一日目
何時もより十分程早く起きれたものだから、行動にも余裕が出てきて、珍しくだし巻き卵なんて作ってほんの少しだけ普段の味気ない朝食に色を添えてみた。
今日は不思議といい日になりそうな予感があったんだ。天気予報では過ごしやすい一日になるそうだし、日毎に変わる占いでも絶好調だと言っていた。何より早起きは三文の得なんて言葉がある。たった10分とは言え、早起きは早起きだし、俺は、今日という日が穏やかで俺にとって都合の良いものになると信じて疑わなかった。
ふと窓の外を眺めたその瞬間に、真っ逆さまに堕ちていく人影と目が合うまでは。
それから数秒も経たないうちに甲高い悲鳴が聞こえた。俺はそれにハッとしてバルコニーに駆け寄る。震えてもたつく指先で窓を開け、手すりを強くつかんで身を乗り出す。
本来なら曲がらない方向に折れた四肢と強打によって潰れた頭が目に入った。その瞬間顔を上げた。忘れようと頭を振るのに忘れるどころか脳裏に焼きついて離れないその光景を閉じた瞼の裏で反芻し続けながら俺はもう二度と好奇心で動かないことを誓った。
「彼、きっと本気じゃなかったよ。なのに幾つもの偶然が重なって結果として最悪の形に落ち着いたらしい。まだ生きてるけど、もう助からないかな、折れた骨が血管を切ってるだろうし、あの量の血ではね」
隣で聞き覚えの無い低い声が聞こえて振り返る。俺が振り向いた瞬間ソイツも俺を視界に収めては可愛らしく微笑んで見せた。
ソイツは手すりに両腕を伸ばして捕まっている。俺の身長の半分程度しかない子供がそこにいた。
「初めましてだね灯、変なことを聞くようだけど今何時かな?」
子供の喉からは、その容姿に似つかわしくないしわがれた老紳士のような声が流れた。
困惑のあまり言葉がでない俺に子供は続ける。
「うん?今の聞いたかい?僕の声少しおかしいみたいだね」
ギターのチューニングでもするように、高さを行ったり来たりして言い終える頃には見た目相応の高い声に変わっていた。
「これでどうかな、気圧の変化かなぁ。産業革命に入った辺りだったらアレでも大丈夫だったんだけど、今はもっと張らなきゃダメみたいだねぇ」
そう言って子供は細められた状態の子供らしい大きな瞳をゆっくりと見開いていく。徐々に顕になる白い瞳が俺を真っ直ぐに映した。瞳の色に限らず子供の肌、髪までもが、同じ人間とは思えない程白かった。
「…今は、令和8年の9月6日だけど」
自分でも驚く程冷静な声が出て驚く。
子供はただでさえ大きな目を更に大きくしてキョトンとしたような顔をしている。
「れいわ、ってなんだい」
「元号」
子供は遂に頭を抱えだした。
「げんごう?もしかして、僕が今いるのは西暦という概念が無い世界なのかな」
「西暦は、2026年だけど…」
俺がそう言うと途端に水を得た魚が如く瞳に輝きが戻り、表情にも分かりやすく笑顔が乗った。
「それだよ、それ!なんだ、有るんじゃないか!2026年っていうと、今はアレだろ?〇〇の刃とか、〇〇ーマンとかが流行ってたりするんだろ?」
「自慢じゃないが、僕日本のカルチャー文化にはある程度明るいんだ!」
後ろで低く結んだ長い白髪を軽快に揺らしながら子供ははしゃぐ。
ピーポーとけたたましい音に意識が現実へと戻ってくる。下では、警察より早く駆けつけた何かしらの隊員たちがメガホン越しに野次馬たちに警戒を呼びかけていた。
「あそこに群がる彼らは今にも虫の息の彼を見てどんな悲劇を想像してるんだろうね。今この瞬間だけなら可哀想な主人公は彼だけれど、生憎と彼より悲惨な生き物は上の階でもっと可哀想なことになっているよ。今更どんな処置をしようが結果は変わらない彼を保護するよりも、ストレスと恐怖で今すぐにでも失神しそうな女の子をどうにかしたほうがいいと思うけどね、僕は」
冷ややかな光をその目にこめて地面を見下ろす子供。発言は先程から要領を得ないが今何か大切なことを言っていた気がする。
「そ、その女の子って」
俺が尋ねると、子供は途端に天使のように微笑みながら言った。
「やっとまともに顔を合わせてくれたね、灯。なのに君って奴は目の前の僕より何処ぞの悲劇のヒロインを優先するのかい?まぁいいさ、灯はそういう奴だもんね。彼女の居場所が知りたそうだね?良いとも、教えてあげるよ」
「君にとって謂わば僕は節目のようなものだ。これから僕が厄介を呼び込むかもしれないが、僕の愛嬌に免じて許して欲しいな」
朝から陰鬱な出来事続きだというのに、その時子供の背後に見えた空は、悲劇とは対照的に絵の中にあるように澄み切っていた。
『俺と天使の7日間』
1日目
アレから数時間が経ち、遺体と成り果てた男がストレッチャーに乗せられ何処かに運び込まれた。飛び散った血痕も大部分が拭い取られ、現場付近に位置するマンション、その6階から現在俺が見下ろす限りでは、張り巡らされた黄色のテープと警察官及びその車両さえ無ければ、事件の後になって今日初めてベランダへと顔を出すここの住人がいたとしても何ら気がつくことはなく、気持ちの良い朝だとその場で声を上げて背を伸ばしたかもしれない。
現に俺の身近にも能天気にはしゃぐ輩が存在した。
「ねーねー灯ー、いっくら今日が日曜日だからと言ってもねぇ、これだけ優れた天候にあやからない手は無いと思うんだ。散歩ぐらい行ったら良いじゃないか」
ソイツは俺の部屋のソファを使って滑り台でもやっているのか頭を下に、手は床とソファの間でぶらぶらと脱力させながら足を背もたれ部分に乗っけた状態から始まり、そのままヌルリと頭から徐々に床へと身体を滑らせ最後の足をビタンッと床に打ち付けた。わざとだろうに予想外に泣きどころを突いたらしく両足を抱えては痛がっている。
この子どもは先程まで確かに俺と共に雲一つ無い晴天さえ霞む程の酷い惨状を目撃した筈で、にも関わらず何事も無かったかのように発する明るい声が今までの何よりも恐ろしく思えた。
「彼女さぞかし君のことがヒーローのように見えたことだろうね。早起きして良いこと出来たじゃないか、良かったね灯」
子どもの白い大きな瞳が俺を捉えた。
「…あかりさんは、俺をみた瞬間に気を失っちゃって、そのまま病院に運ばれてったから」
「なんだい、名前までゲットしておきながら口説き文句の一つも囁かずに帰ってきたのかい?全く、意気地の無い男だね、君は」
「言えるわけないだろそんなこと、それより…お前は何だ、なんで俺の名前知ってるんだよ」
俺はベランダにいて、方やソイツは部屋の中で退屈を隠そうともしない様子でいる。
手すりに背中を預けながら俺は若干投げやりな気持ちでソイツを睨んだ。
「僕?さっき言ったろ?君の節目さ。汎ゆるもののかわり目って本来なら可視化出来ないものだけれど、今回に限っては特例措置だ。存分に見ておくといい」
そう言って子供は勢いつけて起き上がると顔だけを俺へと向ける。
その拍子に子供の両耳から垂れた耳飾りがシャラリと揺れた。
「呼称を尋ねているなら是非ともヨナとでも呼んでくれ。さっき考えついたんだけどこれが中々気に入ってね」
小首を傾げて胡散臭く微笑んだソイツはそのまま微動だにしない。どうやら俺が呼ぶのを待っていたらしく気がついて「よ、ヨナ」と呼んでみたらnの発音をすると同時に「なんだい?」と返ってきた。
「…お前は、お前一体なんなんだよ」
俺の質問にヨナは大きな目をパチクリと一度瞬かせるとまたしてもキョトンといったような顔をして尋ねた。
「なんだ、君、僕が来た時点で自分が選ばれたという自覚があるわけじゃないのか」
「は?」
ヨナの言葉に本気で分からないという意味をこめて眉を顰めて聞き返した。
「いやいや、僕が目の前に降りてくると毎回決まって何やら陰鬱な顔で頭を下げられるから、僕の来訪は割と世間じゃ有名なのかと思ってたんだよ。決して、僕が自分を有名人だと思い込んでいたとかでは無いからね!」
「陰鬱な顔って…」
この能天気にそれだけ暗い顔を出来るというのも中々恐ろしい奴らだと思うが…。
「そうだねぇ、なんでと問われれば君はこうなるべくして生まれ落ちた人間だからと答える以外の回答を僕は持ち合わせていないんだが…」
「わかるかい?」と聞かれたので「分かんねぇわ」と即答した。
するとヨナは「うーん…」と思案する素振りをしたと思ったら、何故かソファへと足を進めそのままそこに座りだし、リモコンを取り出して向かいのテレビにそれを向けた。パチッと音がして、その後食欲をそそられるような食べ物のアップが映し出される。
「おい」
思わず突っ込むと、尻に違和感を感じポケットに入れていた携帯を取り出す。
ロック画面に知り合いからのメッセージ通知が流れ込んできていた。
内容には
『お前えん家の近くまで来てるから、今から飯行かね』
とあった。
正直言って、気分的にも状況的にも都合が悪い。特に数時間前に窓越しに捉えた虚ろな目が数時間経った今も頭に焼きついて離れず、とても食欲なんて湧かない。
それに…目の前の不法侵入者を放って置くわけにも行かない。
ロックを解除して、起動させたメッセージアプリを操作する。該当のチャットを開きテキストボックスに『ごめん』の「ん」を入力した辺りで上から声が降ってきた。
「飯?行く行く!僕オムライスが食べたい!」
顔をあげると、俺のスマホ画面を横から覗き込んでいる件の不法侵入者の期待に輝く瞳と目が合った。
「行くわけ」
俺がそう言うと、ソイツは如何にもショックを受けたような表情をした後床に転がって癇癪持ちのように暴れ始めた。
「イヤダイヤダ!お腹減った!絶対食べる!オムライス絶対食べる!」
ガンガンと壁にぶつかりながら転げ回るソイツに届く言葉はきっとYESの意を持った言葉だけである。俺に迷惑がかかるとかの次元じゃない。他の住人にまで被害を及ぼす事態を逆手に取って交渉に繋げようとは全く持ってたちが悪い。
しかし、子であった経験は有っても親であった経験なんぞ無い俺にはここで仕掛け人の思い通りに動く他に選択なんて無かった。
「あぁ、あぁ!分かった、分かったから、連れてってやるから今すぐそれやめろ!」
「ほんとかい!やったね!僕、デミグラスソースのやつが食べたいな」
またしても即答。
腹は立ったが、先程まで転げ回っていた床にペタンと尻をつけて嬉しそうに左右に揺れる姿を見て、俺の喉元まで出かかっていた怒りは急速にひっこんでしまった。
「ほーん、で誰だって?」
「ヨナだよ、何を聞いてたんだよお前は」
結局ヨナの正体もろくに聞けないまま、俺は「はやくはやく」とヨナに手を引かれるまま部屋をでて、マンションをでて、自転車を引っ張り出しては後ろの荷台にヨナを乗せて炎天下のアスファルトに漕ぎ出した。
近くの公園まで走ると途端にヨナが「ここだよ」と言い出して止まってみるとそこにはジャングルジムではしゃぐ子供に怪しげな視線を送る不審者、もとい俺の友達、もとい、先程のメッセージの相手がベンチに腰掛けていた。
軽く頭をはたいて挨拶を交わし、そのまま2人して自転車を引いて歩きながら飯屋を目指した。
辿り着いた店に入りオーダーするも、メニューに無いオムライスをねだったヨナのもとには余り形は整っていないものの大きな卵とケチャップがたんまりかかったサービスオムライスが運ばれてきて、大いに御満悦な様子の現在に至る。
料理が全員に行き渡ってから俺は友達にヨナのことを話した。勿論突然隣に降ってきてたなんてことは言っていない。遠い親戚から引き取った子だとか、身寄りが無いとか、そんなことを説明した。
「海外の子?」
休むことなく一定の間隔でスプーンを口に運んでいるヨナを横目に友達が尋ねる。
「まぁ、そんなところ…」
「ふーん、まぁ良いけどさぁ。ところで」
「おん」
ヨナの出自や正体に関しては俺のほうが知りたいくらいだ。取り敢えずこの場においては面倒を避けるために相手の話題の転換を好奇と捉えることにした。
「この子、いつの間にか二皿目入ってるけど、当然のようにお前の出費が嵩むだけだよね?貸してくれって言われても今俺金欠だから無理なんだけどさ」
「は?」
俺は咄嗟にヨナを振り返る。
今取り掛かっている皿の奥に、確かにもう一枚綺麗になった皿が光っていた。
「ちょ、お前それ何個行くつもりだ!」
「えー?期待されているなら別に際限を置くつもりは無いよ?」
「馬鹿!マジでやめろ、それで最後な!」
笑顔でこちらを振り向くヨナに悪びれる様子はミリとも無い。どころか、俺が言い終わると瞬時に皿の中にスプーンを入れ込んでは幸せそうな顔で掬った料理をほおばっている。
「…これ、メニューに無かったけど店の人優しそうだったし、そんな取られないよな?」
「どーでしょーネー」
本気で懐を心配する俺に友達は半笑いで答えた。
カランカランと複数のベルのような音が重なった退店音と共に俺たちは店の外に出た。
「良かったじゃん、そんな驚くような値段でも無くて」
「いや…けっこー持ってかれたぞ…」
呑気に言ってのける友達の傍ら、俺は渋い顔を作りながら財布を覗いていましがた飛び立っていった紙幣のおっさんの顔を思った。財布に野口がいたことを今や俺だけが知っている。
「美味しかったねー、僕リピーターになっても良いよ」
「勘弁してくれ…」
その後、店から離れた俺たちは、「帰ってもいいぜ」と言われながらも友達に付きあって本屋に寄った。
特に単独でいる用事も無かった俺は途中まで友達について回ったが、友達は急に後ろを振り返っては、
「子連れゾーンここまでだから」
と、訳のわからないことを言って俺たちを止めてから自分だけはその先へと歩いて行ってしまった。
奴が消えていったコーナーの奥に顔に対して目の割合が大きな少女がやたらに布面積の少ない服を身に纏ってその身に余る武器を勇ましく握っているポスターが貼ってあった。
俺はそれを見てキョロキョロと物珍しそうにあたりを見渡すヨナの肩をくるりと後ろに回し、友達とは逆の方向に連れて行った。
「灯ー、これなんだい?」
連行した先にあったステイショナリーブース。子供は本よりこういったもののほうが好きだろうと思い連れてきてみたが、反応は予想以上で、着いた途端に目を輝かせながらあっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返していた。
ブースから近い雑誌を適当に読み漁っていると、恥なんて知らないらしいヨナが大声で俺を呼ぶ声がして駆け寄る。
「あんまデカい声出すな」
「これ」
指摘するとやはり反省の色が無いヨナは嬉々として目の前の物を指差した。
そこには書道で使うようなしっかりとした筆が高級感を感じさせるショーケースの中で陳列していた。
「なにって、普通に筆だろ」
「どれも同じに見えるのに何故こうも金額が変わるのか気になったのさ」
並ぶ筆たちはどれも高そうなのは分かる、というぐらいで確かに大して皆代わり映えしない様相であるのに、製品の下に立てられた値札だけが分かりやすくその違いを示していた。
「さぁ、よく分かんないけど良い馬のやつなのかもな。俺はあんまりそういうの気にして使ったこと無いけど」
「へぇ、まるで普段使いするシャーペンのような言い方だけど、灯は筆をよく使うのかい?」
「…」
適当に返したつもりが、予想外に鋭い質問が飛んできた。
まぁ別に、隠しているつもりも無いけれど。
「いや、まった」
「そうそう、コイツ他はてんでアレだけど書道だけはプロ並みでさ、賞なんて幾つも持ってんの」
いや、全く使わない、と言いかけたところでいつの間にか戻ってきた友達が余計な口を挟んだ。
「凄いね、大輝も見たことあるのかい?」
友達、もとい大輝はそれに頷き、尻ポケットから出したスマホをおもむろに操作し始めた。暫くして「お、あった」と言いながらヨナに画面を差し向けた。
「うわっ」
うっかり覗き込んでしまって眉間にシワを寄せる。
「どういう反応だよ、一昨年の受賞されたやつ。俺も素人だけど迫力は分かんのよ」
画面には豪勢な額縁に入れられた『百鬼夜行』と描かれた文字が映されていた。
「何処がだよ…拗らせ厨二病も良いところだろ…」
そう言ってそこから目を逸らす。
先程からやけに反応が無いヨナをチラリと見ると、何やら真剣な表情でその一枚の画像に見入っている。
当時の俺と同じように厨二心でも擽られて居るんだろうか。
「てかお前また書けば?どうせこの夏休み特にすることも無いんだろ」
直ぐ側に並んでいた半紙セットを手に取った大輝がそれを俺に見せるようにして薄ら笑いを浮かべながら言った。
「いや、俺もう書道は…」
それっきり言葉を紡げなかった。
口を結んで俯く俺を、ヨナが心配そうに覗き込んでくる。
見兼ねた大輝が鼻から息をフッと吐いてから「そろそろ出よっか」と促した。
帰路の最中、大輝との別れ際に、大輝は俺たちから数歩進んだ先で一度だけこちらを振り返った。
「あんま気にすんなよ」
と相変わらずの無表情でそれだけ言い残し、そのまま自転車に乗り上げて帰ってしまった。
大輝の意味深とも思えるひと言に何か勘ぐられても面倒だなと隣で大人しくしていたヨナをチラリと伺う。
しかしそんな警戒も杞憂だったようで、コンビニに寄った際に買ってやったパピコを満面の笑みで啜っているのを見て思わずため息が漏れた。安心したとかそういうのじゃない。コイツに割いたリソースを悔やんだだけだ。
一方のパピコが一番旬の状態で順調に無くなっていく隣で、俺の手に握られた片割れのパピコは封も切られていない状態でもうかなり溶けかかっていた。
家に帰って玄関に入ると、ヨナは一目散にエアコンへと飛び出していった。
冷気を吐く生き物か何かだと思っているのか、近づいてもうんともすんとも言わない機械を相手に意識確認をするように手を振っている。
振り返って鍵を閉めていてふと思った。
なんかすんなり通してしまったが俺はまたしてもヨナの不法侵入を防げなかった。
まぁなんか変ではあるが所詮子供だし、流石に殺人や窃盗なんて本格的な犯罪に行き着いたりはしないだろう。
そう思って振り返ると、玄関から見えたヨナの姿が消えていた。
エアコンとの葛藤を諦めたのかと思いつつ進んで行く。辿り着いた部屋中を見渡してみても、やはり見当たらない。
すると何処かからガタッと音がしてその方向に向かうと…俺のデスクの傍らにあるタンスに頭を突っ込んでいるヨナの姿がそこにあった。
「ちょっ、何してんだお前!」
訂正しよう。子供は犯罪に行き当たらないのではない。好奇心のままに行動するからこそ危険なのだと。子供は純粋の皮をかぶった悪魔である。
慌てた俺は走ってその勢いのままヨナの首根っこを押さえてそこから引き上げる。
「いやぁ、灯も思春期だから男の嗜み本の一つや二つ有っても良いだろうし、後学のために何冊か拝借しようかと」
「そんなもんねぇよ…つか大体ベッドの下とかじゃないの、そういうのって」
「え?そうなのかい?」
段々アホらしくなってきてされるがままのヨナから手を離す。
「確かに探した限りではそういった文献は見当たらなかったけれど、こういう物は発見したよ」
そう言ってヨナは再びタンスの中に手を入れた。
引き上げられた物を見て無意識に眉間に皺が寄った。
ヨナが嬉しそうに両手で抱えたものは、名前を書く箇所に『稽古道具』と書かれた大きい袋だった。袋の入り口から筆の掛け紐と思しき部分が飛び出していた。
「袋の中から飛び出してるの、筆だろう?差し詰め書道セットと言ったところだろうと思うんだが、どうかな」
ヨナはニコニコと笑っている。きっと奴からすれば、これと隠されたエロ本を引き出すこととは大した区別も無いのだろう。俺の過去を詮索する気も、当然無いのだ。
そう思うと、寄っていた眉間の皺が少し緩んだ。
「まぁ、そうなんじゃね?」
ヨナはその袋の正面を自身の方に向けてマジマジと見つめた後、顔を上げた。
「ねぇ、灯、僕お願いがあるんだけど」
「いやだ」
「えー!なんでだい!」
当然のように断ったが、これまた当然のように反抗の意思がとんでくる。
「だって、大輝ばかり沢山知ってて僕だけ何も知らない!僕も灯の特技が見たい!」
「ばかりって…お前は俺のなんなんだよ」
転げ回って暴れるヨナの言い分は滅茶苦茶だ。
けれど、「僕も灯のことが知りたい知りたい」と喚き散らすコイツに絆されかかっているのも事実だった。
『純粋』って恐ろしい。
「第一、ブランクあんだよ、アイツの写真で見たようなのは…多分書けない」
俺がそう言うと、ヨナは急に静かになって「構わないよ」と言った。
「僕は何も、書道の達人を訪ねに来た訳じゃ無いからね」
笑みは変わらず浮かべているが、その笑顔の種類は先程の天真爛漫としたものではない気がする。幾ら時間が経っても逸れない視線は、暗闇を覗き続けるような不気味さがあった。
まるで深淵のようなそれから逃れるようにして、俺は目の前の袋へと視線を移した。
『稽古道具』と書かれた字は俺のものでは無い。それに、俺はそこに自分の名前を入れたかった。けど、認められなかった。
『これはお前の物ではない』
誰かの声と俺の心の中の声とが重なった。
「一枚だけ」
俺の言葉にヨナが顔をあげる。その瞳は、窓から差し込む陽光を受けてか、はたまた感極まってか、まるで星のように爛々と輝いていた。
「ほんとかい!?」
「一枚だけな」
思い出しかけた忌まわしき過去のシャッターを閉じるため、咄嗟に出たひと言だった。それに、本音を言えばまだ諦めはついていない。幼少期からそれ一筋で磨き上げてきた腕を鈍らせることは全く俺の本意では無かった。毎日とは言わずとも、こうしてたまになら書いてみても良いかもしれない、なんて思ってしまったのだ。
ヨナは俺の言葉に大変喜んでいる様子で、そこら中をステップを踏んで歩き回っているが、隣人トラブルのもとになるのでやめてほしい。
「で?何書いて欲しい?」
借り物の部屋なので、床を汚す訳にはいかないと俺はわざわざリビングのカーペットの上のローテーブルを除いて、その上から新聞紙やらチラシやらを幾重にも積み重ねた。縒れた半紙を抜き出しながらカーペットの外で大人しく正座しているヨナに尋ねた。
「僕が指示したんじゃ意味が無いし、君が心に思ったものを書いてくれよ」
「は、良いのか?それで?」
「勿論」
そう言って笑うヨナを不思議に思いつつも俺は久しぶりの白いキャンバスに心躍っていた。更に内容の制限も無い。
大会の時に候補から外れたもの、公募のもので選ばれなかった方のリメイクというのもアリだ。さて、
どうしたものかと取り敢えず筆を取った。
あれこれ悩んだところで、結局は紙に筆を落とす直前に直感で選んだものが一番納得の行く答えだ。昔からずっとそうやってきた。俺は目を閉じる。瞼を下ろすその一瞬、ヨナが笑ったような気がした。
瞼が下りて数秒後、光がチカチカと瞼の裏で踊るのを見て閃いた。
そのまま音も立てずに筆を落とした。
書き終えて腕を上げると、興奮のままヨナに向けて言葉を放つ。
「書けたぞ」
少しだけ上擦った声は、そのまま部屋の静寂の中に吸い込まれていった。
いくら待っても返事は返ってこない。
「ヨナ?」
俺が瞼を開こうとしたその瞬間、
「灯、やはり君は特別だ。僕を呼び寄せたのは紛れもなく君自身だ、今確信したよ」
「どうした?急に」
ヨナの声は書き始める前より遠くから聞こえた気がした。
「良いかい、灯。目は開けないままそれ以上ひと言も喋らないようにして心の中で十数えてご覧。そうしたらゆっくりと瞼を上げるんだ」
穏やかな声。しかし確かな緊張感がそこからは漏れていた。
俺は言われた通りに一から数え始める。
一から四までは静かだった。しかし五と数えると耳元で母の声がした。六、七と数えていくと沢山の声が一斉に俺の名前を尋ねた。八で周囲をペタペタと歩く足音がしだして、九で足音が急速にこちらに向かってきた。十。
数え終えて目を見開いた。
ぼやける視界の先には俺の部屋と、正座を崩して伸びをしたヨナがいる。
伸びを解いたヨナは、俺を真っ直ぐに見据えた。
「いやぁ、寄りによって、という感じだ。面倒なのを引いてくれたね」
ヨナは胡座をかいて頬杖をつきながら続ける。
「面倒なのは君にとって、という意味だが、君は今から七日間呪われた身だから、一人で外に出ちゃダメだよ」
無意識に止めていた息をゆっくりと吐き出した。全身に激しい心拍が響いている。
俺の視線は徐々に下に下がる。視界の中で半紙の割合が広がっていくに連れて、心音は激しくなり息の間合いも短くなる。
ただ自分が描いた作品を確認するだけのことに、俺の身体は未だかつてない程の警戒を示していた。
いよいよ半紙全体が視界に収まる。
そこに描かれたモノを認識した一瞬で見なければ良かったと後悔した。
『天使』と書かれた俺の字の上を、墨汁によって黒く染まった無数の小さな足跡が残されていた。
「落ち着いたかい?」
「いや、無理だろ…」
余りの衝撃に息の仕方を忘れた俺は一時過呼吸状態になりかけた。ヨナはそんな俺を目の前にしても大した動揺を見せることなく水を持ってきたり背中を擦ったりと意外なぐらい献身的に接してくれた。
今は、多少息も整ってきた。とは言ってもそう簡単に冷静になれるわけでも無い。
そんな状態であったとしても、得体の知れないものをそのまま放置して置くことほど恐ろしいことも無いので、緊張で上擦る声で何か知っていそうなヨナに尋ねた。
「で、俺が見てない間に何があったんだ」
「…」
ヨナが無言のまま2回ほど瞬きを繰り返す。
「…なんだよ」
「いや、驚いたな…君は到底、僕になにか問うことができるような状態では無いと思っていたから…案外土壇場に強いのかな、灯は」
「それとも」とヨナは目の形を鋭くさせて言葉を続けた。
「それとも、こういった状況に遭遇するのは初めてでは無いのかな?」
「っ!」
反射的に肩が跳ねた。これでは図星と体現しているに他ならない。
コイツにはバレまいと高を括っていたが、今や沈黙を切り通すのも難しくなってきた。
俺は警戒の意味を込めて慎重に顔を上げるが、対するヨナはそんな俺を見下ろし「まぁ、いいさ」と表情を崩した。
「この部屋で君が見ていない間に起こったこと、だったね。言葉にすると案外簡単だよ。先ず君がアレを書き上げた瞬間、えあこんという機械の隙間から不法侵入者が現れた。僕はそれを見事この場から撃退して見せたというわけさ」
「不法侵入者?音なんかしなかったけど」
というか不法侵入者はお前も同じだろ、とは一瞬思ったが話が混ぜっ返りそうだったので黙っておいた。
なにやら淡々と説明してくれたが色々と聞き逃がせない言葉が随所にあった気がする。巡る思考の中で俺は最も気になった箇所に言及した。
俺が書き終えてヨナに呼びかけるまでの間、侵入者の気配どころかエアコンすら稼働音を潜めていた筈だ。何かがあの場にいたことは確かだが、一切の音もなく家に入り込むなんてことが可能なんだろうか。
「簡単な回答を用意してあるよ。単に君の聴覚に霊感が伴っていないからだろうね。書き上げた紙に付いた足跡は見えたかい?」
「あ、あぁ…」
「それなら、灯は”視る”ことができても、 ”聞く”ことは出来ないんだろう。普通に生きていたって見ることは叶っても聞く機能が死んでしまった人間はいるだろう?視えるから聞こえるというのは、かなり限られた人々が特に疑問も無く世間に流してしまった幻想だよ」
ヨナはソファに勢いつけてバフッと座り込み、その反動に抗わぬまま横になった。
「けど、その後、お前の言った通り十数えてると母さんの声とか足音とか、なんかすげぇ大人数から名前聞かれたりとかしたぞ」
そうだ、俺は確かにあの恐怖体験を耳で感じ取ったのだ。ヨナの言うとおりならそれらは俺の幻聴ということになってしまう。
「だから呪われた身だって言うんだ。本来なら聞ける筈の無い音を聞いてしまった。それこそが、君にとっては何より危険な状態なわけだよ」
「は?呪われた?てか、先ず霊感とこのことがなんの関係にあるんだよ、まさか幽霊とか言い出さねぇよな」
しれっと霊感だのと言ってくれているが、残念ながら俺の理解はその段階まで追いついては居ない。
エアコンからの侵入者なんて虫やネズミ以外に考えられないし。
「えぇ?まだそんなところにいたのかい?」
するとヨナはあからさまに落胆したような声でそう言って言葉の後に深いため息までおまけにつけてきた。
「幽霊、というよりは妖怪の類だよ。多少神に近い素養も持ち合わせているようだけど。無知で厚顔、純粋で面白みの1つもない哀れな信仰の成れの果て。余りに必死に藻掻くものだから加減を間違えて目を潰してしまったよ。それで力を抜いたら逃げられたわけだけどね」
「はぁ?妖怪?神?…意味わかんねぇ。何処のフィクションの世界だよ」
わざと顔を顰めてそう言うとヨナが起き上がって俺を鋭く睨見つけた。
「そんなに疑うんなら紙についた足跡を他の人間にでも見せてみればいいさ、そうすれば分かるだろう、君以外に見えないその足跡が何を示すのかが」
ヨナの目線は背後の俺が確かに書き上げた作品を捉えている。俺はゆっくりと振り返って改めてそれを見返す。
作品の出来としては、悪く無い。力強さは無いが一筆で仕上げた部分の強弱は整っていて止めの辺りも滲まず広がらず滑らかな終わりを描いている。全体のバランスも全然悪く無い。満足、とまでは行かないまでもブランクがあったにも関わらずこの仕上がりはこれだけならば自身の自信にも繋がった出来だったろう。
けれど、その上に執拗に重ねられた皺のない幾つもの子供の足跡、ヨナ曰くこの足跡は俺以外には見えないものらしい。
俄には信じ難い。しかし、幾つもの状況的証拠は人の手による犯行や他の生き物の関与を尽く否定している。
「それよりも僕が気になるのは、君の発想だ。どうして『天使』なんて言葉を綴ろうと思ったんだい」
どうして、と聞かれても困る。筆を取って書き入れる直前に閃いたのだ。それは俺のスタイルであって他に説明の仕様がない。
「それに、もう一つ気にかかることが有るよ。灯、君が筆を入れる瞬間に目を閉じるのは癖かい?それは書道でのみ発揮されるものなのだとしたら…」
だとしたらなんなんだろう。目を閉じて書くなんてことをするのは勿論書道でだけだ。初めて大会で投募した時に緊張で震える四肢を抑えるためにそうしたら上手く書けたから。そんなジンクスから抜け出せず、返って目を開けて書こうとすると余分な思考が集中を途絶えさせる。例え暗闇の中であっても筆の流れはなんとなく分かるし視界の開閉によってコンデションが左右されるならと、変わらずここまで来ただけのこと。
小さく吐き出すように漏れたヨナの声が、静まり返った室内によく響いた。
「その時君に見えている暗闇というのは、瞼の裏ではないのかもしれないと思ってね」
ご読了頂き有り難うございます。




