第三話 獣と私と震える羽毛
—————何かおかしい。
アルマは気がついた。
膨らんでは萎む、スヴェントヴィトの一番柔らかい毛(おそらく腹毛)にもたれながら、アルマは自分の腹を触る。
長らく牢の中にいるのに、全くお腹が空かない。
厠にも行きたくならない。
スヴェントヴィトも同様だ。
咀嚼音も、彼以外の草の匂いも、肉の匂いも、排せつ物の臭いだって。全く感じない。
そもそもこの牢には、見張りの兵士がいない。
アルマを放り込んだきりやってこない。
現れるのは、手ぶらで笑いながら血臭を漂わせる訪れるロランドだけ。ゆえに食べ物の差し入れなどはない。
アルマの仕事はやることはただ一つ。
「モフる」こと。
闇に訪れる獣たちを、ひたすら撫で揉んで、毛を櫛削り、掻いて差し上げるのだ。
毎日『撫でろ』『モフれ』『揉んで』『掻いて』『僕の頭もモフってよ』と現れる獣たちに追われていた。
(あ、間違えた。皇子は人間だった! とても変な人だけど)
彼は外に出れば空腹を感じるそうで、食事は宮でしているらしい。
「闇神の闇の中だからね」
度重なるアルマの訴えで、ようやく唾液まみれの惨状に気がついたロランドが、堅く絞った濡れ布と、自分の予備の服を鉄格子から投げ入れて教えてくれる。
闇神の闇は、特別なのだと。
中にいると生き物は年を取らない。食事も排泄も必要なくなる。
病にも掛からず、怪我もしにくくなるそうだ。
アルマは必死に「見ないでくださいよ!」と衣類を投げつけられた方向に怒鳴り、座り込むスヴェントヴィトをペタペタ触りながら、反対側に回って服を脱ぐ。
あくびをしながら『どうせ私の毛皮で包むのだから、裸でいいのに』とのたまう獣の毛を、ついでに一本引っこ抜く。
————闇神。
教えられる度に謎が増える不思議な存在だ。
「このままでは生活になりませんよ。ただ息をして、食べる楽しみもなく、寝ても起きてもずっと真っ暗闇だなんて……死んだと同じじゃないですか」
「まさか! この闇は命にあふれているよ? 光の下よりも、よほどあらゆるものが生きている」
「……そうですか……?」
アルマには理解ができなかった。
確かに闇夜ならば……夜行性の生き物が蠢いている。虫や獣の音が聞こえるし、作物も一生懸命茎や蔓を伸ばしている。
夜は決して恐ろしいものではない。
でもこの闇は————何かが違う。
体を拭い、想像したよりもずっと大きな、男性用の貫頭衣を被る。
ぶかぶかの胴を紐できつく縛って完成だ。
ようやく人心地がついたアルマは、壁になってくれているはずの巨大な毛皮の向こうの人物に、愚痴を吐く。
「皇子様。最近私、目を空けているのか閉じているのかも分からないんですよ」
「アルマの目は空いているよ。そして僕を見ている」
「見てませんよ」
「その目じゃなくて……ま、いいけどね。もし気になるのなら鉄格子に来ればいい。僕が瞼を触ってあげるよ」
「……変なことをしません?」
「変なことって?」
少女の警戒を、愉快そうに青年は笑う。
「キスくらいなら、してあげる」
「絶対そちらには行きません!」
叫び声にロランドは笑い続け、
「アルマが来てからすごく愉しいね。でもそろそろお父様に呼ばれるだろうから、行ってくるよ」
と、地上への道らしき石畳を、カツカツ音を立てて去って行った。
毎日毎日飽きもせずに、もふもふした獣たちが訪れる。
『人間てめえ! ちょっとお前の村のマツワ瓜の実りを多くしてきてやったぞ! くらあ! だからお礼をしろ! ほれ、ほれ』
「ちょっと、トゲを立てないでください!」
『次は私だ』
「スヴェン様はさっきやったじゃないですか! ボケないでください!」
本日も、スヴェントヴィトや彼の眷属たちは元気だ。
約束通りアルマの母親の病を治してからも、あれこれと理由を付けてはやってくる。
どうしても、少女に撫でられた手を忘れることが出来ないというのだ。
そして彼らから外の世界のことを教えられる。
特にアルマが知りたい、故郷の村のことを。
————アルマの母親が村の家に戻ったのち、ロランド皇子は恐ろしい通達を村に出していた————
『アルマは大社でロランド皇子に気に入られて、召し上げられた』
純朴な村の民は思わぬ幸運に大喜びだった。
なんて幸せな娘なのだろう。最高の玉の輿をした、女の誉だと。
それどころか————皇子は『支度金』と銘打った大金を、家族と村長に与えた。
それはもうお祭り騒ぎで、アルマを村の再興の英雄として褒めたたえたという。
……その英雄を獣と変態皇子に売ったお金なのだと、気付かずに。
(私を称えるところじゃないよ! みんな皇子に騙されてるよ!)
しかも、そこにスヴェントヴィトの眷属たちが『人間にお願いされる前に、先に加護を与えておいた。さあ、義理を果たせ』と言い出して、あれこれ村に加護を与え始めたものだから————村はとんでもないことになった。
川や森には恵みが溢れ。
天候もすっかり安定し。
不妊の夫婦は子宝に恵まれる。
作物も豊かに実り始め。
病気の人はすぐ治る。
困窮していたアルマの村は、いつの間にか地域で一番豊かな村となったのだ。
————流石はアルマ。【神の子】として有名なロランド皇子様に見初められただけある。彼の加護が我々の身に降りている————
真相は、もふもふした獣たちが、アルマの「モフ手」が欲しくて暴走しているだけだというのに。
……獣たちの自慢を交えた報告を聞く度に、アルマは脱力をする他ない。
現在。アルマの手のひらにぐりぐりと頭を押しつけてくるのは、頭の上から背中にかけて少しトゲトゲした毛並の獣。
ババディガンと名乗った獣は、アルマに怒られて勢いよく立てたトゲを戻して、首下やわきの下の柔らかい毛を揉み込まれて「むきゅー」と恍惚な声を上げていた。
草花の香りが強くなる。
『や、やるな、人間。これくらいで俺様が参ると思うなよ』
「足の付け根のこの辺はどうです?」
ぐりぐり。
『……参りました』
アルマの手技に「むっきゅー」と断末魔を上げて、動かなくなるババディガン。
やがて獣は、彼女のひとさし指を小さな足できゅっと掴んできた。
指はごく柔らかい毛に包まれる。腹に抱え込んだのだろうか。
毛の生えそろった鼻先が、何度も手の甲に擦り付けられた。
『ああ、女神の手だ……もう二度と味わえないかと思った』
————女神。
他の獣たちもよく口にする単語。
アルマは手にスリスリし続ける小さな獣に訊ねた。
「女神とは、どなたですか?」
『人間。何ほざいてんだ。女神っていったら、この世に一人しかいないだろうがよう! あいつが死んでしまってから本当によう』
『……ババディガン。あいつは死んでなどいない』
ぐるるるるる……。
唐突に聞こえる唸り声。
途端に手の甲に柔らかいトゲが当たった。
『あ、やべ』
スヴェントヴィトの様子にババディガンは静かになる。
そして、そろそろと少女の指を離すと、
『じゃあまたな人間! こんどはお前んちの畑の隅に、幻のサルチャ豆を実らせてやる! このお礼はモフり三倍だぞこんちくしょう!』
と宣言し、ポテポテと音を立ててどこかへ走り去っていった。
————沈黙が闇を支配する。
「あの……」
『……』
突然不機嫌になったスヴェントヴィト。
押し黙った彼を、アルマはどうしたら良いのか分からない。
しばらくはおろおろと座り込むしかない。
—————ふさり。
やがて、小さくなっていたアルマの頭に、大きくてふさふさの感触が乗った。
これはスヴェントヴィトのしっぽだ。
アルマの緊張と察してくれたようだ。しっぽは頭に乗ったまま動かない。
(これは、しっぽを撫でろということかな)
アルマは大きなしっぽを下ろして、何度も櫛削る。
————彼の毛皮の震えが収まるまで、ずっと。
◇◇◇◇
ふわり。
羽毛の感触を、足首に感じる。
ソレは、とてもふんわりとアルマの肌に触れていく。
機嫌を直したスヴェントヴィトが、『夜だ』と教えてくれたので、大きな毛皮に包まれ横になると—————来客が訪れた。
珍しく大きな獣はすぴすぴと寝込んだまま起きてこない。
一方で、何度もアルマの肌に触れては離れるソレ。
手のひらを前に突き出して訊ねてみる。
「あなたも撫でて欲しいのですか?」
ふわり、ふわり。
羽のようなソレは、《応》と答えるように、何度もアルマの手のひらに触れては離れる。
全く重さを感じない。
もう片方の手で、そっと輪郭を探った。
(とても繊細な毛。まるで産毛だけで出来た、真ん丸い—————あ)
ぺちゃり。
————それは潰れてしまった。
「ええ!?」
まさか獣を殺してしまうとは!
ショックを受けていると、手の中の羽毛は消え、再びふわりとした落ちる。
ふわり。ふわり。
今度は二つ降りてきた。
軽すぎる獣は、触ろうとすると、潰れて————ふわり、ふわり。ふわり。
次は三つほど。
「増えている……?」
ふわり。ふわり。ふわり。ふわり。
増える羽毛の手触りにアルマは訊ねる。
「あの……そろそろ撫でても宜しいでしょうか。貴方様にも気持ち良くなって欲しいのです。力加減もどうぞお教えください」
ふわ。
降り止まった羽毛は、じっと動かなくなる。
(なんて繊細な獣なのだろう)
アルマはとても壊れやすい存在を、そっとそっと、大切に撫でた。
次の日。
アルマの長らく使われなかった目を光が襲った。
「きゃあ!」
それは闇神の闇に消されるほんの一瞬。
だが、ずっと暗闇に慣らされていた少女の虹彩には、とてつもない衝撃を与える。
「うう、目の奥が痛い……」
『貴様何をする!』
蹲って瞼を押さえていると、スヴェントヴィトの怒鳴り声が響く。
鉄格子の向こうから、誰かがランタンを運び込んだのだ。
ロランドとは違う、コツコツと音を立てる靴の音。
そして、どこか聞いたことのある冷たい男の声が、アルマの耳に届く。
「……アルマ・モリメント。貴様は一体何をした」
焦りを滲ませる声。
その後ろからもう一つ、カツカツと音を立てて能天気な声が聞こえてくる。
「やあ、アルマごめんね! うるさいのを連れて来ちゃった。始末したい時は一言教えてねー」
こちらはいつもの靴音。
そしてロランドの声だ。
一方でコツコツと靴音を立てる男は、鉄格子の傍まで来ると、ガチャリと音を立てて檻を揺らした。
「貴様をここに放り込んでからというもの、国に異常事態が起きている。どういうことか説明をしろ」
彼はエルマンと名乗った。
アルマをこの闇牢に放り込んだ神官だという。
思わずアルマは立ち上がって訴える。
「私は無罪です!」
「知っている。だが、私が有罪と決めたのだ。アルマ・モリメント。貴様は永遠に闇牢の中に入ってもらう」
……どうも彼は、とても頑固な男のようだ。




