第1話:こぎさんはおしりがかわいい -1-
古木千尋は、おしりがかわいい。
無論、本人がそう主張しているわけではない。
むしろ千尋自身は、三十歳にもなった男の尻にかわいいも何もあるものかと思っているし、そもそも自分の尻について、これまでの人生でそれほど、真剣に考えたことがない。
ただ、恋人の瀬川高虎に言わせれば、「かわいいものはかわいいのだから仕方がない」らしい。
細身の身体に、なぜかそこだけは妙に丸みのある尻。
きちんとしたスラックスを穿けば、布地の下に小ぶりな曲線が収まり、部屋着の柔らかなスウェットを穿けば、今度はその輪郭がいくらか無防備になる。
高虎はそれをたいそう気に入っていた。いや、気に入っているだけなら、まだいい。
「おい!!」
休日の午前十時過ぎ。
キッチンで洗い終えたマグカップを水切りかごへ伏せていた千尋は、背後を通り過ぎようとした恋人の手が、自分の尻をぽん、と軽く叩いた瞬間、勢いよく振り返った。
高虎は冷蔵庫へ向かう途中だったらしく、表情ひとつ変えないままで、扉を開けている。
「ん?」
「今俺の尻触っただろ!」
「触ったね」
「なんで!?」
「かわいいから」
あまりにも平然とした返答に、千尋は口を開けたまま、言葉を失った。
高虎は冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出し、グラスへ注いでいる。たった今恋人の尻を叩いたことなどすっかり忘れた顔で、実にのんびりとしたものだ。
「タダで触ってんじゃねえ! 触るんなら褒めてけ!!」
「かわいい、って言ったじゃん」
「触るときに言えってことだよ!」
「ああ、そういうこと」
「そういうこと!」
高虎は麦茶を一口飲み、千尋を上から下までじっと眺めた。
それから空いているほうの手を伸ばし、もう一度、ぽん、と尻に触れる。
「かわいいね」
「そうだ!!」
千尋は満足げに頷き、そして数秒後、眉を吊り上げた。
「ん? いや待て違う、なんで二回触った!?」
「こぎさんが、褒めればいいって言ったから」
「回数を増やしていいとは言ってねえ!」
「え、そうなの? 知らんかったわ」
高虎は笑った。笑ったといっても、口元がほんの少し緩んだ程度である。
もともと表情の変化が大きい男ではないので、知らない人間が見れば、今のやり取りも、さぞかし真面目に受け止めているように見えただろう。
しかし、千尋は知っている。この男は、こういうときほどふざけている。
「お前さあ、俺のことなんだと思ってんの?」
「こぎさん」
「名前を聞いてんじゃねえよ」
「じゃ、かわいい恋人?」
「おう、そだな」
千尋は口を閉じた。悪くない。いや、かなりいいではないか。
かわいい恋人。実に適切な表現である。
千尋としてはもう少し頼りがいのある、年上らしい形容詞も添えてほしいところだが、ひとまず恋人として、高く評価されていることは伝わった。高虎はその顔を見て、グラスを持ったまま小さく笑う。
「こぎさん、嬉しい?」
「べっつに」
「そっか」
「……うそ。うれしい」
「うん。知っとる」
「お前! 俺をおちょくるな!」
結局、千尋はまた声を荒げたが、その口元は緩んだままだった。
◆
高虎には、妙な習性がある。
恋人の尻が視界に入ると、見る。近くを通れば、触る。
四六時中そんなことをしているわけではないし、外出先で人目も憚らず触ってくるような、常識知らずでもない。
だが、自宅という遠慮のいらない空間では、どうにもその手が自由になるらしかった。
例えば、洗濯物を畳んでいるとき。千尋が床に座り、乾いたタオルを一枚ずつ重ねていると、高虎は隣へ腰を下ろすついでに、その尻をぽんと叩いていく。
「かわいいね」
「まあな。……じゃなくて、お前も畳め」
「はい」
例えば、ソファにうつ伏せになっているとき。
休日出勤を終えて帰ってきた千尋が、疲れた身体をクッションへ投げ出していると、高虎はその隣に座り、丸くなった尻のあたりを軽く撫でる。
「お疲れ、こぎさん」
「んー……」
「今日も頑張ったね」
「ん……、もっと褒めろ」
「えらい。かわいい」
「……そう」
このときばかりは、千尋も文句を言わない。
疲れているときに大きな手で背中や腰を撫でられるのは気持ちがいいし、何より高虎の声は、耳元で聞いていると妙に落ち着く。
無愛想だの何だのと言われることの多い男だが、千尋に向ける言葉はいつだって優しい。
ただし。
「……お前、今どこ撫でてる?」
「ケツ」
「そこばっか触んな! 背中も撫でろ」
「はいはい」
それから。
千尋がキッチンの下段の引き出しから保存容器を取り出そうと、少し屈んでいるとき。
ふと背後に視線を感じて振り返れば、高虎がダイニングの椅子に座り、頬杖をついてこちらを眺めている。
「何? 何見てんの?」
「こぎさん」
「どこを」
「ケツ」
「……正直者だなぁお前は。いいこだな~高虎は~」
「ぜんぜん褒めとらんやん」
高虎は笑い、千尋は呆れる。それが、二人の日常だった。
もっとも、千尋にも言い分はある。
確かに自分の尻は、恋人にたいそう気に入られているらしい。それ自体は別に悪い気がしないし、褒められるのは好きだ。好きな相手からかわいいと言われれば、当然嬉しい。
だが、何事にも限度というものがあるではないか。
千尋についているのは尻だけではない、顔だってある。仕事だって頑張っている。
料理もそこそこできるし、気遣いだってできるし、何より六つも年上なのだ。
それなのに、どうしてこの男は、こうも頻繁に尻ばかり見ているのか。
そんな疑問が、ある日の夕方、とうとう千尋の胸に浮かんだ。




