第1話 婚約破棄
第1話 婚約破棄
王宮の大広間には、弦楽器の穏やかな音色が流れていた。
磨き上げられた床に、いくつもの燭台の光が映っている。
貴族たちは杯を手に談笑し、色鮮やかなドレスが広間を行き交っていた。
セレナは、その一角に立っていた。
「セレナ様、少し右を向いてくださいませ」
背後から小さな声がする。
セレナが言われた通りに顔を向けると、クラリスが肩にかかった髪をそっと直した。
「これで結構です」
「ありがとうございます」
「いいえ」
クラリスは一歩下がる。
少し離れたところには、別の側仕え。
さらにその向こう、壁際には護衛の姿もある。
セレナにとっては、いつもの光景だった。
聖女として公の場へ出る。
側仕えが身なりを整え、護衛が周囲を警戒する。
それを特別だと思ったことはない。
ただ今日は、いつもより人が多かった。
「殿下は?」
セレナが尋ねる。
クラリスが広間の奥を見る。
「先ほど、お見かけしましたが……」
言葉が止まった。
セレナも、その視線を追う。
第一王子アルベルトがいた。
深い赤の髪。
王太子にふさわしい華やかな礼装。
そして、その隣には一人の令嬢が立っていた。
アメリア・ローデン。
アルベルトは何かを話し、アメリアが楽しそうに笑っている。
セレナは二人を見た。
それから、クラリスを見る。
「楽しそうですね」
「……セレナ様」
クラリスが何か言おうとしたときだった。
音楽が止まった。
アルベルトが広間の中央へ進み出たからだ。
ざわめきが小さくなる。
王太子が手を上げる。
「皆に聞いてもらいたいことがある」
貴族たちが一斉にアルベルトを見る。
セレナも姿勢を正した。
アルベルトの視線が、まっすぐこちらへ向いた。
「セレナ・アルヴェール。前へ」
「はい」
セレナは歩き出した。
クラリスもついてこようとしたが、セレナはほんの少し手を上げた。
すぐ近くにいる。
それで十分だった。
アルベルトの前まで進む。
その隣には、アメリア。
なぜ彼女がそこにいるのか。
セレナには分からなかった。
「殿下。お呼びでしょうか」
「ああ」
アルベルトは一度、広間を見回した。
そして言った。
「セレナ・アルヴェール。私は本日をもって、お前との婚約を破棄する」
広間が静まり返った。
セレナは瞬きをした。
聞き間違えたとは思わなかった。
ただ、意味を理解するのに少し時間がかかった。
「婚約を……破棄なさるのですか?」
「ああ」
「国王陛下は、ご承知なのでしょうか」
アルベルトの眉が動いた。
「これは私の婚姻だ。父上の許可がなければ、自分の伴侶すら選べないというのか」
セレナは答えなかった。
それは自分が判断することではない。
アルベルトは続ける。
「私はずっと疑問に思っていた。お前は私の婚約者だ。それなのに王宮にはほとんどいない」
「御柱を巡回しておりますので」
「それだ」
アルベルトの声が少し強くなった。
「御柱、御柱、御柱。いつもそればかりだ」
セレナは首をかしげる。
「はい。聖女の務めですから」
「柱の前で祈ることがか?」
「はい」
あまりにも当然の問いだったので、セレナはそのまま答えた。
広間のあちこちから、小さなざわめきが起こる。
アルベルトは苛立ったように息を吐いた。
「お前は王太子妃になる女だ。それなのに社交にもろくに顔を出さず、地方へ行っては祈っている」
「御柱の力が弱くなれば、結界が――」
「またそれか!」
声が響いた。
セレナは口を閉じた。
アルベルトは少し呼吸を整えた。
「結局、お前は柱の前で祈っていただけではないか」
「……はい?」
「誰が見た? お前が奇跡を起こすところを」
セレナは少し考えた。
「治療でしたら、何度も」
「そういうことではない!」
アルベルトは苛立っている。
だが、なぜそこまで怒っているのか、セレナには分からない。
御柱へ祈る。
結界を維持する。
必要があれば人を治療する。
それは、ずっとしてきた仕事だった。
「私は王宮で待っていた」
不意にアルベルトが言った。
「お前が地方へ行っている間もだ」
セレナはアルベルトを見る。
「申し訳ありません」
「そういうところだ」
「……?」
「分からないのか」
アルベルトが苦笑する。
「セレナ。お前は私を愛しているわけではないだろう」
セレナは黙った。
少し考える。
アルベルトは婚約者だ。
嫌いではない。
子供のころから顔を合わせている。
いずれ夫になる人だと思っていた。
夫婦になり、一緒に国を支える。
そうすれば。
セレナは微笑んだ。
「愛せますよ」
アルベルトの顔から表情が消えた。
「……何?」
「殿下のことは嫌いではありません。このまま結婚すれば、きっと――」
「もういい」
遮られた。
セレナは言葉を止める。
アルベルトは目を閉じた。
そして、隣に立つアメリアの手を取った。
「私は、この人を愛している」
セレナは二人を見る。
アメリアはアルベルトの手を握り返した。
「アメリア・ローデン。私が自分自身で選んだ女性だ」
「そうですか」
セレナは静かに答えた。
アルベルトが眉を寄せる。
「それだけか」
「殿下がアメリア様を愛していらっしゃるのでしたら、婚姻については陛下とご相談なさればよいかと」
「父上に相談すれば、認めると思うのか?」
「それは、私には分かりません」
本当に分からなかった。
結婚は王家と国教が決めるものだと思っていた。
アルベルトが別の女性を愛した場合に、どうするのか。
そんなことを考えたこともない。
だが。
それなら正式に話し合えばよい。
セレナには、そうとしか思えなかった。
アメリアが小さく口を開いた。
「セレナ様」
「はい」
「本当に、それだけなのでしょうか」
セレナは彼女を見る。
「と、おっしゃいますと?」
アメリアは一瞬、アルベルトを見た。
アルベルトが続ける。
「そもそも、お前は本当に聖女なのか?」
セレナは動かなかった。
今度こそ、何を言われたのか分からなかった。
「……はい?」
「聞こえなかったのか」
アルベルトが言う。
「私は、お前が本当に聖女なのかと聞いている」
広間がざわめいた。
先ほどまでとは違う。
困惑。
驚き。
そして、一部には恐怖さえ混じっている。
セレナはアルベルトを見つめた。
「私は、聖女ですが」
「誰が決めた?」
「国教です」
「そうだ。国教が、お前を聖女だと言った。それだけだ」
「……?」
「お前は御柱の前で祈っているだけだ。目に見える奇跡を起こしたわけでもない」
セレナは、ようやく話がどこへ向かっているのか理解し始めた。
しかし、それでも理解できなかった。
「殿下」
「なんだ」
「私が御柱を巡っていることは、陛下も国教もご存じです」
「それが何だ」
「御柱へ祈りを捧げ、結界を維持するよう命じられております」
「命じられたからやっている。それだけではないか」
「……そうですが」
アルベルトは勝ち誇ったように言った。
「やはりそうだ」
セレナは困惑した。
命じられた仕事をしている。
それの何が問題なのだろう。
アルベルトは広間へ向き直った。
「私は王太子として、この者を聖女とは認めない」
大きなどよめきが起きた。
「殿下!」
誰かが声を上げた。
神官だった。
しかしアルベルトは手を上げて制した。
「黙れ」
「しかし、それは王太子殿下がお一人で――」
「黙れと言った!」
神官は口を閉ざす。
セレナの背後で、クラリスが一歩動いた。
護衛たちも、わずかに姿勢を変えた。
だがセレナは動かない。
アルベルトは告げた。
「セレナ・アルヴェール」
その声だけが、大広間に響く。
「お前は聖女を偽り、王家を欺いた」
セレナの瞳が、わずかに揺れた。
「そして、国民を欺いた」
「……私が?」
「そうだ」
「聖女を、偽った……?」
覚醒した日のこと。
国教へ連れていかれたこと。
初めて祈り方を教えられたこと。
御柱を巡ったこと。
傷ついた人へ手を当てたこと。
祈り続けて、立てなくなったこと。
全部。
自分が聖女だからしてきた。
それが自分の役目だった。
アルベルトは言う。
「聖女を偽った者を、王太子妃とすることはできない」
セレナは返事をしなかった。
「よって婚約は破棄する」
それは、もう聞いた。
だが次の言葉は違った。
「さらに、王家と国民を欺いた罪により――」
アルベルトはセレナを指さした。
「国外追放とする」
広間から音が消えた。
セレナはアルベルトを見る。
婚約を破棄された。
それは理解できる。
アルベルトには好きな人ができた。
ならば、自分とは結婚したくないのだろう。
だが。
聖女ではない。
自分のしてきたことは嘘だった。
国民を欺いた。
それだけは、どうしても理解できなかった。
「殿下」
「なんだ」
「御柱は、どうなさるのですか」
アルベルトの表情が歪んだ。
「まだ言うのか」
「次の巡回があります」
「必要ない」
「ですが――」
「必要ないと言っている!」
セレナは黙った。
アルベルトは、自分を見ている。
多くの貴族も見ている。
アメリアも。
神官も。
側仕えも。
護衛たちも。
セレナは少しだけ視線を落とした。
そして、いつものように静かに頭を下げた。
「……承知いたしました」
顔を上げる。
アルベルトは満足したように見えた。
セレナには、まだ分からない。
自分が何をしたのか。
なぜ罪人になったのか。
そして――
自分がいなくなったあと、
誰が御柱へ祈るのか。
それだけが、どうしても気になっていた。




