第五話 獣と私と女神の手
大社の本殿は貴重な木材・ショウヨで作られている。
一本で城が立つとも言われている香り高い木。揮発した品の良い香りが、闇に沈む空間を満たしていた。
板張りの床には更に貴重な藪畳。
部屋の中央に敷かれたそれに寝転がったアルマは、大いに感激をした。
「すごい! 柔らかくて気持ちがいいです! 私の家では土の床に筵を何枚も重ねてみんなで寝るんです。こんなに香りが良くて、転がっても痛くない寝床なんて初めて……」
『私の毛皮よりもか』
藪草の香り思いっきり吸い込んでうっとりする。すると襟元を銜えて持ち上げられた。この大きな牙はスヴェントヴィトだ。
彼はとても焼きもち焼きだ。
アルマが藪畳や差し入れられた布団の感触に感動するたびに嫉妬をして、『私の方が』と自分のお腹に彼女を移すのだ。
定位置に置くとぽふぽふとしっぽではたくのを忘れない。
アルマはスヴェントヴィトと共に社殿に移った。とうとう地上に出たのだ。
感動に打ち震えるアルマの横で、スヴェントヴィトはあまり嬉しそうではない。
地下深くで誰にも知られないように存在していた(眷属たちと皇子曰く引きこもっていた)彼が、社殿という大きな場所に出て、自分の眷属たちが起こしてしまった事態を鎮静するために、鎮座しなければならなくなったからだ。
毎日多くの参拝者が大社の奥に漂う闇を拝みにやってくる。だが神官は闇の奥には入れない。
一瞬で灯りを消し去り近寄れないどころか、入るとめまいや吐き気に苦しむらしい。
闇神が拒否をするのだ。
ロランドやエルマンはそう説明をする。
そう、闇だ。
闇はあくまでスヴェントヴィトに付属するもの。
彼の周囲はどこまでも深い闇に包まれ、社殿は暗闇に沈んでいる。当然、アルマは未だに光を拝むことは出来ない。
だがアルマは自分の手を欲し、過去の何かに自分を重ね、ひたすら甘えてくるこの寂しがり屋の大きな獣を見捨てることなどできなかった。
しかも。
『なんで出られないんですかー!』
ようやく地下牢から解放されたアルマは、とりあえず光を浴びようと壁づたいに出口へ向かった。
すると「ぼふ!」と羽毛を積み上げたような何かに押し返される。闇の奥が柔らかい壁となってそれ以上進まないのだ。
騒ぐアルマに、エルマンはこう分析した。
『恐らく……闇神がシマルグルの心に共鳴して、アルマを出そうとしないのだろう』
スヴェントヴィトがアルマに離れて欲しくないと願っている。
その無意識の執着が闇に影響して、アルマを放そうとしないのだと。
『すまぬ……』
「自覚はあるのですね」
小さくなるしっぽに、何も言えなくなる。
村には帰れない。
その事実に、故郷の両親や兄弟の、のんきな顔が頭をよぎる。
とはいえ、自分が帰らないことで家族が捜索届を出したわけではない。
のんびりとした自分の家族は、玉の輿に乗った娘(妹)が未だ顔を見せない事実に、未だ疑念を抱いていないのだ。
皇子は直接挨拶に行ったそうだ。
『彼女は巫女修行と私のための(モフ)修行に忙しいのだ。落ち着くまで待って欲しい』
『あの子は不器用ですからねえ。でも面食いだし、こんなに綺麗な皇子様と一緒に居られたら頑張れるでしょう』
うんうんと納得して野良仕事に行ってしまったと聞いている。
(みんな……平和すぎるよ……)
アルマ毎日は、基本的に獣たちを優しく撫でることしかない。
なのでせめて指が覚えている作業をさせて欲しいと、二人に懇願をした。手すきの時にはスヴェントヴィトに寄りかかって藁で草鞋を作ったり、蔓枝で籠を作ったりして気を紛らわせている。
◇◇◇◇
気が付くと、ごく小さな獣用の草鞋がたくさん溜まっていたようだった。
それを欲しがる獣たちの、小さな手足を触りながら、幅を調整して差し上げる。
『うわ、すげえ。人間ってすげえ。足が軽くなった!』
履いてぴょんぴょんと飛び跳ね喜ぶモコシたちを眺めていたエルマン神官。
彼は「ならこんな仕事はどうだ」とアルマに丸い石をたくさん差し出してきた。どうやら社で使う飾り石の類らしく、丁寧に磨いて欲しいらしい。
こんなの誰にもできるのに。アルマはそう思ったが仕事をもらえるのは有難い。
毎日丸石を真剣に磨いている。
この国の豊かな実りを怪しんだ隣国とは、現在小康状態を保っている。
《女神の神獣》が降臨した事実に首脳陣が警戒をしたからだ。
女神の存在は周辺各国に良く知られている。この世界では神話はおおよそ似通っているので、それぞれの史書に記される女神の登場回数は多い。
人間が好きでよく地上に顕現しては気まぐれに恵みを与えてくれた彼女を、悪く思う国はいない。
「シマルグル以外の神獣が頻繁に姿を現すなど。ましてや力を振るうなど、今までなかったことなのだ」
社殿の暗闇の中。
奥に設置された沐浴場ですっきりと全身を磨かけたアルマ。
綺麗な召し物に着替えた彼女を眺めているのはエルマン。どうやら体調が悪いらしく、頬に氷嚢を当てているそうだ。
神とは違い《自然から生まれた存在》は人前に姿を見せない。
それゆえの国によって彼らの表現は変わり、《神獣》《精霊》《気》《存在》などと呼び方は様々となっている。地域によっても描かれる姿は違う。
自然そのもので本当に気まぐれな存在。人との意思疎通など不可能だと思われていた。過去に目撃されて記録に残っているただ一匹。
女神に慕い付き従った神獣だけだ。
「これは異常事態なのだ。他国に間諜にこいつらを浚われては困る」
エルマンは盗まれた宝についても教えてくれた。
アルマが逮捕される原因になった宝は、女神がこの世界から消えた時に残した遺物だという。
真っ黒い簪で、なぜか彼女と一緒に消えなかった遺物。
表立ってはアルマを盗人として投獄したが、肝心の発見されていない。仕方なく「一時的に紛失していたもので、今は発見された」という建前を通して、捜索を続けている。
「……不敬かもしれませんが。ここの警備は大分杜撰ではありませんか?」
「分かっている。軍務長官が代替わりしてから縁故採用が蔓延ってな。試験すらすらきちんと教育が追い付かん」
官にも色々あるのだ。
大神官といい、本当にあいつらは余計な仕事を作ってくれる。
エルマンは、溶けた氷嚢をチャプチャプ音をさせながら帰っていった。
ぐる、っと甘える大きな獣のふわふわした首。
優しく掻いてあげる彼女の胸に、温かい獣たちの温もりがたくさん飛び込んできた。
トストストスと、小さな獣たちがアルマの体に勢いよくぶつかってくる。
『人間! スヴェン様の毛よりも俺っちの毛がいいぞ!』
『ふざけんなよ! 俺様の毛並みがいいに決まっている! おらおら触れ! モフれ!』
『私の毛よりも繊細だなんて言わないでしょうね』
次から次へと現れる獣たち。
頭。肩。背中に腰。あまりに貼り付けれて体が重い。
片っ端なら撫でてあげていると、獣たちから様々な草木の香りがあふれ出る。ショウヨの上品な香りを押しのけて、森林や野原、花や水辺の香りが辺り一面に広がった。
べたっと腹毛を顔に押し付ける獣もいた。短い毛がみっちり生えたそれは、密着されると口も鼻もしっかり密封してくれる。
思わず息が止まりかけた。
「皆さんの毛皮はどれも気持ちが良いです! だからちょっと、これ以上乗らないでください~! うぷっ」
『お前ら、少しは遠慮しろ!』
『『えー』』
『やだ!』
「はいはいハリネズ。お前、アルマの唇にこれ以上貼り付いてたら開きにするよ?」
唐突にロランド皇子の声がして、呼吸が楽になった。
『こら離せ! つーか俺っちはババディガン様だ! 訂正しろ人間!』
「はいはいタイドデカネズだね」
『むっきゅー!』
ババディガンを外してくれたのはロランド皇子だった。
檻から出たことで、彼は地下牢前の自室から出て、アルマ側で暮らすようになった。鉄格子がなくなった途端に男性と暮らすだなんて! とアルマは恐れたが、彼は何もしてこなかった。
毎度血の臭いは漂わせているが、手だけは洗ってか来ていると自己申告される。
『だって、流石にアルマを他人の血で汚すわけにはいかないからね。どうせ浴るなら僕の血が良いでしょう?』
いまいち皇子の思考が理解できない。
しかも彼のからかいは、最近少し洒落にならなくなってきた。
『離せ離せ』と暴れるババディガンを放したらしい皇子は、アルマの側に近づいた。
太ももにぽすっと顔を埋めるババディガン。そのツンツンに立ったトゲ状の背中の毛を撫でていると、彼がすぐ横に座る気配を感じる。
最近は匂いや気配に敏くなったせいか、傍に来られるとロランドの機嫌が良いか悪いかが分かる。今日は、彼は機嫌が良いようだ。
「ねえアルマ」
「はい」
ごろりと横になる音がする。
彼が藪畳の上に転がったのだ。
「君の太ももで寝ても良い?」
「え、それはちょっと」
「トゲトゲネズは君の右の太ももの上にくっ付いているよ。だから左の太ももを貸してくれればいいんだよ」
「どういう理屈ですか!」
ロランドは勝手に頭を太ももに乗せてしまう。久しぶりに感じる人の感触。寝相の悪い弟が筵の寝床から乗り上げてくる時の感じと似ている。
その強引さに呆れていると、右を占有しているババディガンは『ここはやんねーぞ!』と小さな四肢でアルマの太ももを抱き込んだ。
皇子はまた唐突に「ねえ、アルマ」と訊ねてきた。
「僕の頭を撫でてくれないの?」
「ロランド様は人間ですよね!?」
「そうだよ? でもさ、人間と獣の違いって何? 僕はアルマの手が欲しいんだ」
「ひゃ!」
そう言って彼はアルマの手首を取って、自分の頭に手のひらを置かせた。慌てて押し返そうとする。だが逆にぐりぐりと頭を押し付けられる。
そこにスヴェントヴィトが、毛皮を震わせて言った。
『アルマやってやれ。人間も我らも「温かい手」が欲しい気持ちは全く同じだ』
「スヴェン様……」
彼に諭されて、皇子の頭の感触に集中する。
少し頭頂部を整髪剤か何かで固めてある髪。根元はサラサラだが、ツンツンと固まった短髪の毛先が、ババディガンのそれに似ていた。
————少し大きな甘える獣。
必死に撫でてもらおうとする彼らと重なり、途端に抵抗がなくなった。
『今、俺様に失礼なことを考えただろう!』と叫ぶババディガンの声が聞こえる中、そっと皇子の頭を撫でてあげた。
そっと、そっと優しく撫でる。
以前、繊細な羽毛の獣にしたように。
手のひらが行き交うたびに、アルマの手首を握る力が抜けていった。
「……ああ、いいな。なんだろう、これがホッとする、というのかな。温かい手だね」
「ロランド様。今日はあまり血の臭いがしませんね」
「そうだね。最近はずっと君の側で寝ているからかな。人を殺すのが面白くなくなってきたんだ。今までは血を浴びるとさざめく心が落ち着いたものだったのだけど。今まで静かだった獣たちも元気だし。エルマンもなんだから見ていて笑えるし。アルマが来てから本当に楽しいね、でも……」
そうなるとお父様が、怒るんだ。
彼の声は元気がなかった。
「僕が期待されていることをしないからだよね。人殺しくらいしか取柄がないのに。これで本当のごくつぶしだ。ははは」
いつもの能天気な色は潜め、少し戸惑う声だった。
アルマは彼の髪の毛を撫で続ける。
「……ロランド様。私は息子に暗殺を命じる皇王の気持ちなど分かりません。ですが、今は休まれた方が良いのだと思います。このまましっかりと寝て、また起きてから考えましょう。村のことわざでは『悩んだらまず食べて寝る。全てはそこからだ』と申します」
彼はこくりと、幼児のようにうなずいた。
じっとアルマの太ももから動かない。
————いつの間にか周囲は静かになっていた。
ババディガンは太ももに抱き着いたまま寝てしまっている。それ以外の獣たちも皇子の気持ちが感染したのか、アルマの体温に触れていようと、くっついたまま動かなくなっていた。
「……ねえアルマ」
「なんですか」
「やっぱさあ。僕と子供を作らない?」
「なんでそうなるんですか!」
「……君となら、本当の家族が手に入る気がする」
「とにかく寝てください!」
わしわしと髪を乱して、アルマは何か不穏なことを言い続けようとする皇子を無理やり寝かしつけた。
ようやく寝息を立てた皇子にほっとしていると、背もたれにしている毛皮がぽつりと言った。
『……アルマ。人がいいのか?』
「どういう意味です」
『その手で触れてやるなら、家族を作るなら皇子なのか?』
「スヴェン様」
アルマはなぜか無性に腹が立った。
自分が皇子を撫でてやれと言ったのではないか。
「私は貴方がここに居て欲しいと思ってくださるから、ここに居ます。……スヴェン様もお疲れなのですか
? そんな時は寝るに限ります。とにかく寝てください」
『……また、あれと同じことを言う』
「はい、頭を貸して」
アルマが両手を広げると大きな鼻先が胸に押し付けられた。
巨大な頭を抱え込んで頬から耳に掛けて、優しく櫛削ってやる。他よりも少し薄い毛を優しく撫で、何度も何度もさすってあげる。
「ぐるる……」
「気持ちが良いですか?」
『ああ』
「スヴェン様は外の話を聞く度に、顔の筋が固まっていらっしゃいます。今からしっかり揉みますから、今夜はしっかり寝てください」
『……ああ』
「もう。みんな弱気になるなら、その前に私に撫でられてしまえばいいんですよ。それくらいならできますからね!」
『……そうだな』
スヴェントヴィトはアルマの胸元に甘えたまま、規則正しい寝息に変えていった。
その様子が大きな獣なのにとても可愛いかったから、アルマは許してやることにした。
ふわり。
アルマの後ろにまた、羽毛が落ちた。