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墓島

 ガダルカナル島からの撤退によって激甚的な消耗の泥沼から足を引き抜いた日本軍でしたが、それで消耗が止まるわけではありませんでした。戦争が続く限り消耗は続きます。

 ソロモン諸島およびニューギニア方面の戦況が悪化しました。もはやソロモン諸島の南半分は完全にアメリカ軍の制空権下に入り、日本軍の前線根拠地ラバウルでさえ大規模な空襲を受けるようになりました。連合艦隊は徐々に制空制海権を失い、ソロモンの戦況はアメリカ軍優勢となりました。

 零戦の絶対的優位は、もはや過去の話です。アメリカ軍戦闘機の性能は急速に向上し、攻撃性能と防御性能で零戦を凌駕しています。性能の優位に加え、物量の優位は圧倒的です。さらにアメリカ軍は、対零戦戦術を考案して零戦を撃墜する側になりました。アメリカ海軍艦艇の対空防御能力も飛躍的に向上しました。近接信管を高射砲弾に装備した米軍の対空砲火によって日本軍機はバタバタと撃ち墜とされるようになります。ただでさえ劣勢な日本軍の航空戦力は消耗を早めました。

「ソロモンは搭乗員の墓場」

 航空戦士たちは次々と散っていきました。なかでも運動性能に乏しい中型陸上攻撃機や艦上攻撃機は撃墜されやすい機種でした。搭乗員は中攻機で七名、艦攻機で三名です。一機が墜落するたびにそれだけの人命が失われていきます。運動性能に恵まれた零戦とて消耗は激しいものでした。ラバウル基地からの出撃はほぼ毎日です。攻撃目標のガダルカナルはラバウル基地から片道千キロの彼方にあります。飛行時間は往復だけで六時間以上となります。これが毎日つづけば、どれほど鍛え抜かれた搭乗員でも疲労困憊してしまいます。

 アメリカ軍はラバウル基地に対する夜間爆撃を毎夜のように反復しました。その狙いは、基地設備や敵機の破壊ではありません。日本軍搭乗員の安眠を妨げるためでした。連日の戦闘による疲労と睡眠不足のため、帰投中、搭乗員は激しい睡魔に襲われました。ひとり乗りの零戦は、搭乗員が眠ってしまうと助けようがありません。眠ったまま海上へゆっくりと墜落していきます。零戦の無線電話は性能が不良でした。僚機はどうしてやることもできないのです。一方、米軍パイロットは一週間毎に休暇を与えられていました。

 連合艦隊は航空戦力の補充を何よりも必要としました。その要望に応えるべく海軍省は国力相応に機材と搭乗員と整備員と兵器員を充当しました。しかし、アメリカに伍するには程遠い状態です。その責任の一端は連合艦隊にもありました。開戦に当たり連合艦隊は優秀な人材を掻き集めました。国力、戦力ともに劣勢であるため短期決戦を目指したからです。海軍大臣に掛け合って優秀な教官や教員の実戦配置を要求したのは五十六でした。結果、実戦部隊には優秀な搭乗員、整備員、兵器員が集まりました。その反面、内地で新人を養成する指導人材が著しく不足することになりました。緒戦の大勝利は優秀な人材によってもたらされましたが、数次の苛烈な戦闘によって最前線で優秀な人材が消耗してしまうと、補充不足という結果が連合艦隊に跳ね返ってきました。

 それだけではありません。内地では航空燃料の不足が早くも露呈し、完成した航空機の試験飛行が二時間から一時間に短縮されていました。飛行兵の基礎訓練も百時間から四十時間に短縮されました。やがて技量未熟な飛行兵が最前線に投入されることになります。


 ガダルカナル島撤退から一ヶ月後に生起したビスマルク海戦では、アメリカ軍の航空優位が如実に証明されました。

 かねてよりニューギニアで苦戦を重ねていた陸軍は、劣勢を挽回するために増援部隊の輸送作戦を発動しました。ラバウルからニューギニアのラエに向けて七千名の陸軍部隊を輸送するのです。八隻の輸送船を連合艦隊が護衛しました。すでに制空制海権は米軍側の手に落ちていましたから、当然、敵機に攻撃されると予想されました。危険ではありましたが、ニューギニアの陸軍部隊を見殺しにはできません。ラバウルおよびカビエン所在の陸海軍航空隊は百二十機の戦力を輸送船団の直掩任務につかせ、常時、直掩態勢を維持しました。精一杯の船団護衛です。

 日本軍の輸送船団は、ラバウルを出発してニューブリテン島の北を西進しました。やがてニューブリテン島の陸地が尽きようとする頃、アメリカ軍機の波状攻撃に曝されました。この作戦に投入された米軍機は七百機を超えていました。日本軍の直掩戦闘機は果敢に戦ったものの、多勢に無勢でどうしようもありません。昭和十八年三月二日から三日にかけて、日本軍の輸送船は次々に沈められました。損害は輸送船八隻と駆逐艦四隻です。およそ三千六百名の陸軍兵士は戦うこともできぬままダンピール海峡に没しました。


(もはや手の打ちようがない)

 口には出さないものの五十六は現実を認めざるを得ません。連合艦隊司令部がいかに知恵を絞ろうとも事態を打開できないのです。これは戦術の問題ではなく、兵力の問題です。海軍省の奮闘に期待して機材と兵員の補充を待つほかはありません。連合艦隊は、質と量の両面においてアメリカ太平洋艦隊に凌駕されてしまいました。戦争が長引けばこうなることは開戦前からわかっていたことです。その冷厳たる現実に直面したいま、歴然たる日米の戦力格差に暗然たらざるを得ません。

 開戦以来、連合艦隊は米英蘭濠連合軍に対して互角以上に戦ってきました。最初の半年間は一方的な攻勢でした。その攻勢はミッドウェイ海戦で止まり、ニューギニアやソロモン諸島においては互角の戦いが続きました。日米は互いに勝ったり負けたりしました。しかし、その互角の戦いを維持できなくなってしまいました。

「半年や一年なら暴れてみせる」

 開戦前、対米戦争の見通しを近衛文麿総理から問われた際、五十六が言った言葉です。その言葉どおり、連合艦隊は見事に暴れましたが、一年を過ぎてみると、日米の国力差が最前線の兵力差となって顕著に現れ始めました。

 なによりも必要な戦力は航空機です。ガダルカナル島をめぐる半年間の攻防戦で連合艦隊が失った航空機はおよそ一千六百機です。開戦時の実働機数が三千二百機だったことを考えれば五割の消耗です。この損失を埋めるため海軍省は精一杯の補充を続けています。陸軍航空隊もソロモン方面に進出しました。しかし、こうした日本軍の努力は、圧倒的なアメリカ軍の物量に比べれば実にささやかでしかありません。それでも海軍軍令部から停戦命令が発令されぬ限り、連合艦隊司令長官は部下に戦闘を命じ続けるしかありません。そして、海軍軍令部が停戦を命じるためには、まず日本政府が降伏を決断せねばなりません。その意味において軍人は常に政略に酷使される道具です。

(もはや停戦すべきである)

 五十六は思います。ですが、連合艦隊司令長官としては、そんなことを口走ることはできません。統率という重い任務がありますし、軍政の担当者ではないからです。

(それでも停戦した方がよい)

 むろん停戦となれば、日本は領土を割かれるでしょう。大東亜の占領地域はもちろんのこと、南洋諸島や朝鮮半島や台湾や千島も奪われるでしょう。それでも日本本土が焦土と化すよりはよいのです。

(日本を長岡のようにしてはならぬ)

 戊辰の戦災から復興するために長岡がどれほど苦労したかを五十六は知っています。アメリカ軍の戦略爆撃機によって本土が空襲される前に停戦すべきであると五十六は思います。

(しかし、それですむか)

 たとえ領土を削りとられても日本本土が戦災を免れ、主権を維持できるなら日本は復興するでしょう。しかし、日本が占領された後、主権を奪われて植民地化され、奴隷化されてしまったら、果たして日本は復興できるのか。その際、御皇室はどうなるのか。欧米列強がインドや蘭印や仏印やフィリピンで実施されてきた過酷な植民地支配の実態を思えば、停戦後の日本がどんな目に遭わされるか知れたものではありませんでした。

(アメリカを知っているつもりだったが、わかってなどいなかった)

 五十六は、戦場におけるアメリカ軍の戦いぶりの合理性と物量に舌を巻く思いを持つとともに、その残忍さにあらためて驚かされました。ガダルカナル島で戦死した日本陸軍兵士の死体から金品を略奪するばかりか、その髑髏を土産品にしているとの情報が耳に入りました。ダンピール海峡で輸送船が海没した際、多くの日本軍兵士が漂流しました。日本海軍の駆逐艦が懸命に救助するのを妨害したのは、アメリカ軍の戦闘機と艦船でした。漂流中の陸軍兵士は敵の機銃掃射によって命を絶たれました。相手が強いとみれば退避し、弱いとみれば容赦なく襲いかかって根絶やしにする。戦場で対峙したアメリカ軍の習性から推し量るなら、敗戦後の日本は地獄と化すのではあるまいか。五十六は、自身が武士道の信奉者であるだけに、アメリカ軍にも騎士道精神を期待しました。平時には、それがあるように思われました。アメリカ駐在時代の五十六は、海軍士官相互の儀礼的交際から一歩も二歩も踏み出し、アメリカそのものに触れようと努力しました。そして、触れたつもりでした。しかし、一年数ヶ月にわたるアメリカ軍との戦いの中で、その期待は幻想だったことに気づかされたのです。

(アメリカの本性は奴隷商人なのだ)


 それにしても、なぜ日本はアメリカと戦っているのでしょう。その理由が五十六には必ずしも明確にわかりませんでした。いったいアメリカ側の事情はなんだったのか。支那事変の最中、パネー号事件が起こりました。その処理を担当したのは海軍次官だった五十六です。五十六は誠心誠意を尽くして謝罪し、アメリカ政府も納得したはずでした。それなのに経済封鎖と外交断絶によって日本を開戦へと追い詰めたのは間違いなくアメリカです。日本は、支那大陸に浸透する共産主義勢力と戦っていました。それなのにアメリカは、なぜか共産国家ソビエト連邦と連合し、民主国家日本を敵としたのです。不可解というしかありません。

(思い起こせばワシントン会議以来、アメリカは日本を征服つもりだったのだ)

 ワシントン会議で日英同盟を廃棄させ、軍縮条約によって日本海軍を対米六割に抑制し、その後、日本に対する経済制裁を実施し、蒋介石軍に莫大な物資を与えて支援し、日本を孤立させたのはアメリカでした。

(いったい、なぜ、そんなことをしたのか)

 なぜアメリカは、あれほどに日本を経済的に圧迫したのか。五十六には、その理由が解りません。まさかルーズベルト政権が共産スパイの巣窟になっているとは、さすがの五十六にも想像できませんでした。

 戦後、長い時間がたって、支那事変も日米戦争もコミンテルンの煽動にのせられた日米支の戦いだったことが明らかとなりますが、その事実を五十六は知る由もありません。


(とつ)、つべこべ考えてもしかたがない。始まってしまったことは終わらせるしかない)

 この戦いに敗れれば、日本人はインディアンのように虐殺され、黒人のように奴隷化されてしまいます。天皇は、ハワイ国王のように幽閉され、二千年来の血統が絶たれてしまいます。

(どうあっても勝たねばならぬ。しかし、どうやって)

 すでに戦局は敗勢に傾いています。攻勢戦略はもはやとりえません。これ以後は、防勢戦略をとらざるを得ないのです。防勢というのは、要するに太平洋の島々を舞台にした焦土作戦です。

()(なら)いて那翁(なおう)(くじ)かん)

 勝海舟の漢詩の一節を五十六は思い起こしました。魯とはロシア帝国であり、那翁はナポレオンです。西暦一八一二年、ナポレオンの遠征軍はロシアへ進撃しました。これに対してロシア軍は焦土作戦で応じました。モスクワは廃墟と化しましたが、食糧調達に窮したナポレオン軍は撤退を余儀なくされました。

(これ以外には策がない)

 すでに消耗の甚だしい連合艦隊には防勢戦略しかとり得ません。しかし、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍に対して焦土作戦が通用するのかどうか。それはやってみなければわかりません。


 五十六が実施に踏み切った「い」号作戦は、連合艦隊としての最後の攻勢作戦です。この作戦を終えた後に防勢戦略への転換を実施するつもりです。「い」号作戦のため、連合艦隊保有の実働可能航空兵力がラバウル基地に集められました。できるだけ打撃力を強め、敵の戦略拠点に集中爆撃を加え、敵に損害を強いるのです。このため第三艦隊の空母艦上機もすべてラバウル基地航空隊に編入されました。

 開戦時、海軍は三千機以上を保有し、連合艦隊には約一千六百機が配備されていました。しかし、今、連合艦隊司令長官が直率する作戦に投入できる機数は三百機に過ぎません。歴戦の搭乗員が減り、経験不足の搭乗員が増えています。零戦の性能的優位も揺らぎ、もはや精緻な航空作戦の遂行は無理です。できることといえば、ありったけの航空戦力を集めて正攻法で攻めることのみです。目標は、敵の軍艦、輸送船、陸上施設です。

 この時期、アメリカ軍はガダルカナル方面におよそ五百機、ニューギニア方面にも同じく五百機ほどを配備していましたから、すでに日米の戦力差は歴然としていました。それでも、防勢に転ずる前に一押ししておきたいところです。

 「い」号作戦の実施にあたり、宇垣参謀長は、ラバウル基地での陣頭指揮を五十六に進言しました。当初、五十六は難色を示しました。総大将が最前線へと引っ張り出されていくという状況そのものが、敗勢を味方に印象づけるのではないかと危惧したのです。

「いえ、むしろ士気振作が期待できます」

 宇垣参謀長は効果を力説しました。明治以来、陣頭指揮は連合艦隊司令長官の伝統です。宇垣参謀長の説得に推され、五十六はラバウル基地視察を承認しました。昭和十八年四月三日、連合艦隊司令部首脳は旗艦「武蔵」を下艦し、トラック泊地の水上基地から二式飛行艇に分乗してラバウルに向かいました。出発時には第三種軍装を着用しました。五十六はトラック泊地に来てから太り、軍服のボタンが弾けそうに膨らんでいます。

 五十六がラバウルに到着すると、南東方面艦隊司令部の旗竿に大将旗が掲げられました。司令部はニッパヤシの葉で編まれたニッパハウスです。五十六はさっそく航空隊の搭乗員に訓示しました。

「我々は今もっとも苦しい戦いを続けている。しかし、こちらが苦しいときは敵もまた苦しい。貴重な母艦航空機をラバウルに進出させたのは、この苦しさを乗り越え、血路を切り開かんがためである。諸君に期待するもの大である。健闘を祈る」

 宇垣参謀長の思惑どおり士気は振るいました。「い」号作戦は予定どおり四月七日、十一日、十二日、十四日に実施されました。五十六は純白の第二種軍装に身を包み、隊員に訓示し、勇を鼓舞しました。攻撃機は砂塵を巻き上げて滑走路を飛び立ち、上空で編隊を組みました。三百機からなる日本軍機の編隊が南洋の空に浮かぶ様は壮観でした。攻撃目標はガダルカナル島の敵飛行場と泊地、およびニューギニアのブナ、ラビ、ポートモレスビーです。待機将兵や整備員らは滑走路沿いに整列し、帽振れで攻撃機隊を見送りました。五十六も、最後の一機が見えなくなるまで直立し、左手を腰に当て、右手を頭上に掲げて軍帽を振り続けました。


挿絵(By みてみん)


 「い」号作戦を終えた翌日、会議が開かれました。連合艦隊、南東方面艦隊、第三艦隊、第十一航空艦隊の首脳が集まり、「い」号作戦の戦果判定と今後の戦い方が論議されました。戦果は必ずしも芳しくありませんでした。こちらの動きを察知したアメリカ軍は、主要港から艦船を退避させていたようです。また、味方機の消耗率は零戦で一割、艦攻及び艦爆では二割に達しました。誰の目にも結論は明らかです。

「航空兵力の増勢」

 高性能な航空機と優秀な搭乗員がたくさん必要です。充分な航空戦力さえあれば、「い」号作戦のような航空撃滅戦を日常的に実施し、敵を圧倒すればよいのです。しかし、そのような航空兵力の充足は望むべくもありません。現地からの要請に応えるべく、国内では懸命の増産と養成が行われています。しかし、戦場における激甚的な消耗には追いつきません。

 劣勢の戦力でいかに戦うか、それが議論の主題になりました。しかし、有効な策はありません。会議は長引き、十時間に及びました。出席者はみな疲労困憊しましたが、なお緊張を持続させています。その様子を見るに見かね、連合艦隊の宇垣参謀長が会議の終了を宣しました。

「今日の戦況を招いた原因は航空兵力の不足である。現地部隊のいっそうの奮闘を望む」

 宇垣参謀長に悪意はありません。会議を打ち切るための形式どおりの決まり文句のつもりでした。しかし、この決まり文句に、南東方面艦隊司令長官の草鹿任一(くさかじんいち)中将が激怒しました。

「そんな考えの者は、このラバウルにはひとりもおらん」

 草鹿中将は宇垣参謀長を怒鳴りつけました。現地部隊は、誰もが限界まで奮闘しているのです。奮闘どころか死んでいるのです。毎日のように攻撃隊を出撃させ、戦死者を出し続けている草鹿中将にしてみれば「いっそうの奮闘を望む」などという空々しいセリフが聞き捨てならなかったのです。

 翌日、南東方面艦隊司令部の一室に海軍の三長官だけが集まりました。連合艦隊司令長官山本五十六大将、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将です。三長官は、戦勢挽回の方策について話し合いました。しかし、妙案はありません。要は航空兵力の充実なのです。これは後方からの補充を期待するしかありません。現地部隊は既にありとあらゆる努力をしています。努力どころか搭乗員は命を捧げているのです。次に戦法が検討されました。

(いく)さのやり方を変えてみたいと思う」

 五十六は言いました。もはや攻勢戦略をとり続けるのは困難です。今後は防勢戦略へと戦い方を根本から変えねばなりません。そのためには、まず参謀人事です。

「とりあえず黒島先任参謀を代えたいと思うが、小沢君、君は海軍大学校にいたろう。誰か、今の戦局に適任の者に心当たりはないか」

「はい。それなら宮崎俊男大佐がよいでしょう」

 小沢治三郎中将は間を置かずに返答しました。開戦の二ヶ月前まで海軍大学校の校長だった小沢中将には、注目している男がいました。その男なら、この困難な戦局を打開する戦法を考え出すかもしれません。それが宮崎俊男でした。

「宮崎俊男、いや、あれはとかくの噂のある男じゃないか」

 五十六は難色を示しました。それも無理はありません。宮崎俊男には悪評がありました。その悪評とは、海軍大学校の勉強をさぼったという評判です。それが連合艦隊司令長官の耳に届くほどですから尋常一様ではありません。

「まあ、お聞き下さい」

 小沢中将は事情を説明し始めます。そもそも宮崎の悪評を生んだ海軍大学校とは、実務経験十年程度の大尉あるいは少佐から成績優秀者を選抜し、これら少壮幹部に戦略や戦術を学ばせる機関です。宮崎俊男には一家言がありました。宮崎の考えでは戦術や戦略に定型的な解答などあるはずがなく、課題を教官と学生とが甲論乙駁しながら研究すべきものです。ところが、大学校の教官は自由な討論を許さず、ともすれば模範解答を学生に丸暗記するよう強制しました。大部分の学生は教官に迎合しました。それが良い成績をもらうための確実な方法だからです。

 海軍大学校のこんな風潮に宮崎は不満を持ちました。宮崎は反骨心を発揮し、教官に教えられた戦術の盲点を研究しては教官の鼻を明かしました。また、納得のいかない課題については提出を放棄しました。悪評も立つでしょう。そんな宮崎が非凡な才能を発揮したのは図上演習においてです。アメリカ艦隊司令長官役を命ぜられた宮崎は、教官の教えた戦術どおりに動く日本艦隊の裏をかき、全滅に追い込んでみせました。

「貴様には今後の昇進はいっさい無いものと思え」

 面目を失った教官は激怒し、負け惜しみを言いましたが、宮崎は相手にしませんでした。そのクソ度胸だけでも驚嘆に値します。そんな宮崎俊男に、小沢中将は注目していたのです。

「宮崎の悪癖については百も承知しています。しかし、今の戦局に対処するためには正攻法では間に合いません。奇法を考え出す男が必要です。宮崎俊男大佐なら何か妙案を考え出すでしょう」

「うむ」

 五十六はしばらく考え、「それではそういうことにしよう」と答えました。


 この頃、ソロモン方面の日本軍最前線基地は、ラバウルから五百キロの南にありました。ボーゲンビル島の南端にあるブイン、バラレ島、そしてショートランド島です。ここに小規模ながら飛行場があり、海軍の航空戦隊が進出しています。

 この最前線基地を視察して将兵を激励したい、と五十六は考えました。特にショートランド島には陸軍第十七軍の司令部があります。ガダルカナル島でさんざんな苦戦をした第十七軍司令官百武晴吉中将がここにいます。五十六は、ぜひとも百武中将に会って、その労苦を慰労したいと思いました。

 そもそも連合艦隊がポートモレスビーを攻めあぐね、ガダルカナル島で反攻を受けたことが第十七軍の苦難の原因だったのです。聞くところによれば、一木支隊の先遣隊が全滅した頃から、百武中将は輸送の困難を理由として、ガダルカナル島放棄を訴え続けていたといいます。おそらく苦汁を呑むような思いで第十七軍を指揮してきたに違いありません。五十六としては、是非とも会って礼を尽くしたい。そしてまた、たとえ心苦しくとも、連合艦隊の戦力が消耗してしまった事実を正直に伝えておかねばなりません。そのことを五十六が言うと、強く反対されました。

「危険です。やめて下さい」

 小沢治三郎中将と草鹿任一中将は何度も言いましたが、五十六は翻意しませんでした。


 連合艦隊司令長官の最前線基地視察という行事に、最前線基地の司令官や参謀は緊張しました。万一にも粗漏があってはならないと、視察日程を繰り返し打電し、また返電して確認し合いました。この電信がアメリカ軍に傍受され、解読されました。

 ショートランド島の第十一航空戦隊司令官城島高次少将は、これらの電文を見て危惧しました。折よく内地への転任命令を受けた城島少将は、ショートランド島からラバウルへ飛び、連合艦隊司令部に出頭して申告しました。運良く連合艦隊司令長官がいました。城島少将は、型通りの申告を済ませると五十六に直言しました。

「長官、最前線の視察は中止すべきです」

 詳細な視察日程が繰り返し電信されており、敵に傍受されている可能性が高く、危険であると訴えたのです。それでも五十六は決心を変えませんでした。出発前夜、いつものとおり渡辺安次参謀と将棋を指しながら五十六は言いました。

「日本軍は最後通牒の前に攻撃した、と敵は盛んに言いふらしているらしいが、もっての外だ。もし俺が死ぬようなことがあったら、君がよく調べてくれ。山本は寝首をかくような計画を立てたことも、作戦指導をしたこともない。日本海軍は騙し討ちのような卑怯なことはしない。通知した上でやったのだ。陛下にそう申し上げてくれ」

 五十六は、宣戦布告遅延の真相を知らぬまま世を去ります。五十六は無念でした。五十六にしてみれば会心の作戦だったはずのハワイ奇襲が敵国によって「汚い騙し討ち」と決めつけられているのです。野村吉三郎駐米大使はすでに帰国しており、事情聴取も実施されたでしょう。それなのに外務省は敵に対して反論していないうえ、国内に対してもまったく説明しないのです。

(たとえ敗れても卑怯な真似はせぬ)

 それが武士道です。五十六はあまりに武士でありすぎました。これに加え、アメリカから多くを学んだ五十六は、アメリカが好きでもありました。それだけに「騙し討ち」の汚名が残念でなりません。


 昭和十八年四月十八日、連合艦隊司令部幕僚は二機の一式陸上攻撃機に分乗してラバウル基地を離陸、最前線基地バラレを目指しました。護衛するのは森崎武中尉の率いる零戦六機です。護衛を担当する第二〇四海軍航空隊司令官の杉本丑衛(うしえ)大佐は、航空隊の全力をあげて護衛にあたるつもりでした。全力といっても零戦二十機に過ぎません。しかしながら、南東方面艦隊司令部から六機にせよと命じられていました。

「六機でよい。自分のために大切な飛行機をたくさん飛ばせる必要はない」

 五十六が命じたのです。南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、それをそのまま第二〇四航空隊司令官に命じました。アメリカ軍に圧され気味だったとはいえ、ボーゲンビル島周辺の制空権はまだ日本側が掌握していました。だからこそ六機で良いと判断したのです。六機の零戦は、一式陸攻二機の上位後方に占位して万一に備えました。

 この日、快晴です。午前七時三十分、ボーゲンビル島南端にさしかかりました。そこにブイン飛行場があります。突如、森崎中尉の零戦がエンジン音をうならせて増速し、長官機をアッという間に追い越していきました。残る五機の零戦もそれに続きます。はるか前方空域には黒ゴマのように敵機が見えます。一式陸攻二機はブイン基地に緊急着陸するため変針し、高度を下げ始めました。日本海軍の暗号を解読していたアメリカ軍は、十八機の双発双胴戦闘機で待ち伏せていました。日米の戦闘機は反航しながら機銃を撃ち合いました。機数にまさる米軍側は零戦の攻撃を難なくかわすと、一式陸攻二機に容赦なく銃撃を浴びせました。一式陸攻は二機ともエンジンに命中弾を浴び、黒煙を吹き出しつつ徐々に高度を下げていきました。わずか二分間の出来事です。アメリカ軍機は時速六百五十キロの高速で戦場を離脱していきました。零戦では追いつけません。被弾した二機の一式陸攻は黒煙を吐きながらもまだ空中にあります。森崎中尉は自機を長官機に近づけました。手を伸ばせば届きそうなところに長官機はあります。できれば身代わりになりたいと思いましたが、助けようがありません。それが空の戦いです。一式陸攻の風防ガラス越しに山本五十六長官の姿が見えました。第三種軍装を着用しています。身体の正面に軍刀を立て、白手袋の両手で柄をしっかり握っています。長官は両眼を閉じていました。瞑目しているようでもあり、すでに事切れているようでもありました。その直後、長官機は轟音と共に黒煙に包まれました。


挿絵(By みてみん)

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