宇宙的アルティザンへ送る唄
ゴンドラの中には、変わらず首吊り死体があった。
けれど、それはもう死体でさえなかった。
死体とは、まだ人間であったことの余韻を残しているものの名だ。
だが目の前にあるものは、その余韻すら腐敗の奥へ沈め、かつて誰かであったという事実を、ゆっくり、執拗に、世界から消されつつある肉の残骸だった。
縄はまだ天井から垂れていた。
その律儀さだけが、妙に滑稽だった。
まるで世界が、これは首吊り死体である、という最低限の形式だけを残して、あとは好きなだけ人間を解体しているようだった。
首は吊られていた。
いや、吊られていたのは首だったものだ。
腐敗した皮膚だけが、かろうじて輪郭のふりをしていた。黒ずんだ肉は裂け、湿った布のように垂れ下がり、乾いた部分は焼けた革のように縮み、湿った部分は泥に似た沈黙となって崩れていた。
頭部はすでに胴体から離れ、床の隅に転がっていた。
顔だったものは、顔であることを諦めていた。
鼻は落ち、唇はめくれ、頬は崩れ、眼窩は暗い穴になっていた。
ただ歯だけが、不自然なほど白く残っていた。
その白さだけが、ひどく人間らしかった。
死体の中で最後まで、人間の真似をやめられずにいる小さな骨の演技。
笑っているのでも、噛みしめているのでも、叫んでいるのでもない。
ただ白い。
その白さが、かえって哀れだった。
床には腐った液体が広がっていた。
黒とも赤とも黄色ともつかない濁った汁が、ゴンドラの揺れに合わせて、怠惰な海のようにわずかに波打っている。
そこに髪の毛が貼りつき、剥がれた皮膚の薄片が浮かび、どこから脱落したのか分からない肉片が、誰かの食べ残しのように隅へ寄せられていた。
閉じた箱の中で腐敗は逃げ場を失っていた。
だからこそ、濃くなっていた。
腐敗は空気になり、湿気になり、臭いになり、俺の喉の奥へ、肺の奥へ、言葉の奥へまで入り込んできた。
息を吸うたび、死体を吸っているようだった。
いや、死体という出来事そのものを吸い込んでいるようだった。
その肉は、もう誰にも触れられるために存在していなかった。
誰かに見つけられるためでも、誰かに悼まれるためでも、誰かの記憶の中で形を保つためでもなかった。
ただ腐るためにあった。
ただ崩れるためにあった。
ただ世界のほうへ戻されるためにあった。
ただ狭い箱がある。
空中に吊られた、どこにも属さない箱がある。
その中で死体は、誰にも命じられず、誰にも許可されず、誰にも弔われず、勝手に自然へ戻っていた。
そのことが、あまりにも滑稽だった。
世界の循環を否定した人間。
循環の外側に、自分だけの幸福があると信じた人間。
腐ること、混ざること、戻ること、失われることを嫌い、その拒絶の中にだけ、かろうじて生き甲斐を見出していた人間。
その人間が、今、循環の餌になっている。
しかも、立派な死としてではない。
悲劇としてでもく殉教としてでもなく美しい破滅としてでもない。
誰かに意味を与えられることすらなく、人目のつかない箱の中で、普通の仮葬すらされず、ただ腐っている。
白い布に包まれることもなく。
名前を呼ばれることもなく。
あの人はこういう人だった、と過去の言葉で飾られることもなく。
なぜ死んだのか、何を背負っていたのか、何に敗れたのか、何を信じていたのか。
そうした理由のすべてを、誰にも尋ねられないまま。
ただ肉になっている。
それが、あまりにも正しかった。
生きている間、世界の外側に立っているような顔をしていたものが、死んだ途端、世界に噛み砕かれている。
思想も、記憶も、羞恥も、尊厳も、孤独も、名前も、最後の言い訳も、すべて腐敗の口の中へ押し込まれている。
拒絶は発酵し、信念は膿み、幸福は臭いになり、孤独は液体となって床に広がっている。
なんて哀れで、なんて当然で、なんて美しいのだろう。
この死体は、ようやく正しい場所へ落とされたのかもしれない。
いや、落とされたのではない。
落ちていたのだ。
最初から。
人間であるという薄い膜に包まれていただけで、その内側では、いつも世界へ戻る準備が進んでいたのだ。
人間であることにしがみついていたものが、今や肉汁になって床を汚している。
言葉を持っていた口は裂けた。
何かを見ていた目は濁った。
誰かに触れられることを望んだ皮膚は剥がれ落ちた。
自分だけは世界の材料ではないと信じた身体は、世界の材料でしかなかったことを、腐敗によって証明されている。
人間らしさなど、腐敗の前では薄い包装紙でしかなかった。
少し湿れば破れる。
少し時間が経てば臭いを漏らす。
少し崩れれば、その下に隠していた物質の貧しさを露わにする。
観覧車に吊るされた死体など、ただの悪趣味な演出だと思っていた。
けれど違った。
これは、人間という冗談が、自然によって訂正されていく過程だった。
そして最後には、誰のものでもない腐った物質へ変わっていく。
その一つ一つの変化が、悪意に満ちた筆致のようだった。
だが自然に悪意などない。
悪意がないからこそ、なお残酷だった。
自然は絵筆を持たない。
それでも腐敗という筆で、人間の輪郭を丹念に塗り潰していく。
顔から意味を剥がし、肉から記憶を抜き取り、骨だけを白々しく残す。
この死体には蠅すら来なかった。
それが、なおさら残酷だった。
循環に戻るというのに、循環の使者さえ訪れない。
虫も、土も、風も、鳥も、この死体のためには用意されていない。
ただ閉じた箱の中で、自分自身の内部にいる微小なものたちに少しずつ食われ、分解され、戻されていく。
世界に迎えられるのではない。
世界に祝福されるのでもない。
世界から、お前はもう要らない、と言われるのでもない。
もっと冷たい。
世界は何も言わない。
何も見ない。
何も知らない。
それでも回収する。
その無関心こそが、最も深い皮肉だった。
循環を否定した人間は、循環から罰せられるのではない。
循環に気づかれもしないまま、循環していく。
俺は床に転がった顔を見た。
顔だったものは、もう何も訴えていなかった。
ただ開いた口の奥で、暗い穴だけがこちらを向いていた。
まるで最後に一つだけ、世界へ文句を言い損ねたようだった。
その穴を見ていると、言葉というものがどれほど浅い場所にしか住めないのか分かった。
言葉は皮膚の上でしか生きられない。
喉があり、舌があり、唇があり、肺が空気を押し出している間だけ、言葉は偉そうに世界を裁く。
だが唇がめくれ、舌が腐り、喉が裂け、肺がただの肉袋になれば、言葉はもうどこにもいない。
残るのは穴だけだった。
意味の抜けた、黒い穴だけだった。
俺の衝動に任せた行いは、そこで初めて終始一貫して美しくなっていくように思えた。
それは善ではなかった。
正義でもなかった。
救いでもなかった。
ただ、世界の側に立つということだった。
人間がどれほど泣き叫び、自分の死に理由を欲しがり、自分の孤独に名前を与え、自分の絶望を高貴なものに見せかけようとしても、世界はそんなものを引き受けない。
世界は理由を与えない。
物語を完成させない。
最後の一文を書いてくれない。
その冷たさの中でだけ、世界は美しいのかもしれない。
けれどその美しさは、胸を温めるものではなかった。
喉の奥に小さな石を飲み込んだまま、呼吸だけを続けているような美しさだった。
息を吸うたび、その石は少しずつ沈んでいく。
胸の奥へ。
心臓の裏側へ。
誰にも触れられない暗い場所へ。
そしてそこから、ゆっくりと黒い染みを広げていく。
その染みは悲しみではなかった。
罪悪感でもなかった。
恐怖でもなかった。
もっと静かで、もっと重く、もっと逃げ場のないものだった。
世界は美しい。
その美しさは、人間を慰めるためにあるのではない。
人間から人間であることを剥ぎ取り、名前を腐らせ、顔を崩し、最後には誰のものでもない物質へ戻す、その無慈悲な正確さの中にある。
俺はもう一度、死体を見た。
それはまだ腐っていた。
まだ戻っていた。
まだ世界に負け続けていた。
そしてその負け方だけが、どうしようもなく美しかった。
この美しさは、俺の書いた本が否定されたその瓦礫の奥から、いつの間にか滲み出していたものだった。
そこでは、俺の行動も、目的も、あとから貼りつけられた薄い紙片のように、ただ俺の内側でだけ意味を持っていたに過ぎない。
衝動でしかなかったはずの行いが、奇妙なほど一本の線として繋がっていく感覚があった。
まるで世界の方が、遅れて俺の正しさに追いついてきたようだった。
俺は間違っていなかった。
そう、人を殺して初めて、俺はそれを身体で知った。
それまで俺は、自分の想像の中でさえ、それをうまく証明することができなかった。
結局、俺もまた、否定したかったこの世界と何も変わらなかった。
正しさを語りながら、正しさを示す光景を持てず、理想を掲げながら、その理想が誰かの目に届く形へ変わることを待っているだけだった。
俺が憎んでいた世界と同じように、言葉だけを積み上げ、その奥にあるはずの景色を失っていた。
俺もまた世界と同じように、本の言葉を光景へ変える魔法を失っていたのだ。
本はただの紙になり、文字は黒く乾いた傷になり、ページをめくる指先だけが、残酷なほど確かな現実として残っていた。
けれどそれは、自然がすべてを平等に還すからではなかった。
人間が作り上げた平等という、冷たく均された檻のせいだった。
だから俺は、そんな世界の色を剥がし、自分の理想の色で塗り潰すような本しか書けなかった。
俺は、理想を書くことで、それを見ることができた。
けれど、その理想は他者に対する殺人でしかなかった。
だから、その世界を信じる者たちは、俺を弱者と呼ぶことで、俺の思考を殺そうとする。
そのラベルを貼った瞬間、俺が苦悩の果てに見出した理想は、ただの弱者の僻みへと貶められる。
そう言われても仕方がないのだろう。
俺は、彼らの生き甲斐を否定した。
彼らが人生の形として拝み続けてきた神を否定した。
つまり俺は、彼らそのものを殺そうとしたのだ。
だから彼らの本能は、俺の苦悩を否定することでしか自分を保てなかった。
俺を救われない者にすることでしか、自分たちの世界を守れなかった。
それでも、そう見えてしまったのは、きっと俺の言葉がまだ拙かったからだ。
俺の苦悩が、俺の理想が、彼らにはただの醜い情景としてしか映らなかった。
だが、真実を扱うということは、その誤解さえも引き受けるということだ。
否定されること。
貶められること。
救われない者として名指されること。
その運命を受け入れる覚悟がなければ、理想など、ただ風に崩れる砂の塔でしかない。
確かに世界は、本を読む目的を失った。
その理由は、人間が本を読まなくなったからではなく、読書を支えていた時間論的・倫理的・存在論的条件が解体されたからである。かつて読書は、単なる情報取得ではなく、自己を一時的に世界の即時性から退却させ、言葉の遅延の中で自己と他者と死者を媒介する実践であった。そこでは本は、役に立つ知識の容器ではなく、自己の欲望を疑わせる異物であり、社会が与える目的から距離を取るための反目的的装置だった。
しかし近代以後、読書はまず教育制度によって能力化され、ついで資本主義によって投資化され、さらに情報環境によって圧縮された。読むことは、人格の変容ではなく、知識の獲得、語彙の増強、仕事への応用、教養の証明、自己ブランディングの素材へと変換された。つまり読書は、内面を形成する営みから、外部に提示可能な成果へと翻訳されたのである。このとき本は、沈黙を要求する他者ではなく、要約可能な資源になる。
加えて、現代の認知環境は読書の時間性と根本的に衝突している。読書は遅い。反復、停滞、誤読、熟成、回帰を必要とする。ところがアルゴリズム的環境は、即時反応、短期報酬、感情刺激、断片的理解を神経系に常態化させる。脳は長い意味生成よりも、短い報酬予測の更新に最適化される。結果として、読書に固有の分からなさに滞在する能力が衰弱する。分からない本は、もはや自己を壊す契機ではなく、単に効率の悪い情報媒体とみなされる。
さらに決定的なのは、読書の目的を支えていた超越的・共同体的・教養的物語の失効である。宗教、国家、階級的教養、近代的進歩史観、文学的権威は、かつて読書に外的な正当性を与えていた。しかしそれらが疑われた後、読書は自由になったのではなく、市場価値と承認欲望の中に裸で投げ込まれた。何のために読むのかという問いに、もはや社会は深い答えを与えない。ただ使えるか、語れるか、差別化できるかだけが残る。
ゆえに読書目的の喪失とは、読書文化の衰退ではなく、目的そのものが資本と速度に奪取された結果である。読書は本来、世界が与える目的を疑うための実践だった。だが現代では、その読書自身が目的管理の対象となった。ここに逆説がある。読書する目的が失われたのではない。むしろ、読書に耐えうるほど深い目的だけが失われ、代わりに浅い有用性だけが過剰に残ったのである。
俺はそんな世界を否定したかったのか……その先の、俺の苦悩が肯定される世界を夢見て居たに過ぎないのかもしれない。
けれど、それは全て自分のイメージの中でしか完結せず、それを世界に出すという欲を掻きすぎた罰なのかもしれない。
俺は否定したかった世界と何も変わらない。
今思い返せば、それは子供の頃から始まっていたのかもしれない。
俺の生まれた国では、自発的で行動力のある姿勢を重んじる文化が存在した。
そこでは、朝に大きな声で挨拶できる子供が健康で、誰よりも早く手を挙げる子供が利発で、輪の中心に走っていける子供が明るいとされた。反対に、隅で黙っている子供は、まだ花を咲かせていない蕾ではなく、どこか湿った土の中で腐りかけている種のように扱われた。俺はその土の匂いを、幼い頃から自分の皮膚の裏側に嗅いでいた。
先生たちは俺を嫌っていたわけではない。ただ、俺を修正可能な対象として見ていた。みんなと遊ぶのがあまり好きではないですね。もう少し積極性があるといいですね。そういう言葉は、叱責ではなく記録として残された。評価は紙に沈殿し、俺という人間の底に、透明な毒のように溜まっていった。
俺は別に、世界を憎んでいたわけではなかった。ただ、世界がいつも少し騒がしすぎた。遊びの輪には、善意という名の命令が混ざっていた。笑い声には、同じ温度で笑えという同調圧が含まれていた。友達という言葉には、人数で証明される健全性のようなものが貼り付いていた。俺はそれらをうまく飲み込めなかった。飲み込めない俺の喉の方が、いつも異常だとされた。
そもそも友情とは、ただ同じ時間の中に偶然居合わせ、何者でもない者同士が、何者にもならない時間を共有することだったはずだ。けれど今では、大人になる前からその余白さえ削られる。遊びは発達の証拠にされ、沈黙は欠陥にされ、孤独は早期発見される。子どもたちは友情を学ぶのではない。適応の演技を、仲良しという名前で練習させられる。
悲観的であることも、同じように誤読された。俺が、物事はそんなに簡単によくならないと思うと言えば、それは思慮ではなく不平になった。俺が、明るい未来という言葉にどうしても嘘の匂いを感じると言えば、それは繊細さではなく協調性の欠如になった。解決策を持たない者は、問題を増やす者だとされた。だが子供の俺には、解決策など持てるはずがなかった。俺にあったのは、ただ、痛む場所を痛むと言う感覚だけだった。
それでも大人たちは、痛みそのものより、痛みに対する態度を問題にした。前向きになろう。みんなの中に入ろう。まずはやってみよう。その言葉たちは柔らかい顔をしていたが、俺には小さな軍隊の行進のように聞こえた。義務的な楽観主義は、笑顔の形をした命令だった。幸福とは、いつの間にか感じるものではなく、証明するものになっていた。
だから俺は、子供の頃から知っていた。俺の苦しみは、苦しみである前に、性格として分類されるのだと。俺の沈黙は、沈黙である前に、改善すべき態度になるのだと。俺の孤独は、孤独である前に、社会性の不足として処理されるのだと。
そして俺は、誰にも見つからない場所で、ひとつだけ幼稚な抵抗を覚えた。
明るくならないこと。
それだけが、俺に残された最初の自由だった。
けれど、その自由を信じるには若すぎたのかもしれない。
俺の自由は、いつも体のどこかが傷ついていた。
自由というものが、何かを選ぶことだと教えられる前に、俺はまず、何を避ければ痛みが少なくなるのかを覚えた。廊下の真ん中を歩かないこと。昇降口では下駄箱の前に長く立たないこと。教室では誰の机にも触れないこと。誰かが笑った時に顔を上げないこと。カバンを開ける時は、先に中身の輪郭を目で確かめること。机に座る前に椅子の上を見ること。下敷きを動かす時は、指先ではなく爪の端で少しだけ浮かせること。靴に足を入れる前に、必ず逆さにして振ること。
それらは自由ではなかった。
けれど、俺に残された自由は、それしかなかった。
俺が一人でいたのは、誰かを嫌っていたからではなかった。誰かの輪に入るたびに、体の一部が別の場所へ持っていかれるような感じがしたからだった。教室のざわめきの中にいると、声の向きが全部こちらへ曲がってくる気がした。誰かが机を叩く音、椅子を引く音、笑い声、シャーペンの芯が折れる音、窓を閉める音、その一つ一つが、まだ何も起きていないのに、何かが起きる直前の音に聞こえた。
子どもたちは、子どもだから残酷だったのではない。
子どもたちは、すでに大人びていた。
泣けば周囲が動くことを知っていた。弱い顔をすれば守られることを知っていた。大きな声を出せば、先に意味を奪えることを知っていた。誰かを指差せば、自分から視線を逸らせることを知っていた。集団の中で笑うだけで、責任が薄まることを知っていた。何もしていない顔をしていれば、何もしていないことになると知っていた。誰かを孤立させれば、その人間の言葉は最初から小さくなると知っていた。
彼らはそのことに気づいていなかった。
気づいていないまま、正確にやっていた。
泣き言を言い、注目を欲しがり、自分の場所を守るために他人の場所を壊し、思い通りにならないと声を荒げ、誰かの不幸を使って自分の位置を上げた。大人がそれを未熟さと呼んでいる間に、彼らは大人のすることを、もっと短く、もっと雑に、もっとためらいなくやっていた。
俺の自由を傷つけたものは、彼らの幼さではなかった。
彼らの中に、もう出来上がっていた人間の形だった。
トイレの一番奥の個室で押さえつけられた時、俺はそれを間近で見た。
昼休みの終わりだった。
廊下にはまだ、人の声が残っていた。笑い声とか、椅子を引く音とか、誰かが急いで走る上履きの音とか、そういうものが壁の向こうで普通に続いていた。トイレの中だけが少し湿っていて、手洗い場の蛇口から水が一滴ずつ落ちていた。落ちるたびに、白い陶器の底で小さく音が跳ねた。
個室の扉を閉めようとした瞬間、背中を押された。
胸が仕切り板にぶつかった。息が短く途切れた。何が起きたのかを考えるより先に、腕を掴まれた。もう片方の手で肩を押さえられた。足も押さえられた。体のあちこちに、別々の力が乗った。俺の体なのに、俺の体ではないものみたいに扱われていた。
動こうとした。
けれど、動こうとした場所だけが熱くなった。掴まれた腕の皮膚が、そこだけ自分から剥がれていくようだった。肩の奥に変な圧がかかった。肘から先が遠かった。指を握ろうとしても、握るという命令が途中で折れて、どこにも届かなかった。
誰かが笑った。
その笑い方には、怒りも興奮もなかった。
ただ、面白いものを見つけた時の声だった。石を蹴るとか、虫の脚を一本ずつ取るとか、そういう時の、何も背負っていない声だった。俺が痛がることより、俺が痛がる時にどんな顔をするのかを見たがっているような声だった。
顎を持たれた。
指が頬の下に入った。顔を背けようとしたが、後頭部が壁に当たった。壁は冷たかった。冷たいのに、そこに押しつけられている部分だけが熱くなった。髪の隙間から、壁の湿り気が頭皮に触れた。
口を閉じようとした。
奥歯に力が入った。頬の内側を押された。唇が歯に擦れた。息が鼻に詰まった。視界の端がぼやけた。目の前に、誰かの手が近づいた。
その手は落ち着いていた。
震えていなかった。
遊びでやっている手だった。
指先に、小さな金属の光があった。
名札のピンだった。
胸に名前をつけるためのものだった。
誰のものでもあるはずの、ただの道具だった。毎朝、制服につけて、授業中も、掃除の時も、帰りの会でも、そこにあるだけのものだった。名前を見せるためのものだった。それが今、俺の口元にあった。
声は出なかった。
声を出そうとした形だけが喉に残った。喉の奥で、何かがひっかかった。助けて、という言葉は思い浮かばなかった。やめて、という言葉も形にならなかった。ただ、口の中が急に遠くなった。舌があるはずなのに、舌をどこに置けばいいのか分からなかった。
冷たい金属が、一瞬触れた。
その次の瞬間に激痛が走った。
痛みは、思っていたより細かった。細いのに、そこだけ世界が狭くなった。口の中の一点に、すべてが集まった。廊下の声も、水の音も、誰かの笑いも、いったん遠くへ行った。そして次の瞬間、全部が戻ってきた。戻ってきた時には、さっきより大きく聞こえた。
体が勝手に逃げようとした。
俺が逃げようとしたのではなかった。体の方が先に、まだ生きている部分だけで逃げようとした。腕を押さえている手に力が入った。肩が軋んだ。膝が便器に当たった。足先がタイルを擦った。
タイルの溝に、黒い汚れが詰まっていた。
そこだけ、やけにはっきり見えた。
黒い線。濡れた埃。誰かの髪の毛。水の跡。そういうものが、俺よりもずっと落ち着いてそこにあった。
何度か、同じことが繰り返された。
回数は分からなかった。
数えようとすると、次の痛みで数字が壊れた。一、と思ったところで消えた。二、と思う前にまた消えた。数えることができれば、終わりがあるような気がした。けれど、終わりを作ることさえ許されなかった。
涙が出た。
泣こうとしたのではなかった。
目が勝手に水を出した。鼻の奥が熱くなった。唾液が顎を伝った。飲み込もうとすると、喉が拒んだ。息の仕方が分からなくなった。口では息ができなかった。鼻から短く吸うだけになった。吸っても足りなかった。吐く前に、また吸おうとした。
誰かが、俺の顔を覗き込んでいた。
近かった。
その目には、俺が映っていたと思う。
けれど、俺を見ている目ではなかった。そこにいたのは、声を出せないものだった。抵抗すると面白くて、抵抗しなくなるとつまらなくなるものだった。泣けば少し笑われ、泣かなくてもまた試されるものだった。
人間は、残酷になる時、特別な顔をしない。
その時の顔は、休み時間に消しゴムを借りる時と同じだった。給食の牛乳を残す時と同じだった。帰り道に石を蹴る時と同じだった。だから、なおさら分からなかった。どうしてその顔で、そんなことができるのか分からなかった。
終わった後、手足が離された。
急に体が軽くなった。
けれど、軽くなった体をどう動かせばいいのか分からなかった。床に手をついた。指先に水がついた。水は冷たかった。立ち上がろうとして、膝が滑った。便器の縁に手が触れた。すぐに離したかったのに、力が入らなかった。
個室の扉は開いたままだった。
廊下の声が戻ってきた。
誰かがトイレに入ってきた。蛇口をひねった。水が長く流れた。鏡の前で、誰かが髪を直していた。何も知らない顔だった。知ろうともしない顔だった。そこにあるものを、見なかったことにする顔だった。
俺は口を閉じた。
閉じるだけで痛かった。
それでも閉じた。
開いていると、まだ何かを入れられる気がした。
その日の放課後、とある女子生徒の体操着がなくなった。
それは終礼の時に言われた。
担任が黒板の前に立っていた。教室はもう帰るための形になっていた。机の横には鞄がかかっていて、筆箱はしまわれ、教科書は机の中に押し込まれ、何人かは椅子を半分引いたまま、いつでも立てる姿勢をしていた。窓の外からは運動部の声が聞こえていた。遠くでボールの弾む音がした。誰かが下敷きで机を叩いていた。誰かが早く終われよ、と小さく言った。
担任は、女子の体操着がなくなった、と言った。
俺はそれを他人事として聞いていた。
なくなったのなら探せばいい。誰かが間違えて持って帰ったのかもしれない。体育館に忘れたのかもしれない。更衣室に残っているのかもしれない。そんなふうに考えたわけではなかった。ただ、俺とは関係がないと思った。関係がないなら、終わるのを待つだけでよかった。
教室の空気が少し変だった。
体操着がなくなったことへのざわつきではなかった。もっと別の、先に何かを知っているようなざわつきだった。誰かが喋りそうで喋らない。誰かが笑いそうで笑わない。視線が机の上を滑って、俺の方へ来る前に止まる。止まったことを隠すように、また別の場所を見る。
その女子生徒は、前の方の席にいた。
様子がおかしかった。
体操着がなくなって困っている、という感じではなかった。何かを踏み外さないようにしているようだった。細い板の上を歩くみたいに、息の吸い方まで慎重だった。膝の上に置いた手が震えていた。けれど、その震えは怖がっている震えというより、失敗しないように抑え込んでいる震えに見えた。
顔を伏せていた。
でも、完全には伏せていなかった。
睫毛の隙間から、教室の反応を見ていた。担任の顔。周りの女子。男子の列。後ろの席。俺の席。目の動きが速かった。何かを待っていた。誰かに押されるのを待っているのではなく、自分が立ち上がるための合図を、自分で探しているようだった。
俺はそれを、気持ち悪いと思った。
理由は分からなかった。
ただ、そこにある弱さが、本当の弱さではない気がした。泣きそうな顔をしているのに、泣く場所を選んでいる感じがした。傷ついているように見えるのに、傷ついた姿をどこへ向けるべきか知っている感じがした。そういうものを、子供の俺はまだ言葉にできなかった。ただ、見てはいけないものを見た時のように、腹の奥が少し冷えた。
その時、彼女が急に立ち上がった。
椅子が倒れ大きな音が教室中に響き渡った。
時間が止まったように見えた。鉛筆をしまいかけた手。鞄を持ち上げた腕。笑いかけた口。消しゴムを指で転がしていた動き。全部が途中で固まった。俺は少し遅れて顔を上げた。何かを見る時の顔ではなかったと思う。ただ、音がしたから、そちらを向いただけだった。
彼女は俺を指差していた。
指先が震えていた。
震えているのに、まっすぐだった。
「お前が盗んだんだろ」
彼女は言った。
声は裏返っていた。けれど、その言葉だけははっきりしていた。
「知ってんだよ」
教室が、一瞬だけ息を吸った。
俺は、自分が指差されていることを理解するのに少し時間がかかった。指というものは、向けられた瞬間に意味を持つ。銃口みたいに、針みたいに、そこにあるだけで人間の場所を決める。けれど俺は、その意味が自分に届くまで、ほんの少し遅れた。
お前。
盗んだ。
知ってる。
三つの言葉が、別々に聞こえた。
繋がらなかった。
俺が何かを言う前に、教室の中で何かが動いた。
さっき、トイレで俺の腕を押さえた連中だった。
彼らは驚いていなかった。
誰かが誰かを急に指差して、盗んだと言ったのに、彼らだけは驚いていなかった。むしろ、やっとその場面になった、という顔をしていた。手順を知っている人間の顔だった。次に何をすればいいか、すでに決まっている人間の顔だった。
一人が俺の机に近づいた。
「鞄見れば分かんじゃね」
そう言った。
軽い声だった。
冗談を言う時の声だった。
誰も止めなかった。
担任も、すぐには止めなかった。止めなかったというより、止めるべきか考えるための数秒を、止めないことに使った。その数秒で、俺の鞄は机の上に置かれた。チャックが開けられた。中身が出された。
俺は座っていた。
座っていたはずだ。
立ち上がったのかもしれない。何か言ったのかもしれない。手を伸ばしたのかもしれない。でも、覚えているのは、自分の体がひどく遅かったことだけだった。目の前で俺の鞄が開けられているのに、それが自分の持ち物だと分かるまでにも時間がかかった。
教科書が出された。
ノートが出された。
筆箱が出された。
プリントが出された。
昨日配られた紙。折れたシャーペンの芯。読みかけの本。ハンカチ。
それらは全部、俺のものだった。
俺のものだったから、なおさら嫌だった。
俺の持ち物が、人前に並べられるたびに、俺の内側が少しずつ外へ剥がされていくようだった。誰かがノートの表紙を見た。誰かがプリントの汚れを見た。誰かが俺の弁当箱を見て、小さく鼻で笑った。俺という人間の生活の破片が、許可なく机の上に置かれていった。
そして最後に、白い布の膨らみが出てきた。
それは、俺のものではなかった。
見た瞬間に分かった。
それなのに、そこにあった。
俺の鞄の奥から出てきた。
誰かが息を呑んだ。
誰かが、うわ、と言った。
彼女が両手で口を覆った。
その動きが、少し早かった。
早すぎた。
でも、その早さに気づいたのは、たぶん俺だけだった。気づいても、どうにもならなかった。彼女はもう泣く形に入っていた。目を見開き、肩を震わせ、膝を少し折り、周りの女子が近づきやすい高さに自分を置いた。
担任が白い布を持ち上げた。
体操着だった。
白い布が空中で広がった。
その瞬間、俺は盗んだ人間になった。
誰かがそう決めた、というより、教室そのものがそういう形になった。机の配置。視線の向き。女子たちの小さな声。男子たちの面白がる沈黙。担任の硬くなった顔。全部が一つになって、俺を真ん中に置いた。
俺は何もしていなかった。
何もしていないということには、形がなかった。
盗んでいないことは、机の上に出せなかった。鞄の中から取り出すこともできなかった。白い布みたいに広げることもできなかった。俺の無実は、どこにも置けなかった。だから、そこには存在しないのと同じだった。
「最低」
誰かが言った。
小さな声だった。
でも、聞こえた。
「きもちわるい」
別の声がした。
誰かが机の脚を蹴った。
笑い声はなかった。
笑い声がないことが、かえってひどかった。彼らは遊びとしてではなく、正しいこととして俺を見始めていた。さっきまで俺の腕を押さえ、俺の口に金属を近づけた連中まで、今は教室の正義の側に立っていた。彼らの顔には、少しも矛盾がなかった。
彼女は泣き出した。
泣くというより、泣き方を始めた。
最初に息を詰まらせた。次に肩を震わせた。次に顔を覆った。周りの女子が近づいた。誰かが背中を撫でた。誰かが大丈夫、と言った。誰かが先生を見た。彼女はその手に少しだけ体を預けた。預けながら、輪の内側へ入っていった。
輪ができた。
俺は外にいた。
盗んでいない。
そう言おうとした。
でも、口が痛かった。
そのことを思い出した瞬間、トイレの個室が戻ってきた。壁の冷たさ。膝の痛み。タイルの黒い溝。鼻からしか吸えなかった息。舌の上に残った金属の感触。喉の奥で潰れた声。
声を出せないようにされた後で、声を出せと言われている。
そう気づいた時、嫌な点と点が繋がった。
トイレにいた時間。
その間、俺は教室にいなかった。
でも、俺は自分から移動したわけではなかった。
押し込まれた。
押さえつけられた。
口を痛められた。
その間に、俺の鞄へ誰かが何かを入れた。
終礼で体操着がなくなったと言われた。
彼女が立ち上がった。
俺を指差した。
あいつらが迷わず鞄を開けた。
白い布が出てきた。
全部が、順番通りだった。
順番通りすぎた。
俺だけが、最後にそれを知った。
「違う」
声が出たのかどうか分からなかった。
出たとしても、とても小さかったと思う。
誰にも届かなかった。
届かない声は、声ではなかった。ただ口が動いただけだった。彼女の泣き声の方が大きかった。周りの女子の怒った顔の方が分かりやすかった。担任の失望した顔の方が教室に通りやすかった。俺の言葉だけが、この場所では異物だった。
その後、親が呼び出された。
俺は小さな部屋に連れて行かれた。
職員室の横にある、面談で使う部屋だった。窓はあったが、外は見えなかった。蛍光灯が白く光っていた。机の上に湯呑みが置いてあった。誰かの飲みかけだった。茶色い輪の跡が机についていた。壁には古い掲示物が貼ってあった。角が少し剥がれていた。
大人たちがいた。
担任。学年主任。知らない先生。親。
みんな、座っていた。
俺も座っていたと思う。
でも、感覚としては立たされていた。あるいは、床に置かれていた。そこにいるのに、誰の隣にもいなかった。大人たちは俺を囲むように座っていて、それぞれ別の角度から同じものを見ていた。
犯人を見る目だった。
まだ何も話していないのに、もう終わっている目だった。
「どうしてこんなことをしたんだ」
担任が言った。
その問いは、問いではなかった。
したことになっている人間に向ける言葉だった。どうして、の前に、もうお前はした、が置かれていた。俺はその前提をどけたかった。でも、どけるための言葉がなかった。言葉を出す前に、口の中が痛んだ。
「違います」
そう言うだけのことだった。
たった四文字だった。
でも、その四文字が出なかった。
喉の奥に何かが詰まっていた。涙ではなかった。声でもなかった。トイレで出せなかった叫びの残りみたいなものだった。それが喉に張りついて、そこから先に何も通してくれなかった。
全部言いたかった。
あの女子も知っている。
あいつらは最初から分かっていた。
だから迷わず俺の鞄を開けた。
全部、言えばよかった。
言えば終わるはずだった。
でも、言うためには、もう一度その場所へ戻らなければならなかった。トイレの個室を開けて、冷たい壁に頭を押しつけられ、鼻で短く息を吸い、口の中に金属の冷たさを入れられた時間を、言葉にしなければならなかった。
それができなかった。
言葉にするということは、もう一度それを自分の中で起こすことだった。
俺はそこへ戻れなかった。
戻れないまま、泣いた。
泣きたくて泣いたのではなかった。
体が勝手に水を出した。目の奥が熱くなり、鼻が詰まり、口を閉じると痛かった。息を吸うたびに、喉が震えた。震えると、大人たちの顔が少し歪んで見えた。
「泣けば逃げられると思ってるのか」
誰かが言った。
涙の意味が、その一言で奪われた。
「泣いても変わらないぞ」
「相手の子の方が泣きたいんだぞ。分かってるのか」
「ちゃんと説明しなさい」
説明したかった。
説明したかったのに、説明するための場所がなかった。
「警察に行きたいのか」
その言葉だけ、部屋の中で少し違う音がした。
俺は顔を上げた。
担任ではなかった。学年主任だった。低い声だった。怒鳴ってはいなかった。怒鳴っていないことが、かえって怖かった。大人が本当に人を追い詰める時は、大きな声を出さないのだと思った。逃げ道を一つずつ指で塞ぐみたいに、静かに言う。
「盗みっていうのはな、学校の中だけで済む話じゃないんだぞ」
警察。
その言葉が出た瞬間、俺の体の中で何かが縮んだ。
悪いことをした人間が連れて行かれる場所。テレビの中でしか見たことのない場所。大人が口にするだけで、子供の人生を終わらせることができる場所。俺は何も盗んでいないのに、その場所だけが急に近くなった。
「お前の将来にも関わるんだぞ」
将来。
それもまた、俺にはまだよく分からない言葉だった。
けれど、よく分からないからこそ怖かった。高校。進学。内申。就職。信用。そういう、まだ見たことのないものたちが、俺の知らない場所で全部繋がっていて、今この部屋での返事一つで壊れるのだと言われている気がした。
「先生たちは、お前を犯罪者にしたいわけじゃない」
大人はそう言った。
優しい声だった。
「お前のためを思って言ってるんだ」
怒られているなら、まだ分かった。憎まれているなら、まだ分かった。けれど、俺を追い詰めている人たちが、自分たちは俺を助けているのだと信じていることが、どうしようもなく怖かった。
「今ならまだ間に合う」
何に間に合うのか分からなかった。
「正直に言えば、先生たちも考える」
何を考えるのか分からなかった。
「でも、このまま嘘をつき続けるなら、もう庇えない」
俺は嘘をついていなかった。
それなのに、嘘をつき続けていることになっていた。
「庇えるうちに庇われろ」
その言葉で、俺は初めて、自分がもう助けられている側ではないのだと知った。
それは自分で首を差し出せと言われているだけだった。
ここでは、何を言っても言い訳になる。
何も言わなければ黙っていることになる。
泣けば逃げていることになる。
泣かなければ反省していないことになる。
謝れば認めたことになる。
謝らなければ開き直っていることになる。
本当のことだけが、置き場所を失っていた。
大人たちは、俺の口から言葉が出ないことを、俺の内面の証拠にした。
都合が悪いから黙っている。
反省していないから黙っている。
どうせ嘘をつくから黙っている。
そういうふうに、俺の沈黙に勝手な名前をつけていった。
でも本当は、沈黙ではなかった。
言葉が中で潰れていた。
喉の奥で、何度も形を作って、そのたびに壊れていた。
違う。
盗んでいない。
俺じゃない。
あいつらが。
トイレで。
痛くて。
怖くて。
誰も聞いてくれなくて。
何もしていない。
何もしていない。
何もしていない。
それらは全部、声になる前に崩れた。
子供が、そんな場所に耐えられるわけがなかった。
けれど大人たちは、耐えられると思っていた。
耐えられないことを、反省が足りないからだと思っていた。
そして俺はその時、初めて知った。
本当のことは、ただ本当であるだけでは足りない。
存在しないものを抱えたまま、人は怒られることがある。
俺は泣いていた。
泣いているのに、まだ怒られていた。
泣いていることさえ、俺を助けなかった。
それでも、俺は何も言えなかった。
何も言えないまま、時間だけが進んだ。
大人たちは話し合った。何を話していたのか、ところどころしか覚えていない。謝罪。反省。今後。指導。家庭。相手方。そういう言葉が、机の上を何度も行き来していた。俺の名前も何度か出た。けれど、それは俺を呼ぶための名前ではなかった。書類に書かれる名前だった。問題の中心に貼り付けられる名前だった。
俺はそこに座っていた。
座っているのに、どこにもいなかった。
やがて、相手の親が来た。
母親だったのか、父親だったのか、どちらの声が先だったのか、もうはっきりしない。ただ、扉が開いた瞬間、部屋の温度が変わった気がした。怒っている人間が入ってくると、空気は重くなるのではなく、逆に薄くなる。息を吸っても、肺に入るものが少なくなる。
相手の親は、最初から怒っていた。
話を聞いて怒ったのではなかった。
怒るために来た顔だった。
口元が歪んでいた。目が大きく開いていた。頬が赤かった。声が高かった。言葉は次々に出てきた。子供に何をしてくれているんですか。どういう教育をしているんですか。気持ち悪い。許せない。信じられない。学校はどう責任を取るんですか。親は何をしているんですか。
その声は、俺に向けられているようで、俺を通り過ぎていた。
俺という子供の体を使って、誰かを殴っている声だった。
俺の親は頭を下げた。
何度も下げた。
すみません。申し訳ありません。こちらの教育が。本人にもきつく言って聞かせます。本当に申し訳ありません。
その言葉が出るたびに、俺の中で何かが少しずつ削れていった。
親が謝っている。
俺がやっていないことを、親が俺の代わりに謝っている。
その瞬間、俺が盗んだということは、もう教室だけの話ではなくなった。先生たちの中だけの話でもなくなった。親の口から出た謝罪によって、俺は家族の中でも、盗んだ人間になった。
「ほら、あんたも謝りなさい」
親の声がした。
俺は顔を上げた。
何を謝るのか分からなかった。
分からないまま、頭を下げさせられた。
背中に手が置かれた。押された。強く押された。俺の体は前に倒れた。床が近づいた。床の木目が見えた。傷があった。小さな埃が溝に溜まっていた。俺はその埃を見ていた。見ていることしかできなかった。
「申し訳ありませんでした」
親が言った。
俺も言え、と言われた。
口を開けようとした。
痛かった。
針で刺された舌が、少し動いただけで熱を持った。唇の内側が歯に触れた。そこにも痛みがあった。まだ血の味がした。鉄みたいな味だった。何度飲み込んでも消えなかった。むしろ飲み込むたびに、口の中のどこかから新しく湧いてくるようだった。
「……すみませんでした」
声は、ほとんど出なかった。
でも、それで十分だったらしい。
相手の親は、さらに怒った。
謝ったから許されると思っているんですか。子供だからって何でも済むんですか。うちの子がどれだけ傷ついたか分かってるんですか。気持ち悪い。怖い。学校に来させるのも不安です。ちゃんと反省してるんですか、その顔は何ですか。
俺は顔を上げられなかった。
顔を上げれば、反省していないと言われる気がした。
下げていれば、逃げていると言われる気がした。
だから、中途半端な角度で止まっていた。
人間の首は、そんなふうにできていない。どこにも力を逃がせない角度で固定されると、首の後ろがだんだん痛くなる。けれど、動かせなかった。動くことさえ、罪になる場所だった。
帰り道のことは、ほとんど覚えていない。
車だったのか、歩きだったのか、電車だったのか、記憶がところどころ抜けている。ただ、親が黙っていたことだけは覚えている。黙っている大人は、怒鳴る大人より怖い時がある。その沈黙の中で、これから何をされるのかだけが少しずつ大きくなっていった。
家に着いた。
玄関の匂いがした。
いつもの家の匂いだった。
靴箱。洗剤。古い木。夕飯の前の台所。そういう、何度も嗅いだことのある匂いだった。けれど、その日は全部がよそよそしかった。ここは帰ってくる場所ではなく、連れてこられた場所だった。
玄関の扉が閉まった。
鍵の音がした。
その音で、外が消えた。
親はまだ黙っていた。
俺は靴を脱ごうとした。片足を上げた。上履きではない靴の紐が少し緩んでいた。指をかけようとした瞬間、頬に衝撃が来た。
音が遅れて聞こえた。
殴られたのだと分かるまで、ほんの少し時間がかかった。
顔が横を向いた。口の中で、傷口が歯に擦れた。舌の痛みが一気に広がった。血の味が濃くなった。さっきまで残っていただけの味が、今度は新しく出てきた味になった。
「何やってんだお前」
声がした。
答える暇はなかった。
もう一度、衝撃が来た。
今度は反対側だった。
体が壁にぶつかった。肩が痛かった。靴が片方だけ脱げた。もう片方は履いたままだった。床に膝をついた。立とうとしたのか、逃げようとしたのか、自分でも分からなかった。ただ、体が勝手に低くなった。
「違う」
言おうとした。
でも、言葉になる前に口の中で潰れた。
拳が飛んできた。
頬。口元。額。肩。腕。
どこに当たったのか、途中から分からなくなった。痛みは一つずつ来るのではなく、まとめて来た。顔の表面が熱くなった。耳の奥で音が鳴った。視界の端が白くなった。床の模様が近くなったり遠くなったりした。
「言い訳するな」
親が言った。
まだ何も言えていなかった。
「お前のせいで、こっちがどれだけ恥かいたと思ってるんだ」
俺が痛いことより、俺が怖いことより、俺が何もしていないことより、親が恥をかいたことの方が、この家では大きかった。俺の体は、親の恥を処理するためのものになっていた。殴れば少しだけ何かが戻ると思われているものになっていた。
「本当にやってない」
やっと声が出た。
出た瞬間、間違えたと思った。
「まだ言うか」
次の痛みが来た。
口元に当たった。
唇が切れた。
切れたところに、歯が当たった。舌の傷と唇の傷と頬の内側の傷が、口の中で一つになった。血の味しかしなくなった。唾液なのか血なのか分からなかった。飲み込むと喉が熱くなった。吐き出したかった。でも吐き出せば、床を汚したと言われる気がした。
だから飲み込んだ。
何度も飲み込んだ。
飲み込むたびに、自分の中へ戻している感じがした。痛みも、血も、言葉も、全部。外に出すことを許されないものを、また体の中へ戻している感じがした。
「学校であれだけ言われて、まだ嘘をつくのか」
違う。
「相手の親にあんな顔をさせて、まだ自分が悪くないって言うのか」
違う。
「お前はいつからそんな人間になったんだ」
違う。
違う、という言葉はあった。
けれど、その言葉はもう意味を持っていなかった。
学校で使えなかった言葉は、家でも使えなかった。
先生の前で言えば言い訳になった。
相手の親の前で言えば反省していないことになった。
親の前で言えば嘘になった。
本当のことは、場所を変えても本当にならなかった。
ただ、別の名前で拒まれるだけだった。
俺は床に座り込んでいた。
玄関だったのか、廊下だったのか、部屋の中だったのか、もう曖昧だった。片方の靴下が脱げかけていた。制服の膝に埃がついていた。手のひらに床の冷たさがあった。涙が落ちた。落ちた涙が、床の小さな埃を黒くした。
「泣くな」
そう言われた。
泣くなと言われても、涙は止まらなかった。
止め方が分からなかった。
学校でも泣くなと言われた。
家でも泣くなと言われた。
泣いているのは俺なのに、泣くことさえ俺の自由ではなかった。
親はまだ何かを言っていた。
将来。信用。恥。反省。謝罪。育て方。普通。犯罪。家族。
言葉が上から落ちてきた。
俺はそれを聞いていた。
聞いているふりをしていた。
本当は、もう音としてしか入ってこなかった。意味を理解する場所が、頭の中から少しずつなくなっていた。人間はあまりに怖い時、言葉を言葉として受け取れなくなる。声の大きさ。息の荒さ。足音。服の擦れる音。次にどこを殴られるか。それだけを体が先に聞くようになる。
顔が熱かった。
触ると痛かった。
触らなくても痛かった。
頬が腫れているのが分かった。口元が重かった。唇の端が切れていた。舌を動かすと、傷が歯に触れた。目の下も痛かった。あとで鏡を見たら、きっと痣になっているのだと思った。青くなるのか、紫になるのか、黄色くなるのか。そんなことを考えた。
考えたくないことを考えられない時、人はどうでもいいことを考える。
床の傷。
靴の向き。
壁紙の剥がれ。
親の靴下の柄。
自分の血の味。
そういうものだけが、妙にはっきりしていた。
俺は本当のことを言いたかった。
でも、本当のことを言うには、まず俺が人間として扱われていなければならなかった。
その日は、誰も俺をそう扱わなかった。
学校では犯人だった。
相手の親の前では謝るべき加害者だった。
家では恥をかかせた子供だった。
俺自身だけが、俺が何もしていないことを知っていた。
でも、俺一人が知っているだけでは足りなかった。
足りない真実は、嘘よりも弱かった。
夜、鏡の前に立った。
顔が変わっていた。
頬が腫れていた。口の端が切れていた。目の下に色が出始めていた。鼻の横が赤かった。唇は少し膨らんでいて、閉じると痛かった。開けても痛かった。どちらにしても痛かった。
口を開けた。
舌に小さな傷があった。
唇の内側にも血が滲んでいた。
俺は鏡の中の顔を見た。
それは、悪いことをした子供の顔に見えた。
そう見えるように、周りが作った顔だった。
殴られて腫れた頬も、切れた口も、泣いた目も、全部が俺を悪者に見せた。何もしていないことの証拠にはならなかった。むしろ、罰を受けた後の顔として、ひどく自然だった。
俺は口を閉じた。
閉じるだけで痛かった。
痛みの奥に、まだ血の味があった。
その味だけは、誰にも説明しなくてよかった。
誰にも信じてもらわなくてよかった。
俺の口の中にある限り、それだけは確かだった。
それから、学校の中にあるものが、少しずつ俺の敵になった。
人間だけではなかった。
廊下。机。椅子。靴箱。上履き。教科書。ノート。体操着。鉛筆。消しゴム。床。壁。全部が、俺を少しずつ間違った場所へ押し込むためのものになった。
廊下を歩くと、目がついてきた。
振り返ると、目は逸れた。
逸れたのに、消えなかった。
背中にまだ残っていた。首の後ろに薄く貼りついていた。誰かの笑い声が聞こえるたびに、それが自分のことなのかどうかを考えなければならなかった。考えたくないのに、考えてしまった。違うかもしれない。違わないかもしれない。その二つの間を、毎日歩かされた。
肩がぶつかった。
最初は偶然のふりをしていた。
すれ違う時に少し当たる。教室の入口で押される。階段で後ろから靴を踏まれる。机と机の間を通る時、椅子の脚がわざと少し出される。俺がよろけると、誰かが笑う。笑わない時もあった。ただ、見ているだけの時もあった。その方が嫌だった。笑ってくれた方が、まだ何かの形になった。見ているだけの目は、俺が崩れるまで待っている目だった。
机の中に、消しゴムのかすが詰められていた。
指で掻き出すと、爪の間に入った。教科書の隙間に入り込んでいた。ノートのページにくっついていた。息を吹きかけると、少し舞った。机の中に手を入れるたびに、何か柔らかい汚れに触れるようになった。俺の場所だけ、いつも少し汚れていた。
教科書の端が濡れていた。
誰がやったのかは分からなかった。
分からないことになっていた。
ページをめくると、紙がふやけていた。文字が滲んでいた。端が波打っていた。乾くと硬くなった。硬くなったところをめくると、ぱり、と小さな音がした。その音が嫌だった。壊れたものを、まだ使えるものとして扱わなければならない音だった。
ノートのページが破れていた。
一枚だけではなかった。
真ん中のページ。宿題を書いたページ。提出するはずだったページ。誰かが必要なところだけを知っていたみたいに、そこだけなくなっていた。先生に言うと、自分で管理しろと言われた。忘れ物をした時と同じ顔で見られた。俺は破られていた。けれど先生の前では、忘れた人間になった。
机に文字が彫られた。
最初は小さかった。
次の日には増えていた。
その次の日には、線が深くなっていた。爪でなぞると引っかかった。鉛筆の先で削ったのか、シャープペンの金属で引っ掻いたのか分からなかった。名前ではなかった。悪口でもなかった。ただ、俺を汚すためだけの短い言葉だった。
消そうとしても消えなかった。
紙でこすっても、消しゴムでこすっても、表面の黒ずみが少し薄くなるだけで、溝は残った。文字というより、傷だった。机の傷なのに、俺のものとして残った。次にその席に座る誰かが見れば、そこにいた俺のことを知る。俺はそこにいなくなっても、机の上でまだ汚れている。
毎朝、靴を逆さにした。
砂が落ちた。
乾いた音がした。
ぱらぱら、と床に散った。
細かい粒だった。校庭の砂だったのか、植え込みの土だったのか、よく分からなかった。白い砂。黒い砂。小さな石。靴の底を叩くと、まだ出てきた。もう全部出たと思っても、つま先の奥からまた少し落ちた。靴の中には、いつも俺の知らない場所が残っていた。
俺は毎朝、昇降口で靴を振った。
右。左。右。左。
砂が落ちる。
床に散る。
みんなが通る。
靴底がそれを踏む。
砂は広がる。
俺が出した砂だった。
俺が入れた砂ではなかった。
でも、出したのは俺だった。
ある日、先生に怒られた。
「昇降口を汚すな」
先生は俺の前に落ちた砂を見ていた。
俺の靴から落ちた砂を見ていた。
だから、先生にとってそれは俺の砂だった。
誰が入れたのかは見えなかった。
けれど、誰が落としたのかは見えていた。
見えるものだけが事実になった。
「掃け」
箒を渡された。
俺はしゃがんだ。
砂を集めた。
周りの足が通り過ぎた。上履きが床を鳴らした。誰かの靴底が、俺の集めかけた砂を踏んだ。砂はまた広がった。俺はもう一度集めた。集めている間に、また誰かが踏んだ。俺が掃いているものは、少しも減らなかった。
後ろで、誰かが笑った。
小さな笑いだった。
先生には聞こえない大きさだった。
俺には聞こえる大きさだった。
そういう音の調整だけは、みんな上手かった。
俺は砂を塵取りに入れた。
外に捨てようと思った。
昇降口の外へ出ようと、靴を履いた。
その瞬間、足の裏に鋭い痛みが走った。
声が出なかった。
出そうとした声が、喉の途中で止まった。
体が反射で固まった。足を引こうとした。でも、引くと余計に痛い気がした。靴の中で何かが刺さっていた。点だった。小さな一点が、足の裏から体の中心まで届いていた。
俺は靴を脱いだ。
手が震えていた。
靴の中を見た。
砂はもうなかった。
砂は全部出したはずだった。
けれど、中敷きを持ち上げると、その下に画鋲があった。
銀色の丸い頭。
短い針。
それだけが、落ちないように残されていた。
砂は落ちるように入れられていた。
画鋲は落ちないように入れられていた。
俺が靴を逆さにすることを、知っている入れ方だった。
毎朝、砂を出すことを知っている人間の入れ方だった。
俺が怒られることも。
俺が掃くことも。
俺が砂を捨てに外へ出ることも。
そのために、靴を履き直すことも。
全部、知っている入れ方だった。
ただ刺すためではなかった。
俺が自分で靴を掃除して、自分で床をきれいにして、自分で外へ捨てに行こうとして、自分で履いた靴の中で刺さるように置かれていた。
足の裏は痛かった。
でもそれ以上に、誰かが俺の朝の動きを知っていて、その手順の最後に痛みを置いたことが嫌だった。
俺の日課の中に、罰が仕込まれていた。
俺の慎重さの先に、針が置かれていた。
俺が自分を守ろうとする動きまで、誰かの遊びに変えられていた。
足の裏を見た。
小さな赤い点があった。
その点は、とても小さかった。
これくらいで騒ぐのかと言われそうな大きさだった。痛いと言えば大げさになる。誰かに言えば、また自分で踏んだんだろうと言われる。靴をちゃんと見ないからだと言われる。注意しないからだと言われる。結局、俺が悪いことになる。
だから俺は、足を床につけた。
痛かった。
でも歩いた。
歩くたびに、足の裏の小さな点が熱くなった。
教室までの廊下が長かった。
いつもより長かった。
誰かが俺の歩き方を見ていた。
少しだけ笑った。
俺は笑われないように、普通に歩こうとした。
普通に歩こうとすると、もっと痛かった。
それでも普通に歩いた。
痛がると、痛がったことまで相手のものになる気がした。
教室に入ると、誰も何も言わなかった。
何も言わないまま、何人かが俺の足元を見た。
そして、目を逸らした。
家に帰ると、体操着の汚れを、自分がお風呂に入るタイミングに一緒に持ち込んで、誰にも見られない場所で洗った。
もう刃物類で切り刻まれて原型を留めていなかったが、それでも汚れを落とした。
お風呂を出た時、その服を母親に見られたことがあった。
母は何も言わずに布をつまんだ。
破れた袖を見た。伸びた襟を見た。背中についた黒い跡を見た。洗っても残った線を見た。泥なのか、埃なのか、靴で踏まれた跡なのか分からない汚れを、少し顔をしかめながら見た。
けれど、その汚れがどこから来たのかは見なかった。
母の目は汚れを見ていた。けれど、汚されている俺は見ていなかった。
父は新聞の向こうから俺を見た。
新聞紙が少し揺れた。
目だけが動いた。
その目には、驚きも心配もなかった。怒りすら、はっきりとはなかった。ただ、またか、という疲れたような色だけがあった。俺が何かをしたからこうなったのだと、もう決まっている目だった。
「自分のお金で買い替えてね」
母が言った。
声は静かだった。
怒鳴られるよりも、ずっと嫌な静けさだった。
「それは貴方の自業自得なんだから」
俺には買い替える金がなかった。
だから翌日も、それを着た。
体育の時間、破れた袖から腕が見えた。袖口が裂けていて、走るたびに布が揺れた。背中には、洗っても消えなかった黒い跡が残っていた。汚れは薄くなっていた。けれど薄くなったことで、かえって長く残るものに見えた。
誰かが見た。
笑い声がした。
俺は振り返らなかった。
振り返らないことだけが、まだ自分に残された最後の動作のような気がした。振り返れば、何かが確定する。誰が笑ったのかが分かる。分かったら、その顔を忘れられなくなる。だから見なかった。見なかったのに、声だけは残った。
着替える時は、トイレの個室まで行って着替えた。
体操着を脱ぐと、家でできた痕が見えたから。
触らなくても、そこにあるのが分かった。布が離れるたびに、皮膚が空気に触れた。空気に触れただけで、昨日の手の形が戻ってきた。急いでシャツを下ろした。
見られたかどうか分からなかった。
分からないことが、一番長く残った。
見られたなら、誰に見られたのか。
見られなかったなら、なぜ誰も気づかなかったのか。
どちらでも苦しかった。
事件の後、家の中の空気も変わった。
父と母は、俺を挟んで責め合うようになった。
誰がこんなふうに育てたのか。
どちらのせいなのか。
何が悪かったのか。
どこで間違えたのか。
食卓で声がぶつかった。茶碗の音が大きくなった。箸が置かれる音で肩が固まった。父が新聞を畳む音。母が流しに皿を置く音。椅子の脚が床を擦る音。全部が、次に何かが起きる合図みたいに聞こえた。
俺の名前が出ると、口の中が乾いた。
やがて、言い争いの最後は必ず俺に戻ってきた。
お前が。
お前のせいで。
お前があんなことをしたから。
お前が黙っているから。
お前が嘘をつくから。
お前が泣くから。
お前が。
お前が。
お前が。
顔を殴られると、頬の内側を噛んだ。
噛むと血の味がした。
その味には、もう新しさがなかった。舌が知っている味だった。口の中で、鉄みたいなものがゆっくり広がった。飲み込むと喉が熱くなった。吐き出すと怒られる気がした。だから飲み込んだ。
壁にぶつかると、背中に遅れて痛みが来た。
すぐには痛くなかった。
まず音がした。
次に息が止まった。
それから少し遅れて、背中の奥で鈍いものが広がった。
腕を掴まれると、次の日まで指の跡が残った。指の形は、最初は赤く、それから青くなり、やがて黄色っぽくなった。治っていく色なのに、治っている感じはしなかった。体が時間をかけて、暴力を別の色に変えているだけだった。
風呂に入る時、体についた痕を見た。
湯が触れると、皮膚が縮む場所があった。
痣は押すと痛かった。
押さなくても痛いものもあった。
火傷の跡は赤いものも、茶色く残ったものもあった。治りかけのところをタオルで擦ると、息が止まった。声は出さなかった。家の中で声を出すことは、何かを呼び寄せることだった。
鏡には、痕だけがよく映った。
鏡は、俺の顔よりも傷を覚えているようだった。俺という人間を映すのではなく、俺に何が起きたかだけを正確に映した。けれどそれも、誰かに見せれば別の意味になるのだと思った。
そう言われるところまで、最初から決まっている気がした。
学校では、俺は盗んだ人間だった。
家では、盗んだ人間を育ててしまった失敗作だった。
俺自身が何をしたのかは、どこにもなかった。
ただ、俺の体にだけ全部が残った。
朝になると、また制服を着た。
袖を通す時、腕の痕に布が触れた。痛みで肩が少し上がった。顔の痣が目立つ日は、前髪を下ろした。口の中の傷が痛む日は、朝食を小さく噛んだ。舌を動かすたびに、古い痛みの場所が分かった。
食卓では音を立てないようにした。
箸を置く時も。
茶碗を持つ時も。
椅子を引く時も。
水を飲む時も。
全部ゆっくりにした。
静かに生きることが、家の中で唯一の防御だった。
けれど、静かにしていると、それはそれで反省していない顔に見えたらしい。
学校へ着くと、下駄箱の前で靴を確かめた。
砂。
紙くず。
小さな石。
濡れたティッシュ。
折れた鉛筆の芯。
何もない日もあった。
何もない日は、安心できなかった。
むしろ、その方が長く息が止まった。
今日はどこにあるのか。
靴ではないなら、机か。
椅子か。
鞄か。
教科書か。
給食か。
体操着か。
筆箱か。
帰り道か。
家に着いてからか。
何もないということは、何もされないという意味ではなかった。
まだ見つけていないという意味だった。
まだ俺が気づいていないという意味だった。
まだこれから起きるという意味だった。
一つずつ確認した。
靴の中。
中敷きの下。
机の中。
椅子の上。
鞄のファスナー。
教科書の間。
ノートのページ。
体操着の袖。
ポケット。
弁当箱。
筆箱。
消しゴムの裏。
確認することが増えるたびに、俺の一日は短くなった。
授業を受ける時間より、罠を探す時間の方が長くなった。
人の話を聞く時間より、音の向きを読む時間の方が長くなった。
黒板を見る時間より、後ろの気配を見ないようにする時間の方が長くなった。
俺は学校へ勉強しに行っているのではなかった。
今日、自分がどこで壊されるのかを探しに行っていた。
子どもたちは、その間も子どもの顔をしていた。
明るく笑った。
給食のおかわりを取り合った。
体育で走った。
休み時間に机を囲んだ。
教師の前では、少しだけ声を変えた。
怒られそうになると、目を丸くした。
泣く者は泣いた。
笑う者は笑った。
知らないと言う者は、知らない顔をした。
その顔は、本当に子どもの顔だった。
牛乳を飲み、プリントを配り、鉛筆を削り、掃除の時間にふざけ、先生に怒られると少し口を尖らせる、普通の子どもの顔だった。
その普通の顔で、俺の世界を少しずつ壊した。
俺は何もしていなかった。
けれど、何もしていないことは、何の証明にもならなかった。
放課後、誰もいない教室で鞄を見た。
ファスナーが少し開いていた。
ほんの少しだった。
手を入れればすぐ閉じられる程度だった。
けれど、その隙間を見た瞬間、胃のあたりが固まった。
中を見る前から、もう体が知っていた。
何かがある。
あるかもしれない。
あるはずがない。
でも、あるかもしれない。
この順番で考えた。
手を伸ばした。
途中で止まった。
指先に、画鋲が刺さった時の感覚が戻った。
足の裏ではなく、指先に戻った。
おかしなことだった。
でも、体は場所を間違える。
痛みだけを覚えていて、その痛みがどこから来たのかを忘れる。
口の中に金属の味が戻った。
靴の中に砂がある時の足裏の感覚が戻った。
体操着の破れた袖が腕に触れる感覚が戻った。
家で殴られた頬の熱が戻った。
風呂の湯が痣に触れた時の皮膚の縮み方が戻った。
戻ってこなくていいものばかりが、正確に戻ってきた。
鞄を開けた。
中には何もなかった。
教科書。
ノート。
筆箱。
プリント。
それだけだった。
何もなかった。
本当に何もなかった。
それなのに、しばらく動けなかった。
何もないことが、安心にならなかった。
何もない鞄の中には、何もないという形をした何かがあった。
見えないだけで、そこにある気がした。
まだ出てきていないだけ。
まだ触れていないだけ。
まだ俺が見落としているだけ。
俺が安心した瞬間に、どこかから出てくるもの。
そう思うと、鞄の底が暗く見えた。
布の奥が深く見えた。
小さな影が、全部何かに見えた。
もう一度、手を入れた。
指先で底をなぞった。
何もなかった。
ポケットを開けた。
何もなかった。
教科書を一冊ずつ出した。
何も挟まっていなかった。
筆箱を開けた。
鉛筆があった。
消しゴムがあった。
定規があった。
それだけだった。
それだけなのに、まだ信じられなかった。
何もないことを確認するために、俺は何度も中を見た。
何度見ても何もなかった。
何もないことが続くほど、だんだん怖くなった。
人は普通、何もなければ安心するのだと思う。
でも俺にとって何もないことは、次の何かが来るまでの空白だった。
窓の外では、部活の声がしていた。
誰かが走っていた。
誰かが笑っていた。
夕方の光が机の上に伸びていた。
机に彫られた文字の溝に、光が入り込んでいた。
ある日、両親は離婚した。
いつ決まったのかは知らなかった。俺が学校へ行っている間に決まったのか、夜、俺が眠っているふりをしている間に決まったのか、それともずっと前から決まっていて、俺だけが最後まで知らなかったのか、分からなかった。
父は家からいなくなった。
母は残った。
俺は母についていくことになった。
そう言われた時、何かを選んだ記憶はなかった。どちらについていきたいかと聞かれた気もする。聞かれなかった気もする。たぶん聞かれたのだと思う。けれど、聞かれたとしても、それは選ばせるための質問ではなかった。もう答えの決まっている質問だった。
俺は母と暮らすことになった。
家の中から父のものが減っていった。
髭剃り。
灰皿。
新聞の置き方。
靴。
低い咳払い。
テレビの音量。
そういうものが一つずつ消えていった。消えていくたびに、家は静かになった。けれど、静かになった分だけ母の声が大きくなった。父がいない家では、母の言葉だけが壁に当たって戻ってきた。
母は、俺を強くしようとした。
心が弱いなら、強くなればいい。
泣くから駄目なのだ。
黙るから駄目なのだ。
やり返せないから駄目なのだ。
人に言えないから駄目なのだ。
お前は弱いから、そういう目に遭うのだ。
母は何度もそう言った。
そして、知らないうちに俺は柔道を習わされていた。
道場の畳は冷たかった。
最初に足を踏み入れた時、藁のような匂いがした。汗の匂いもした。壁には古い賞状が飾られていた。知らない大人が、元気よく挨拶しろと言った。母は俺の背中を押した。
「この子、気が弱くて」
母は笑っていた。
俺の前で、俺のことを説明していた。
「鍛えてやってください」
その言葉で、俺は道場の人間たちに預けられた。母の失敗を修理するものとして。弱いところを叩いて直すものとして。俺の体は、また誰かの手に渡った。
畳に投げられると、背中が鳴った。
受け身を取れと言われた。
できなければ痛かった。
痛がると、情けないと言われた。
泣きそうになると、男だろと言われた。
立てと言われた。
もう一回と言われた。
何度も何度も、同じことをさせられた。
俺は柔道が嫌いだった。
でも、嫌いと言えなかった。
嫌いと言えば、母が泣くことが想像できたから。
「あなたのためなのに」
母はそう言う。
その言葉が頭にチラつき、俺は黙る選択肢しか取れないでいた。
あなたのため。
それは、母が俺に何かを強制する時の、一番強い言葉だった。
柔道も。
勉強も。
習い事も。
進路も。
服装も。
話し方も。
食べ方も。
全部、俺のためだった。
俺のためと言われると、それを嫌がる俺の方が悪くなった。俺のために泣いている母を、俺が傷つけていることになった。母は自分の命令を、母の命令として差し出さなかった。いつも俺の未来の形をして差し出した。
勉強もそうだった。
机の前に座らされた。
問題集を開かされた。
鉛筆を持たされた。
分からないと言うと、母は目を赤くした。
「じゃあ、あなたには何があるの」
その言葉は、怒鳴り声ではなかった。
泣きそうな声だった。
「勉強もできない。運動もできない。人とうまく話せない。黙ってばかりいる。そんなままで、これからどうやって生きていくの」
母は本当に泣いた。
泣きながら、俺に勉強をしろと言った。
泣きながら、俺を責めた。
泣きながら、俺を救おうとした。
怒鳴られるなら、怖いで済んだ。
殴られるなら、痛いで済んだ。
けれど泣かれると、俺は母を泣かせた人間になる。
俺が苦しいのに。
俺が嫌なのに。
俺がやりたくないのに。
母が泣くと、俺が悪いことになる。
だから俺は、鉛筆を握った。
握りたくない鉛筆を握った。
読みたくない文字を読んだ。
解きたくない問題を解いた。
体は机の前にあった。
けれど、どこか遠くにいた。
少しでも嫌な顔をすると、物差しで叩かれた。
薄いプラスチックの、乾いた音だった。
大きな怪我にはならない音。
外から見れば躾に見える音。
でも、その音が近づくたびに、俺の体は先に固まった。叩かれる前から痛かった。母が引き出しを開ける音だけで、指が冷たくなった。
「そういう顔をするな」
母は言った。
「だから駄目なんだよ」
物差しがまた落ちた。
「こうなったのも、全部お前のせいなんだから」
お前のせい。
その言葉は、家の中で何度も使われた。
学校で疑われたのも。
父と離婚したのも。
母が苦労しているのも。
金がないのも。
母が泣くのも。
俺が柔道を習わされるのも。
勉強をさせられるのも。
叩かれるのも。
全部、どこかで俺のせいになった。
俺はまだ子どもだった。
でも、家の中では、家が壊れた理由のように扱われた。
次第に、俺の周りには二つのラベルが貼られていった。
一つは、問題を起こした子。
もう一つは、かわいそうな子。
盗んだ子。
いじめられた子。
反省すべき子。
傷ついた子。
弱い子。
優しい子。
危ない子。
人の痛みが分かる子。
その言葉たちは、矛盾しているようで、いつの間にか一つになっていた。俺は、悪いことをしたから正されなければならない子であり、ひどい目に遭ったから人に優しくなれる子でもあった。罰せられるべき人間であり、同時に美談にできる人間だった。
大人たちは、俺の中に勝手に意味を見つけ始めた。
お前はいじめられていたから、弱い人の気持ちが分かる。
お前は傷ついたから、人の傷に寄り添える。
お前は一人だったから、一人の人を放っておけない。
お前は苦しんだから、誰かを救える。
お前は優しい。
お前は平和の象徴だ。
お前みたいな子が、この世界には必要なんだ。
そう言われた。
何度も言われた。
最初は意味が分からなかった。
なぜ、俺が痛かったことが、誰かの役に立つ話になるのか分からなかった。なぜ、俺が黙っていたことが、優しさになるのか分からなかった。なぜ、俺が何も言えなかったことが、人に寄り添える性質になるのか分からなかった。
でも、大人たちは嬉しそうだった。
母は特に、嬉しそうだった。
俺の苦しみを語る時、母は少しだけ綺麗な顔をした。
あの子は大変だった。
でも、だからこそ人の痛みが分かる。
あの子は昔、無口で、友達もいなくて、弱かった。
でも今は違う。
立派になった。
ちゃんと人の役に立つ道へ進んでくれた。
母はそう言って泣いた。
感動したような涙だった。
その涙を見ていると、俺は自分がどこかに飾られているような気がした。母の苦労が報われた証拠として。壊れた家庭から立ち直った物語として。いじめを乗り越えた子どもとして。母の教育が間違っていなかったことを示す展示物として。
俺は、俺のままではいられなかった。
俺の傷は、俺の傷ではなくなった。
母の涙の理由になった。
母の努力の証拠になった。
周りの大人の安心材料になった。
誰かの感動のための道具になった。
「あんなに駄目だった子が」
母は言った。
「無口で、一人で、何を考えてるのか分からなかったあの子が」
母は泣きながら笑った。
「こんな立派な職についてくれて、本当に感動した」
俺はその横にいた。
母が語っている「あの子」は、俺のことだった。
でも、俺ではなかった。
母の言葉の中で、俺はすでに完成した人間になっていた。過去に苦しみ、努力し、強くなり、人のために生きる道を選んだ人間になっていた。母はその物語に感動していた。周りも、それを良い話として聞いていた。
誰も聞かなかった。
その道を、俺が本当に歩きたかったのか。
その職に、俺が本当に就きたかったのか。
誰かに寄り添う前に、俺自身に誰かが寄り添ったことがあったのか。
俺が弱者の気持ちに寄り添えると言う前に、俺が弱かった時、誰が俺の気持ちに寄り添ったのか。
誰も聞かなかった。
俺が何も言わないからだったのかもしれない。
俺が嫌だと言わないから。
俺が違うと言わないから。
俺がやりたくないと言わないから。
俺が怒らないから。
俺が泣いても、泣くだけで終わるから。
俺が黙るから。
だから、俺の人生は、他人が置いた言葉の通りに固まっていったのかもしれない。
けれど、俺には分からなかった。
どうして自分が、こんなにも何も言えないのか。
言いたいことはあった。
嫌だ。
やりたくない。
俺は強くなりたいわけじゃない。
誰かを救いたいわけじゃない。
平和の象徴になりたいわけじゃない。
人の痛みが分かる人間になりたいわけじゃない。
俺はただ、俺の痛みを俺のものとして扱ってほしかった。
それだけだった。
でも、その言葉は出なかった。
喉の奥には、昔から何かがあった。
トイレの個室で出せなかった声。
職員室の横の部屋で潰れた声。
相手の親の前で土下座した時に飲み込んだ声。
家で殴られながら消えた声。
柔道場の畳に落ちた声。
机の前で物差しの音に潰された声。
それらが喉の奥に固まっていた。
俺が何かを言おうとすると、それが先に動いた。
動いて、言葉の出口を塞いだ。
母は、俺が黙っていることを成長だと思った。
我慢強くなったと思った。
落ち着いたと思った。
人の話を聞けるようになったと思った。
優しくなったと思った。
違った。
俺はただ、言葉を出す前に、その言葉がどう壊されるかを知っていただけだった。
言えば怒られる。
言えば泣かれる。
言えば叩かれる。
言えば失望される。
言えば言い訳になる。
言えば恩知らずになる。
言えば弱いと言われる。
言えば、また母が泣く。
だから黙った。
黙ると、母は安心した。
安心した母は、俺の人生をさらに決めた。
人間の残酷さは、怒鳴る時だけにあるのではなかった。
殴る時だけでもなかった。
泣きながら人を支配する時にもあった。
あなたのためと言いながら、人の逃げ道を塞ぐ時にもあった。
傷ついた人間を見て、その傷から美しい物語を作る時にもあった。
苦しみを、本人の同意なしに意味へ変える時にもあった。
母は俺を憎んでいたのではないと思う。
たぶん、本当に愛していたのだと思う。
だからこそ、逃げ場がなかった。
憎しみなら、拒めたかもしれない。
悪意なら、悪意だと言えたかもしれない。
でも母のそれは、愛の顔をしていた。
涙の顔をしていた。
献身の顔をしていた。
その顔で、俺の人生の上に何度も手を置いた。
その手は温かかった。
温かいまま、重かった。
重いまま、どかせなかった。
俺は大人になった。
周りは、それを克服と呼んだ。
母は、それを成長と呼んだ。
誰かは、それを希望と呼んだ。
俺は、それを何と呼べばいいのか分からなかった。
ただ一つだけ分かっていた。
俺は、自分で選んだ場所に立っている気がしなかった。
誰かが貼ったラベル。
誰かが流した涙。
誰かが決めた物語。
誰かが望んだ救済。
その全部が、俺の背中を押していた。
押されて、押されて、押され続けて、気づいた時にはそこにいた。
そして母は泣いた。
「よかったね」
そう言った。
「あなたは人の気持ちが分かる子だから」
俺は笑った。
笑ったのだと思う。
笑う以外の表情を、その場で選ぶことができなかった。
母はその笑顔を見て、また泣いた。
俺はその涙を見ながら、喉の奥にあるものが、まだ動かないことを確認していた。
言葉は、やはり出なかった。
出ないまま、俺は優しい人間になった。
出ないまま、俺は強い人間になった。
出ないまま、俺は人に寄り添える人間になった。
出ないまま、俺は母の誇りになった。
そして、出ないままの俺だけが、最後までどこにも行けなかった。
そしてある日、俺は母の望む就職の面接を受けた。
母は朝から少し落ち着かなかった。
ネクタイの曲がりを直された。髪を見られた。靴の汚れを確認された。履歴書の入った封筒を何度も確かめられた。頑張ってね、と言われた。あなたなら大丈夫、と言われた。人の痛みが分かるあなたなら、きっと向いている、と言われた。
その言葉を聞くたびに、喉の奥が少し狭くなった。
俺は頷いた。
電車の窓に、自分の顔が映った。
スーツを着た俺がいた。
知らない人間みたいだった。
制服でもなく、道着でもなく、家で黙っている時の服でもなく、母が望んだ未来の形をした服だった。黒い布。白いシャツ。固い襟。首元を締めるネクタイ。座っているだけで肩が凝った。息を吸うたびに、喉に布が触れた。
その建物は清潔だった。
床が光っていた。
受付の人は丁寧に笑った。
案内された部屋には、薄い匂いがした。紙と空調と、消毒液のような匂いだった。椅子は硬かった。机の向こうには、大人が何人か座っていた。彼らは教師ではなかった。親でもなかった。けれど、目の奥にあるものは少し似ていた。
これから俺を測る人間の目だった。
俺は背筋を伸ばした。
手を膝の上に置いた。
指が少し冷たかった。
面接は、思ったより静かに進んだ。
志望理由。
学生時代に力を入れたこと。
長所。
短所。
これからどんな仕事をしたいか。
どれも、あらかじめ用意した言葉で答えた。嘘ではなかった。けれど、本当でもなかった。俺は言葉を選んでいた。選んでいるというより、出してもいい言葉だけを机の上に置いていた。
余計なものは何も出さなかった。
出せば、面倒な人間になる。
出せば、壊れた人間になる。
出せば、扱いにくい人間になる。
出せば、弱い人間になる。
出せば、母の望む道から外れる。
だから俺は、何もなかった人間の顔をして座っていた。
何もなかった人間の声で話した。
普通に学校へ通い、普通に勉強し、普通に進路を考え、普通に人の役に立ちたいと思った人間のように話した。
俺が長い時間をかけて身につけた、一番上手な沈黙だった。
沈黙をきちんと着る技術だった。
そのまま終わるはずだった。
うまくやり過ごせると思っていた。
何も見せずに済むと思っていた。
何も聞かれずに済むと思っていた。
その時、面接官の一人が履歴書から目を上げた。
穏やかな顔をしていた。
悪意のある顔ではなかった。
責める顔でも、疑う顔でもなかった。
ただ、確認するような顔だった。
そして言った。
「特に苦労はしてないんだね」
一瞬、音が消えた。
空調は鳴っていた。
紙をめくる音もした。
誰かがペンを置いた音もした。
けれど、その全部が遠くなった。
言葉だけが、机の上に残った。
音が、ひどく丁寧に並んでいた。
俺は何も言わなかった。
何も言えなかった。
面接官は、ただ言っただけだった。
俺を傷つけようとしたのではなかった。
俺の過去を知らなかった。
俺が話さなかったから、知らないのは当然だった。
読み取れと思ったわけではない。
分かってくれと思ったわけでもない。
俺は何も出していなかった。
何も出さないようにしていた。
だから、何もないと思われるのは当然だった。
当然だった。
当然だったのに。
心の奥で、何かが音を立てずに割れた。
俺が必死に隠した過去は、面接官の目には、何も背負わずに生きてきた平らな人生として映っていた。
そのことが、今までの人生全てを否定された気がしてたまらなく苦しかった。
俺は隠したかった。
でも、なかったことにはされたくなかった。
見せたくなかった。
でも、存在しないものにはされたくなかった。
触れられたくなかった。
でも、触れるものが何もないみたいに言われたくなかった。
矛盾していた。
自分でも分かっていた。
それでも、その矛盾の中にしか俺はいなかった。
言えば壊れる。
言わなければ消える。
どちらを選んでも、俺の過去は俺を助けなかった。
面接官は次の質問をした。
たぶん、普通の質問だった。
けれど、俺にはもうよく聞こえなかった。
口は動いた。
用意していた言葉が出た。
声の高さも、速度も、たぶんおかしくなかった。
俺はまだ面接を受けていた。
受けているふりができていた。
けれど、体の内側では、昔のものが一斉に戻ってきていた。
俺は苦労していなかったのか。
そうなのかもしれない。
誰にも言わなかったから。
履歴書に書かなかったから。
面接で語らなかったから。
泣かずに座っていたから。
ネクタイを締めて、背筋を伸ばして、普通の顔をしていたから。
この人たちの前では、俺は苦労していない人間だった。
俺が一番うまくできることは、何もなかったように見せることだった。
そして、その結果として、俺は何もなかった人間にされた。
それがあまりにも正しかった。
書類と受け答えから導かれた、自然な結論だった。
だから俺は、傷ついたことさえ誰にも言えなかった。
傷つく資格がないような気がした。
自分で隠したのだから。
自分で黙ったのだから。
自分で普通の顔をしたのだから。
それでも、痛かった。
胸の奥が痛かった。
口の中でも、足の裏でも、頬でもなく、もっと奥の、名前のない場所が痛かった。
そこには痣もできなかった。
血も出なかった。
腫れもしなかった。
ただ、周りの人間は違った。
彼らは、自分が苦しんだ過去を財産かのように語っていた。
その種の語りに触れるたび、俺の内側には、はっきりした怒りではなく、もっと輪郭の曖昧な不快が生まれた。
それは嫌悪と呼ぶには湿っていて、嫉妬と呼ぶにはあまりにも冷えていた。軽蔑でもなかった。軽蔑できるほど、俺はその人間から離れていなかった。むしろ、その語りの整いすぎた呼吸の中に、俺自身が決して持てなかったものの形を見せられている気がした。
彼らは、過去を語る時、少しだけ明るい顔をした。
もちろん、笑っているわけではない。むしろ声は低く、表情は慎重で、言葉は丁寧だった。けれど、その慎重さの奥に、どこか発表のために磨かれた滑らかさがあった。苦しみはすでに角を削られ、聞く者の手を傷つけない大きさに整えられていた。
そこが気持ち悪かった。
出来事が語られる。
沈黙が語られる。
孤独が語られる。
それらは、あまりにも自然にその後へ接続される。苦しみは変化の契機になり、傷は他者理解の根拠になり、沈黙は内省の深さになり、孤独は優しさの由来になる。まるで、痛みとは最初から意味へ加工されるために存在していた材料であるかのように。
その変換のなめらかさに、俺はついていけなかった。
本当の不快は、彼らが嘘をついていることにあるのではなかった。たぶん、彼らは嘘をついていない。実際に傷つき、実際に迷い、実際に何かを越えてきたのだろう。だからこそ厄介だった。そこに虚偽があれば、俺はもっと簡単に距離を取れた。
気持ち悪さは、真実が語られているのに、その真実がすでに他人の耳に届く形へ馴致されていることにあった。
傷が、傷のままでは出てこない。
あらかじめ温度を下げられ、輪郭を整えられ、聞き手の倫理に収まりやすい角度で差し出される。そこでは、苦しみはもはや裂け目ではなく、履歴になる。履歴は人格になる。人格は適性になる。適性は役割になる。
そして役割になった瞬間、それはもう本人のものではない。
俺が気持ち悪いと感じたのは、そこだった。
苦しみが、語られうるものとして人前に出てくるまでの間に、すでに何かを失っていることだった。
俺にとって、過去とはそんなふうに取り出せるものではなかった。引き出しの奥から古い写真を出すように、あの時はつらかった、と言えるものではなかった。それはもっと、生活の微細な継ぎ目に沈んでいた。口を閉じる時の癖。足を入れる前に靴を覗く動作。誰かが少し黙った時の胸の収縮。何も起きていない日の、理由のない疲労。
それらは経験として並ばない。
並べた瞬間、別のものになる。
点と点を繋げば線になると、人は思う。けれど、俺の中に残ったものは線ではなかった。点のあいだに沈んでいる、説明に拾われない暗がりだった。出来事の順序ではなく、順序を失った後にも残る身体の歪みだった。
だから、誰かが自分の傷をあまりにも明瞭に語る時、俺はその明瞭さの方に怯えた。
なぜ、そんなに見通せるのか。
なぜ、そんなに区切れるのか。
なぜ、そこに始まりと終わりを置けるのか。
なぜ、自分の苦しみを、聞く者が頷ける大きさにまで縮められるのか。
それは強さなのかもしれない。
けれど俺には、別のものに見えた。
それは、傷が外部の文法に従属した後の姿だった。
他人が理解できるように整えられた苦痛。
社会が受け取れるように脱臭された過去。
善意ある聞き手の前で、過不足なく機能するよう調整された自己物語。
そこでは、痛みはもはや痛みとしてではなく、語り手の信用を補強する証明として働いていた。
俺はそこに、奇妙な清潔さを感じた。
清潔すぎる苦しみ。
整いすぎた傷。
聞き手を汚さない過去。
その清潔さが、どうしようもなく気持ち悪かった。
本当に汚れたものは、そんなふうに人前へ置けないはずだと思っていた。置いた瞬間、周囲の視線に合わせて形を変えてしまう。共感されるために角度を変え、評価されるために温度を変え、意味を持つために余白を失う。
そして余白を失った苦しみは、もう本人の苦しみではなくなる。
それは、聞き手が安心するための苦しみになる。
人は壊れても、やがて言葉にできる。
言葉にできれば、整理できる。
整理できれば、乗り越えられる。
乗り越えられれば、誰かの役に立てる。
その連鎖を見せられるたび、俺の中の何かが、静かに後退した。
彼らが見たいのは、傷ではない。
傷が傷でなくなる瞬間だ。
それが分かった時、俺はその場の共感の明るさに、ほとんど耐えられなくなった。
俺の過去は、まだそんな場所へ出ていける形をしていなかった。
いや、たぶん、最初からそんな形にはならないものだった。
語れば失われるもの。
語らなければ存在しないものにされるもの。
そのどちらにも置けないものだけが、俺の内側で、いつまでも名前を拒んでいた。
なぜ俺は、今まで黙ることしか選べなかったのだろう。
言葉がなかったわけではない。
むしろ、言葉になる前のものだけが多すぎた。多すぎて、どれか一つを選んだ瞬間、残りすべてを裏切る気がした。傷は一つではなかった。出来事でもなかった。理由でもなかった。体の奥で互いに絡まり、ほどけることを拒んだまま、ただ重さだけを残しているものだった。
それでも世界は、証明できる形を要求する。
ただ、俺の苦しみには、使い道がなかった。
誰かを救うためでもなかった。
強くなるためでもなかった。
優しくなるためでもなかった。
母を安心させるためでも、社会に認められるためでも、面接で語るためでもなかった。
では、俺は何のために傷ついたのか。
その問いだけが、どこにも落ちずに宙に残った。
傷ついたのに、意味がない。
耐えたのに、価値にならない。
黙ったのに、強さにならない。
生き延びたのに、物語にならない。
世界は、意味を持った苦悩しか見ない。証明された不幸しか拾わない。語られた傷しか数えない。そして同じように、証明できる幸福を持たない人間もまた、そこにいないものとして扱われる。
不幸を提示できない。
幸福も提示できない。
苦しみを財産にできない。
救済を成果にできない。
そういう人間は、世界のどの帳簿にも載らない。
俺はその余白にいた。
何も言えない今も、まだそこにいる。
言葉の手前で、意味の手前で、承認の手前で、傷だけが行き場をなくして浮いている。
誰にも使われない代わりに、誰にも認められないものとして。
俺は、なんのために生まれてきたのか分からなくなった。
それは問いではなかった。
答えを求める声ではなく、答えという形式そのものが腐って落ちた後に残る、白い空洞だった。
人は、傷ついた理由を探す。苦しんだ意味を探す。生き延びたことに価値を貼ろうとする。だが、それはいつも、生き残った者をもう一度世界に差し出すための言葉だった。お前は苦しんだから優しい。お前は傷ついたから人に寄り添える。お前は孤独だったから、孤独な人間を救える。
違う。
俺は救うために壊れたのではない。
誰かに分かるために黙ったのではない。
平和の象徴になるために、あの場所で息の仕方を忘れたのではない。
苦しみは、種ではなかった。
そこから何かが芽吹くような、都合のいい土ではなかった。
それはただ、体の奥に打ち込まれた、使い道のない黒い釘だった。抜けば血が出る。残しておけば錆びる。語れば飾られる。黙ればなかったことにされる。どちらにしても、俺のものではなくなる。
世界は、俺に意味を要求した。
その問いのすべてが、俺には薄汚れた勘定に見えた。
生まれたことすら、後から利益を出さなければ許されないのか。
存在とは、そんなふうに回収されるべき負債なのか。
俺は何も持っていなかった。
証明できる不幸もなかった。
証明できる幸福もなかった。
差し出せる苦悩も、語れる克服も、誰かを慰めるための物語もなかった。
ただ、あったはずの痛みだけが、他人の言葉に触れるたび形を失っていった。
ならば、俺はどこにいたのだろう。
世界の帳簿に載らない者は、本当に生まれたと言えるのだろうか。
誰にも理解されない苦しみと、誰にも祝福されない幸福のあいだで、俺はずっと未登録のまま宙に吊られていた。名前はあった。体もあった。過去もあった。だが、それらは俺をこの世に結びつけるには、あまりにも弱かった。
生まれてこなければよかった。
その言葉は、死にたいという願いではなかった。
もっと冷たく、もっと古い、世界への異議だった。
最初から、この形式の中へ投げ込まれなければよかった。
意味を求められる場所に、意味を持たない傷として置かれなければよかった。
幸福を証明しなければ幸福と認められず、不幸を説明しなければ不幸と数えられない場所に、呼ばれなければよかった。
俺は、生きることに失敗したのではない。
生まれたことが、すでに俺の知らない誰かの文法へ登録されることだった。
その文法の中で、俺は最後まで読まれなかった。
読まれないまま、解釈だけされた。
解釈されるたびに、俺は少しずつ俺でなくなった。
だから今、俺が分からないのは、人生の目的ではない。
この世界が、なぜ俺を生んだことにしておきながら、俺の痛みだけを最後まで存在させなかったのか。
その一点だけだった。
それらすべてが、俺に何者かになりたいという衝動を与えた。
それは希望ではなかった。
もっと暗く、もっと遅れてやってくる、傷の発酵のようなものだった。
何かを望んだのではない。何かにならなければ、このまま世界の余白に落ちたまま、誰にも読まれず、誰にも誤読すらされず、ただ存在しなかったものとして処理される気がした。だから俺は筆を持った。選んだのではない。そこにだけ、まだ手が届いた。
理想の世界を見るように、文字を書いた。
けれど、その理想は明るいものではなかった。
ただ、俺の苦悩が、少なくとも俺の苦悩として置かれる場所だった。誰かの感動にも、母の涙にも、面接の評価にも、弱者への理解にも、平和の象徴にも変換されない場所。痛みが、痛みであることを許される場所。意味になり損ねたものが、意味になり損ねたまま、そこに沈んでいられる場所。
俺は結末を知っていた。
書いたところで、世界は変わらない。
それでも俺は、初めて世界に対して苦悩を差し出したのだと思う。
語るためではなかった。
分かってもらうためでもなかった。
ただ、沈黙の内側で腐っていくものを、もうこれ以上、自分の体だけに閉じ込めておけなかった。言葉は救済ではなかった。むしろ、救済にならないことを知りながら、それでも選ばされた最後の損傷だった。
そして、そのすべてを否定した人間が、ここに吊るされて死んでいる。
それは敵ではなかった。
たぶん、俺の中にいた。
俺の言葉を信じず、俺の沈黙を疑い、俺の傷を価値に変えようとし、俺の苦悩に使い道を求め、俺が何者かになろうとするたびに、それはまた世界の道具にすぎないと囁いたもの。
俺は、扱いやすい道具なのだろう。
どの名前も、俺を少しだけ救うふりをして、俺を少しずつ固定した。そこから外れることは、いつも罪だった。期待された苦悩から外れること。役に立つ傷から外れること。美しい沈黙から外れること。優しい人間であることから外れること。
空白に足を踏み入れた者は、もう元には戻れない。
そこにはまだ名前を与えられていない痛みがあり、まだ物語にされていない傷があり、まだ誰にも使われていない沈黙がある場所だった。そこへ一度でも足を入れた者は、世界がどれほど出来合いの言葉で成り立っているかを知ってしまう。
だから戻れない。
戻るとは、もう一度、与えられた名前を信じることだから。
それが、言葉を読む目的になるきっかけだったのだと、今なら分かる。
誰も足を踏み入れないから読む。
誰も戻れないから読む。
ただ、世界が世界として閉じてしまう、その継ぎ目に指をかける行為だった。言葉の奥にある空白を覗き込み、そこに触れた者が、なぜ二度と無垢な場所へ帰れないのかを確かめる行為だった。
世界は、こんな形しか取れない。
誰かを役割にし、傷を物語にし、沈黙を美徳にし、苦悩を資格にし、言葉を檻にする。
その檻の中で、たまたま目的が生まれてしまう人間がいる。
俺は、たぶんそれに過ぎない。
選ばれたのではない。
救われたのでもない。
ただ、傷が腐りきる前に、偶然、筆へ流れただけだった。
それを人は才能と呼ぶのかもしれない。
使命と呼ぶのかもしれない。
克服と呼ぶのかもしれない。
けれど俺には、それがまだ、あの時から続く痛みの別の形にしか見えなかった。
俺の人生は、最初からこの一点へ向かって斜めに傾いていたのではないかと思う。
偶然ではなく、選択でもなく、もっと冷たいもの。まだ名前を持たない頃から、すでに俺の内側には、こうなるための亀裂が入っていたのではないか。生まれた瞬間から、俺はどこかへ進んでいたのではなく、ある暗い結論へ向かって、ただ遅れて到着しつつあっただけなのではないか。
なぜ俺は、自分など存在しないと知っているのに、自分が存在していることだけは否定できないのだろう。
自分。
その言葉ほど疑わしいものはない。
それは記憶の束であり、習慣の残響であり、肉体に一時的に貼りついた視点であり、他人の呼び声によって仮止めされた薄い膜にすぎない。なのに、その膜の内側からしか世界は開かれない。俺は俺を信じていない。だが、俺であることの恐怖からは逃れられない。
世界は、たぶんただの形式なのだ。
論理。
数。
関係。
反復。
因果。
冷えた骨格。
そこには本来、幸福も不幸もない。愛も憎しみもない。救済も破滅もない。ただ配置があり、運動があり、変化があり、消滅があるだけだ。にもかかわらず、その数学的な骨格の内側で、俺は怯えている。意味のない構造に、意味を求める肉として貼りつけられている。
俺は誰なのか。
いや、誰でもない。
一時的に肉へ固定された錯覚。
神経の暗がりに灯った、すぐ消える仮の明かり。
それなのに、この仮の明かりが消えれば、俺にとって世界は終わる。
世界そのものは残るのだろう。
朝は来る。
街は動く。
他人は笑う。
政治はくだらない言葉を増やし、資本はまた別の欲望をつくり、誰かは恋をし、誰かは子を産み、誰かは今日も何も知らない顔で生きていく。
だが、俺にとっては終わる。
完全に終わる。
この一点だけが、どんなものよりも恐ろしい。
肉体が壊れれば、俺の論理空間も閉じる。読んだ本も、選ばなかった言葉も、夜中に震えた指も、愛せなかったものも、憎みきれなかったものも、苦しみの形を確かめようとして費やした思考も、すべてが一つの暗転へ吸い込まれる。
だったらなぜ与えられたのか。
なぜ、世界の構造に触れる能力など与えられたのか。
失うためだけに。
消えるためだけに。
一瞬だけ、無限に似たものを考えさせられ、その直後に有限の檻へ押し戻される。この意識という装置は、あまりに悪趣味だ。滅びるものに永遠を考えさせる。死ぬものに死を予感させる。消えるものに、消えることの意味を問わせる。
夜中に目を覚ます。
身体は汗で濡れている。
布団の中で、俺の肉体は俺より先に恐怖を知っている。胸が鳴り、喉が狭くなり、手のひらが冷えている。俺は叫びそうになる。いや、すでに叫んでいるのかもしれない。ただ声だけが、いつものように喉の奥で迷子になっている。
永遠に消える。
二度と戻らない。
時の終わりまで、俺という形式は組み直されない。
その考えを追い払おうとして、胸を叩く。
だが叩いているのは身体ではない。
死そのものだ。
死は外からやって来る出来事ではない。病気でも、事故でも、老いでもない。それらは死が現れるための扉にすぎない。死は最初から俺の中に住んでいた。俺が生まれた時、死もまた同じ肉の中へ入った。俺たちは生き始めたのではない。死へ向かう時間を、意識と呼ぶ形式で数え始めただけだった。
老いとは、その列が少しずつ前へ進む音だ。
最初に若さが奪われる。
次に希望。
次に美しさ。
次に体力。
次に記憶。
次に、誰かを愛せるという錯覚。
そして最後に、俺という名札だけが剥がされる。
祖父母が死ぬ。
両親が死へ近づく。
すると、時間の遠近法が壊れる。
子どもの頃、死は世界の端にあった。テレビの向こう、病院の向こう、老人の顔の向こうにあった。だが、ある日それは近づいてくる。近づいてきたのではない。最初からこちらへ向かっていたものを、俺が見ないようにしていただけだった。
斧は、ずっと振り上げられていた。
ただ、若さがその影を隠していただけだった。
古い映像を見る。
工場の門から出てくる人々。
市場を歩く女。
帽子をかぶった男。
乳母車を押す母親。
笑う子ども。
八十年前の写真の中で、こちらを見ている全員が、もういない。
あれは記録ではない。
彼らもまた、自分が写真の中で死者として見られる日を知らなかった。今日の昼食のことを考え、帰り道の天気を気にし、家族の機嫌を読み、少しだけ未来を信じていたはずだ。そのすべてが今では、一枚の紙の上で沈黙している。
人間は、深淵から記憶もなく放り出される。
少しだけ世界を見せられる。
苦しみ、欲望し、言葉に騙され、何者かになれるという形式を与えられ、家族、国家、愛、仕事、思想、文学、救済、そういう名札を順番につけられる。
そして最後には、何もなかったように消される。
まるで最初から存在していなかったかのように。
だったら言葉とは何だったのか。
救済とは何だったのか。
思想とは何だったのか。
愛とは何だったのか。
たぶん全部、処刑場の壁に描かれた絵だった。
死刑囚を落ち着かせるための、粗末で美しい絵。
人間は形を作る。
だが、それは世界を理解するためではない。
自分が殺される場所にいることを忘れるためだ。
文明とは、死を消したものではない。
死を待つ場所を、少しだけ清潔に飾ったものだ。
俺たちはその中で、進歩と呼ばれる椅子に座り、幸福と呼ばれる雑誌をめくり、愛と呼ばれる隣人の体温に触れ、意味と呼ばれる番号札を握りしめ、自分の順番が来ないふりをしている。
だが順番は来る。
その時、どれほど多くの言葉を集めていても、どれほど深く考えていても、どれほど人を愛していても、どれほど傷ついていても、すべては同じ暗さへ落ちる。
俺はそれを知ってしまった。
だから、もう清潔な希望には戻れない。
どの言葉にも死臭がある。
どの善意にも処刑台の影がある。
どの未来にも斧の刃がある。
夢という言葉の背後には老いがあり、愛という言葉の背後には喪失があり、成長という言葉の背後には腐敗があり、救済という言葉の背後には、救済されるべき者すら消えるという事実がある。
それでも俺は考えている。
考えることをやめられない。
存在しないはずの自分が、存在していることに怯えながら。
消えるためだけに与えられた意識で、消えることの意味を考えている。
なんという悪趣味な構造だろう。
世界とは、俺が目を閉じるまで続く拷問なのかもしれない。
しかもその拷問は、最後に被害者すら消す。
苦しんだ者がいた、という事実さえ、俺にとっては失われる。
そこには救済もない。
審判もない。
神もいない。
ただ、何もなかったかのような静けさだけが残る。
そしてその静けさは、俺の不在を悲しまない。
世界は、俺が消えた後も、たぶん美しい。
そのことが一番残酷だった。
死体の顔を見た。
そこには、もはや彼はいなかった。だが、彼がいないという事実だけが、あまりにも彼のものとして残っていた。存在の退去が、存在以上に濃密な署名となって、顔面の上に沈殿していた。
交換不可能なものを与えたはずだった。
いや、与えたのではない。奪ったのでもない。もっと悪い。交換という形式が成立するために必要な受取人を、あらかじめ消去してしまったのだ。贈与も、謝罪も、罰も、償いも、すべては宛先を必要とする。だが彼の意識は、もうこの世界のどこにも開かれていない。彼に何かを刻むための内面はなく、彼に意味を返すための時間もない。
それでも、顔は残っている。
この残り方が、あまりにも卑劣だった。
意識には何も届かない。だが表面には意味が届いてしまう。脳はそれを見逃さない。人間の脳は、空白を空白のままにしておけない。死者の沈黙に輪郭を与え、閉じた視点に物語を貼り、消滅した一人称を三人称の記号へと変換する。彼はもう世界を見ていないのに、世界は彼の顔を見てしまう。そして見てしまった瞬間、死体はただの物質ではなくなる。そこに、交換不可能性という名の余剰が発生する。
なんてよく出来ているのだろう。
脳は、死者を理解しているのではない。ただ、理解できないものを理解の形式へと加工しているだけだ。神経系は、耐え難い欠如を、耐えうる表象へと変換する。意識の消滅という絶対的な断絶を、顔、名前、皮膚、重さ、沈黙、事件、記憶、罪、祈りといった薄い膜で覆う。そうして初めて、生者は死者の前で崩壊せずに立っていられる。
だが、その膜は救済ではない。
それはむしろ、救済の不可能性を覆うための包帯。彼には何も返せない。にもかかわらず、何かが返されたかのような構図だけが残る。彼のためではなく、こちら側の世界が壊れないために。死者のための意味ではなく、生者の神経系が自己を保つための意味。交換不能なものが、交換可能な記号へと堕ちる瞬間。そこに倫理が生まれるのではない。倫理の失敗だけが、遅れて倫理の顔をして現れる。
そして、その失敗を引き受けるのは、いつも弱い者なのだと思う。
弱者とは、単に奪われる者ではない。構造の外側に余ったものを、なぜか自分の内部へ受け入れてしまう者のことだ。制度が処理し、言葉が分類し、共同体が慰め、法律が閉じたあとにも、なお閉じきれずに残る漠然とした残余。罪とも呼びきれず、罰とも呼びきれず、記憶とも呼びきれず、ただ存在の底に沈む黒い沈殿。それを、自分とは関係がないと言い切れない者。
意味を使用する者と意味に使用される者。
何処へ行っても、世界は二分されていた。
だから死体の顔を見た者は、しばしば生き残ったのではなく、死者の不可能性を代理で生きることになる。彼の意識には何も刻まれない。だからこそ、その刻まれなかったものが、こちら側に刻まれる。彼が失った未来ではなく、彼に未来が失われたという構造そのものが、こちらの中に棲みつく。
そのとき、目的と呼ぶしかない異物が形成される。
目的とは未来への意志ではなく、崩壊を延期するための仮設足場である。意味とは救いではなく、意味なしに耐えられない神経系の痙攣である。使命とは選ばれた者の光ではなく、捨てられた残余を誰かが背負ってしまったときに発生する、遅延された自己破壊の別名である。
俺は、その顔を見ていた。
見ているのではなく、見させられていた。
死体の頬に貼りついているはずの紙は、もうそこにはなかった。
床に落ちていた。
白かったはずの紙は、体液と埃と床の湿りを吸って、薄い皮膚のようにふやけていた。文字は読めなかった。インクは滲み、紙の繊維の奥へ沈み、そこに書かれていたはずの言葉は、最初から存在しなかったもののように崩れていた。
俺はそれを見下ろしていた。
読めなかった。
読めないことに、少しだけ安心している自分がいた。
その安心が、一番気持ち悪かった。
俺は死んだ人間を道具にしたのだ。
俺を道具のように扱った世界への復讐として。
俺を言葉で縛り、意味で飾り、役割として運び、傷を勝手に使い、沈黙を勝手に読んだ人間たちと、同じことをした。
反論できない体に、反論できない言葉を貼った。
もう声を持たない顔に、世界へ向けた声を背負わせた。
死者の沈黙を、俺の文章の余白にした。
それは告発ではなかった。
祈りでもなかった。
まして救済などではなかった。
ただ、届かないと分かっている言葉を、届かない場所へ送るために、俺は死者を利用した。
なぜそんなことをしたのか分からなかった。
届かないことは知っていた。
読まれないことも知っていた。
読まれたところで、理解されないことも知っていた。
理解されたところで、きっとまた別の物語にされることも知っていた。
それなのに俺は、この場所を作った。
観覧車の一室に死体を吊るし、その顔に紙を貼り、世界へ言葉を送ろうとした。
不思議でならなかった。
俺は、まだ何かが届くと信じていたのだろうか。
それとも、届かないことを証明するために、わざわざ言葉を置いたのだろうか。
誰にも読まれない言葉。
誰にも返されない声。
誰にも弁護されない死体。
そこに、俺の人生の縮図があった。
床の紙は、もう沈黙よりも汚れていた。
死体の顔は、文字を失っていた。
死者は死者に戻っていた。
俺が与えたはずの意味だけが、床に落ちて腐り始めていた。
俺は部屋を出た。
観覧車は止まっていた。
いや、止められていたのかもしれない。
巨大な円環は、世界の失敗した祈りのように沈黙していた。回るために作られたものが回らない時、それはただの建造物ではなくなる。目的を失った形式になる。空へ向かうはずだった箱たちは、どれも中途半端な高さで止まり、それぞれの部屋に、それぞれの死を抱えたまま揺れていた。
俺は次の扉に手をかけた。
重かった。
押しても動かなかった。
両手で押した。
肩を入れた。
全身で押した。
金属が軋んだ。
古い骨が鳴るような音がした。
俺は息を切らしながら、それでも押し続けた。
なぜ俺は進もうとしているのだろう。
この場所が何なのか知りたいからか。
それだけなのか。
ただ疑問があるから、部屋から部屋へ移っているのか。
ならば俺は、世界と何が違うのだろう。
世界もまた、知りたいふりをして、触れてはいけないものを開けてきた。意味を求めるふりをして、沈黙を剥がしてきた。理解の名で傷を分解し、救済の名で死者に役割を与え、問いの名で誰かの痛みを覗き込んできた。
俺はそれを憎んでいたはずだった。
なのに今、俺は次の部屋を開けようとしている。
そこに何があるのかを知るために。
誰が吊られているのかを確かめるために。
どんな言葉が貼られているのかを読むために。
俺は、世界の側にいる。
この観覧車が回らなくなったのも、そういうことなのかもしれない。
回るべきものが回らないのではない。
進むべきものが、進むたびに同じ場所へ戻ってくるだけなのだ。
俺は扉を押した。
金属がさらに深く軋んだ。
隙間から、別の部屋の匂いが流れてきた。
生きているものの匂いではなかった。
だが、完全に死んだものの匂いでもなかった。
俺はその匂いを吸い込んだ。
口の奥に、もうないはずの血の味が戻った。
そして扉が、ほんの少しだけ開いた。




