匹敵する人物を指しているに違いありません。例えば、アーサー・フロントとか……。オレの心臓は激しく脈打ち、肺は壊れた鞴みたいな音を立てて、空気を口の外へ押し出し始めました。男は棒読みでもって告白を暴走させます。
「最初に来た殺し屋どもを殺したのも、後から来た連中を殺すよう、お前に命じたのも」
「皆、あんたの仕業だって言うのか?」
男は頷きもせず、淡々と言い放ちます。
「お前に害を成す者たちだ。命を脅かし、信頼させては裏切り、滅びの意志を遠ざける。それなのに、お前は人を憎むことも殺すこともできない。」
「だから、直接殺したり、暗示をかけて殺させたりしたのかよ? 殺し屋はともかく、アーサーさんもアルさんもオレに害なんか……!」
「害だ。己の利益のために、お前を殺しにやって来た。途中で取り止めれば許されるというものではない。」
男は静かに、けれどきっぱり言いました。オレは空気を殴るみたいに拳を振り降ろして訴えました。
「自分のじゃない。家族のためだろう? しようがなかったんだ! 結局オレを守って傷ついて……それで十分じゃないか!アーサーさんを悪く言うなよ。じゃあ、聞くけど、アルさんのことはどう説明する? 彼こそ何も悪いことなんかしてないぞ!」
「彼の行為こそ重罪だ。信じやすいお前の心を増長させ、生きる希望と世界の存在意義を教えた。」
オレは悲しくなって、声を震わせました。
「そんなに世界を滅ぼしたいのか? それとも、オレをとことん苦しめたいだけなのか?」
「お前を苦しめないためだ。」
男の弁明を、鼻で笑ってやりました。
「父親だからか?」
言葉が短すぎるし、突拍子もなかったんでしょうね。何のことか、一瞬分からなかったみたいで、男は沈黙してしまいました。オレは男を黙らせたことに満足し、勝利の余韻で口元を綻ばせました。
「気付いてないとでも思ったか? 初めて会った時からわかってたさ! 暗示の声の主と同一人物だってこともな。」
男の唇が、音もなく数回動きました。無表情でも驚いていることがよく分かります。いつものオレなら、こんな発想はなかった。でも、この時オレは催眠状態で、無意識が前面に出てきていました。つまり、無意識に、自殺を止め立て、日々暗示をかけ続けた男が何者なのかを、気付いてしまっていたのです。
「私が憎いか?」
小さくても良く通る声でした。オレは小馬鹿にしたように笑いました。
「憎んでほしいのか? あんた自分で言ったろう? オレは人を憎めないって。この上なく酷い目に遭わされたけれど、何故かな、やっぱりそういう気持ちは湧いてこないよ。感情の一つが欠けてしまっている。発育不全かもな。ま、あんたの計画は全て無駄に終わったわけだ。今度は大人しく、オレの計画をそこで黙って見てな。自分の息子が苦しみから解放される瞬間を……それが望みだったんだろう? 願ったり叶ったりさ。」
言い終えるか終えないかの間際、信じられないことが起こりました。ほんの数秒だったんです。殺気に関しては即座に反応できる。でも、それ以外は鈍いと言ってもいいくらい遅くて……。
男が、宝剣を持ったオレの手を掴んで、切っ先を自分の方へ向けるや、突き刺してしまったのです。こんなことになるなんて、思いもしてなかったから、視界から男の姿が消え、床でドサッという落下音を聞いても、何が起こったのか、すぐには理解できませんでした。足下に転がる艶のない黒髪と、空っぽの掌に張り付いた赤黒い液体とを比較するうち、ようやく事態を把握した有り様です。
半分眠っている状態だったオレの頭は急速に目覚め、血まみれの手が震えだしました。慌てて屈み込んで、男をそっと仰向けに寝かせ、頸動脈を探り、鼻に耳を近づけました。脈も息もあります。ただ、眠っているように見えました。けれど、その胸には刃が深々と突き立てられているのです。
「待ってて。今、人を呼んでくるから……!」
男の耳元に囁いて、部屋を出て行こうとしました。すると、オレが開けるより早く、向こう側からドアを開ける者がいたのです。オレはびっくりして声を上げようとしましたが、鋭い爪がついた手に口を塞がれ、おまけに部屋の中へ押し戻されてしまいました。凄い力です。オレは混乱して、もがきました。でも、相手の声を聞いた途端、動くのをピタリと止めました。
「落ち着け、落ち着くのだ。オレ様だ、レオン。」
一度聞いた声は忘れません。口から手が離れたところで、そっと質問してみます。
「ラエル……?」
銀の巻き毛に銀の瞳をした、装飾の多い出で立ちの、ちょっと迫力のある男です。ラエルというのは、オレが十一歳の時、夜な夜な殺し屋を返り討ちにして、その死体処理をしてくれた、銀の毛並みの大きな狼で、オレが名付けたわけですが、姿形は違えど中身は一緒に違いありません。アーサーさんが亡くなった後、人の姿に変わって影の護衛となってくれたんだってことは分かっていました。だから、一目見て、すぐにラエルだと気付いたんです。ラエルは同意するように微笑んでくれました。久々の再会を喜ぶ余裕なんてありません。オレは血の付いた手でラエルの袖を掴み、訴えました。
「ラエル、大変なんだ! この人、自分から……」
ラエルは、オレの両肘に手を添えて、受け止めるような形で穏やかに言います。
「分かっている。自ら刺したのだ。」
オレは穏やかではいられません。
「早く助けないと……! 人を呼んでくるから彼を見ててくれないか?」
ラエルは神妙な面持ちで首を振りました。
「よせ。人を呼んでどうする? お前の立場を悪くするばかりだ。それに……」
ラエルの視線が男の上に落ち、オレもつられて振り返りました。
「もう、どうにもならん。死んだようだ。」
それを聞いて、床にへたり込み、男の元へずるずると近寄って、首筋の脈をとりました。鼓動は止まっていました。死してなお、無表情を貫く男の顔を、オレはぼんやり見つめました。そこへ、ラエルが怒って言うのです。
「レオン、お前と言う奴は、全く何ということを……! 自ら命を絶とうとするとは、今日という今日は失望したぞ」
オレはびっくりして、頭を左右に大きく振りました。
「違う、誤解だよ! 自殺なんかしない」
「何? 死ぬ気満々で剣を構えていたではないか」
「違うんだ。死ぬ気で刺そうとしただけで、死ぬつもりはないんだよ。」
ラエルに困惑の色が浮かんでいます。
「死ぬ気で刺すも、死ぬつもりで刺すも同じではないか?」
この期に及んで、オレは苦笑してしまいました。そして、ラエルに事の仔細を話して聞かせました。彼の怒りは返って増したようです。
「だからと言って、何と危険な真似をするのだ。その剣が上手く働かず、本当に死ぬかもしれないとは思わなかったか? 仮死状態のお前を人ならぬ者がしめしめと襲いかかったかも知れぬのだぞ!」
オレは心外そうに言いました。
「それは、思ったけれど、カウラ司教が来るのは明日なんだ。ただ逃げたって妹さんの命がかかっているんだ。死にもの狂いで探すだろう。説得するとか、そういう話じゃないんだよ。彼を追い詰めないためには、オレが死んだことにするのが一番手っ取り早い。万が一、それでオレの身に何かあったとしても、悔いはないさ。オレはそれだけの人間だったんだと諦めるよ。」
ラエルが反論しようとするのを手で制して、続けました。
「いや、九十九%上手くいくって思ったからこそ、実行したんだ。なのに、こんな形で邪魔が入ってしまうなんて……今は仮死状態だけど、早く処置をしないと本当に死んでしまう。そうこうしているうちに、オレは死んだふりができる状況ではなくなってしまうんだ。参ったよ。」
倒れている男を忌々しく睨んだものです。ラエルは首を捻りながら言いました。
「この男は、人の心が読めるのだ。」
「えっ?」
俄かには信じがたい話でした。
「だから、お前の真の目的くらい、造作もなく分かったはずだが……」
「もしかして、暗示のせいかな? オレが自殺する気持ちになるよう暗示をかけてた、丁度その時の心を読んだのかもしれない。それにしても、何だってオレが死のうとするのを止めようとして、自分を刺してしまったんだろう?」
「それは無理からぬ話だ。この男はこの千年、死ぬことができず困っていた、筋金入りの自殺志願者なのだからな。治癒力に関してはお前より上だ。人の心を持ちながら、千年生きるのは酷であったことだろう。それを何とか持ち堪えることができたのは、お前の存在だ。なのに、お前は死ぬという。もはや生きる意味を失って、お前より先に死んでやろうと思ったのだ。」
「じゃあ、この剣に治癒力の高い者を確実に殺す力があるって信じてたんだな。自分も死ねるんだって……。」
「そのようだな。」
ラエルと話をしているうちに、いいことを思い付いて、オレは途端に笑顔へ変わりました。
「オレより治癒力が高いんなら、この剣を抜いただけで問題は解決じゃないか?」
言いながら、男の胸に刺さった剣に手をかけ、徐に抜こうとしたんです。
「待て、待て! 早まるな!」
ラエルが急に止め立てするので、怪訝に目を向けました。
「オレ様に良案がある。お前は死んだふりなどせずに良い。この男に手伝わせるのだ。」
「手伝わせるって、何を……?」
ラエルの犬歯……もとい、牙が剥き出しになりました。
「良いか? まずお前の立てた計画は順番を変えねばならぬ。結晶を手にし、魔法を完璧に修得するのだ。その上で彼女に会いに行くと良かろう。」
「彼女……」
首謀者が誰なのか、何となく分かってはいましたが、ラエルの一言でそれが確定しました。
「彼女の教育係がこの男だ。彼女に打ち勝とうと思うなら、世界を変えようと思うなら、この男を利用しない手はあるまい。」
「つまり、この人に魔法を教われってこと? オレの教育係にするのか?」
ラエルがにやりと頷きます。オレは全く笑えません。
「だって、この人は、オレの……いや、オレの何かなんて、この際関係ない。オレを散々操って、沢山の人を殺させて、大切な人を直接手にかけた張本人だぜ? そして、オレの目の前で自殺まで図ってみせた。一体この人が、オレの何に協力してくれるっていうんだ?」
仮死状態の男を指差して、オレは訴えました。ラエルは興奮するオレを宥めるように肩に手を置きました。
「確かに、この男はお前の望まぬことばかりやり通してきた。経過と結果は最悪だが、元はといえば、お前のためを思えばこそ。方向性がずれていただけのことだ。」
「ずれていたじゃ済まされないよ。」
「まあな。だが、過ぎたことをとやかく言っても仕方あるまい。……なあに、心配するな。この男は本来、従順な性格で、頼みごとを拒否することもそうそうない。他ならぬお前の頼みとあらば、喜んで協力するはずだ。」
「そうかな……」
この時のオレには、ラエルがどんな根拠で彼を信じられるのか、良く分かりませんでした。でも、ラエルを信じることはできます。
「オレは、何をしたらいい?」
オレの問いに、ラエルはごく当たり前のことを言いうみたいに答えました。
「お前はこれから眠って、記憶を失うのだ。」
オレはしばらく口を聞けなくなりました。
「……眠って、記憶を失う?」
念のため繰り返してみましたが、ラエルは否定もせず淡々と言うのです。
「そうだ。知識以外、思い出の全てを失う。消えるわけではないから安心するが良い。暗示で一時的に思い出せなくなるだけだ。その暗示はこの男が掛ける。」
オレは、男の死に顔をちらっと見てから、すぐラエルの方に向き直って、次の説明を待ちました。
「お前の持つ記憶は危険だ。ふとした拍子にお前を殺しかねん。一旦リセットしてから魔法を修得するのだ。この男の暗示と、お前の自己暗示が複雑に絡み合って、お前の心理は深いところでダメージを受けている。その状態で生半可に魔法を覚えたら、誤って何をするものか分からぬ。それに、お前は彼女と相見えようとしている。お前と彼女、そしてこの男にとって、いかなる意味をもたらすことになるか。今のところ幸いなことにこの男はお前の真意を掴んではいないようだ。四六時中心を読む程いかれてはいなかったわけだ。お前はこの男に計画の全てを打ち明ける必要はない。ただ、純粋に魔法を教えさせればよいのだ。お前か、彼女か、選ばせるような真似はするな。」
オレは、ふと気になったことを尋ねてみました。
「ところで、ラエルって何者なの? さっきから魔法、魔法って連呼しちゃってるけどさあ。狼どころか森の主ですらなかったのか?」
ラエルは憮然として答えます。
「これこれ。オレ様をその辺の森の、土着的信仰対象動物と一緒にしてくれるな。オレ様はその場、その場に合わせた最も美しい姿形になっているだけで、中身は少しも変わっておらぬ。溢れんばかりの気迫と品格と知性と魅力と魔力と輝きがまざまざと見えるであろう?」
もはや傲慢を通り越して清々しいまでの自信でした。最後の輝きに関しては、実際目に見えていたので、一段と真実味を帯びて聞こえてきたものです。
「うん。見える、見えるよ。初めて会った時から特別な存在だって思ってた。でも、ここに住んでいると、神仏の類に疎くなってしまうみたいで、考え得る特別な存在って言ったら、森の主くらいなものなんだよ。」
ラエルは顎を数回撫でながら、にやりと笑って言いました。
「確かに、お前は魔法や神仏とは無縁の生活を送って来たのだから、仕方ないな。では、この際だ、はっきり教えておいてやろう。オレ様こそが幾多数知れぬ妖魔の頂点にして妖魔界を統べる絶対王者、妖魔王だ。」
オレは大分ぽかんとして馬鹿面を曝け出していたと思います。
「妖魔王って……実在するんだ。それも、ラエルだなんて……。」
「オレ様に言わせれば、人間界が成り立っていることの方が、よほど信じられぬわ! ついでに、お前もかなりの変わり種だ。オレ様は必然的に存在しているが、お前は奇跡的な存在なのだ。」
ラエルに指さされて、項垂れました。
「奇跡っていうか、何かの間違いなのかもしれないね。」
「間違いなどと卑下するな! オレ様が奇跡と言ったら、奇跡なのだ!」
詰め寄って、肩を掴んで唾飛ばしながら怒鳴るんです。それが妖魔王だなんて、不思議過ぎて笑っちゃいますよね。オレは顔を一拭いして、また聞いてみました。
「それで、狼になったり、見守り役になったりして、オレの味方をしてくれているのは何故? 妖魔王さん。」
ラエルは、ハッとして、少し後ずさりしました。けれど、オレの肩から手を離すことなく、真っ直ぐ目を見て確信的に一言で答えてくれました。
「愛だ。」
「……あ……い……? あ……い、あい、愛……愛?」
軽く仰け反ってしまいました。そして、しょーもないことを考えたりするのです。妖魔王って男なのか、女なのか、どっちなのか、どっちでもないのか、とかね。
「……まあ、愛にも色々あるからね。」
自分自身に言い聞かせるように呟くのを、ラエルもしっかりと聞いていました。
「色々?」
「うん。色々。目には見えないけれど、人それぞれ形が違うらしいよ。」
「人間の表現は抽象的で曖昧だ。」
「そこがいいんだよ。比喩と一緒さ。」
「そうか……?」
なんて、和やかに喋ってる場合じゃなかったのです。
「オレはこれから眠って、記憶を失う。記憶がないのに、行動を起こせるかな? 魔法を覚えるどころじゃなくなりそうだけど? カウラ司教も来るし、困ったことになるんじゃ……」
「何? まさか、お前、ここで魔法を覚えられるわけがなかろう。明朝、出立するのだ。」
「えっ! 無理だよ。事情を城の者に説明するのにどれだけ時間が掛かることか……カウラ司教のことは何て言ったらいいんだ?」
「何も言う必要はない。説明をいくらしたところで、理解できぬのだ。お前が一番分かっておろう。」
オレはびっくりして小声で叫びました。
「そんな……! 説明なしに城を飛び出したら、家出したことにされてしまうよ! 皆に物凄く迷惑が掛かるじゃないか!」
ラエルは犬歯の間からため息を漏らしました。
「迷惑くらいなんだ? 世界が滅びるかどうかの瀬戸際に、いちいち下々の心配なぞするな。第一、お前の世話を焼くのがこの城の者たちの本来の務めであろう。たまには仕事を振ってやれ。自殺されるよりははるかに楽な仕事ではないか。」
オレは口を噤んで、不承不承、従うことにしました。もっともな意見でしたから。
「問題は、お前自身の説得だな。」
「オレの説得?」
「そうだ。記憶を失ったお前をどうやって城から出し、どうやって魔法を覚える気にさせるのか……」
「はあ……ラエルの言うことなら、すぐ信頼するんじゃないかな。」
「いや、しばらく姿を見せるわけにはいかぬ。記憶が戻るきっかけになっては意味がないからな。たぶん、この男の言うことも素直に聞けぬだろう。」
床に倒れている黒ずくめの男をしげしげと眺めてみました。確かに、見るからに怪しくて、信頼関係を築くのは相当難しそうでした。
「それなら、オレが自分で説得してみるよ。」
「何? どうするのだ?」
「オレにしか分からないようなメッセージを残すよ。遠回しだけど、強い意志のこもったメッセージを。まず、城を出るように、促してみる。」
ラエルは静かに頷きました。
「よし。そちらはお前に任せたぞ。魔法を覚えたり、結晶を探したりする道しるべは、この男にさせる。記憶を自然にゆっくりと思い出すように調整するのも、この男にさせよう。お前の場合、急に記憶が戻ると脳がパンクしてしまうかもしれぬからな。記憶が完全に戻る頃、お前は魔法を己のものとし、彼女と対峙できる状態になっていなければならぬ。彼女は妖精城という空飛ぶ城にいる。妖精王が住む場所だ。こやつは病気で弱っているが、油断するな。気が変になって何をするか分からぬ。そして、彼女と妖精王との間に生まれた男がいる。お前が魔法をマスターしておれば何ということもないが、強い魔力を持っているからな。こちらも用心するのだ。」
「その男っていうのは、つまり、オレの……?」
「つまり、そういうことだ。」
何だか遣り切れない気持ちになりました。ラエルの口ぶりからして、その男はオレの味方ではないと断定されてしまっているのです。
「ところで、妖精城だが、この際だ。ついでに落としておいた方が良いぞ。」
「えっ? 落とす?」
飛んでいる姿も想像できないのに、もう落とす話です。
「妖精界から人間界へやって来たものだ。異世界へ城ごと移動するというのはそれなりのリスクを背負ってのこと。今の妖精界にも妖精王にもそんなリスクは背負えない。では誰がその代償を払っていると思う?」
オレは瞼を瞬かせるしかありません。
「人間界だ。妖精城と、中にいる全ての妖精どものエネルギーは、人間界から供給されている。吸い取っているのだ。世界のバランスがただでさえ崩れているのに、それを余計加速させる行為だ。妖精界も、人間界も、滅びの時が迫っている。彼女の狙いかもしれぬがな。まあ、城ごと妖精界へ連れ去られないようにするのが一番の理由だ。城の排気管を使って、少しずつ浮力を奪う術をかければよい。急にやったら城もろとも地面に激突して妖精どもと心中することになるから慎重にやるのだぞ。」
ごくりと喉を鳴らし、頷きました。
「それからもう一つ、お前に言っておかねばならぬことがある。我が僕に調べさせたのだが、お前が手に入れようとしている結晶、あれはな、魔法のセンスを開かせるのに非常に有効な代物ではあるが、その性質上、精神に莫大な負担を強いてくる。妖魔や妖精が人間たちに力を貸す際、精神力を要求する、それと近いことが起こるのだ。お前が結晶を吸収し、魔法を覚える度、お前の心は蝕まれ、感情を失っていく。全ての結晶を吸収し終えた頃には、廃人か、それこそ破壊神になってしまうかもしれう。お前の心が結晶に飲まれなければ勝機もあろうが、一年後のお前がどうなっていて、何をするのか、オレ様も見当がつかぬ。どうだ、それでもお前はやるというのか。」
ラエルの銀色の瞳をしっかり見据えて両腕を掴み訴えました。
「ラエル、オレを信じてくれ! オレは絶対に死なないし、誰も死なせはしない。どんな困難にも必ず打ち勝って見せるよ。オレの資本は、この心だけだ。失われても、また取り戻す。それでも万が一、上手くいかなかったら、その時はラエルの手で殺してくれ。躊躇なく。」
ラエルはいきなりオレを強く抱きしめて言いました。
「馬鹿なことを言わんでよい。オレ様はお前を信じている。それに、このオレ様が力を貸すのだ。失敗などするものか。」
色々な装飾品をつけているラエルの体は痛かったけれど、とても頼もしく、温かく感じました。ラエルはオレを体から離して、話を続けます。
「オレ様は常にお前の中に潜んでおくから、安心するのだ。」
「オレの、中、に?」
かえって心配になりました。ラエルは銀色の瞳をキラキラさせて言います。
「うむ。小さく変化して、耳の奥にでも入っているとしよう。お前が言うところの万が一には、お前に成り代わって計画を実行する。」
「成り代わって……」
「だから、失敗はない。良かったな。オレ様が味方で。」
どう成り代わられるのか多少気にはなりましたが、ラエルの厚意を丸ごと受け取ることにしました。
「そこまでしてくれるのに、魔法は教えてくれないんだね。」
ラエルはふふんと笑いました。
「オレ様に教わりたい気持ちは分かるが、オレ様は妖魔王だ。妖魔の術しか使わぬ。人間の魔法は人間に、と言いたいところだが、ろくな奴がおらんからな。この男は妖精と妖魔の合いの子だが、さきにも言ったように、彼女をうまく教育していた。お前の教育係として打って付けなのだ。」
床に転がる男をつくづく眺めてため息を吐きました。不安は残りますが、観念するしかなさそうです。オレの気持ちを察して、ラエルは言いました。
「案ずるな。この男にはオレ様がうまく言い聞かせておく。この男が教育のプロなら、オレ様は命令のエキスパートだ。オレ様の思考はこの男も読めないから、嘘八百並べたい放題だしな。オレ様に任せておけ。」
「分かった。ラエルに任せるよ。じゃあ、そろそろ、城を抜け出すための準備をしないと。」
ラエルは神妙に頷きました。
「うむ。夜が白むまで間がある。抜かりなくな。」
まず、便箋に城の天井裏に張り巡らされている排気管の構造図をざっと書いてみました。誰にも見られる心配のない通路といったら排気管くらいなものでした。でも、シザウィー城の排気管には罠が仕掛けられていて、正しい道順で行く必要があるのです。今からでは調べられないし、さて、どうしたものかと考えあぐねるおれに、ラエルが声を掛けました。
「ペンが止まっているぞ。何を迷っている?」
オレは正直に言いました。
「排気管から城を出ようと思ったんだけど、罠があるし、どうしようかと悩んでいるんだ。」
ラエルは半分笑って言いました。
「何、そんなことか。罠なら五年前にオレ様が全て外したぞ。簡単すぎて、退屈しのぎにもならなかったわ。」
この時のショックは口で言い表せません。敢えて例えるなら、恥部を見られた上に鼻で笑われた気分です。悲しそうにしているオレを気遣って、訳を話してくれました。
「五年前と言えば、お前が殺し屋どもに襲われた頃だ。もともと妖魔界からお前の様子を覗いてはいたのだが、あのようなことになって気掛かりでな。もっと側で見守るには排気管が丁度良かった。罠は邪魔だから外したというわけだ。」
音もなく深いため息を吐きながら、便箋の図に脱出経路を書き込みました。ただの一本線を、です。次に城門を抜ける方法を考えて腕組みしていたら、またラエルが入って来ました。
「今度は何だ?」
ラエルの次の助言に嫌な予感がしながらも、やはり正直に言ってみました。
「現実的に、城壁を昇り降りするより、城門を通った方が早いし安全なんだけど、門兵がいるだろう? 門兵をのすのは容易いことだよ。でもさあ、そうするとオレが城を抜けた責任、彼らが負わされることになっちゃうから……」
ラエルは咳をするついでみたいに笑いました。
「お前らしい悩みだが、この期に及んでまだ下僕どもの気をもむか。まあ、よい。どうしても人知れず城を出たいのなら、よい方法があるぞ。」
「……何?」
「お前の誕生祝の品を昼間に運んで来た隣国の老人がいる。老人が家に帰り、寝て覚めると、届けたばかりの品がどういうわけかそこにあるのだ。老人は品を木箱に入れ、また運ばねばならぬ。元の箱は城にある。老人は元の箱に収めるため、品を木箱から取り出し、門兵に事情を話して中へ運び込む。品は壺だ。老人とさして変わらぬ寸法の、繊細な割れ物だ。門兵は老人の馴染みで、仕事は程ほどで満足する質だから、見張りもそっちのけで手伝う。すると、馬車の荷台には空の木箱が残る。誰もいない。お前は木箱に忍び込み、隣国へ運ばれるのを待てばよい。」
オレは顔をひくひくさせて言いました。
「その壺はどういうわけで、ご老人の家に置かれてしまうんだろう。」
「ふん。そんなもの、オレ様の手にかかれば造作もないわ。」
当たり前みたいに胸張って言うんだから。
「いや、だけど、普通箱ごと運び入れるんじゃないかな? 高価な割れ物なんだろう? 箱から出すなんてありえないよ。」
「元の箱は美しい装飾が施されてはいるが、板が薄く、軽い。大して、老人の持っている木箱で品が入る大きさのものといえば、分厚い木材で組まれた重い棺桶のようなものしかない。品を入れた状態では微動だにすまい。老人は品を取り出すしかないのだ。」
「随分、その後老人について詳しいね。」
「別に、その老人に限ったことではない。オレ様は人間の習性に興味があるのだ。王族から王族への祝いに庶民が混じるなど珍しいではないか。おまえの国ではよくあるようだが。目下、研究中なのだ。」
オレは薄ら笑いを浮かべて言いました。
「良かったら、教えてあげようか? そういうことなら、オレでも分かるから。」
ラエルは大まじめな顔で一歩近づきます。
「ふむ。気掛かりは少ない方が良い。」
「シザウィーは禁魔法国だから、入国できる人は限られている。魔法を使えないか、魔法アレルギーかじゃないといけない。ご老人は前者だね。それと、シザウィーは長年他国と友好関係になくて、得体の知れない奇妙な国と思われているから、なるべく足を踏み入れたくないんだよ。王室ご用達の運送屋だって嫌がるだろうね。だから、シザウィーに物を運ぶのは、そういう偏見がなくて、お金に困っているような人が選ばれているんだ。」
ラエルは銀の瞳を見開いて、何度も頷きました。
「なるほど、偏見のためとな? 我ら妖魔族にはなじまぬ感覚だ。小物どもが、虚勢を張ったところで小物は小物であろう。分を弁えぬ生き物だな、人間とは。」
確かに、こんなオレが王子なら、王族もたかが知れているのかもしれません。妖魔王から見たら、子どものままごとみたいなものなのでしょう。人間のしていることなんて。オレは便箋にラエルの案を簡潔に書き込みました。短く息を吐いて、便箋を畳み、布袋に必要最低限の荷物を詰め、便箋を一番上に乗せるようにして入れました。
次いで、机の上や棚にある文書という文書、全てを暖炉へ放り込み、火を点けて燃やしました。記憶がなくなって最初に頼るものです。なければ、探す手間も省けて諦めもつくでしょう。
それから、空っぽになった戸棚に鍵を掛け直しておきました。オレじゃないと開閉できない仕掛けの鍵です。自分でやったんだって納得させるために。仁王立ちでオレの旅支度を見守っているラエルに言いました。
「ラエル、その人に刺さっている剣だけど……研究所に戻しておきたいんだ。なくなってたら、シグマが色々推測し始めて、悩んで可哀想だから。」
「また下僕の心配か。まあ、よい。やっておいてやるわ。」
ラエルはオレに歩み寄り、真正面に立ちました。
「さあ、準備はできたな?」
心臓がうるさいくらい高鳴ります。
「お前はこれから眠らねばならん。」
ラエルの大きな手が、オレの肩の上に置かれました。
「うん。上手く眠れるかな? 今、物凄く目が冴えてる。」
なにせ、オレは一日に時間しか眠れないし、二、三日寝なくても平気な体質なのです。起きているのは得意だけど、眠るのは苦手でした。ラエルは音もなく笑って言いました。
「誰が普通に眠れと言った? お前の寝つきの悪さ、眠りの浅さが筋金入りであることくらい、とうに知っておるわ。オレ様が寝かしつけてやる。少々痛むが、すぐに意識を失うから安心するが良い。」
ラエルの安心しろ、にはどうも説得力に欠けます。思ったことが、つい、口から零れました。
「それって、眠るんじゃなくて、気絶するって言うんじゃないの?」
「何を馬鹿な。お前のみぞおちをついたり、後頭部を打ったりするとでも思ったか? そんな不確定で短絡的で野蛮な真似を、妖魔王のオレ様がするわけがなかろう。本来ならば、痛みもなく術をかけられるのだが、女が作ったこの土地の性質上、外側から術をかけるのはリスクが高い。お前の体質も効きにくいときている。だから、直接脳に働きかけようというのだ。確実で安全な方法だ。そのためにお前の頭を少々傷つけることになる。痛むとはそういうことだ。」
オレは何だか体中の力が抜けて、ベッドの縁に座り込んでしまいました。自分の脳がいじられる様を思い浮かべて、暗い気持ちになったのです。でも、落ち込んでばかりいられません。オレは首を大きく振って、深く考えることを止めました。
「覚悟はできたか? 一度眠ったらもう後戻りはできぬぞ。気づいた時にはお前は魔法をマスターして、世界を滅ぼすか救うか、どちらかに転がっている。そして、死ぬこともできず、永遠の生を彷徨うことになる。」
ラエルの言葉に、弱々しく、けれど武者震いして答えました。
「大丈夫。ラエルが味方してくれるんだ。恐れるものは何もない。信じるよ。ラエルのことも、オレ自身のことも。」
「よし、よくぞ言った。」
ラエルの右手がオレの目を塞ぎ、こめかみに尖った爪が食い込みました。アーサーさんが死んだ日、泉のほとりで黒ずくめの男にされたのと、同じだな、と思ったところで、オレは意識を失い、記憶も消えました。話が長くなってしまいましたが、これが、先生から逃げたわけで、旅の始まりです。
レオンハルトの話の途中で大泣きしていたミーナも落ち着きを取り戻し、涙でベトベトになった赤い顔を上げて、目の周りをナプキンでもう一度拭った。傍らで彼女を宥めたり透かしたり忙しかった兄は、しかしレオンハルトの話はしっかり耳に入れており、堪え切れないという風に質問をした。
「私が持っていたのはダミーだったのですか?」
レオンハルトはこれといった感慨もなく頷いた。
「はい。去年の五月に、本物を棒にすり替え、それからシグマに作ってもらったダミーと取り換えました。本物は今、シザウィーの研究所にあるはずです。」
ディーンは口を開いたまま固まってしまった。
「いずれにせよ、あれが使われることはなかったのですから……。もし、本物だったら、オレの目には空間のひずみが映っていたはずです。そして、色々な記憶が蘇っていたかもしれませんね。すり替えて正解でした。」
飄々と言い放つレオンハルトに、誰もが行き場のない視線を泳がせている。
「ねえ、ラエル。ちょっと聞きたいんだけど。」
銀の巻き髪から覗く華々しい顔に問いかける。
「何だ、レオン。」
「あの人をよく説得できたね。オレの知る限り、今回の旅で身の回りに殺された人もいないし……今のところは。」
旅の仲間たちは身震いして伸び上がった。自分たちが殺されていたかもしれず、しかもこれから先もどうだかわからないという口ぶりなのだ。さすがの妖魔王も牙がはみ出る唇の端をひきつらせるしかない。
「言ったであろう。オレ様の手にかかれば造作もないと。それにあやつは従順で、他ならぬお前のためとあらば協力を惜しむわけもないのだと。」
「確かに、言ってた。だけど、あの人は、オレのためだからって、オレに沢山人殺しをさせた挙句、大切な人を残酷に殺しもしたんだ。何をするか分からない人だよ。」
ラエルは深々と息を吐き出した。
「お前にそのようなことを言わせるのはあやつの行いのせいではあるが……」
ラエルは、レオンハルトを眠らせた後の黒ずくめの男とのやりとりを掻い摘んで説明することにした。
気を失ったレオンハルトをベッドにきちんと横たえ、ラエルは床の上で仰向けに倒れている男の胸から、宝剣をこともなく抜き取った。宝剣を抜くのには多少のコツがいる。しかし、妖魔王ともなると、コツも方式も関係ない。抜こうと思えば、勝手に抜けるのである。そして、剣が抜けてしまえば、当然のごとく、男の傷はたちまち修復する。ラエルが手を焼くまでもなかった。傷口が塞がると同時に、男の目が開く。男は天井をしばし眺めていたが、自分に注がれる視線に答えるべく、無機質な動向をゆっくり移動させた。
「なるほど、この剣は確かに、仮死状態へ導くためのものであるようだ。ただし、普通の人間なら即死する。お前とレオン限定の代物というわけだ。」
男は床の上で身じろぎもせず、ラエルが手にしている剣を見つめた。先程まで自分の胸に刺さっていたはずの刃に血はおろか、一点の曇りさえもなく、どこまでも続く雪原のように絶望的な白さを湛えているのだった。
彼は思い違いをしていたことに気付き始める。自分を確実に殺すために作られた剣。しかし、未完成であったそれは、セリアに託していた。数年前、レオンハルトの護衛として異国からやって来た剣士が、これを所持しているのを知り、彼の思考を垣間見た時、男は困惑した。即ち、この剣は完成品なのか、未完成なのか、はたまたそっくりな別物なのか、と。いずれにせよ、レオンハルトに危害を加えるために持ち込まれた物体で、それを扱うために派遣された人物には違いない。機会をみて、排除しようと最初から決めていた。レオンハルトがどう感じるか等、関係なかった。害を成すか、否か。前者ならば始末するのみ。躊躇することはない。偶然の事故を装って……そう思っていたのに、結局、最悪な殺し方をしてしまった。
魔物化した妖精たちによって八つ裂きにされた剣士。あのまま殺されてしまえば良かったものを。レオンハルトが魔法を発動して、助けることになろうとは、予想だにしていなかった。けれど、レオンハルトは大人を呼びに行って、剣士からうまい具合に離れた。この隙に、絶命させよう。深手を負っているのだから、出血多量で死んだことにすればよいのだ。彼をもってしても、シザウィーの土地で魔力を発揮するのは骨が折れる。確実に仕留めるには、距離を詰めなくてはならない。それで、地面に仰向けとなっている剣士に近づいた。相手は世に知られた剣の名手。気配を潜めたところで、たちまち勘付かれてしまう。剣士は傷の痛みに耐えながら、健全な双眸で黒ずくめの男を凝視した。初めの五秒は胡散臭そうに、次の五秒は驚愕の形相で。
「あなたは……もしかして、王子の……?」
無駄に勘が働きすぎると男は思った。どうせ死ぬのだから、まあよいが。
「お前は今、ここで死ぬ。」
抑揚のない声で死を宣告する。剣士は死神みたいな出で立ちの男に少しだけ体を向けた。
「それは、あなたが、私を、ということか?」
男は沈黙を守る。剣士は悲しみを込めて言った。
「一体、どうして? そんなことをして、何になる。王子が嫌がることを、何故……?」
「あの子のためだ。」
答えは短い。剣士は頭を地面に擦りつけるようにして、弱弱しく首を振った。
「違う。王子のためなんかじゃない。もっと別の理由だ。だが、どんな理由があるにせよ、あなたが私に手を掛けるなど、絶対にやってはいけないことだ。王子がどんなに悲しむか、分かっているだろう。だって、あなたは王子の……」
彼の最期の言葉は、ここで途絶えた。一瞬でブロック状の肉片となり、辺り一面に飛び散ってしまったから。こんな殺し方をするつもりではなかった。十一歳の誕生日にレオンハルトを襲った連中にしてもそうだ。不味い殺し方だ。でも、我慢できなかった。殺し方を選ぶ余裕なんてなかった。怒りと憎しみで我を忘れ、感情のままに力をぶつけた。その結果がこれだった。
何とか、取り繕わないと……しかし、そんな時間はない。レオンハルトが大人たちを連れて戻ってきてしまったのだ。男は自分の身を霧に変え、姿を隠した。後には血の惨劇が残る。それを、可哀想なレオンハルトが目撃する。悲しむだと? そんなことはもちろん知っている。だが、悲しみの火種を放り込んだのはお前たち、人間ではないか。お前に至っては、愛情をちらつかせ、さんざん喜ばせておいて、結局は地べたに叩きつけ、踏みつけて、その胸を抉ったのだ。
男はしかし、己の犯したミスにげんなりもしていた。レオンハルトが宝剣を手に、森の奥へと走って行ってしまった。泉のほとりで止まったかと思うと、喉元へ宝剣を突き刺そうとしている。死ぬ気なのだ。もはや、暗示をかけている場合ではない。ひとまず、目を覆って、姿だけでも見られないようにした。取り乱しているレオンハルトを説得するのは、この土地で魔法を使うより骨が折れた。最終的に持ち出した言葉は、千年前、主が自分に残した思念から流用したものだった。良く言えたものだと我ながら呆れる。記憶を少々隠蔽しなければならなかったが、結果的に事態を好転させることはできた。さて、宝剣はどうしたものか。考えあぐねた結果、ガーゴイルに託し、セリアに送り返すことにした。手元に置いておいたら、誘惑に負けて自分に刺してしまいそうだったから。
そして、ほんの少し前に、似たようなことが起きてしまった。今度のレオンハルトは取り乱してはいなかった。それが返って問題だった。衝動的に死のうとするのと、計画的、確信的に自殺を図るのとでは、意味合いが大きく異なる。一時的に止め立てしたところで同じことが繰り返されるのは目に見えていた。ならば、この宝剣自体を使い物にならないようにするのみ。躊躇なく、自分の胸に刺した。千年前の自分のように、抜いてまた刺すかもしれない。構わない。その時はこの子が生きることを止めた世界に、終止符を打つまでだ。
今、こうして自分が生きているということは、宝剣は未完成だったようである。それにしても、随分早い目覚めだ。しかも抜いたのはレオンハルトではなく、妖魔王ときている。妖魔王がレオンハルトに何をしてきたかは、おおよそ知っている。主と恋仲であったことも。同じ名、同じ姿のレオンハルトに特別な感情を持っているであろうことも。ただ、妖魔王が何を考えているのかは分からない。心を読むことができないのである。思考回路が特殊な造りをしているのかもしれない。レオンハルトは読みにくい。彼の場合、雑念が極めて少ないためで、雲を掴むような難しさがあり、読み損ねることも多かった。
さて、心を読むことができない者を相手にするには、言葉を交わさなければならない。しかし、どうにもかける言葉が見つからず、向こうから話しかけてくるのを待つしかなった。
「傷は完治したであろう。立って、ベッドの上を確かめるがよい。」
男は言われるままに立ち上がり、ベッドへと目を向けた。そこにはレオンハルトが仰向けに横たわっている。死んではいない。昏々と眠っている。彼がこんな風に深い眠りに落ちているのを男は初めて見た。
「オレ様が眠らせた。昏睡状態だ。今は何をしても目覚めぬ。レオンの回復能力からして、起きるのは朝の十時ごろとなるであろう。」
男はレオンハルトの顔をしかと見直した。こめかみが傷ついていたのが、次第に薄く消えていく。自分も似たようなことをしたのを思い出す。
「レオンは別に、死のうとしていたわけではない。世界を破滅から守るため、考えた末にこれで刺すことにしたのだ。やり方は間違っていたが……」
世界を破滅から守ることと、刃物を自らの胸に突き刺すことに、何の整合性があるのか、男には見当もつかない。
「下々の心配ばかりしている子だ。無責任に自害を図ったりはせぬ。お前と違ってな。」
男はただ沈黙した。心の読めない相手と会話するのは気が重い。「あの人」を彷彿とさせる。辛い過去を掘り起こさせる。千年経っても色褪せることのない、想い出……。一方の妖魔王は、男が言葉を発さないことに不自由していなかった。どんどん話を進めていく。
「さて、レオンは世界を救うことにしたわけだ。一年後の誕生日までに。この理由は分かるな?」
理由は分かっている。一年後には強活性作用が最大となり、レオンハルトは自分と同じく不死身となってしまう。そうなる前にセリアは彼を殺そうとしていた。殺してやろうとしているのだ。男の苦しみを知っているから、死ねる時に死なせてやりたい。それが彼女の想いだった。こんな汚らわしい世界で永遠に生かしておくわけにはいかない。十一歳の誕生日に彼の幸せな未来は断ち切られてしまった。救う価値のない世界だ。滅ぼすべきものだ。彼女に直接聞かずとも、分かっている。彼女が計画を着々と進めているのを、感じ取ることができる。計画の手助けをするつもりはないが、彼女の考えには賛同していた。自分は、レオンハルトが世界の終わりに立ち会う時、せめて悲しまないようにしてやろう。男がレオンハルトを殺人鬼に仕立て上げたのはこんな考えからだった。一年後の彼の誕生日がXデーだ。世界が滅亡するに相応しい記念日となるだろう。それなのに、彼は世界を救う方向へシフトしたのだと妖魔王は言った。腐り切った世界をわざわざ立て直し、自分と同じく永遠の生を彷徨うというのか。
「これがレオンの意志であり、覚悟だ。オレ様はその心に応え、力を貸す。お前はどうする?」
男は喉を突かれたみたいに息を押し殺し、考えた。そして、正直に答える。
「世界を救う手助けはしない。」
予測通りの返答に、妖魔王は余裕で笑って見せる。
「レオンもお前の助けなど期待してはおらぬ。信用する気もない。お前は誰にも必要とされていない、全くの役立たずというわけだ。」
特に否定すべき箇所もなく、男は再び黙りこくった。レオンハルトが自分に対して抱いている感情も、自分がセリア以外の誰からも望まれていないことも、聞くまでもなく、とうに承知済みである。妖魔王は鼻で短く笑った。
「にも拘らず、お前はレオンに奉仕せねばならぬ。求められなくとも、疎まれようとも。」
妖魔王の銀の瞳を見つめながら、男は考えた。まさか、贖罪のためというのではあるまい。大切な人の命を奪われ、不本意に殺人を強要されてもなお、憎しみを覚えない者に、償う術があろうか。
「もちろん、罪滅ぼしのためなどではない。お前が今現在生きている意味、それはレオンに奉仕する以外ないということだ。存在意義だ。できないのであれば、今すぐレオンの前から消えろ。地中深く穴でも掘って、芋虫のごとく土に埋もれ、永遠と生きるがよい。あくまでもレオンの将来を邪魔だてし、手枷足枷となって纏わりつくつもりなら」
妖魔王は宝剣を胸に掲げ、左右に揺らして見せた。
「これは、無に帰す。お前の死ぬ可能性がまたゼロに戻るだけのことだがな。」
命令が突然、脅迫に変わる。苦笑いの一つでも浮かべて見せたいところだが、男にはそれができない。
「オレに刺しておいた方が早いのではないか。」
男の提案に、妖魔王は鼻で笑うのみ。
「何故に、オレ様がお前ごときの望みを叶えるような真似をせねばならぬ。……まあ、事と次第によっては、考えてやっても良いがな。」
話がまた変わってきた。男は銅像より静かに続きを待った。
「この剣は他ならぬオレ様最愛の女がお前のために拵えたものだ。所有権はお前にある。だが、このまま渡すのも芸がない。未完成品だ。女が志半ばで死んでしまったのでな。この剣の足りない部分を女の代わりに補い、完成させてやっても良い。もちろん、この剣がなくともお前の命を絶つことはできる。オレ様の力をもってすれば容易いことだ。しかし、それでは、女がこの剣にかけた想いが無駄になってしまう。完成品にしてから、お前にやる。後はお前の好きなようにするがよい。」
願ってもない好条件だった。妖魔界の支配者たるに相応しい、絶妙なやり口。妖魔王はさらに付け加えた。
「世界はレオンが救う。オレ様はレオンに力を貸す。お前が世界を救ったり、レオンに力を貸したりする必要はない。」
男はかろうじて、瞬きをした。動きが緩やか過ぎて、それと分かりづらい瞬きを。
「お前は何も考えず、レオンに魔法を覚えさせればよいのだ。」
世界を救い、力を貸すより難しい注文だと、男は思った。
「彼は魔法を毛嫌いしている。自分が発動したと感じただけで死のうとしたこともある。覚える気になるはずがない。」
男の憂慮を妖魔王は嘲笑う。
「覚える気になったに決まっておろう。魔法なしでどうやって世界を救うのだ。レオンの覚悟とは、そういう意味だ。だが、レオンが今の状態で魔法を覚えるのは危険だ。お前がおかしな暗示を生半可にかけたせいで、それこそ誤って自殺しかねん。そこで、まずお前がしなければならないのは、レオンの知識以外の記憶をすべて消してしまうことだ。」
男は薄く唇を開いた。
「記憶をなくせば、世界を救おうとしたことも忘れてしまう。魔法を覚えようとしたことも……」
「その辺はレオンが自ら納得できる細工を施していたから心配いらぬ。記憶をなくして間もなくは、葛藤もあろうが、部族の城を巡り、結晶を手中に収めるうち、迷ったこともいつしか他人事のように感じる日が来る。」
既知の話みたいに言うものである。この一年、彼が部族の城を一回りして、結晶の守り人に色々吹き込まれていたのはもちろん知っている。そして、結晶を持って行けと差し出されて固辞していたのも。なのに、あえて再び取りに行くのか。彼のしようとしていること全般が黒ずくめの男には理解不能だった。
けれど、結晶のために感情を失ってゆくこと自体は、男の目的と沿っているようである。沈黙で了承を示す男に、妖魔王は次々と言葉を加えていく。
「マーナという国の司教が、午後に訪れることになっている。何をしに来るか、分かっていよう? レオンはこの男を殺すつもりも死なすつもりもない。それでいて、この男に構っている暇もないときている。」
「来る前に処分してしまえば……」
「この男と家族の安全を確保すること。それがレオンの立てた計画の最優先事項だ。もし、お前が危害でも加えてみろ、レオンはお前ではなく、己を殺す。自分自身への激しい怒りや憎しみと共にな。そのようなことになったら、オレ様はお前に対して考え得る限りの制裁を浴びせるつもりだ。地獄もかくやというほどのな。易々と殺したりはせぬぞ。」
妖魔王の脅しに乗る男ではなかったが、レオンハルトに死なれるのが一番堪ええることは事実で、しかも彼が恨みつらみを自分に向ける性質だというのも、身に染みて知っていた。どうせなら、彼に思い切り憎まれて殺されたいものだが、千年かけたところで、その望みが叶えられる見込みはなさそうだった。
「どうせ、この国を出なければ魔法を修得できぬのだ。司教が来る前に城を脱出してしまえば丁度良いわ。手立ては既に整えてある。お前は記憶のないレオンを城から出るよう急き立て、司教から遠ざけたのち、魔法を覚えさせるのだ。全てを教え込むこともなかろう。センスを開きさえすれば,自ずと魔力が身についてくる。そういう体質だ。さらに結晶を吸収することで飛躍的に向上し、一年とかからぬうちにマスターできよう。お前はレオンが予期せぬ状況に陥り、魔力を暴走させてしまいそうな時、阻止するのだ。レオンが守ろうとするものを守り、行こうとする方向へ導け。少なくとも、逆はするな。オレ様が言っているのは当たり前のことだ。」
その真逆をやって来たのが男である。約束などできるものか。不服を顔に表明することはないが、妖魔王には十分伝わっていることであろう。妖魔王は構わず話を続けた。
「記憶を呼び覚ます原因となりうる書物はレオンが焼却処分した。荷物はその布袋一つ。それを持って城を直ちに出て行かせるのだ。記憶は、魔力が安定するまで、全てを思い出さないようにしろ。かといって、最後、急激に思い出すと、脳や精神に負担が掛かり過ぎて、廃人になりかねん。小出しに少しずつ思い出すよう、調整してやれ。」
簡単に言ってくれるものだ。無論、出来ないわけではない。どうせなら過去を綺麗さっぱり忘れて、そのまま生きて言った方がレオンハルトにとっては幸せなことであろう。わざわざ少しずつ、真綿で首を絞めるように、生爪を一枚ずつ剥ぐように、思い出させろとは……。腕組みして銀の瞳を冷やかに光らせる妖魔王を尻目に、男はベッドに横たわるレオンハルトに歩み寄った。
この上もなく安らかな表情を湛える寝顔。主人であった人の死に顔を想起させる。どうしてこんなにも似ているのだろう。「あの人」に。血の繋がりを越えて、揺さぶり、突き動かす。幸せになって欲しかった。あの人の代わりに。自分の代わりに。望むことは何一つ叶えられない。そういう運命なのか。自分も。この子も。
夢も見ない瞼の上にそっと手を被せる。温かい。この世界の住人として相応しい体温を持っている。自分がこの世界の異物であることを再認識させ、罪の意識を呼び起こさせる温かさだ。
男は無機質な瞳を閉じ、傷が癒えたばかりのこめかみへ爪を食い込ませた。




