第十一話 獣と私と薄暮の世界
年老いた母親は動かなかった。
初めて正直に気持ちを告げてきた幼なじみを、じっと見つめている。
「アラキ。あんなに傷つくのが怖くて、逃げてばかりだったあんたがね」
『……ごめん。今更好きだと言って』
「ううん。あたしが――――私が言うことじゃない」
結局アキは死に逃げたのだ。
家族に憧れて。でも自分の子供に固執して。獣に囲まれて満足しようとしていた自分のむなしさに。
臆病で卑屈な幼なじみの方が、よほど真っすぐに生きていた。
ふう、と深くため息を付いた。
「あんたに友達ができて良かったよ。癖が強いやつだけどね」
「僕のことを言っているかな?」
「そうだよ、嘘つき皇子。でもありがとうね」
そして暗闇の中で蠢く者たちを見回し――――手を叩く。
「じゃあメシにするか」
『え、あの、アキ? ボクの告白は―――――』
「それは後だ。獣たち、そこの坊ちゃんたち。アラキのせいで村が落ち着かなくてね。色々手伝ってもらうよ。まずはここから出ておいき! 家の近くに薪場があるから集めておきな!」
そうして彼女は、アルマとスヴェントヴィト以外全員を、闇の外に追い出したのだ。
静かになった闇の中。
アルマは途方に暮れている。
「お母さん。でも私この中から出られないよ。アンジーさんが」
「アンジー。あんたも手伝いな。可愛いお嫁さんにまだなりたいと思っているのなら今更だよ」
……コクリ。
誰かが頷いたような気がする。
ふと、自分の手を誰かが握った。
少し冷たい子供の手。
「……アンジーさん?」
『……うん……』
初めて聞く、消え入りそうな可愛らしい声。
その一方で、母親はスヴェントヴィトに怒っていた。
「アルマは私の娘だけど、ほぼ人間だ。アンジーの加護を受けて生まれたわけじゃない。闇の中にいつまでもいたら普通は気が狂う。今までだってよくも狂わなかったものだよ。分からなかったのかい、ボケ獣」
『そ、それは……ぶっ』
ばきり。
何かを殴った音がする。
まさか……と思いつつ、アルマは黙ったままのスヴェントヴィトのしっぽを、もう片方の手で掴んだ。
完全に縮こまっている。
少しだけキュンとした。
「この色ボケ! 本当にダメなオスだね、あんた。今まで力の加減が分からないアンジーが、何人もの人間を狂わせてきたことか」
『……ごめんなさいアキ』
「アンジー。今はアルティナだよ……あんたには大分寂しい思いをさせたようだね。悪かったよ」
『ううん。……久しぶりのアキの手……大好き』
「ふふ。ありがとね」
くふん、と声がする。
母親がアンジーを撫でてあげたようだ。
「でもアルマの指示が良かったのかねえ。王都を暗闇で閉ざして、全員眠らせたって? 後でちゃんと解放できるかい?」
『……うん……』
つないだ小さな手に力が入る。
「ついでに、アラキがやらかした命がまだこの辺り一帯を揺蕩っている。自然には従うが、これならまだ『奇跡』の範囲で許されるだろう。アンジー、全てを包み込んでおしまい」
『うん!』
『ちょっと、まてっ! お前の自然の定義は』
「あたしに婿と認められたければ、黙っていな!」
『……はい』
アルマの手中のしっぽがまた縮んだ。
可哀想にと優しく握ってあげていると、ふと、周囲の空気が変わってくる。
ふわり。
露出した肌に羽毛を感じる。
―————ふわふわに戻ったしっぽの主が、ぼそりと呟いた。
『アルマ。お前をずっと閉じ込めていて悪かった』
「いいえ、スヴェン様。私は目が見えませんでしたが、その代わりあなたの心と触れ合いました。あなたを愛しく思ってしまいました。あのまま暗闇の中に消えたとしても、後悔はなかったでしょう」
『……ありがとう』
アンジーの小さな手が消える。
ぶわっ。
羽毛が足元から吹き出した。
全身を覆うような羽毛。剛風のような勢いに、身体が持っていかれそうだ。
アルマはぎゅっと目を瞑っていた。
『……アルマ。目を開けてみろ―――――世界だ』
言われてそっと目を開く。
目に入ってくる大量の色彩。
見える―――――!
ぴぃ!
最初に見えた光景。
それは薄青い天に向かって、輝く黒い小鳥が、舞い上がる姿だった。
「外だ……!」
山が見える。畑が見える。
そして見知った家々。
闇の中で出会った人が、獣が、彼らの本当の姿が見える……!
そして、男神と皇子が殺したと言った人々が、そこかしこに倒れていた。
『安心しろ。あれは寝ているだけだ。アンジーが反魂を行ったのだ……昔のあいつの力でもある』
エルマンの指示で、獣たちが『メシの邪魔だ』とあちこちの草むらに移動している。
今、アンジーの闇の中にいるものたちは、全て眠りについているらしい。
アルマは目から大量に入ってくる光景に頭痛を感じつつ、更なる違和感に気が付いた。
記憶に残る光景とは、少し様相が違ったのだ。
「目がおかしくなったのかな。周りが薄く見える……まるで夕闇に染まる前みたい」
『いいや、おかしくはない。闇が世界を覆ったのだ。あまりに巨大に広がったから少し薄く見えるだけに過ぎない。だいぶ闇に心が順応したから見えるようになったのだ』
くしくしと目を擦るアルマに、隣のスヴェントヴィトは答える。
「それって……他の方からすれば、世界が真っ暗ということですか?」
「闇が、男神や獣たちが崩した自然のバランスを治しているのさ。闇の中で再び芽吹くためにね。村の連中も、王都の連中も、隣国も。みんな闇の中で眠りについた」
『アンジーにこんなことが出来るとは――――』
「私もここまで見事にできるとは思っていなかった。アルマ。あんたの愛情もアンジーをやる気にさせたんだろうね。さ、メシを作るよ。ボケオス。獣姿に安住してないで、両手を使えるようにして手伝いな。あたしに認められたいならば」
『……分かった』
「へ?」
母親の言葉に隣の番を見る。
彼は不本意な顔をして、隣で愕然と見上げている番を見下ろしてきた。
人の姿になっていた。
豪奢な金髪を背中まで流した、筋骨たくましい美丈夫。
頬骨が高く鼻筋がすっきりとし、野性味を帯びた灰色の切れ長の瞳。
不愛想だが、きっちりとした神官服に似た服をすっきりと着こみ、どんな角度でも一枚の絵になるようだった。
「へ? え?」
アルマはますます目を見開く。
『どうしたアルマ。あいつに舐められぬよう、私は行くぞ』
「……どなたですか?」
『はあ!? 何を言っているのだ!』
「私の旦那様は、とてももふもふしていて、しっぽはふわふわが見事で可愛くて、素直な動きを堪能させてくださいます。もっと……もふっと。そう! もふっとした方なんです!」
『闇の中で一度触らせたではないか! よく確かめろ!』
スヴェントヴィトはまさか番が、自分の人型を否定するとは思わず、慌てて彼女の手を掴んで顔を触れさせた。
必死になってアルマが男の顔を触る。
なぞると確かに闇の中で触った形。
匂いも獣臭が無くなって、枯草の良い匂いだけがする。
「まさか、スヴェン様!?」
『だからさっきから言っておろうが!』
「声も同じ!」
『お前は!』
「シマルグル。諦めなよ。結局さ、彼女は君の毛としっぽに惚れたわけなのだから」
揉める二人の元に駆け寄ってきたロランド。
ざまあという顔をして、華やいだ美貌で笑う。
「まさか世のモテない男のように、『彼女は僕の全てをすぐに愛してくれる! 受け入れてくれる!』なんて思っていないよね」
『ぐぬぬぬ……』
「全てが簡単に上手くいくと思わないでよ。そうしないと僕が面白くない」
「早くおいで男ども! 薪割りから全部やらせるよ!」
「はいはい、アキ様」
「皇子にその名前を許した覚えはないよ! アルティナとお呼び!」
あははははは!
心から愉快そうなロランドの笑い声と、悔しそうなスヴェントヴィトの声。
やがて、闇に気が付いた世界中の神獣たちが集まってくる。
「あ、あれはきっと肉球さんだ」
遠くからのしのしと、雲を割って歩いて来るふわふわ丸い四本足。
空から「あたしも手伝う」と、小さなアンジーの分身が降りてくるまで賑やかに続いたのだ。
◇◇◇◇
アルマは大きな鍋を洗う。
倒れていた家禽たちを絞めて、あく抜きしてある野菜を切り刻む。
乳凝を割り入れ、卵と一緒によく混ぜる。
豆は今年の豊作でたくさんある。だから、塩漬けの肉と半々で。
『肉など生で良いではないか……』
ブツブツ文句を言いながら、美丈夫が隣で詰め物をした家禽を焼いている。
横で火の調節をする母親。
木の破片を放り込みながら「昔から文句だけは多かったね」と、あれこれと婿に指示を出していた。
漬物の樽を興味津々でのぞき込む美貌の皇子。
秀麗で生真面目で屁理屈やの神官は、家の隅っこで、緊張しながら突っ立っていた。
『家事……教えるの……』
気が付いたアンジーが棒のようなエルマンの裾を掴む。
大きくな黒目がちの瞳。サラサラの黒髪を肩まで伸ばしてじっと見上げてくる幼女に、戸惑いを隠せない。
「あ、ああ……頼む」
『エルマン、ダメすぎて放っておけないの……』
「ぶっ」
幼女に「ダメ」発言をされたエルマンは、顔を真っ赤にしながら連行されていった。
爆笑する親友に怒鳴りながら。
―———他の獣は何をするって?
彼らなりに手伝って―――――邪魔になっていた。
家中にアルマの叫び声が響く。
「ああ! 肉球さん天井を破らないでください! ご飯はたくさんありますから!」
「モコシさん、そこは掘らないでください! 柱の元です!」
「パトリムパスさん? 味見と言いながら鍋に落ちたら一瞬で食材ですよ?」
「ババディガンさん調味料壺に落ちたらトゲを抜きますよ! 怒ります!」
「ヴォーロスさん……確かにあなたは気持ち良い毛皮をお持ちですけど。料理中はモフ禁止です! 皆さん自覚してください! その辺をうろうろされたら料理に毛が落ちます! モフ禁止!」
『『え~』』
すっかり「様」付けが取れた彼ら。
アルマは怒って、つやつや・ふわふわ・もっふぁもっふぁな彼らを片っ端から掴み、食事台の椅子の上に移動させていった。
男神はオロオロしていた。
両手をさまよわせてうろついていたところをアルティナに叱られ、慌てて食事台に布をかける。
貴人二人よりもよほど役に立つ骨格標本だ。
『アキ……』
「……まあ、いいよ。あんたは「アキ」で。手伝ってくれてありがとうね」
『うん』
その声色はとても嬉しそうだ。
ようやく広げられたテーブルには、たくさんの田舎の御馳走が並んでいた。
豆と肉の煮込みを中心に、焼いた山盛りの家禽の肉。
日持ちする包餅を薄切りにして並べ、薄切りの乳凝を添える。
潰した芋や、乳凝や野菜で具だくさんの玉子焼きも、どっしりと皿の上で主張していた。
こんがりと焼けた粉皿料理も香しい。
最後に。
なぜか雲が掛かって顔の見えない巨大肉球の主を、家の横でお座りさせて終了だ。
母親――――アキ――――アルティナは、上座に座って口を開いた。
「さあ食べようか。闇の中では確かに腹は減らない。生き物は死ぬことはないし、苦しみもない。神であった時もそうだ。だけど私は今この世界で人として暮らして分かったよ。闇は厭うものではないが、生を全うしようとする営みも、大切なものだとね————ご飯はその象徴だ。アンジーが私たちを解放した分、しっかり腹をすかせただろう? 獣もこれが美味しそうに見えるだろう? 皆、両手を合わせな」
いただきます。
命を燃やす力を。自然の営みを。
そして、料理の元になった命たちを。
猛烈な勢いで食べる獣たち。
『うめー』『やべー』『女神の本気を味わったわ』と大絶賛だ。
庶民のごちそうに触れる機会のなかったロランドとエルマンは、物珍しそうに食べている。
骨の男神は『懐かしい』と泣きながら食事をしていた。
咀嚼した料理がどこへ行ったのかは謎だ。
「うう、美味ひいよう……」
アルマは久しぶりの実家のご飯の味に感動していた。
甘い豆。コクのある脂。肉にからじゅわりと染み出た汁が、舌に絡んでたまらない。
シャクシャクした果物の食感が、また嬉しかった。
彼女の横には美丈夫。アルティナにそのまま食費が増えるから人姿で食えと命令された、モフ毛なしのスヴェントヴィトも、『食事など久しぶりだ』と味わっている。
「スヴェン様。いかがですか? ご飯の味は」
『ああ美味いな。天の神獣として存在した時は、人間など自然のかけらに過ぎなかった。だけど彼らの手は、こうして優しく私を撫で、優しい食べ物を作り、喜ばせてくれる』
昔、アキに会ってから私は変わった。
撫でられる心地の良さを知ってしまった。
―———道理で寂かったわけだ。
闇に囚われてしまうほど。
人の手のぬくもりを、知ってしまっていたのだから。
じっと皿を見つめる美丈夫の手を、アルマは上から握った。
見下してくる灰色の瞳。
「私がこれからずっと、傍におります。いっぱいいっぱい、撫でて差し上げます」
『ああ。アルマ。ありがとう……』
彼の輪郭がぼやける。
そこにはマルガルによく似た、金色を帯びた巨大な獣がいた。
雰囲気は祖母の飼いヌイ「ハク」を彷彿とさせる。
ピンとした耳。ふわりとした長いしっぽ。つぶらな―――とはいかない野性味を帯びた瞳。口は長く、黒い鼻をしていた。
背中の鬣は立派で、長い毛足を後ろに流していた。
アルマを何度も包んでくれた腹毛は真っ白だ。
そしてしっぽ。
緊張したしっぽが可愛らしく左右に揺れる。
「しっぽ―――――!」
―————これは、スヴェントヴィトだ!!
自分が守りたい大切な存在だ!
思わずアルマは飛びついた。
「スヴェン様!」
『アルマ! それはしっぽだ! せめて私の首に抱きつけ!』
「あんたはまず、しっぽ以外の甲斐性を見つけることが先のようだね。ダメオス」
食事が終わり、「さてと」とアルティナが立ち上がった。
「片付けは全員でやるよ。獣たちにも皿を渡すから、村の洗い場まできちんと運ぶんだよ。『感謝は態度で示せ』。分かったね」
『……懐かしいわね。昔はよく言われたわ。村にアキの迷言が残っていたのは、村人にアキの記憶がたくさん引き継がれたからかしら』
小さな木皿を頭に載せて運ぶパトリムパス。ツルツルのしっぽで端を支えて器用に歩く。
『モッキュ! 俺様の方がいっぱい持てる!』
『俺様の方がでっかいの持てる!』
「落とした方が負けだからね。ババディガンとヴォーロス。あと、あんたらは毛皮にこぼしまくったから丸洗いを覚悟しときな」
『……俺様の方が丁寧に運べる』
『……俺様の方が……いや、すまん』
『……こちらこそすまん』
両手いっぱいに持った木皿を、とげとげとした獣ともふぁもふぁした獣が器用に二本足で運んでいった。
こころなしか毛がしぼませて。
そして、緊張をしながら声を掛ける男神。
『—————アキ。ご飯は食べたけど、その』
『アラキはテーブルを拭いとくれ。そこのイケメン二人に教えてあげな』
「アキさんの指示だから頑張ろうかエルマン」
「だからあんたに「アキ」を許した覚えはないよ!」
雑巾を投げつけられて、慌てて拾う男神。
あまりに適当に扱われる様子を、気の毒そうに見るエルマン。
だけど、ロランドは愉快そうに笑っていた。
「良かったね、アラキ。もう骨格標本とやらで飾ってもらえるよ」
『そうなのか……?』
腰を突き出したまま必死には食事台を拭く男神に、人間の友人は保証をしてやった。
最後に―――――スヴェントヴィトはアルマの背中に乗せて、村の丘に移動した。
ふわふわの毛皮を嬉しそうに撫でている番に、複雑な顔をしながら。
『アルマ――———』
「あ、スヴェン様! 見てください! ここは一番村が綺麗に見えるんです!」
アルマが指し示した光景は、緩い山裾を削った段々畑が広がり、細い道筋が幾多も作られた光景だった。
薄暮の中に浮かぶ小さな家々。広い薄暮れの空を調和して、神秘的な風景を作っていた。
そこには人の営みが存在している。
「私はここで育ったんです。お母さんがいて、死んだお父さんがいて。兄弟がいて。村のみんなも家族で。みんなみんな、今の私を作ってくれたんです」
『そうか……アルマ。私はお前をずっとここから離していたのだな』
「いいえ。こうして戻って来ましたし。それにスヴェン様もいます」
アルマは地面に下してもらう。
彼の口元を優しく持ち、鋭い瞳をじっと見つめる。
「スヴェン様はこの後どうなさるおつもりですか?」
『……一度天に帰ろうと思う。住処が心配だ。だか、アンジーもようやく自立し始めたし、人間も疎んじるほどのものでもなくなった。アルマ』
スヴェントヴィトの大きな舌が、アルマの顔を優しく舐める。
『私はすぐに戻る。この村に。お前の元に。だからどうか―――――私の愛しい番よ、人の営みを大切にしてくれ。私はお前と闇の中ではなく、この広い世界で生きていきたい』
「はい―――――――!」
アルマは満面の笑みを浮かべ、彼の口元に頬を擦り付ける。
そのまま一人と一頭は動かなった。
薄暮れの世界に、明るい小鳥のさえずりが響いていた。