第七章 冬(3)
二月一日
真夜中過ぎに降る雪は、部屋の中から見るとどこまでも平和で静かで、それが痛い程冷たいなんて思えない。まるで粉砂糖が……アーサーフロントなら、白い花びら、或は小さな天使と表現するのかもしれない……舞い降りてきているみたいだった。
レオンハルトはもちろんそんな情景には無関心だから、窓には目もくれず、灯りの灯らない暗がりでベッドの縁にただ座っていた。膝の間で手を組み合わせ、前かがみになって、床へと視線を落としている。別に、床板の木目を観察しているわけではない。瞑想に耽っているのでもない。膨大に膨れ上がる記憶を落ち着かせ、整理すること。取り分け、思い出を繋いで自分の心を抽出すること。一人の時間の全てをその作業に費やしているのだった。瞼は一応開いているが、エメラルドの瞳は何も映していない。起きながらにして夢を見ている状態なのだ。
けれど、突然、夢は断ち切られ、現実の映像が視覚を刺激する。月明かりすら差さない暗闇の中で、形と色を識別する。黒い布が床から立ち上っている。レオンハルトは半分下ろしていた瞼を押し上げ、瞳を上部へ移動させた。アルフリートだ。確かめるまでもない。しかし、彼が目の前に突然出現して、何をしようというのか、分からない。無言で、無動で、無表情で、ただ突っ立っている。黒い瞳孔が自分に向けられていること以外、レオンハルトに分かることは何一つない。意味のない幻覚だと吐き捨ててしまいたいくらいだ。困惑しながらも、態度には出さず、見つめ返す。ほんの一、二分のことだったのかもしれない。永遠のように感じた、その時間。
声に出さずとも会話ができる男だ。しかし、レオンハルトが浮かべた、当然の疑問に答えることなく、彼は背を向けて消えてしまった。レオンハルトは瞬きするのも忘れて、闇に溶け込んだ男の残像を目で追った。視線は虚しく空を切るばかりだ。
アルフリート本人も、何のつもりで出てきたのか分からなかった。こんなおかしな行動を、かつて一度だけやったことがある。それは今日のような雪降る夜のことではない。初夏の山に日が昇りかけている、夜と朝の境界……奇しくも、彼がまだ十一歳の頃のこと……
アルフリートの千年前の想い出
最初の記憶は、両親の沈んだ顔とため息の音。森の奥深くにひっそりと佇む小さな木の家が彼の生家であり、世界の全てだった。外に出ることを許されていなかった。存在自体がとても罪深いからと……。
両親の会話から、幼心にも事情は何となく分かっていた。父は妖魔、母は妖精。いがみ合って然るべきこの二人は、何の因果か惹かれ合い、想い合い、愛し合うようになった。周囲の反対は予想通りだったが、それよりも異常な思想の持ち主としてあたかも感染率、死亡率の高い病原菌そのもののように見られ、迫害を受け、しまいにはそれぞれの世界で追放の身となったことが辛かった。人間界においても歓迎されるわけがない。二人は誰の目にも触れない人里離れた森の奥地に居を構え、静かに愛を育んだ。
最初のうちはまだ良かった。純粋に愛し合いながら二人寄り添って生きていくだけ。二人の取った行動に、気持ちに、間違いなんかない。お互いをただ信じ、二人だけの世界を作り上げ、外側に目を向けなければ、一組の幸せな夫婦として、ずっと生きていける。
けれど、ある時を境に、二人の確信は幻と消えた。愛おしむべき子どもが生まれた、その時に……。
生まれるまでは、こんなに幸せで良いのかと思うくらい毎日が喜びで満ち溢れていた。ところが、生まれた我が子を見た途端、二人は幻滅した。子どもは産声も上げなかった。夫は死産かと思って、恐る恐る羊水に濡れた我が子を取り上げてみた。冷たい。でも、僅かに動いている。鼻に耳を近づけると、呼吸しているのも分かった。夫婦は顔を見合わせ、笑おうと努め、失敗した。苦々しく、口元を歪めることしかできなかった。
子どもが成長するにつれ、二人の幻滅は絶望へと変わっていった。子どもは泣くこともなかったが、笑いもしなかった。一切の表情を持ち合わせていないのだ。開いた瞼の間に覗く瞳は白目と大差なく、瞳孔が黒い点となり、拡張と収縮を行うばかり。髪は痛みのない黒い直毛なのに、艶がない。赤みの差さない白すぎる肌に似通う白っぽい唇。その唇から放たれ始めた抑揚のない言葉。無表情、無色彩、無感情。二人の愛の結晶は無をひけらかす。全てを否定する。
それでも、二人は一生懸命、子どもを愛そうとした。いつか、きっと笑顔を見せてくれる。笑い声を上げてくれると信じた。辛抱強く待ち続けて、五年目の秋。二人の精神はほぼ同時に崩壊した。
「もう、無理よ……我慢の限界だわ。」
「異世界の者同士、いくら愛し合ったところで、所詮幸せにはなれないのだ。」
「この子が全てを物語っているわ。」
「にこりともしない。泣きもしない。」
「どんなに頑張ったって無駄よ。」
「今さら帰る場所もない。昔に戻ることはできない。」
「出会ったことが間違いなのね。」
「子供が生まれて目が覚めるとは皮肉だ。」
「この先生きていても、苦しいだけ。」
二人は手を取り合い、頷いた。
「死にましょう。」
「そうだ、一思いに。」
母は無表情で佇む我が子を手繰り寄せ、抱きしめた。
「心配しないで。あなたも一緒よ。」
父は妻と我が子を大きな手で包んだ。
「一人にはしない。あの世で今度こそ幸せな親子になろう。」
子どもに異存はなかった。むしろ、自分のせいで不幸になったのに、両親を巻き添えにして死を選ばせてしまって申し訳ないと思った。この親子の愛の最終形態は、死だった。
我が子に両親の死を見せるのは、あまりに不憫だからと、一番先は子どもに決定した。父親がナイフを逆手に振りかざし、近づいてくるのを、子どもはやはり無表情に見つめた。最期くらい涙を流してやりたかったが、一滴も零れることはなかった。目を閉じて間もなく、胸部に激痛が走り、気を失った。これで、彼の人生は終わるはずだった。
どのくらいの時が経ったのだろう。子どもは自分の家の天井が見えて、目が覚めたことに気付く。起き上がって、胸の辺りを確かめると、赤黒く濡れた服の真ん中に穴が開いているものの、体に傷がついていない。もとい、傷つきはしたが完治したことが分かった。傷の治りが早いことは親子共々承知していた。しかし、ここまでとは思ってもみないことであった。
周りを見回す。必然的に絶命した父母の姿を目の当たりにする。床には大量の血液が広がって、染み込み、乾きかけている。その上に転がる二つの死体。子どもは、しまった、自分だけ死に損ねた、と思った。
両親の死体に駆け寄り、側に落ちているナイフを拾って、胸に刺した。再び気を失い、そしてまた目覚めた。刺したままのナイフが、傷の治癒に伴い、勝手に抜け落ちる、その音で起きた。今度は首を切り裂いた。でも、死なない。ロープで首を吊った。それでも死ねない。足に重石を括りつけ、深い川に身を投じた。水の中で呼吸ができるようになっただけ。地面に穴を掘って埋もれ、頭の上に岩を落とし、鉈を細工して首を切断し、思いつく、ありとあらゆる死に方を実践し続けた。絶食もした。なのに、彼が死ぬことはなかった。
絶望した人間は、死んでしまえば苦しみから解放される。彼は絶望しても逃げ場がなかった。脳細胞も修復されてしまうから、気が変になることもない。苦しみをもろに受け続けなければならなかった。彼は、死ぬ、という目標のためだけに生きた。
魔法を自力で修得した。自分を殺せる術を編み出すために。しかし、上手くいかず、結局彼が選んだのは、地中深くに穴を掘り、土に埋もれている、という生き方だった。いつか、衰弱死することを願って。土に還る日が来ることを只管待ち望んで……。
人里に行くことなど考えたこともなかった。妖精と妖魔の合いの子というだけで、奇異な存在なのに、この見た目、この体質。人間たちが自分を受け入れてくれる可能性などあるものか。彼は土の中で、死を待ち続けた。六年間も……。
静寂は前触れもなく破られた。何やら上の方が騒がしいと思っているうちに、スコップや鶴嘴を持った人間の男たちが、自分を掘り起し、外へ連れ出したのだ。とても荒々しいやり口だった。小突きまわし、強くつかみ、押しやり、引っ張り、土に埋もれている間に自分は出来損ないの腐った芋にでもなってしまったのかと考えたほどだ。
男たちは森の外れに止めてあった荷馬車の幌を捲り上げ、荷台に積まれた鉛の大きな箱に子どもを放り込み、蓋を閉めた。空気穴もない、真っ暗な箱の中。音から察するに、鎖で箱を巻いて鍵まで掛けたようだ。
そして、荷馬車は馬の嘶きと共に動き始め、何日か、何週間かわからないが鉛の箱を運び続けた。蓋が開けられることは最後までなかった。子どもにとっては土の中で何年も過ごしていたわけだから、揺れて冷たい金属に体をぶつけること以外、取り立てて状況に変わりはない。それでも自分の身に起きた、いや、起きようとしている喜ばしくない事態について、多少の恐怖を覚えずにはいられなかった。男たちの目的地に着いて、子どもは鉛の箱から引っ張り出された。そこもまた、森の中であった。子どもが住んでいたのとは別の森らしく、生えている木や植物、匂いなどがちょっと違っていた。
子どもは灰色をした石造りの建物へ連れ込まれ、奥の一室へ来ると突き飛ばされ、床に転がった。
「レオン、ガキを連れて来たぜ。」
「あの噂、本当だったんだ!」
「妖精と妖魔の合いの子さ。」
「土の中に隠れてやがった。」
「密封した箱の中で何週間も閉じ込めてたけど、このとおり、ぴんぴんしてる。」
「食い物だって与えてない。」
「本物だ。本物の不死身だ!」
男たちは興奮気味で矢継ぎ早に口走った。子どもが転がる目の前に、誰か座っているらしく、白い靴を履いた足が見えた。その人物が、男たちの興奮などどこ吹く風で、落ち着き払った声で言う。
「お前たち。扱いには注意しろとオレが言ったの、聞いてなかったのか?」
ため息交じりの、柔らかい鐘の音みたいな声だった。高くも低くもない中性的な音域。男たちは耳を澄ますみたいに静まり返った。
「言っただろ? 妖精と妖魔の力を中和せず、両立させてる場合もある。子どもでも危険だって。オレの見たところ、相当な力を秘めている。臆病で温和な性格で助かったな。そうでなかったら、お前たち、今頃とっくに……死んでる。」
男たちは感電したように震えあがり、無言でその場を立ち去った。再び訪れた静寂の中、鐘の声が子ども呼びかける。
「さて、何でやられたふりしてのこのことここまで来たのか知らないが・・・まずは、顔を上げて立ってもらおう。」
子どもは大人しく立ち上がって、相手を見た。机に片肘ついて、こちらを振り返る、白衣をはおった若い人間・・・。子どもは表情にこそ出せないが、驚き、そして恍惚とした。
透明感のある真珠の肌。甘美な果実を思わせる艶やかな唇。エメラルドに彩られた神秘的な瞳。僅かな光も余すことなく集めて輝くプラチナブロンドが、肩から胸の下へと繊細な線を描いている。こんな美しい生き物が地上に存在していたのか。神々しいまでの絶対美に、子どもの心は激しく震え、何も考えられなくなった。暗い土の中で生きてきた子どもには少々刺激が強すぎたようだ。この、とてつもなく美しい生き物が、子どもに向けて放った言葉。素晴らしい笑顔に全くもって似つかわしくない皮肉に満ちたものであった。
「地獄へようこそ。」
子どもはシャワー室へ連れて行かれ、問答無用で丸裸にされ、美しい人の手で徹底的に隅々まで洗われた。この六年間、シャワーなどもちろん浴びていない。相当汚れているのだろうが、それを差し引いても、彼の洗い方は凄まじかった。「扱いに注意しろ」と言った張本人が、乱暴な手つきで荒々しく、皮膚がすりむける程強い力でゴシゴシ擦ってくる。予告もなしに、熱いシャワーを浴びせてくる。泣きわめいてもがくことができれば少しは気も晴れようが、子どもにはそれができない。痛みは痛みとしてただ受け入れるしかなかった。
この、只管苦しい状況に耐えながら、子どもは気を紛らすように、美しい人の姿をちらちら伺っていた。美しい人はとても真剣な顔をしている。余念がない顔だ。彼は、幼気な子どもをただ乱暴に洗って楽しんでいるわけではなかった。洗いながら子どもの全身を隈なく観察していたのだ。その目つき。人を見るのでも、妖精や妖魔、動物、植物を見るのでもない。宝石である可能性を秘めた石ころ。それを宝石かどうか見極めようとするような、鋭い目つきなのだ。
石ころの気分になった子どもは、宝石鑑定人の真意を確かめたくて、こっそり心を読もうと試みた。しかし、いくら頑張っても無駄だった。何も見えず、何も聞こえない。洗われ過ぎて人の心を読む能力がなくなってしまったのかと思った。能力がなくなったわけではない。後で分かったのは、美しい人の心は、鉛の箱より強固な壁で覆われている上に、大部分が失われていたのだということ。心が何らかの原因で壊れてしまっていたのだ。
「お前、名前は?」
美しい人は、子どもを洗い終わって、体を拭き、真新しい服を着せながら聞いてきた。
「名前はない」
久しぶりに発した、抑揚のない声。子どもはそんなことより、美しい人の手つきに気を取られていた。さっきとは打って変わった優しく、柔らかい手つき。自分の前に跪いてボタンを留める、その手が胸に触れて、ドキドキしているのがばれてしまうのではないかと気が気ではない。瞼から漏れなく伸びている艶々の睫毛。睫毛の間から覗く、エメラルドグリーン。そういうものが、すぐ目の前にあって、ときめかないわけにはいかなかった。
美しい人は次に子どもを鏡の前に座らせ、髪を丹念に拭いて、解かし始めた。子どもは子どもであるが、幼くはない。体を洗い、拭き、服を着て髪を拭いて解かすことくらい、もちろんできる。そうさせないのは、何故だろう。子どもは石ころから人形へ昇格したような奇妙な気持ちになった。
「ジークフリート」
鏡に映る美しい人が、突然いう。子どもは一つ、瞬きをした。
「今日からお前はジークフリートだ。」
名前を与えられた子ども、ジークフリートは、声に出さず、その名を唇で反芻してみた。
「昔話の主人公から取った。不死身なんだ。お前にぴったりの名だと思う。」
人間がつける名前には意味があると、両親から聞いたことがある。物語の主人公、ジークフリートは、最後どうなったのか。結局聞かずじまいとなった。
「オレは、レオンハルト。皆、レオンと呼んでいる。お前もそう呼ぶといい。ここは神を造る研究所。お前を連れてきた奴らは個々の所員。オレは所長。お前は研究に使われる道具。実験材料だ。」
ジークフリートはごくんと喉を鳴らした。神を造る? 実験材料? ただでさえ強張っている身体をさらに緊張させ、鏡の中の美しい人、レオンハルトをじっと見つめた。涼しい顔で黙々と髪を解かす彼。やはり、心は見えない。
レオンハルトの心は読めないが、ジークフリートが質問をしたり、話しかける必要は殆どなかった。レオンハルトは勘が鋭い人間で、相手が求めていることを瞬時に察知し、的確に助言、説明、指示を与えることができた。だから所員も無駄口をたたかず、研究に没頭し、従って研究所は木々のざわめきが聞こえる程静かだった。
ジークフリートが声を発さないのにはもう一つ理由がある。それは、レオンハルトが有無を言わせないということ。取り付く島がないのだ。
ある時は、腕をいきなり掴んで袖を捲ったかと思うと、メスを突き立てる。ある時は、眼球に針を突き刺す。ある時は掌に焼石を落とす。ありとあらゆる苦痛を研究の名の下に、前触れもなく急に与えてくるのだ。
そんな時でも、ジークフリートは体を痙攣させることはおろか、悲鳴を上げることも眉ひとつ動かすことだってできない。冷酷な所員たちですら気の毒がって、止めに入ろうとするほど、レオンハルトのやり方は無慈悲で容赦なかった。
「おい、やめろよ」
「いくら何でもやりすぎだぜ」
「せめて麻酔くらいかけてからやれよ」
所員が見るに見かねてジークフリートを擁護しようとすると、レオンハルトは殺気を込めた眼差しをむけてこう言い放つ。
「修復速度の他に反応も見ているんだ。大体、麻酔なんか効かない。オレのやることに口を挟むな。それとも何か? こいつの代わりにお前がやられたいのか?」
所員は震えあがって逃げる。彼の何が、こんなにも人を怯えさせ、それでいて、惹きつけるのか。子どものジークフリートにも、薄々分かっていた。飴と鞭の使い分け。彼はその達人なのだ。虐待としか思えない実験の後、彼は別人のように優しくなる。自分の仕打ちを詫びたりは決してしないが、代わりの報酬が麻薬みたいに心を支配して来るのだ。
「反射神経に問題があるんだ。」
そう言って、ジークフリートの体中を摩り、顔面をマッサージしてくれる。
「刺激はきちんと脳へ伝わっている。だけど、脳から筋肉への指令が弱い。オレの見立てでは、ゼロではない。訓練すれば、きっと笑ったり泣いたりできるはずだ。」
表情筋を鍛える訓練を、暇さえあればしてくれた。成果が得られなくても、諦めず熱心に付き合ってくれた。
それから、人間の知識に乏しいジークフリートのために、本を選んで持って来て、寝る前に読み聞かせてくれたり、注釈を入れて、色々な情報を教えてくれたりもした。字を読めるようになっても、一人で本を読ませて済ませるようなことはしない。必ず読んだ内容について振り返らせ、また、疑問点を解決してやった。
膝枕して耳掃除をしてくれたり、爪を磨いてくれたり、側にいると肩を抱き寄せ、髪を撫でてくれたりもする。どれもが自然な流れで行われる。
レオンハルトにとっては、特別なことではないのだ。彼は本質的な優しさを持っている。人に、献身的に尽くすことを喜びとし、愛情を注ぐことが身についている。ある地点で彼のそんな日常が破壊され、心を蝕んだ。彼は今、条件反射で手を出しているに過ぎない。
穏やかな午後の昼下がり、レオンハルトはジークフリートを地下の施設へ連れて行った。
「見せたいものがあるんだ。」
灯りがぱっとついて、ジークフリートはいつものことながら絶句した。
部屋の中央に液体で満たされた巨大なガラス管が立っていて、その中に裸の少女が浮かんでいた。自分と同じくらいの年ごろだろうか。それにしても……。ジークフリートは目を伏せ、体を横に向けた。少女はあまりといえばあまりにも、レオンハルトに似ていた。裸の少女というだけで目の毒なのに、よりにもよって彼に似ているなんて……。
「これを見てごらん。」
レオンハルトの鐘の声に促され、閉じていた瞳を開ける。彼の視線は少女とは違う方にあった。ジークフリートは安堵して言われた方へ目を向けた。しかし、安堵などしている場合ではなかった。テーブルの上に置かれた直径十センチ、高さ三十センチほどのガラス管。中には……
「九か月相当まで培養してあるんだ。」
胎児が納められていた。ジークフリートが健全な子どもであったなら、泣き叫ぶか吐くかしていたであろう。ジークフリートは目を逸らすのも忘れて、釘付けとなってしまった。
「同じように培養していたのが他に八体あったんだ。全部、あれにやられてしまった。」
あれとは何を指すのか。すぐわかった。レオンハルトそっくりの少女だ。
「残ったのはこれ一つ。お前はこれと融合して、消えてなくなるんだ。望みが叶う。良かったな。」
レオンハルトの淡々とした話の途中、ジークフリートの思考に音声が飛び込んできた。レオンハルトの声が鐘なら、それは鈴の音みたいに高く響いて、耳を押さえたくなる。けれど、そうはしない。レオンハルトに悟られてはいけないような気がしたから。
――あなた、死にたいの?
声は、何と、ガラス管の胎児から放たれていた。ジークフリートの思考に直接語り掛ける技能を持つ胎児。レオンハルトには聞こえていないし、気付かせてもいない。
――命を粗末にするのね。彼と一緒だわ。彼は殺人鬼よ。殺人鬼が神を造ると思う? 彼が造ろうとしているのは、神なんかじゃない。
胎児は間を置いてから、こう締めくくった。
――あなたは私の一部になって、消えてなくなるんだったわね。先のことなんて知っても仕方ない。話しかけた時間が無駄だったわ。
清らかであるはずの胎児に悪態を吐かれ、ジークフリートはげんなりした。気を紛らすでもないが、レオンハルトに一つ、尋ねてみる。
「彼女たちは・・・」
質問の内容を纏められず、止まってしまったが、レオンハルトは上手く汲み取って答えた。
「オレの細胞から作ったクローンに、様々な生物の長所を掛け合わせた究極の生命体。魔力と知能は人間の域をはるかに超えている。これに、お前の命を加えれば……」
レオンハルトの美しい顔が、残忍に微笑む。
「オレの研究は完了だ。」
神の完成、とは言わない。胎児に教わるまでもなく、ジークフリートにだって分かっている。彼が造ろうとしているのは神とは別物なのだということくらい。だって、レオンハルトは、神を信じないどころか、憎んですらいる。無造作に注射針を刺され、皮膚を剥ぎ取られる度に、それを感じていた。ひしひしと否応なしに。
「あれにも、一応会わせておこうか。」
ジークフリートの手首を掴み、少女が入っているガラス管へ引っ張っていく。抗うこともできず、ジークフリートは少女の前に立たされた。目のやり場に困って、下を向くジークフリートにはお構いなしに、レオンハルトは明るく言った。
「本当はこっちの方が出来は良かったんだ。それが、最終チェックの段階で暴走しちゃって……危うくオレまでやられるところさ。」
レオンハルトは話の内容とは裏腹に楽しそうな笑い声を上げた。彼のこんな笑い声をジークフリートは聞きたくなかった。
「これの他に一体しか残ってないから、処分はしなかった。あっちにもしものことがあった時の保険だな。悪さしないように今は凍結しているんだ。でも、今日は特別に……」
カチンと何かの動作音が響く。
「起こしてやろう。」
ジークフリートは、態度や表情には出せないが、全身の血が逆流して、電気が駆け巡っているみたいに、内心激しく動揺していた。やがて、少女の指先や爪先がピクピク動き始め、長い睫毛を持った瞼がゆっくり開き、レオンハルトと同じエメラルドの瞳を覗かせる。その瞳が目の前のジークフリートを捉えたかと思うと、少女はいきなり両腕を振り上げ、ガラスに掌を叩きつけ、額を摺り寄せ、瞼を全開させた。何かを訴えるみたいに、口をパクパクさせている。心を読むつもりはなかったが、相手の方から勝手に念を送ってきたので、聞かざるを得ない。彼女が一生懸命に訴えているその言葉。俄かには信じがく、耳を疑った。
――あなたが来るのを、ずっと待っていたの!
少女は言う。
――嬉しい。物凄く嬉しいわ。やっと会えた。この世に一人しかない、運命の人。あなたを愛しているの。あなたのためだけに私は生きる。もう、決まっているわ。
ジークフリートは唇を薄く開いたまま突っ立っていた。彼なりの、驚愕の表し方である。胎児が自分に対して軽蔑の念を送ったのだとしたら、この少女は直向きで強烈な愛を届けていた。そんな馬鹿なことがあろうか。親ですら絶望させた自分を、無条件でいきなり愛するなど、この見た目なのに一目惚れなど、あり得ない。隣のレオンハルトが、ふん、と鼻で笑った。
「どうやら、物凄くお気に召したようだね。」
唇の動きを読んだらしい。そうでなくとも彼女の表情で気持ちが丸分かりなのだろう。と、その時、少女は初めてレオンハルトの存在に気づいたらしく、獣が牙を剥くような形相へと豹変し、拳をガラスへ叩きつけ、敵意を露わにした。どうも、極端から極端へ走る性質のようだ。さっきのとろける眼差しはどこへ行ったのやら。
「おおっと。危ない。今度こそ本当に殺される。」
カチンとまた動作音がして、少女は脱力。途端に気を失ってしまう。レオンハルトは一つ息を吐き出して、ジークフリートの冷たい体を引き寄せ、艶のない黒髪を撫でた。
「さ、上に戻ろう。」
ジークフリートの肩に腕を回し、歩き出す。
「この次に会うのは、お前が死ぬ時だよ。」
柔らかな鐘の声が頭上から囁きかける。死の宣告は、とても優し響き。肩の温もりが、死を温かい寝床と錯覚させる。レオンハルトが言うように、望みが叶う日が来る。この、美しい殺人鬼が叶えてくれる。何と幸せなことだろうと、彼は思った。
それからしばらく経ったある日のこと。もともと不眠の傾向が強いジークフリートは、その夜も眠れず、ベッドの上でシーツにくるまり、無意味に横たわっていた。いつもなら、このままの状態で朝を迎えるところだが、その日のジークフリートは違った。手足がうずうずして、じっとしていられない。胸を何かがしつこく叩いてきて、彼を突き動かすのだ。
ベッドを滑り抜け、暗い廊下へ出る。窓の外は、鬱蒼とした黒い森。梢の向こう側で、青い光が零れ落ちている。夜明けがすぐそこまで来ている。今日は良く晴れているから、さぞかし綺麗な朝日が望めるのであろう。その朝日を、美しい人と共に見たい……。
ジークフリートは自分の内から湧き出す衝動を抑えられず、足をレオンハルトの部屋へと向けた。彼の部屋まであと少しと言う所で、ふと、歩みを止め、物陰に身を潜める。彼の部屋のドアが開いて、光が漏れる。中から人が現れ、ドアが閉まり、再び廊下は暗くなる。その後ろ姿は、レオンハルト本人ではなかった。所員の一人だ。こんな明け方近くまで何をしていたのだろう。その姿が廊下の向こう角へ消えるのを確認してから、ドアの前へ行き、ぎこちなく拳を当てた。ドアは程なく開かれ、部屋の主が顔を出す。相変わらず美しいが、血色が少し悪く、引きつっていて、プラチナブロンドも乱れている。寝起きの感じだった。ジークフリートの姿を認めると、レオンハルトは唇の両端を上げ、目を丸くした。
「よお。どうしたんだ、こんな時間に。珍しいな。お前から来るなんて……」
まあ、入れ、と腕を取り、中へ招き入れ、ドアを閉める。ベッドと机があるだけの飾り気のない無機質な部屋。暖炉の火は消えかけて、薪がパチンと弾けて燻っている。
「そこに座れよ。今、コーヒーを入れるから。」
棚からカップを取り出し、暖炉にかけていたポットをはずしてコーヒーを注ぐ。ジークフリートはベッドの縁に座って、彼の美しい所作をぼんやり眺めた。寝間着代わりの真っ白な裾の長いシャツ。折り曲げた袖から伸びる細長い腕と手。指一本一本、爪の先まで優雅な芸術品のようだ。その芸術品が乱れた髪を解きほぐし、また一つ、芸術品を作り上げる。シャツの裾から床へと続く歪みのない真っ直ぐな脚は、太腿から下が露わとなって、絶妙な曲線を描いていた。ジークフリートは、その脚にふと、違和感を抱いて、見入ってしまう。上肢と同じく、細長くて綺麗な脚。脛毛などもちろん生えていない。つるんとした真珠の肌だ。それにしても、何故、こんなにも綺麗なのだろう。
コーヒーの入ったカップを両手に持って、レオンハルトが振り返る。顔色はよくないが、穏やかな微笑みを湛えている。十個の形のよい爪をキラキラさせながらこちらへ歩いてくる。ジークフリートの視線は、上へ移動し、ある所で止まった。レオンハルトの胸の辺り。妙に盛り上がっているように見えたから。シャツの下で薄っすらと透ける、二つの丸いラインと突起……レオンハルトは湯気の立つカップの一つをジークフリートに渡すと、椅子を傍らへ持って来て、ほぼ正面に腰かけた。ジークフリートはカップを顎の下で持ったまま、固まっていた。一口、二口、コーヒーを啜っているうち、無表情な少年の目が、自分のある一点に釘付けとなっていることに気付いたレオンハルトは、唇の片端をくっと上げた。
「お前も、男だな。」
そう言うと、カップをサイドボードに置いて、シャツのボタンをはずし始めた。
「面白いものを見せてやるよ。」
ボタンをはずし終え、レオンハルトは躊躇なくシャツを開いて見せる。ジークフリートは驚愕のあまり、カップを落としそうになった。レオンハルトが、「おっと」と、彼の手からカップを取り上げ、サイドボードに置く。ジークフリートは露わとなったものから目を離せないでいる。
レオンハルトはそんなことにはお構いなしに、胸を開いたままため息交じりで独り言みたいに話し始めた。
「自分でもいい身体だと思う。全く、嫌みな話さ。オレがこんな身体を持っていたって、何の意味もない。お前だって知っているだろう? オレの心は生まれた時から完璧な男だ。紛うことなき男なんだ。なのに、体は真逆の方へ成長して、気づいた時には女に分類されていた。」
性同一性障害・・・そんな単語が脳裏を過ぎった。心は読めなくとも、彼の心は男であると、ジークフリートにも理解できた。話し方も仕草も男そのもの。確かに、男とは思えぬ美しさがあるが、女の美しさとも違う気がした。要は、人間離れした美しさなのであって、彼に女性らしさなど垣間見たことはついぞなかったのだ。だから、今こうして女性の肉体を見せつけられても、ジークフリートには納得がいかなかった。
レオンハルトが黙りこくってしまったので、ジークフリートは視線をようやく胸から外し、美しい横顔へと移した。脚を組み、背もたれに肘をつき、髪を掬い上げながら頭を支えて、暖炉の残り火に目をやる横顔。遠い眼差しだった。暖炉の火を通して、何か別のものを見ているような……。と、ジークフリートの脳裏へと、複雑なイメージが一気に流れ込んでくる。
青白い炎、黒焦げの遺体、白い炎に包まれた眩い街並み。それから、若い男が泣いて震えていて、誰かの手で首を絞められている。そんな映像が突然途切れ、気がつけば横を向いていたはずのレオンハルトがこちらを見ている。虚ろな中に鬼気迫った眼差しだった。
「見たのか?」
小さな声だが、よく響く。ジークフリートは息をするのも忘れ、鼓動さえ止まってしまったように感じた。
「見たんだな? オレの過去を……」
椅子が、カタンと音を立て、レオンハルトがにじり寄ってくる。ほんの数秒の内に、様々な思いが駆け巡った。
「見た」のではない。「見えた」のだ。イメージの方から勝手に入り込んできた。自分ではどうしようもなかったのだ。
それから、死に別れた両親の最期の顔。我が子を殺す直前の、狂気と絶望を綯交ぜにした表情。レオンハルトとだぶって見える。まざまざと殺意を露わにして、近づいてくる、この顔……。
ジークフリートはかろうじて、首を横に振った。レオンハルトに対して、いや、他の誰に対しても初めて見せたあからさまな拒否だった。今までさんざん虐待めいた仕打ちを受けてきた。逃げたことも文句を言ったこともない。しかし、それとこれとは話が別だ。実験という名目すらない、ただの虐待なんて御免だ。彼にただの虐待なんてして欲しくない。
しかし、ジークフリートの思いが彼に届くことはなく、その両手はついに細い首へと至り、締め付けた。死にはしない。六年前に実証済みだ。強く締め付けられる痛みと、呼吸ができない苦しさも……。遠ざかる意識、薄れゆく視界。美しい人の、憤怒の形相。エメラルドの奥に潜む、悲しみ。彼のこんな姿を見ていたくないのに、何故か瞼を閉じることができない。このまま死んでしまいたいが、それは無理だから、せめて早く気を失ってしまいたかった。
混濁し始めた意識の中に、潜り込んでくる、膨大なイメージと言葉の数々。先程の映像が垣間見えたのなら、こちらは全貌が見えた感じだった。レオンハルトの過去に何があって、何をしたのか。彼は、ずっと後悔していた。自分自身を激しく憎んでいた。憎しみが強すぎて、一人で抱えきれず、もっと大きな、もっと根本的なものへと転化せざるをえなかった。例えば、「世界」とか「魔法」とかいう風に……。
意識を失いかけたか、或は失った直後に、ジークフリートは急に呼吸が楽になるのを感じ、一つ、二つ、瞬きをした。視力も回復して、ぼやけていた像がくっきりと映し出されるようになった。最初、目に入ったのは、薄暗い天井。次いで、胸の上に被さる、プラチナブロンド。何が起きたのか? ジークフリートは自分に覆い被さっているレオンハルトを、そっと横にどかしてみた。ベッドに上半身だけ乗せた状態で、仰向けになったレオンハルトは、あどけない表情で眠っているように見えた。しかし、ジークフリートは、彼の異変にすぐ気が付いた。息をしていないのだ。慌てて、肩を掴み、揺さぶる。頭が数回、しなった時、レオンハルトは俄かに顔を顰め、息を吹き返した。と、同時にジークフリートの手を勢いよく払い除け、背を向けて強かに咳込む。ジークフリートはどうしてよいか分からず、咳き込む度に揺れる髪を茫然と眺めた。ひとしきり、咳き込んだレオンハルトは、苦悶の表情を浮かべたまま、再び仰向けに寝転び、息も絶え絶えに言葉を放った。
「ああ、もうちょっとで楽になれたのに……」
吐き捨てるように笑う。
「死に損ねた。起こすなよ、いいところで……」
妙に爽やかな笑顔だった。ジークフリートは微動だにせず、その顔を見ていた。
「全く、オレも馬鹿だよな。死なない奴の首なんか絞めたって、何の意味もない。無駄な労力を使っちまったぜ。」
呼吸が落ち着いてきた彼は、汗のにじむ顔を掌で一拭いして、天井をぼんやり見つめながら、思い出話でもするように、呟いた。
「あと半年ってところだ。放っておいても、自然に死ぬ。光の部族の宿命……いや、寿命だな、単純に。」
黙って聞いているだけのジークフリートを横目に見て、ふと、真顔になる。手を伸ばして、少年の顔に触れ、指に付いたものをまじまじと観察する。透明で、冷たい液体。
「お前は、こういうことで泣くのか。」
泣く? ジークフリートは自分の頬に手を当ててみた。濡れている。いつの間に、涙を零していたのだろう。生まれた時も、両親に殺される時も、実験で様々な苦痛を味わっても、一滴も流れることはなかったというのに……。
レオンハルトは徐に身を起こし、深く息を吐いた。何故かガッカリしているようにも見える。つまらなさそうにシャツのボタンを閉めながら、聞く。
「ところで、お前、何しに来たんだ。こんな所へ、こんな時間に。」
ジークフリートの瞳孔が、窓の方へ動き、つられてレオンハルトも窓へ目を向けた。そして、のんびりと言う。
「おお、もう夜明けか。」
窓には白いレースのカーテンがかかっている。カーテン越しに黄金色の陽光が透けてその下の机をちらちら照らしていた。
レオンハルトは立ち上がって、窓辺へ歩いていき、カーテンを引いて窓を開けると、机の上に腰かけた。朝の森の匂いが、室内へ風と一緒に舞い込んでくる。凍えてしまいそうな冷たい風に肩を竦め、震えながら、微笑む。プラチナブロンドを靡かせる横顔は、憑き物が取れたみたいに晴れ晴れとしていた。木立に降り注ぐ、光芒。小鳥の囀り。梢の向こうで新しい一日の始まりを祝福して燦然と輝く太陽は、美しい人をますます艶やかに彩る。ジークフリートはつい、見とれてしまう。これが、この一時が、彼の求めていたものだったのだ。真珠の肌を桜色に染めて、レオンハルトは呟いた。
「ふーん。なるほど。オレと一緒に美しい朝日を望みたかったというわけか。」
朝日を見つめながら、感傷的に弱々しく笑う。どこか懐かしそうでもあった。それから、思い出したように、ジークフリートを振り返り、真顔でこう言った。
「そうか。お前、オレのことが好きなのか。」
首を絞められる時より動揺したかもしれない。表には出せないが……。蛇に睨まれた蛙よろしく、エメラルドの瞳から目を逸らすこともできない。いつものように取り繕う言葉を紡ぐこともできず、静止していると、レオンハルトが泣きそうな顔をして言った。
「馬鹿だな、オレなんか……こんな狂った奴なんかを、どうして……」
陽光に縁取られたレオンハルトが、机を降り、自分を捉えるまでの時間は、ほんの一瞬で、反射神経に問題のある彼に身動ぎする余裕などもちろんなかった。けれど、唇を重ねられた時、何故だろう、反射的に考えてしまった。ここへ来る直前に見た、所員。彼とレオンハルトが一体何をしていたのか。きっと、他の所員とも、入れ替わり、立ち替わり、毎晩のように……。レオンハルトは少年をしっかりと抱きしめ、静かに泣いていた。嗚咽を堪える声は、震えていた。
「オレがあいつを受け入れることさえできていれば……オレ一人が我慢していれば、あんなことには……」
だから、慰み者になったのか。自分の心をとことん壊して、どこまでも辱め、罪滅ぼしにならないと知りつつ、求める者を拒まず、その身を削り続けたのか。
レオンハルトの肩越しに朝日を見つめながら、ジークフリートもまた、涙を零す。美しい朝の光景が、歪み、滲んだ。
その日を境に、ジークフリートに対する「実験」は行われなくなった。レオンハルトにどんな心境の変化があったのか、分からない。彼の心には前と同じかより強固な防壁が出来上がっていて、中身を垣間見ることもなくなった。
ジークフリートが嬉しかったのは、自分が傷つけられずに済んだことではなく、レオンハルトが夜な夜な所員たちを自室へ招き入れるのを止めたことである。
「余命いくばくもないんだ。奉仕活動なんかしてられないさ。」
レオンハルトはさらりと説明した。
確かに、彼は目に見えて弱っている。足取りが覚束ず、よろけて倒れそうになったり、机に突っ伏したり、自室で静養することが多くなってきていた。そんな状態でも、彼は時間の許す限り
体力の続く限り、研究を進めていった。
ある晩、ジークフリートの顔を両手で揉み解しながら、彼はうわ言のように語り始めた。
「オレは、お前が憎いよ、ジークフリート。お前が来なければ、オレの研究は未完のまま終わって、全てを仕方なかったの一言で濁して死んで行けたのに。」
恨めしそうに続ける。
「お前はオレにとって、諸悪の根源みたいなものだ。妖精と妖魔の力を併せ持って、両方の特性が相乗的に高くて、おまけに不死身……。人間がイメージする神だよな、それって。神は新しいものを創るために、破壊を行う。オレから沢山のものを奪い、オレに大量殺戮をさせる。そして、さらなる破壊を要求してくるんだ。分かってる。神なんかいない。自分の責任だって言い切るのが怖いだけさ。腹を括ってるつもりだったんだけどな。」
手の動きを止めて、さらに言う。
「お前はオレに色んなことを思い出させる。屈託のない子どもの笑顔とか……なにせ、お前は子どもだもんな。少々変わっていはいるけど、子どもは子どもだ。一方で、お前は魔法の塊でもある。魔法は神の業だ。神の業については、さっき話した通りさ。お前は子どもで、魔法なんだ。矛盾している。愛すべきものと憎むべきものが一つに溶け合っているなんて。オレに迷いを生じさせる。目的のためとはいえ、子どもを利用していいのだろうかって。」
レオンハルトは、手を膝の上に下ろして、握りしめた。
「お前は十一年しか生きていないのに、もう絶望していて、早く死にたいと願っている。あの子たちは生きたくても生きられなかったというのに。」
無表情な少年の頬を撫でる。
「お前をあの子たちの代わりにしようっていうんじゃない。誰も、誰かの代わりになんかなれない。だけど。オレは、お前を笑わせたいと思っている。一度でいいから、笑顔にさせてやりたいと願っている。涙を流すなら、喜びの涙を、と……。そんな希望を抱きながら、お前の命をあれへ移す研究に没頭してもいる。自分が本当は何をしたいのか、分からなくなってくるんだ、お前といると……」
手を少年の頬から頭の上に置いて、ぺたぺたと撫で、疲れ切った様子で、息を吐いた。
「さあ、もう寝るんだ。オレも休むよ。」
ドアを開け、出て行きしな、振り返りもせず、告げる。
「最後の実験、三日後だから。」
ドアの閉まる音が終止符となり、部屋の中は静寂で満たされた。ジークフリート少年があと三日で笑う可能性はゼロに等しい。実際、笑うこともなかった。しかし、あと数か月なら……レオンハルトがそんな可能性にかけていたことなど、知る由もなく、ジークフリートは一人、眠りに就いた。
三日後の昼過ぎに、最終実験、即ちジークフリートと胎児の融合実験が行われた。レオンハルトはこの日、ジークフリートに一言も声を掛けることなく、また、目もくれず実験の準備に勤しんでいた。ジークフリートはレオンハルトをそのまま小さくしたような少女が入れられていたのと同じ型のガラス管の中に裸体で立ち、時が来るのをじっと待っていた。ガラス管に繋がれた細い金属製の管は、隣に設置されている胎児のガラス管へと続いており、その周辺ではレオンハルトを始め、所員たちがそれぞれの持ち場で黙々と作業を進めていた。実験装置の調整がついに完了し、所員たちは固唾を飲んで、レオンハルトの言葉を待った。彼は珍しく緊張しているのか、強張った表情で、装置のレバーに手をかけ、口を開いた。
「よし。準備はいいな? それでは、最後の融合実験を開始する。」
レバーが深く押し下げられるのを見届けてから、ジークフリートは瞼を閉じた。これで全て終わる。美しい人が終わらせてくれる。安らぎの時間をもたらしてくれるのだ。幸福感に浸る間もなく、全身に形容しがたい激痛が走り、気を失った。
どのくらいの時間が経ったのだろう。硬く冷たい感触。次いで、重力。灰色の床。鉄に似た臭気。くぐもった誰かの声。五感が少しずつ蘇る。意識が戻ったことを彼は不思議に思う。意識が戻るとは、何なのか。聴覚が次第とクリアになり、誰かの声が誰のものなのか分かるようになる。所員の声……正確には、呻き声なのだが、それが遠い方でぽつぽつ聞こえてくる。全身が痺れて動かせない。辛うじて動く頭を横に向けてみた。すると……すぐ側には何やら赤いものが散乱していて、じわりと同色の液体が染み出し、床に広がり出しているのが見えた。それが、肉片なのだと理解するまで、暫くかかった。
この衝撃が原動力になったのか、ジークフリートは両腕を突っ張るようにして、重い上半身を持ち上げ、身を起こした。辺り一面、肉片で埋め尽くされ、朱に染まっていた。血の海の向こうで、肉片になり損ねた所員が、何人か呻き声を上げていたが、次第と小さくなり、ついには消えてしまった。近くで確かめるまでもない。絶命したのだ。とてつもなく苦しみぬいた挙句に……。
研究所は爆発したのかというくらい、破壊されていた。自分が入っていたガラス管は木っ端みじんになっており、その破片の中に、銀色の光が見えて、何の気なしに手を伸ばし、拾い上げた。それは、所員が首から下げていたネームプレートで、鎖は半分千切れ、名が刻まれている面は血液がべっとり張り付いていた。親指で拭ってみると、刻まれた部分、即ち名の形に血が残り、赤い文字が浮かび上がった。レオンハルト、と彼には読めた。理解できない。したくない。読み返そうとネームプレートを凝視していると、やおら頭の中に鈴の音が強烈に鳴り響いて、ネームプレートは彼の手から滑り落ちた。鈴の音ではなかった。あの、胎児の声だ。胎児が胎児らしからぬ口調で叫んでいる。
――しまった! 何てこと。殺し損ねたわ。どうしてなの? 分子レベルまで粉砕したはずなのに……
これだけ研究所は滅茶苦茶なのに、胎児のガラス管は無事だった。もちろん、中身の胎児も綺麗な状態で液体に浮かんでいる。
「もうじき、人が来るわ。このままだと、あなたが犯人だと疑われてしまう。お互い面倒なことになるわ。早く逃げて!」
建物の入り口付近でドアが開く音とともに人々の足音、話声が聞こえてくる。ジークフリートはよろける身体を引きずるようにして、裏口へ向かった。途中、所員の部屋からシーツをはぐって裸の体に巻き付け、誰に気付かれることもなく、表へ出た。ここへ来てからというもの、一度も出たことがなかった外の世界に、彼は一瞬立ち竦んだ。しかし、怯んでいる場合ではない。理由は分からないが、早く逃げるべきなのだ。胎児が警鐘を鳴らしたし、自分でもそう感じたのだから。鈴の音が追い打ちをかけるように脳裏を揺らす。
――いつか、迎えをよこすわ。それまで、人目に付かない所で隠れて待っていて。きっとあなたを殺してあげる。約束よ。
十六年後、使いの者がやって来た。ジークフリートは胎児の言いつけ通り、人目を避けて生活していたが、土の中に隠れるような奇体な真似はせず、元の生家で大人しく暮らしていた。彼は二十七歳の立派な大人で、分別を弁えて当然なのだ。だから、使いの者たちも彼を小突きまわしたり、鉛の箱に閉じ込めて鎖をかけたりせず、来訪の理由を紳士的に伝えたうえで、丁重に同行を求めた。ジークフリートは無言で無表情で首を縦に振り、彼らの後を亡霊さながらの静かな足取りで付いていく。馬車に乗り、森を抜け、街に入り、王宮へ辿り着くと、四階のとある部屋へ通された。使いは一礼して立ち去り、部屋にはジークフリートともう一人、白い装いの女性だけとなった。
開け放たれた窓から初夏の風が舞い込み、後ろ向きで立っている女性の長い髪を揺らした。逆光を受けて輝く、プラチナブロンド。どこかで見た覚えのある光景に、ジークフリートは軽く吐き気を催す。そして、徐に振り返った女性の顔もまた、記憶の中にあるものと酷似していた。エメラルドの瞳と、不敵に微笑む、果実の唇……違うのは、女性らしさが全身から滲み出ていること。それに、唇から放たれる鈴のような声色。
「久しぶりね。私のこと、分かるでしょう?」
女性はジークフリートが返答するのを待つみたいに、少し間を置いてから再び口を開いた。
「遅くなってごめんなさい。態勢を整えるのに時間が必要だったの。名実ともに、権力を獲得するための時間がね。あなたを呼び寄せるための時間でもあるわ。」
女性の表情は自信に満ち溢れていた。十六歳の娘とは思えない。けれど、彼女は胎児の頃から、こうだった。
「まだ、あなたの命を奪う方法は完成していないの。取り掛かってはいるのよ。他にすべきことが山積しているものだから、なかなか作業がはかどらなくってね。そこで、どうかしら? あなたを死なせる手段を確立させるまでの間、私の仕事を手伝うっていうのは。つまり、私の下で働くの。」
彼女の仕事、とジークフリートは思った。どんな種類の仕事なのだろう。いや、そもそも彼女が何者なのかすら分かっていない。恐ろしい存在であること以外は、何も。女性は不敵な笑みを崩さず続ける。
「怖がることはないわ。あなたは今すぐにでも死にたいのでしょう? 死ぬよりははるかに楽なはずよ。」
ジークフリートは沈黙で答えるしかない。女性の唇の端が、一瞬吊り上がったように見えた。
「自己紹介がまだだったわね。私はレオンハルト。あの時、あなたが落としていったネームプレートから付けられちゃったのよ。皮肉よね。最も忌み嫌う人物の、しかも男の名前をつけられるとはね。代わりといってなんだけど、あなたのことは好きなように呼ばせてもらうわ。どうせ、元々名前なんかなかったんでしょう?あなたはたった今からアルフリートよ。光の部族最後の生き残りである、この私に使える者として、相応しい名だわ。アルって言葉には光の意味があるの。」
名前には意味があると彼が言っていたのを思い出す。不死身の男から、光の下僕へ。名前の変更は呆気なく完了した。
「ここはシザウィー。光の部族によって破壊された集落を、魔法国家として再建したの。城の北は一面花畑にしたわ。死者への手向けよ。」
ジークフリート改め、アルフリートは、窓の外へ目を向けた。色とりどりの花が咲き誇り、風に揺られて波打っている。
「いずれ、ここは元あるべき姿へと変わる。その名に相応しい国になるの。やがては全ての国が、人間の全てが、本来の姿へ還るのよ。私が生きている間に実現できなかったら、その時は……」
レオンハルトは夢見るような眼差しで宙を見つめた。
「あの子が世界を終わらせる。」
ガラス管の少女が、頭に浮かぶ。自分のことを愛していると断言した、あの少女。
「あの子は研究所の地下で眠り続けているわ。誰にも見つからなくて良かった。会いに行ったりしないでね。おかしなことが起こると困るから。」
会いに行くなど考えもしない。あんな風に人から渇望されるなんて、想像しただけでぞっとする。
「私はね、下準備をする役目なの。最後の仕上げは、あの子がする。生まれる前から決まっていたことなのよ。あなたには、私の下準備に付き合ってもらうわ。」
彼女の言うことはさっぱり分からないし、考えていることにしても、皆目見当がつかない。彼女もまた、心が読めないのだ。厳重にシールドがかけられている。逆光を背にして、残忍に口元を歪め、アルフリートを見つめる。
「別に、心を覗かれるのが嫌なわけじゃないのよ。あなたのためにならないことで、私の頭の中は一杯なの。私かあなた、どちらかが最期の瞬間に全部見せてあげる。お互い、心置きなく永遠の眠りにつけるように……」
この約束は、数年後、本当に果たされることになった。心置きなくとはいかなかったが。記憶が失われることを懇願したレオンハルト少年……記憶を消してしまいたいのは、こちらの方だ、とアルフリートはつくづく思ったものだ。
一体、何だってあんな殺し方をしてしまったのだろう。もっとスマートに、もっと穏便に事を済ませる術もあったはずなのに。七人の殺し屋。そして、アーサー・フロント。たぶん、研究所での出来事が色濃く反映されてしまっているのだろう。自分の場合、憎悪を形にすると、あのようになる。憎悪としか言いようがない。
アルフリートにとって、レオンハルトは我が子である以上に、美しい人の生まれ変わりなのだ。ガーゴイルが自分の元へ籠に入った彼を連れてきた時、一目見て、そう確信した。美しい人が望んでいた魔法のない穏やかで素朴な暮らしを送ってもらうべく、知的な部分で少々難はあるが、清らかで愛情豊かなシザウィーの王に赤ん坊の彼を託したまでは良かったのだが……。
彼が十一歳の誕生日を迎えたあの夜。恐らく美しい人が大切なものを奪われて感じたであろう、憎しみと、人間を信じて預けてしまった後悔とが、文字通り炸裂した。
この世界は滅びるべきなのだ、と彼は実感する。セリアもガーゴイルから情報を伝え聞いたのであろう。遠く離れてはいるが、二人の気持ちは一致していた。別行動で、同じ目標へ向かって動き始める。
これは、復讐ではない。二人が目指すのは、世界の終焉なのだ。負の連鎖を断ち切り、憎しみも悲しみもない無へ帰す。できれば、レオンハルトにも同意して欲しかった。しかし、同意を得ることは叶わず、返って彼を苦しめ、傷つけることになってしまった。
仮初の死と知りながら自ら刺した宝剣は、二度とも抜かれた。一度目はガラス管の少女。二度目は妖魔王。目を覚まして、妖魔王の姿を認めた時の奇妙な感覚は今でもこの胸に留まって掻き乱してくる。そして、妖魔王の要求もまた奇妙なものだった。
レオンハルトの記憶を消して、魔法を覚えさせろと言う。腐り切った世界を再生させるために。馬鹿なことを考える。それに従う自分も十分に愚かではあるが。
レオンハルトとセリアが相見えることになるのは分かり切っていた。間に入るつもりも、どちらかの助太刀をするつもりもない。けれど、アルフリートは思う。レオンハルトは、母親に手を掛ける気が本当にあるのだろうかと。まさか、彼女が説得に応じて、計画を中止させるとでも思っているのか。アルフリートにはわからない。その気になれば心を読んで確かめることもできるのだろうが、知りたくないというのが本音だった。彼は、あの人に似すぎている。あの人の心に踏み込むみたいで、気が引けてしまう。今は、静観するに留めよう。
妖魔王が告げたように、自分は誰にも必要とされない役立たず。何かをしようなどと思わないことだ。しかし、彼は一つだけ心に決めていることがあった。自分にしかできない、やらねばならないことがある。それも、秘密裏に。悟られる心配はない。抑揚のない声と、感情の表れない顔が幸いする。千年目にして意味をなす、この特性……時が満ちる。息を詰めて待つ。あの人の面影を網膜に焼き付けて。
二月七日
朝食を終え、ミーナとサラが洗い物をしているキッチン。取り留めもない話に夢中になっている。笑い声と水の跳ねる音。食器同士が奏でる音。平和な音声が飛び交う、そんな中、自室へ戻ろうとする、長身の剣士の背中に呼びかける、柔らかな声。
「アルディス、後で、オレの部屋に来てくれないか?」
振り返るや否や、付け加えられた言葉。
「あの剣を持って。」
アルディスは頷くことすら忘れて、切れ長の目を見開き、しばし立ち尽くした。彼を凍り付かせたレオンハルトはそよ風みたいに脇をすり抜け、先に部屋へ入ってしまった。乙女たちは何も知らずに、無邪気な音を奏で続ける。
アルディスが重々しい表情でレオンハルトの部屋を訪れる。父の形見、新月烈風剣を携えて。高まる緊張感に震える手を宥めようと、一つ息を吐いてからドアを叩く。はい、と気の抜けた返事。部屋の中は朝の白い陽光が充満していた。デスクチェアに腰かけ、陽光に浸っているプラチナブロンドの青年が、宝石の瞳でこちらを真っ直ぐに見つめる。
差し出された手に、細身の大剣を渡すと、重力が働いて、繊細な陶器の手が下に引っ張られた。口元に微笑みを湛えながら、鞘から剣を引き抜く。すらりと、冷たい音を立てて、現れた刀身。白銀の、艶やかなまでに研ぎ澄まされたそれを、視線でなぞる。
「遅くなってごめん。」
誰に向かって言っているのか。剣にか、自分にか。それとも、死んだ父に向かってか。
アルディスは無言で突っ立っている。墓標を前にしているかのような沈痛な面持ちで。
「だけど、思いもしなかったから……この剣に魂を注ぎ込むのが、オレだなんて。」
少し間を置いてから質問してみる。
「何故、お前だと?」
レオンハルトは声に出さず笑った。
「今現在、この世界でそれができるのは、オレだけだ。魂って表現は語弊がある。人間らしい比喩だ。魔法と言うべきところを心に置き換えてしまうんだからね。記憶をなくして心の欠けているオレに、魂云々を物質に移せるわけがないよ。でも、魔法をかけることならできる。この剣が元々持っていた魔力を引き出し、補い、付け加えて、進化させることがね。」
アルディスは喉仏を上下させて言った。
「お前にしかできない。」
とぼけるなよ、と言う風にレオンハルトは頬を引きつらせる。
「ラエルに言われてたんだろう? オレに魔法をかけてもらえって。妖魔王がだぜ? ラエルがやらなかったのには意味がある。これにかけられていた魔法は自然魔法だ。人間の魔法だよ。千年前に廃れた術だ。ラエルには使えない。ラエルが魔法をかけたりしたら、これは別物になってしまう。オレにしかできないんだ。」
言い終えると、レオンハルトは手にしている剣を目でもって舐め回した。以前のようなうっとりした目つきではない。何かの暗号を読み解いているのと同じ種類の眼差しだった。けれど、彼はこう言う。
「この剣はとても綺麗だ。前にも言ったよな。」
アルディスは白銀の刃を眺めながら頷いた。確かに、言っていた。あの時は感情たっぷりであったが。
「心を込めて作られたり、使われたりしたものが、オレには光って見える。それが綺麗だと感じる理由らしい。」
「綺麗に見えるのか?」
レオンハルトは弱々しく微笑んだ。
「光って見えるんだ。それも、強烈に。とても綺麗と表現するに値する光り方だよ。オレの経験上、つまり、記憶によるとね。この剣は心を込めて作られているし、持ち主たちも代々大切に扱ってきた。いわば、魂が込められているってわけさ。この剣には既に魂が備わっていて、長い年月を経ても失われることなく、留まっている。お前は剣とともに魂を受け継ぐことになるんだ。オレはそれに見合う魔法をかける。」
そこまで言うと、レオンハルトは座ったまま、右手に剣、左手はアルディスの手首を掴んで、瞼を閉じた。急に手首を掴まれたアルディスは、びっくりして体を強張らせた。
「緊張することはない。魂を抜こうっていうんじゃないから。最適の処置を施すために、アルディスの感性を借りたいんだ。」
「感性を借りる?」
「大丈夫。減るもんでもなし。何も考えず、黙ってオレに任せておきな。信じろよ。」
アルディスは眉を顰めながらも鼻から息を吐き出し、レオンハルトに倣って目を閉じてみた。すると、手首を伝って流れ込んでくる感覚に、やはり驚いてせっかく閉じた眼は早くも開かれることになった。
レオンハルトと、剣と、自分自身も、柔らかな乳白色の光に包まれている。プラチナブロンドが風に舞って踊っている。そこへ、被さってくる、映像。勝手に想起される、イメージ。アルディスの根底にあるものが照らし出されている感覚……。しかし、決して不快ではない。何故なら、見えている映像は、故郷の風景、大好きな花、父や母の顔が殆どだったし、聞こえるもの、触れるもの、五感に訴えかける全てが、心地よいものだったから。例えるならそれは、初夏の草原を吹き抜ける爽やかな風。懐かしさと愛おしさを運んでくる風だった。
アルディスがそう思い始めた頃、風は呆気なく止んでしまった。自分の手首を掴んでいた手も離れた。安堵なのか、疲労によるものか分からないが、レオンハルトはふう、と息を吐き出してから、魔法をかけ終わった剣を持ち主へ返した。
「はい。」
まるで、借りていた本を返すような、何気ない仕草に、アルディスは少々面喰いつつも、反射的に剣を受け取った。
「今、オレの心を読まなかったか?」
聞かれて、レオンハルトは心底嫌そうに顔を顰める。
「そう言う質問するなよ。今のところ読めないけど、能力が備わってないわけじゃない。アルテイシアの館で砂糖壺の中身が見えたみたいに、急に人の心を読めるようになってしまうことだってあるかもしれないだろう? オレの頭の中は嵐が起きて滅茶苦茶になった図書館だ。そこへお前の二十三年分の回顧録なんか投げ込まれたら、堪ったもんじゃないよ。」
「そうか……。色々なイメージが脳裏に浮かんだものでな。」
レオンハルトは短く笑って言った。
「敢えて一言で表すなら、風、か?」
アルディスは厳かに頷く。
「そうだ。風だ。」
「だと思った。オレにも風が伝わってきたから。」
伝導体たる左手を見つめる。そこにあった感覚を思い出しているのだろう。
「アルディス。その剣は、選ぶんだ。」
「選ぶ?」
唐突な言葉に、アルディスは眉を顰め、剣とレオンハルトを交互に見た。レオンハルトは確信的に頷く。
「その剣は、お前の感性に反応する。お前の潜在意識を汲み取って、発動すべき力を選ぶんだ。鋭く斬り込むのか、風圧で吹き飛ばすのか。攻撃を受け流して、威力を弱めるのか。斬るものと斬らないものを区別することだってできる。間違って仲間を傷つけることはない。持ち主の心と連動して、なすべきことをなす。そういう力を秘めた剣だ。つまり、その剣の真価は、お前自身にかかっている。他の誰かが使っても、まあまあ切れ味のいいくらいなものさ。次第と力は失われ、あの、塩釜状態になってしまう。お前の側に常に置いておくんだ。そして、時々でいいから取り出して、触れること。手入れしなくても、勝手に磨きがかかる。お前が望む通りになろうと、その剣は努める。忠実なる僕だ。オレの言っている意味、分かるな?」
アルディスは重々しく頷いた。
「オレは剣術だけではなく、心をも研ぎ澄まさねばならんようだな。」
レオンハルトはニヤッと笑って、友を指差した。
「良い表現だ。手入れ不要の剣なんて、お前には物足りないかもしれないけど、お前の気持ちには必ず応えてくれるよ。何か磨きたくなったら、台所の包丁を代わりに砥ぐといいさ。」
二月十四日
ジークフリートは、度々兄に呼び出され、その部屋の中で「手伝い」をさせられた。周囲の人間たちは、彼らが何をしているのか知らず、尋ねても「手伝い」としか聞かされないので、首を傾げるばかりだ。しかし、実のところ、当事者の一人であるジークフリートにも、自分がなんの「手伝い」をしているのか良く分からなかった。彼に分かるのは、途方もなく疲れて、途方もなく虚しい作業であるということだけ。相手の方はけろっとしている。その、澄ました顔を見ていると、虚しさは一層募ってくる。例えて言うなら、紐で繋がれながら、世界の果てを目指して泳ごうとしているような虚しさだった。
けれど、手伝いが終わると、レオンハルトは必ずこう言うのだった。
「ありがとう。助かったよ。」
何がありがとうで、何が助かったのか。やはり、分からない。それでも、この二つの単語を聞くと、体の力が抜けて、一晩ぐっすり眠ることができた。もしかしたら、彼の本当の目的はこれなのではないか、と思うこともあった。
両親に殺されかけたショックで眠りに就くことすらできなくなった気の毒な弟を、それとなく癒そうとしているのでは……? 母親そっくりな兄の掌で転がされている、不甲斐ない自分に苛立つ。相手は一枚も二枚も上にいて、涼しい顔で見下ろしている。出会った時からずっとだ。いっそ、完膚なきまでに打ちのめされたい。生温い優しさは、真綿で首を絞めるように残酷だった。
謎の手伝いを終えて、無言で立ち去ろうとする背中に、呼びかける声。
「なあ、ジーク。」
勝手につけられたあだ名も、すっかり馴染んでいた。少し尖った耳を兄に向ける。用件を聞くために。しかし、兄の口から発されたのは、用件ではなかった。
「名前には意味があるんだ。」
往々にして、彼の話は唐突だった。そして、唐突な話の結末は大抵、聞かなければ良かったと後悔するものばかりだった。分かっていても、何故か避けることができない。悪夢を見ているのに気付いても、目覚めることができないのと同じように。振り返ると、遠い眼差しをした美しい兄の横顔が見えた。
「人は、名前を付ける時、名前に意味を持たせる。比喩みたいなものなんだよ。良い意味の言葉を使ってみたり、響きのきれいな言葉を選んでみたり、親や親戚、先祖、それに有名人から取って付けたりもする。元の持ち主のように育ってほしい、なんて気持ちをこめてね。オレが妖魔王に名前を付けた時は、死体処理をしてくれる天使のような一匹狼ってことで、アズラエル・マベリック……つまり、古文書にあった伝説の死の天使と、一匹狼の意味を持つ言葉を掛け合わせたんだ。まさか、妖魔王とは知らなかったものだからね、当時は。」
ここまでは、実に長閑な話だ。これからだ、とジークフリートは拳を握りしめた。
「オレの名前は、父親が、赤ん坊のオレをシザウィーの王様に渡す時、名前を尋ねられて咄嗟に付けたらしい。初代国王と同じ名だったから、誰も名前の意味なんか気に留めていなかったろうよ。丁度いいとか、そのくらいには思ったかも知れないけれど。ところで、ジーク。お前は咄嗟に付ける名前っていうものが、どんな意味を持っていると思う?」
ジークフリートは首を横に振った。どうして彼はいつも堪えられない質問ばかりしてくるのだろう。
「オレは、最初に記憶を失って間もなくの頃、偽名を使う必要があって、咄嗟にラエルと名乗ることにしたんだ。妖魔王に付けていたあだ名だよ。ラエルのことなんか忘れていたのに、咄嗟に出てきた名前はラエルだった。ラエルは記憶を失ってもなお、潜在意識に残るほどオレにとって消しがたい強烈な印象を備えた存在だ。思い入れのある存在というべきか……。咄嗟に付ける名前には、強い思い入れがある。それが、我が子になら、なおさらのことじゃないのかな?」
同意する代わりに、ジークフリートは握っている拳をわなわなと震わせた。
「オレの名前は、父親にとって強い思い入れのある人物から付けられたってわけだ。……まあ、オレの名前なんてどうでもいい。丁度いい例えだったから、言ってみただけだ。」
暖炉の薪が、ごつんと鈍い音を立てて崩れた。
「ジークの名前は、彼女が付けたんだよな? 妖精界で名前を付けようなんて発想する奴は、人間である彼女しかいないはずだ。」
確かに、そうだった。自分が、妖精王の治療に不適合とされて間もなく、母のセリアが仕方なしにつけた名前と聞いている。
「お前の名前には、どんな意味があると思う?」
弟は、眉を顰めた。知らない。考えたこともない。
「人間界には昔話というものがある。古くから言い伝えられている話だ。ジークフリートっていうのは、昔話の主人公で、不死身の男なんだ。」
すると、自分の名は、物語の主人公から付けられたということか? そんな考えを否定するように、レオンハルトは続ける。
「でも、彼女は昔話から取って付けたわけじゃない。実在の人物からもらったんだ。彼女にとって重要な人物からね。その人がたまたま昔話の主人公の名を付けられていたっていうだけさ。」
「何故、そんなことが分かる。聞いたのか? 直接……」
レオンハルトは半ば呆れたように笑う。
「まさか。聞く必要はない。オレはお前の名を初めて耳にした時から違和感を抱いていた。知人の名と響きが似ていて、どうしても二人を重ね合わせて見てしまうんだ。似た名前なんかいくらでもあるのに。オレは、今でもお前の名を正しく呼ぶことができない。吐き気がするんだ。」
自分の名に吐き気を催すとは。物理的な攻撃より、言葉の礫は痛い。返す言葉もなく立ち尽くしていると、ようやく暴言を放ったことに気付いたレオンハルトは、手を振りながら弁明した。
「いや、お前の名前が悪いんじゃない。そういうことじゃなくて、ただ、オレがずっと抱いてきた違和感が何のせいで、お前と知人の名が似ている理由は何なのか、最近気づいてしまったんだよ。つまりさ、お前の名前は、その知人から付けられたって考えると、つじつまが合うんだ。とても自然で、だけど奇妙な話さ。」
知人と称する人物が誰なのかは、ジークフリートにだって分かっている。だから、こう切り返した。
「似ているだけだ。全く同じではない。その人からつけられたという確証はあるのか?」
「確証なんかないさ。そんなもの必要ない。その知人は彼女にとって特別な人物だ。強烈に慕っている唯一無二の存在。改名する前の、元の名前を彼女は知っていた。そちらの方が彼女には馴染み深い。千年近く思い続けた名だからね。そして、我が子に名前を付ける時がやって来て、彼女が思い浮かべたのは、その人の名前以外他になかった。元の名なら誰も知らないし、勘ぐられる心配もない。そうして愛おしい名を、我が子に付けた。夫ではない、他に思いを寄せる男の名ではあったけれど。彼女は純粋に、最善の名を選んだわけだ。彼女なりに、ね。」
ジークフリートは陸揚げされた魚みたいに息苦しくなって、口をぱくぱくさせた。
「彼には、古い名の方が似合う。ぴったりだ。なにせ、不死身の……」
「もうよせ! 一体、何が言いたいんだ、お前は!」
弟が必死で止め立てする。それを兄は一種冷ややかな眼差しで見返し、笑う。
「お前は、全く愛されていなかったわけじゃない。」
間を置いて放たれた言葉が、ジークフリートの胸を揺さぶる。
「その辺の石ころに、名前なんか付けない。愛する男の名を使うのならなおさらだ。嫌っていたわけでも、無関心だったわけでもない。温かい血の通った感情が、そこにはあったはずだ。」
ジークフリートは、母の記憶を掘り起こしてみた。鉄格子の向こうから幼いわが子の首を絞め、花を貪る狂気の女……。この目で見た最初で最後の母の姿。後は、自分を殺そうとして放たれ、脇を掠めた氷の針の冷たさくらいのものだ。
愛だって? ジークフリートは露骨に顔を顰めた。母から温かさなど感じたことは微塵もない。二度も殺されかけた。母の、自分に対する気持ちは、痛いほどわかっている。今更、生温い話などして何になる? とぼけた奴め。弟の鋭い眼光を、心地よさそうに受けとめ、レオンハルトは短く笑った。
「切り捨てたんだ。」
「切り捨てた?」
レオンハルトは唇に微笑みを湛えながら、頷いた。
「そう。感情の一切合切を不要のものとして、切り捨てたんだ。彼女が使命を遂行する上で妨げになるから。何せ……何せ世界を滅びへ導こうとする者が、愛だの恋だので浮かれているわけにはいかないからね。彼女は自らを破壊の道具たらしめんとしていた。人間味を排除すること。それが必須条件だ。人との関わりを遮断するため、気狂いのふりをして、幽閉させて……。誰にも気付かれず、手っ取り早く、迷いなく行動を起こすことができるだろう。もちろん、オレはそれを阻止してみせる。」
ジークフリートは、兄が結局何を言いたいのか分からなかった。あの夜、母が幼い自分に襲いかかって来たのが、お互い情が移らないようにするためのパフォーマンスだったのだとしても、だからどうしたのか。数年後には本気で自分を殺そうとしたのだ。レオンハルトを選んで、自分は選ばなかった。その事実に変わりはないのに……。
「切り捨てられたのは、私の方だ。まさしく不要物としてな。それを再確認させて、反応が見たいか? どこまでも貶めて嘲りたいのか? 笑うなら笑うがいい。」
レオンハルトはプラチナブロンドを揺らしながら、首を振った。伏し目がちに微笑んだまま。
「オレがお前に再確認してもらいたいのは、誰かに愛されていたという事実、それだけだ。その事実が生きる力になるし、暗く沈む心を照らす、一条の光となる。」
ぴんとこない弟に、続けて説明する。
「絶望の淵に立たされた時に、踏み止まる勇気を与えてくれるんだ。今がそうなのか、これからなのかは分からない。でも、お前にも必ずやって来る。オレは、愛されることを渇望して生きてきた。愛してくれる人は一人もいないと思って……。馬鹿な話さ。失って初めて気付くなんて。愛されていた事実に。大事なのは、愛されている事実に気付くことなんだ。失う前に、ね。」
ジークフリートは瞬きを何度もして、兄を見た。随分矛盾した話に聞こえたから。どの口が言うのかと。
「気付かせてどうする? 失われることが決定しているというのに。」
ジークフリートの疑問に、レオンハルトまで目を瞬かせる。
「失われる? どうして。」
歯がゆくて、舌打ちしてしまう。
「世界を滅ぼす計画を止めに行くとは、殺しに行くということだろうが。まさか、あの方が説得に応じて、改心するとでも思っているのか?」
レオンハルトは軽く噴き出した。
「そんなタマじゃない。知ってるさ。だけど、言うことを聞かないから殺すっていうのは、どうかな。お前は本気で、オレがあの女を手にかけると思っているのか? 仮にもお前の母親で、しかも愛情を持っている人間なんだぜ。大体、殺すんなら、とっくにやってる。殺して済むなら、苦労はしないよ。」
ジークフリートは困惑の様相を呈するばかりだ。
「説得もせず、殺しもしない? ならば、一体、どうやって……」
「知らなくていい。お前は何も心配しないで、ただオレを信じていればいいんだよ。」
妖精城でも同じようなやりとりがあった気がする。それに、この表情も見覚えがある。あの時も彼は笑っていた。決意と悲哀を綯交ぜにした、穏やかな笑顔……。頼もしくもあり、壊れそうでもある。母の顔で、母がしない表情を作る。
ふと、妖魔王が自分に放った言葉が脳裏を過ぎった。お前の幸福を本気で願ってくれるのは、レオンだけだ。レオンと共にあること。お前が居場所を確保する方法はそれしかない。今なら、この言葉の意味が理解できる。
レオンハルトが言うように、母は自分を少しは愛してくれていたのかもしれない。しかし、真剣に、深く、強く愛情を注いでくれるのは、目の前にいる、この兄の方なのだ。心が失われてもなお、かつて抱いていた感情を忠実に再現しようと試みている。自分のために、努力してくれている。愛されている事実なら、ここにある。感じることができる。自分を愛してくれる存在に気付けた喜び。胸の内から力が漲ってくる。干からびた心が、潤っていく。生まれて一度も経験したことのない感覚に、ジークフリートは身震いした。
「オレの言いたいこと、分かったか?」
上目遣いで確認する兄に、多少たじろぎながら、首を縦に振る。
「ああ……分かった。」
それは、たぶん、レオンハルトが望んだ理解の仕方ではなかった。レオンハルトは、弟に対して、自らの愛情を示したつもりはなかった。実の母に浴びせかけられた死の恐怖を少しでも和らげ、凍える心を温めてやりたかっただけなのだ。
感情が回復し切っていない、その胸で思う。愛されたくなんかない、と。人は、愛する者のために、無理をする。傷ついて、時には命までかける。自分のために、そんなことをして欲しくない。だから、大切な弟にも、愛されたくはなかった。むしろ、憎んでもらいたいくらいだ。それくらいが丁度いい。
けれど、彼の思いとは裏腹に、弟の気持ちは方向性を変えていく。晴れやかで、誇らしく、生まれ変わったような気持ち。ここまでは良かった。ジークフリートの内側で秘かに進行していく、思い。まるで、新型のウィルスみたいに浸食していく、熱の帯びた思いを、胸の奥に隠して何食わぬ顔で日々を過ごす。機会を伺う。誰にも知られず、秘密裏に。
二月二十一日
「ねえ、私、思うんだけど。」
軽い昼食が終わって、皿を片付け始めた頃、ミーナが椅子に座ったまま、もじもじして言い淀んだ。永遠の少女の珍しい仕草に、一同はただごとではない気配を感じて、その手を止めて続きを待った。
「妖精城は、結局、光の城じゃなかったんでしょう?」
胸の奥でフワフワしていた部分が、急に冷え固まる。皆、もちろん気付いてはいたのだが、レオンハルトの体調が安定するまで口にできずにやり過ごしていた。空色の瞳が、真っ直ぐにレオンハルトを見つめている。レオンハルトは、見つめ返しながら、機械的に微笑んだ。
「ああ、そうだよ。妖精城は妖精城さ。光の城ではない。」
「じゃあ、本物の光の城はどこにあるの? 光の結晶を探さないといけないんじゃない?」
周囲で不安気な眼差しが見守る中、レオンハルトは、一種冷ややかに口元を綻ばせる。
「探す必要はないよ。光のセンスなら、生まれつき持ってる。」
長い瞬きの後、言葉を続ける。
「光の城は、厳密にいうと、千年も前に光の部族最後の純血であったレオンハルト青年によって、街ごと焼き払われ、跡形もなくなっている。その後、彼が造り出した同名人物、レオンハルト一世が光の部族唯一の生き残りという肩書を持って、国を再建し、城を建立したわけだけど、光の城をあえて特定するなら、その城、シザウィー城になるだろう。結晶はいわば自然魔法の塊だ。白石の影響を受けない。そんな白石の弱点を露呈するようなものを、レオンハルト一世は手元に置いておいたりはしない。信頼のおける、そして、何より光の結晶を守るに足る人物に託して、国外へ持ち出させている。」
サラが、恐る恐る尋ねる。
「それは、もしかして、アルテイシアさんですか?」
プラチナブロンドが横に振れる。
「アルテイシアは別の使命を与えられている。世界の行く末を見届けるっていう使命をね。」
アルディスも言いづらそうに尋ねる。
「では、その……アルフリートに……?」
「自殺志願者に渡すものか。レオンハルト一世が最も信頼していて、実力を認めている人物と言ったら……」
「分かった、ラエルでしょ。あっちの方の。」
あっちの方。妖魔王のことだ。ミーナはレオンハルトをラエル以外で呼ぶつもりはない。
「あっちの方も信頼しているし、実力もそりゃああるだろうけどさあ。もっと適役がいるだろう?」
皆、黙して視線を泳がせ始めたので、レオンハルトはため息交じりで答えた。
「あの女。セーラ・コークラ・プシーだよ。決まってるじゃないか。まさしく分身なんだからね。以心伝心ってやつさ。」
苦いものを飲み込んでしまったみたいに、顔を顰める一同。
「いつの間に……」
「アルテイシアの話にはなかったが。」
仲間たちの囁きを受けて、擽ったそうに顔を背ける。
「いつ、どうやってかは知らないし、知らなくていい。光の結晶は何らかの形で、セリアが持っている。そこが重要なんだ。結晶がある場所を部族の城とするなら、ジークが言ったことは強ち嘘ではなかったわけさ。妖精城は今現在、光の城であると言える。そして、オレたちは必然的に最後の舞台へ導かれ、結晶を持つ者と対峙する。」
ミーナは空色の瞳をレオンハルトの横顔に見開いて、小声で呟いた。
「光の結晶がいらないのに、行くの?」
レオンハルトは、ミーナの方へ向き直り、ゆっくり丁寧に言葉を紡ぎ出した。
「行かなくてはいけないんだ。部族の結晶は、人も、妖精も、妖魔も、その心を乱し、争いを生む。お守り代わりに造られたものだけど、その意図とは裏腹に人々を苦しめ、悲しませる元凶となってしまった。結晶を回収して、争いの芽を摘むんだ。それと、前にも言ったけれど、オレの最終的な目的は、世界を救うことじゃあない。特別な光を持った、一組の兄妹を守ることなんだ。そして、仲間を死なせないこと。あの女は、オレの弟を殺そうとし、大切な兄妹を殺しかけた。見過ごすわけにはいかない。野放しにしておけないんだ。彼女を止められるのは、オレだけだし、その義務がある。十一歳の誕生日に殺し屋がやって来て、命を狙われたことがきっかけで、彼女の計画は動き始めた。オレのせいで始まったことだ。オレが止めなきゃいけないんだよ。」
両手を胸の前で組み合わせ、祈るようにミーナが言う。
「私もお兄ちゃんも、あんたがお母さんと戦って傷つけ合うことなんか望んでないわ。」
レオンハルトは、一瞬目を伏せてから、ミーナの細い肩に手を添え、穏やかに告げた。
「ジークにも言ったけれど、オレは別に、あの女を殺す気はないよ。恨みつらみを晴らしに行くんじゃなし。もちろん、平和的解決とまではいかない。でも、信じてくれ。オレは人を殺さない。ミーナや皆を悲しませるようなことはしないよ。」
安堵して微笑むミーナにつられて、レオンハルトの口元も緩む。ミーナから手を離し、窓辺へ近寄る。昼下がりの薄雲った灰色の景色はまだ凍てついて、春の予感を拒絶させた。雪原の向こうへ視線を送る緑の瞳は、ガラス玉よりも無機質に風景を映じている。
「あと一週間……」
レオンハルトの呟きに、皆、耳を欹てる。
「一週間経ったら、出掛けよう。準備をしておいて。」
背筋がピンと伸びる。
「具合はどうなの? もう大丈夫?」
ミーナの心配する声に、横目で答える。
「まだ本調子ではないけど……完治するのを待っていたら、到底間に合いそうにないよ。予防線が張られている。」
「予防線?」
「地上に落ちた妖精城に近づけないよう、トラップを仕掛けている。相手もこの二か月、ただぼんやり待っていたわけじゃない。オレたちを迎え討つ準備を着々と進めている。トラップを解除しながら行くんだ。時間が掛かるよ。こうしている間にも、どんどんトラップが増えていっている。少し急いだ方がいい。」
「それじゃあ、一週間と言わず、明日にでも……」
歩み寄るミーナを人差し指で制する。
「今回は、前みたいにアルフリートの霧やルイの背中に乗って一っ跳び、というわけにはいかない。上空までしっかりと抜け目なくトラップが仕掛けられている。空中での解除は危険だ。地道に森を歩くしかない。雪は積もっているし、とにかく、寒い中何日もかけてだ。森でコテージは使えない。準備に手を抜いたら、痛い目を見るよ。それに、一週間でできる限りトラップを減らしておきたいんだ。半径一キロはバリアを張ってあるけれど、外側の至る所トラップでびっしり。敵もさる者だよ。」
バリアと聞いて、一同は窓へ目を向けた。そんな形跡は全く見当たらない。
「いつから?」
「ここにコテージを広げた直後さ。当たり前じゃないか。妖精城に風穴を開け、その王に狼藉を働き、追う者を悉く打ちのめした。妖精界を文字通り地に貶めた大罪人を、野放しにしておくわけがないだろう? どんな手を使ってでも見つけ出して報復しようとするさ。だから、人里にうまく隠れたりしてはいけなかった。関係のない人たちまで巻き込むことになる。居場所を特定させた上で、防御する他ないよ。今の今まで平穏無事でおかしいと思わなかったのか?」
おかしいと思ってはいたのだが、まさかバリアを、それも超特大で強力なものを、あの状況で拵えていたとは、気付かなかった。改めて目の前にいる人物がとんでもない存在であることを思い知る。
「バリアの内側から、トラップの解除が出来るのですか?」
「オレが拵えたバリアだからね。単純なトラップなら簡単に……。込み入ったものになると、話は別だけど。」
「込み入った?」
「大概のトラップは手下の妖精たちが仕掛けてる。そいつは単純な造りだから、蝋燭の火を吹き消すみたいに簡単に外せるんだ。だけど、中にはセリアが直接仕掛けたものも混じっていて、こっちは相当手強い。複雑に合成された、威力も桁違いの罠だ。そうだな、難易度としては、闇の結晶を含む土に掛けられていたトラップに匹敵すると思う。あんなのがあちこちに、ごろごろ仕掛けられているんだ。慎重に取り掛からないとね。」
サラは心底震えあがって、口を押え込んだ。父を死に至らしめた罠が、あちこち、ごろごろ。そう聞いては平静ではいられない。
「たぶん、オレへの当てつけでもあるんだろうね。一種の心理作戦かもしれないよ。あの時はどうにもできなかった。大切な人を一人犠牲にしてしまった。今は、どうにか解除できるようになった。それじゃあ、大切な人を死なせてしまったのは何だったのかって、オレはトラップを解除するたびに考えることになる。前のオレなら心折れていたと思う。でも、今なら……幸か不幸か、オレの心は欠けている。お蔭で、冷静に解除できるよ。」
サラは口に手を当てたまま、俯いて立ち尽くした。それは良かった、なんて言えない。
「或は、オレの心が失われているのを見込んで、適当に解除させようとしているのかもな。」
「心がないと、適当になっちゃうの?」
「適当はちょっと、語弊があるかな。合理的に事を済ませてしまう可能性があるっていうか……」
濁る言葉を打ち切り、凛とした顔を上げる。
「トラップが仕掛けられている区域一帯を消滅させるのが一番手っ取り早くて、合理的なんだ。」
ミーナはぽかんとしながらも、エメラルドの奥にある真意を覗こうと試みた。暗すぎて、何も見えない。
「空間全体を、トラップごと根こそぎ切り取って、無に帰すってこと。」
付け加えられた説明を聞いたところで、釈然とするわけもなく、ミーナは大きな目を一層見開いた。レオンハルトは、彼女に分かるような表現を模索して、上を向き、下を向き、苦手な比喩を捻りだした。
「そうだなあ。例えば、ミーナの体の一部。胃袋ってことにしよう。胃袋の中に針が入って刺さってしまったとする。さて、どうする?」
どうすると言われても、困るのである。
「わかんないわ。」
胃のあたりを押さえて、本当に痛そうな顔をする。
「魔法を知らない頃のオレなら、ミーナに麻酔、深く眠らせる薬を使って、痛くない状態にしてから、腹を切って針を取り出して、傷口を縫うよ。今は魔法が使えるから、体の中を傷つけないように針だけ動かして、食道から口の外へ出すことができる。」
後者の方が良いに決まっている。ミーナは妙にホッとして、微笑みさえ浮かべた。
「だけど、こんな選択肢もあるんだ。刺さった針ごと、胃袋を取ってしまう。わざわざ針を食道から通して出すなんて面倒くさいことをしなくて済むし、また針が入って刺さる心配もなくなる。一石二鳥だ。すごく合理的な方法だよ。」
ミーナは上がった口角を一気に下ろし、憤慨して声を荒げた。
「それのどこが合理的なの? 胃がなくなったら困るじゃないの!」
レオンハルトは真面目な顔で二回頷いた。
「そう。そうなんだ。胃袋を取ったらミーナが困る。じゃあ、もう一つの例。ここに、パンがある。おいしそうに焼けてるけど、よく見ると、小蝿が数匹入ってるみたいだ。さて、どうする?」
ミーナは尖らせた唇を指でつついて思案し始めたが、結果を待つこともなく、レオンハルトはすぐに答えを述べた。
「小蝿を取り除いて食べる? いいや。いっそ捨てた方が早い。衛生的だしね。」
ミーナは怒りを通り越して、残念そうに胸に手を当てた。
「やだ。あたしの胃とパンを一緒にしないでよ。」
「それは、心ある人間に対して言うことだよ。」
ミーナを始め、その場にいる者全員が息を詰め、言葉を失った。
「心がなければ、人の命なんてどうでもよくなる。パンと大差ない。人の体の一部も、世界の一部もなくなったって、だからどうしたんだって話さ。胃袋をなくすとミーナが困るように、世界だって一部分が消失してしまうと、不具合を生じる。この世界はただでさえバランスを崩して不安定な状態なんだ。世界の滅びを助長するような真似を、オレは平気でやってのけたかもれしれない。それが合理的だと考えてね。」
皆が自分の発言によって凍り付いているのは知っている。それで、一応笑顔を作って見せた。励ましのつもりで。
「大丈夫だよ。非合理的に、丁寧な仕事をするから。ミーナの胃袋は取らないし、パンも小蝿を除いて食べるよ。」
その夜、寝床に入る前に、ミーナはレオンハルトの部屋をそれとなく覗こうとした。さりげなさを持ち合わせていない彼女に、それとなく覗くという行為は無理難題に等しい。部屋の真ん中の椅子に深く腰掛け、壁をぼんやり見つめていたレオンハルトは、何かを諦めたみたいに肩を落とし、細長く息を吐き出した。
「入っておいで、ミーナ。」
扉の隙間から覗いていたミーナはびっくりして、言われた通り部屋の中へ入った。
「何で分かったの?」
「分かるさ。足音がして、ドアノブの回る音がして、隙間と呼ぶには些か幅の広いドアと壁の間から、大きな目と小さな口が丸見えなんだから。」
ミーナは今更どうしようというのか、唇を内側に折り入れ、隠しだした。以前のレオンハルトなら、高らかに笑い声を上げたことであろうが、今現在は口角を上げる程度だ。
「覗き見なんて、らしくない。気になることがあるなら、遠慮しないで聞いたらいいじゃないか。」
ミーナはもじもじして言う。
「だって……邪魔になるでしょう?」
「ミーナが邪魔になることは、これまでもこの先も決してない。」
食い気味に淀みなく放たれた言葉に、永遠の少女の胸は撃ち抜かれる。
「よく、そういうこと平気で言えるわね。」
耳まで赤くして、震える声で呟く。
「あたしの胃とパンを一緒くたにしておいて」
「まさか、その話を蒸し返しにきたの? あれは、だから、例えばの話で・・・」
ミーナは頭をぶんぶん振った。
「分かってるわよ! 別に根に持ってるわけじゃないし。あたしが気になっているのは、一キロ先のバリアの向こう側の罠をどうやって外してるのかなって……」
「ああ。なんだ。そういうことか。」
レオンハルトは立ち上がって、椅子をベッドの方へ向け、ベッドに腰を降ろすと、ミーナに空いた椅子へ座るよう、手で促した。ミーナが素直に腰かけるのを見届けてから、話し始める。
「前にさ、アルテイシアの館でオレがしたこと、覚えてる?」
「ラエルがしたこと?」
「うん。ほら、砂糖壺の中をさ……」
「あ、あれね。覚えてるわ。蓋が閉まっているのに、中身が見えたのよね。」
「今、オレにはこの世界が、砂糖壺と同じように見えているんだ。」
ちょっとした思い出話の急な方向転換に、ミーナは対応しきれず、くらくらした。胃袋とパン。世界と砂糖壺。とても不思議な対比だ。
「ありありと見える。いや、感じるっていうべきなのかな。砂糖壺の中のざらめがどんな色で、一粒一粒がどんな形で、どんな色で匂いでってことが分かるように、世界のどこに何があって、それがどんな性質なのか、分かるんだよ。そして、紅茶にざらめを溶かすみたいに、罠を魔法で溶かしている。距離は関係ない。砂糖壺に距離なんかないだろう?」
だろう?と言われても、ミーナには眉を歪めることしかできない。
「よく分からないけど……そんなことができるんだったら、罠を外したりしていないで、最初から妖精城に魔法を掛けちゃえばいいんじゃないの? 世界がみえるんでしょ? だったら、妖精城だって……」
レオンハルトは静かに首を振った。
「ミーナ。セリアを馬鹿にしちゃあいけないよ。罠を張り巡らせて、それで満足するような質なら、苦労はないさ。妖精城は地に落ちた時点でかなり無防備になった。空に浮いていることで保たれていた安全神話がものの見事に覆されたんだ。とっくに鉄壁の防御を施しているさ。それはもう、念入りにね。オレがコテージ周辺にバリアを張っているように、向こうだってバリアの一つや二つ、張っていて当然だろう? そして、バリアは砂糖壺と違って、中身を簡単に知ることはできない。妖精城が実際にどうなっているのか、分からないよ。地上に落ちているはずだけど、寸手で持ち堪えて十メートルくらい浮いているかもしれないし、落ち後、また空高く舞い上がって、妖精界へ帰ってしまっているかもしれない。落ちた衝撃で大破しているかも……さすがにこれはないと思うけど。とにかく、直に見てみないことには、何とも言えないよ。」
ミーナは止めていた息をふーっと吐き出した。
「そっか。そうよね。そんなに上手くいくわけないものね。」
どちらからともなく、微笑み、見つめ合う。少し、残念そうに。と、ミーナが何やら思い出して、口を開いた。
「あ、ねえ。妖精城にお兄ちゃんは連れて行かないでしょう?」
「もちろん。病み上がりだし、あの時みたいにオレを庇って命をかけられても困るからね。先生にはルイと大人しく留守番をしてもらうよ。コテージは置いていく。」
ミーナは一安心してから、また質問する。
「あの、妖魔王の方のラエルやアルフリートは?」
レオンハルトの唇の端に力が入る。
「ラエルはどこかで見守っていてくれる。アルフリートは……ペンダントの住人として、ついてくることになるだろうね。二人とも、立ち位置は変わらない。基本的に、オレたちのすることに手出しも口出しもしないはずだ。」
次の質問は、言いづらいのか、言葉じりが淀む。
「ジークは……?」
レオンハルトは長い睫毛を瞬かせた。
「ジーク次第だ。我が子を寄ってたかって殺そうとしたろくでもない連中だけど、親は親だろう? オレたちに加担しろったって、難しいかもな。妖精界で育ってきたんだし。邪魔するくらいなら、ここに残って欲しい。いずれにせよ、ジークが決めることだよ。オレにその選択をどうこう言う権利はない。」
ミーナはレオンハルトの言葉を染み込ませるように、その胸に手を当て、目を伏せた。指の間に、かつて彼が譲ったロザリオが光っている。その光を眺めながら、レオンハルトは寂しそうに呟く。
「ミーナも、皆も、ここで待っていてもいいんだよ。正直、今のオレに、皆を守り切れる自信がない。」
いつもなら、むきになって怒り出すところだが、ミーナは心配そうに声を上げる。
「本調子じゃないから? まだ、体のどこかが良くないの?」
レオンハルトは、空色の瞳を見つめて言った。
「悪いのは、体じゃなくて、ここなんだよ。」
とんとん、と親指で胸を突いてみせる。
「心。まだ、完全に取り戻せていない。喜怒哀楽の大まかなところはぼんやりと分かる。でも、人の心って、そんなに簡単じゃないだろう? いろんな気持ちが複雑に絡み合って、一つの心になっているっていうか……オレには、今、薄っぺらい心が辛うじて備わっている程度で、全くもって深みがない。十八年かけて育んできた、愛情とか思いやりとか労りとか、そういう高度な感情がリセットされてしまったんだ。記憶として、経験として残ってはいるけれど、表出することができない。今、ここで、目の前にいるミーナを抱きしめることはできる。でも、愛情がないのにそんなことをしたって無意味だ。オレの行為は雨や風と一緒なんだ。そこに感情はない。ミーナや皆が重要な存在だっていう認識はある。だけど、大切な人だとは感じていない。今は、大切な人なんだと思うように努めている段階で、こんな状態で、皆の身に何か起きても、すぐに対処できるかどうか・・・優先順位をつける判断材料が乏しくて、咄嗟の行動が皆のためになることか、それとも、もっと別の何かのためになることか、分からない。心がないと、冷静ではいられるけど、大切なものを見分けることができなくなってしまう。もしかしたら、前のオレなら、力づくでも皆をここへ置いて行こうとしたかもしれない。今は、どちらでも構わないと思っている。オレは、どうするのが正しいのかな?」
ミーナはロザリオを握りしめ、言葉を失った。しばしの沈黙を経て、相手に答えの持ち合わせがないことに気付いたレオンハルトは、少しの間、目を閉じ、また開いて、ミーナを見つめた。ミーナのポーズは先と寸分違わない。
「好きにするがいいさ。ここに残るもよし。一緒に来るもよし。途中で逃げるもよし。オレは何とも思わないから……」
ミーナには一番堪える言葉だったが、文句を言っても仕方がない。これが、今のレオンハルトなのだ。ミーナは動力の働いた玩具のように、機敏に立ち上がり、ベッドに腰掛けたままのレオンハルトを見下ろして、元気に告げた。
「絶対、一緒に行く! 置いて行ったら許さないわよ。……じゃあ、あたし、もう寝るわ。罠を外すのも大事だけど、あんたもちゃんと寝るのよ。眠ることは体にもいいけど、心にもいいの。分かった?」
レオンハルトは反射的に笑った。彼女の言うことはいつも正しかったし、根拠のない自信と横柄な態度がお気に入りだったのを、また思い出す。
「うん。分かった。おやすみ、ミーナ。」
素直な返事に満足して、ミーナも笑顔となる。
「おやすみ!」
ミーナが部屋を後にしてからも、レオンハルトは朝方までトラップ解除を続けた。それでも、予定より早めに切り上げて、ベッドに潜り込み、目を閉じた。永遠の少女が、心に良いというのだ。眠ることも、確かに必要なのだろう。浅く、短い、束の間の安息。窓から差し込む白い光が、真珠の頬を照らし、暖炉の薪が燃え尽きようとしている。旅立ちの日が、少しずつ、近づいている。
二月二十四日
出発まであと数日と迫る夜。アルディスは気持ちが高ぶって上手く寝付けず、綿入りのマントを羽織り、新月烈風剣を手に、表へ出た。良く晴れた、眩いほどに輝く星空の下、一面の銀世界が淡く青白い光を湛えて、幻想的なまでに美しい夜だった。澄み渡る空気は、吐く息を凍らせ、日中溶けかけた雪原は冷え固まり、歩くと飴細工を割るようにバリバリと音を立てた。
黒い革の手袋を嵌めた手で、剣の柄をしっかりと握り、刃を目の前に真っ直ぐ構えてから、素振りを始める。剣が振られる度、星明り、雪明りを受けた刀身が光の弧を描く。非常に軽く、抵抗を全く感じさせない剣だが、数十分も振り続けるとさすがに疲れる。全身に汗が滲み、つむじから蒸気が立つ。しかし、訓練に打ち込むあまり、疲れを疲れとも思わず、無心に剣を振るい、空を斬り裂き続けた。
そんな最中、背後で急に声が掛かり、驚きのあまり飛び退って声のした方へ剣を構えてしまった。
「ちょっと、止めてよ。頑張ってるねって労いの言葉をかけたんだよ?」
口を尖らせ、心外そうに眉を曲げるルイ。いつ見ても、厳粛なまでに美しい夜であっても、とぼけた顔は変わらない。アルディスは一気に脱力して、膝折れしそうになった。が、振り上げた剣を降ろすに留めた。
「ふざけるな。気配を消して近づいておいて、急に話しかけるとは、明らかにオレをからかいに来たのだろうが。」
ルイはつまらなさそうに雪を蹴った。
「だって、すごい真剣なんだもん。邪魔しないように近づいたんじゃないか。だけど、話があるから、やっぱり声を掛けなきゃいけなかったんだよ。仕方ないじゃん。」
思い当たる節のないアルディスは、ぎょっとしてルイのつま先から頭の上まで何度も見返した。
「話? オレにか?」
ルイは、念のため辺りを見廻して言った。
「他に誰がいるの?」
汗ばんだ身体が急激に冷えていくのを感じて、身震いする。上着もなしに平然としているルイは、少し肩を竦めた。
「寒そうだね。だけど、外の方がいいから。レオンに聞かれたくないんだよ。」
アルディスはコテージに目を向けた。一つだけ、オレンジの光が揺らめいている窓がある。レオンハルトの部屋だ。明り取りのための光ではない。自分が起きていることを他者にアピールする、それだけのために付けた印に過ぎない。恐らく、トラップ解除をしている最中なのだろうが、アルディスやルイが外で立ち話をしていることくらい、当然気付いている。
「外でも中でも、あまり変わりはないと思うが……」
「大丈夫だよ。レオンは盗み聞きするようなはしたない子じゃないし。ボクたちのこと信用してる。内緒話オーケーさ。だけど、感覚が物凄く研ぎ澄まされた子だから、コテージの中だと声が聞こえちゃうかもしれない。わざわざ外で話すってことに意味があるんだよ。聞かないで欲しいって意思表示になるでしょ?」
アルディスは顎をガクガクさせながら凍る息を吐き出した。
「それで、あいつに聞かれたくない話とは何だ?」
ルイは間延びしている顔を引き締め、幾分声を低くして話し始めた。
「今、レオンが一生懸命、トラップ解除してるよね。」
「ああ。」
どうやっているのかは知らないが、解除しているらしい。レオンハルトがそう言うのだから、間違いないのだ。
「今、解除してるのは、手下の妖精が仕掛けた、単純な造りのトラップなの。とは言っても、そんじょそこらの魔法使いじゃ解けないレベルのトラップだよ。レオンだから簡単に解けるってだけ。」
「だろうな。」
妖精城で戦った妖精たちの魔力は凄まじいものであった。ああいう連中の仕掛けるトラップが、本当に単純であるはずがない。レオンハルトにとっては、ということくらい、聞かずとも承知済みなのである。
「問題はね。セーラのトラップなの。レオンが遠隔解除できないほどのものだよ。凄く込み入っているし、強力だし、本当に厄介なんだ。」
「もしや、実際に確認して来たのか?」
千切れんばかりに首を振る。
「冗談じゃないよ。そんな危ないことするために千年も生きてきたんじゃないからね。ボクは竜族でしょ? 竜の眼は千里眼。うんと遠くまで見渡せるんだよ。トラップにどんな魔法が使われてるのかとか、それくらいは分かるしね。レオンみたいに解除はできないけど。」
「ふむ。それで、お前が見たところ、セーラのトラップはあいつなら解けるのだな?」
ルイは顔の中心にシワ寄せて答える。
「うーん。レオンも言ってたけど、ちょっと時間が掛かると思う。暗闇で針穴に太い糸を通すようなことを繰り返しながら、ぐちゃぐちゃに絡まった糸を解すっていうのかな。しかも、その糸は切れやすくて、一度でも切れたら取り返しのつかないことになっちゃう。ボクの言ってる意味、分かるよね。」
「ああ。だが、そのトラップは、あいつ以外に解除する者がいないのだ。オレたちが気をもんだところで、何の助けにもならん。信じて見守るだけだ。」
ルイは、呆れたように首を振り振り言う。
「信じるのは勝手だよ。だけど、レオンを何だと思ってるの? 神様だとでも思ってるわけ? 全てが上手くいくとは限らないでしょ?」
アルディスは寒さも忘れて、ルイの浅黄色の瞳を見入った。弱いが、凍てつく風が頬を刺し、髪を揺らす。
「前にも言ったよね。大きなことを成し遂げるのに、犠牲はつきものなんだって。レオンは今まで、自分の身も心も犠牲にして頑張ってきたよ。それでもまだ足りなくって、大切な人まで犠牲にしなくちゃいけなかったの。喪失の連続。アルディスも見たでしょ? 聞いてきたでしょ?」
頷きもせず、思い返す。キースは、二度死んだ。ドッペルン博士も、父のアーサーも。アルディスの喉仏がぐっと音を立てて上下する。
「また、人が死ぬのか。」
単刀直入な問いに、ルイは尖らせた口をひん曲げる。
「そんなこと、ボクの口から言えないよ。ただ、覚悟はしておいた方がいいと思う。セーラは本気なんだもん。本気で世界を終わらせようとしているし、邪魔者のキミたちを本気で殺そうとしている。だからトラップにも気合いが入ってるんだ。レオンは超人的魔法使いだけど、神様じゃない。上手くいかないことだってあるよ。問題はね、その時にレオンがどんな行動に出るかってことなの。」
一旦、視線を上に向け、考えてみる。
「トラップごと、空間を消滅させるという、あれか?」
「違うよ。あれとはまた別。トラップの解除に失敗するか、解除する手順の中に、レオンにはどうしようもない事柄が含まれている場合の対処の仕方についてボクは話してるんだよ。」
「対処の仕方」
繰り返した言葉は、寒さのあまりぎこちなく、他人が発したもののように聞こえた。
「風の城で受けた試練を覚えてる?」
アルディスの頭が僅かに前方へ傾く。鮮明に覚えていた。忘れようもないくらい強烈な出来事だった。ありとあらゆる種類の風を浴びたような気がする。あの時のレオンハルトは使える魔法が少なく、風を風で制しようとしていた。そして、ルイを直接攻撃することができなかった。
「レオンは、根本的に優しいの。」
ふんわりと包み込むようにルイが言う。
「忌み嫌う魔法を、ボクにも皆にも掛けられなかったし、いざっていう時、咄嗟にするのは自分の身を犠牲にすること。」
そう言えば、ミーナを庇って、脚に怪我を負っていた。
「自分より、他の人を優先しちゃうの。たとえそれが最悪の事態を招くと知っていても。」
彼の死は、世界の破滅を意味する。それでもなお、一人の人間を救うことを選んでしまう。自他共に認める、彼の性質。
「時間があれば、より良い方法を思い付いて、誰も損しないようにできる。レオンには力があるんだもの。だけど、ほんの一瞬で判断しなきゃいけない状況となったら、話は別だよ。レオンは確実に、キミたちを選ぶ。自分の命じゃなくてね。」
数日前のレオンハルトとミーナの会話をもし聞いていたら、真逆の展開にアルディスは混乱していたことだろう。ただでさえ、混乱している。白い息を弱々しく吐きながら、呻くように呟く。
「しかし、奴は今、心が完全に復活しているわけではない。パンも人の命もどうでも良いと公言していたが。」
ルイは残念そうに首を振った。
「実感が湧いていないだけだよ。奥深いところで心はしっかり息づいている。自覚できてないっていうのが、一番の問題かもね。気付いた時には遅かった、なんてことになり兼ねない。」
アルディスはそっと言ってみた。
「そうなる前に、止めろと?」
ルイの二つの鼻孔から、強く長く息が放たれる。
「まさか。レオンがどうしようもないことを、キミたちにどうにかしてもらおうなんて思わないよ。ボクはただ、覚悟しておいてって言ってるだけ。そして、レオンのせいでも誰のせいでもない。仕方ないことがこの世にはあるんだってことを知らせてあげて。」
「誰も悪くないと信じ込ませる……」
「そういうこと。分かってるね? キミたちは死んじゃダメだよ。レオンが戦う意味で、心の支えなんだから。」
アルディスの赤い眉が歪む。どうも、腑に落ちない。自分たちが死なないのなら、犠牲者など発生しないではないか。ルイの忠告が、最後の最後で空転してしまう。子細を確かめたい気もするが、いかんせん、人の身のアルディスには限界の寒さだった。また日を改めて聞くことにする。
「ならば、凍死する前に、コテージへ戻るとしよう。」
言い終えるより先に、踵を返し歩き出す。その後ろ姿を、ルイは無言で見送った。寂しそうに、泣いてしまいそうに。ルイは、未来を知ることはできない。けれど、数日後に何が起きるのか、予測はできていた。竜の眼は千里眼。セーラの仕掛けたトラップがどういう性質で、解除に何を要求しているのかお見通しだ。その内容について、示唆することは可能でも、明確に伝えるわけにはいかない。もたらされる結果はレオンハルトや他の仲間たちが望まないものだが、レオンハルトにとって、或は世界にとって必要なものでもある。全てが望み通りにいかないのだ。自分が千年の月日を強制的に生かされたように、レオンハルトも生きなくてはならない。そう定められている。
アルディスがコテージの中へ消えるのを見届けた後、ため息交じりに天を仰いだ。月のない、漆黒の空を彩る無数の星は、ただ静かに世界を照らしている。




