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三国志異伝~演算する剣鬼(守銭奴)~最強の秘書官・李司が通る道には死体と領収書しか残らない~  作者: 斉宮 柴野


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第二十七話:桃園の詐欺師と、踊る妊婦

人を惹きつける男は、必ずしも清廉ではない。

むしろ、どこか壊れていて、嘘くさく、放っておけないからこそ、人はついていく。

徐州の夜、そのことを最もよく知る者たちが、酒の席の隅で静かに杯を重ねていた。

徐州城の大広間は、いまや完全に宴会という名の災害現場と化していた。


部屋の中央では、天下無双の暴将と天下一品の胡散臭さを漂わせる男が、親しげに肩を組みながら濁酒をあおっている。片や呂布奉先。片や劉備玄徳。


外見だけを切り取れば、どちらも絢爛たる英雄絵巻から抜け出してきたような偉丈夫だ。しかし、その実態は絵巻の筆者も頭を抱えるほどにかけ離れている。呂布はあらゆる事象を己の筋力で解決しようとし、劉備は底知れぬ口八丁で他者の財布をいともたやすくこじ開ける。方向性こそ違えど、周囲の苦労人に絶大な胃痛をもたらすという一点において、二人は見事なまでの共鳴を果たしていた。


「呂布将軍!いやあ、飲みっぷりが気持ちいいねえ!さすがは天下無双だ!」


「ガハハハ!劉備殿もなかなかだ!見た目は細いが、腹の中に酒樽でも入ってるのか!?」


「入ってるのは志さ!あと多少の見栄と、ちょっとした嘘!」


「はっはっは!正直でいい男だな!」


果たしてそれを正直と称賛して良いものか。遠巻きに控える兵卒たちでさえ、引きつった笑いを浮かべている。だが、劉備という男は周囲の困惑など意にも介さない。それどころか、己自身が創り出した熱狂の渦に誰よりも心地よく酔いしれている。意図的なのか無自覚なのかすら測らせないまま、場の空気を強引な笑いと勢いで呑み込んでしまう。これこそが、彼の最も厄介な底知れなさであった。


鼓膜を揺らす喧騒からわずかに距離を置いた壁際。そこには、張飛と陳宮が静かに向かい合って座っていた。両者ともに手には杯を握っているが、中央で乱痴気騒ぎを繰り広げる二人のように酒気には呑まれていない。否、呑まれるわけにはいかないのだ。ここで理性を手放せば、最終的な後始末の全権が己の肩にのしかかることを、彼らは骨の髄まで理解している。


張飛は手元の杯に揺れる波紋を見つめたまま、焦点の合わない虚ろな瞳をしていた。生来の鋭い眼光は息を潜め、過去の苦い記憶を反芻して胃液を逆流させている男の、深い疲労感だけがそこに張り付いている。


「陳宮殿」


「なんでしょう」


「世間でよく言う『桃園の誓い』って、美談だと思うか?」


「もちろん、聞き及んでおります。劉備、関羽、張飛の三義兄弟が、満開の桃花の下で天下万民のために義の契りを結んだ……乱世に咲いた美談、その代表格でしょう」


「そうだよな」


張飛は重々しく一度だけ頷き、杯の酒を一息に喉の奥へ流し込んだ。空になった盃を静かに置く理性などとうに消え失せている。やり場のない激情を持て余した手は、暴力的な音を立てて卓上に陶器を叩きつけた。


「世間じゃそう言われてる。だがな、陳宮殿。あの桃園、もともと俺の私有地なんだよ」


「……はい?」


「しかも、兄者が勝手に売った」


「…………はい?」


誰が、誰の不動産を、いかなる手段で売却したというのか。状況の異常性に情報処理がまったく追いつかないのだ。


張飛はその狼狽ぶりを目の当たりにしてわずかに溜飲を下げたようだったが、瞬時にまた元の渋面へと戻った。


「いや、信じられねえだろ?俺も信じたくねえよ。だが事実なんだ。世間が持て囃す美しい桃園の誓いってやつの裏にはな、俺の涙と、俺の財布と、俺の親の遺産がぎっしり詰まってるんだ」


「詳しく、お聞かせ願っても?」


「言うさ。言わせてくれ。誰かに言わなきゃ、やってられねえ」







◇◇






時を遡ること数年。若き日の張飛は、有り余る血気と腕力を誇りつつも、世の不条理という猛毒をまだ知らずに生きていた。肉屋の若旦那として財力にも土地にも恵まれ、生活に困窮する未来など微塵も想像していなかった。自身の広大な私有地が、見ず知らずの男の甘言によって勝手に売却され、その代金の大半が酒と女の遊興費に消え去るなどという地獄の結末は、彼の人生設計のどこにも存在しなかったのだ。


麗らかな春の昼下がり。丹念に手入れされた桃園は、その年も視界を埋め尽くすほどの見事な薄紅色の花を咲かせていた。資産価値としても申し分ないその敷地内を歩きながら、張飛は確かな満足感に浸っていた。己の領分の平穏を疑わなかった、最後の日である。


視界の端、園の片隅で、一人の男が芝居がかった手つきで天を仰ぎ、深く長い嘆息を漏らしていた。張飛は当時の光景を脳裏に再生させ、忌々しさに深く眉間を刻み込む。


「もうな、第一印象から胡散臭さの塊だったんだよ。桃の花びらがひらひら舞い散る中で、わざとらしく空を見上げて、ひどく様になるため息をついてやがる。なんだこいつ、三文芝居の最中か?って思ったね」


「それが、劉備殿ですか」


「そう。兄者だ」


張飛は視線だけで遠くの劉備を射抜く。当の本人は強烈な殺気に気づく様子もなく、「さあ奥方、もう一周!」などと貂蝉の手を取って優雅に舞っている。陳宮は険しい表情を作った。身重の婦人に何をさせているのだ、あの男は。


「それで俺は声をかけたんだよ。『こんないい天気にため息なんかついて、男としてどうなんだ』ってな。そしたらあいつ、ゆっくり振り向いて、見事に両目を潤ませてみせやがった」


若き日の劉備は、憎らしいほどに容姿が整っていた。その造作は、憂いを帯びた善人そのもの。そこに涙の膜が張られるのだ。天賦の才か計算か、その哀愁は人の良心を容赦なく抉ってくる。


「あの時の俺は、まだ若すぎたんだ……」


張飛は懺悔するように深い息を吐き出した。


「『私はこの国のために何もできない己の無力さを嘆いているのです』とか、やけにしおらしい声で囁くんだぜ。『黄巾の乱で罪なき民が苦しんでいるというのに、私には彼らを救う力がない』ってな」


「……うまい」


陳宮の口から、感嘆の吐息が漏れた。むろん、その高潔さを讃えたのではない。人心掌握の鮮やかな手口に対する、純粋な戦慄である。


「だろ?俺、その時点で半分くらい絆されてた。『こいつ、顔だけじゃなくて志まで立派かよ』って。いま思えば、あの瞬間に顔面へ拳を叩き込んで真偽を確かめておくべきだった」


「それを初対面の相手に実行するのも、少々問題かと思いますが」


「いまの俺なら躊躇なくやるね」


当時の張飛には、他者の底意を見透かす処世術が欠けていた。真っ直ぐすぎる情の厚さは、高潔な志に触れれば熱く燃え上がり、困窮する者を見れば手を差し伸べずにはいられない。劉備は、そうした人間の良心という弱点を嗅ぎ分ける能力において、神域に達していた。


二人は自然な流れで酒を酌み交わした。張飛は熱に浮かされたように「国を憂うなら話を聞かせてくれ」と身を乗り出し、劉備は「翼徳殿のような漢に巡り会えるとは」と、警戒心を撫で下ろすように距離を詰めていく。


「数時間後には、俺は完全に盤上に乗せられてた」


「兄者は話が異常にうまい。天下の情勢、民の窮状、漢室の衰退、己の無力、そして希望の未来。すべてを絶妙な配合で織り交ぜて語るんだ。しかも途中で、こっちの目を真っ直ぐに見据えて『翼徳殿のような人材がいれば、この国は必ず救える』と断言してくる」


「……極めて危険な猛毒ですね」


「危険だろ?歩く劇薬だよ、あいつは。おまけに最後には、俺の手を両手で固く握りしめてきやがった」


陳宮は苦いものを飲み込んだように顔をしかめる。そこまで緻密に包囲網を敷かれて、正気を保てる自信は自分にもない。標的が血気盛んで財力のある若者であれば、なおのことだ。


「『この崇高な志を達成するには、どうしても初期投資が必要です』って言われたんだ」


「初期投資」


「そう。で、次の瞬間には『翼徳殿、この桃園、素晴らしい立地ですね!非常に高く売れそうだ!』だ」


「展開が急転直下すぎる」


「急すぎるだろ!?」


「俺、その瞬間はさすがに『え?』って思考が停止したんだよ。だが、強い酒も回ってるし、なにより相手の話の熱量が鼓膜を焼き焦がす勢いだった。『天下万民の志のためなら、小さな犠牲は仕方ないか……』って、狂った熱狂の中で思っちまったんだ」


「そして」


「そして、気づいた時には土地の権利書に実印を押してた」


いかに希代の詐欺師であろうと、そこまで一足飛びに他者の財産を簒奪できるものだろうか。だが、目の前で頭を抱える張飛の姿は、悲痛な真実だけを物語っている。


「そこへ、さらに間の悪いことに関羽が通りかかったんだ」


「塩の密売をしてた大柄な男が、俺たちの狂想曲を聞きつけてさ。いきなり『漢室復興の志に深く胸を打たれた!拙者も兄者の大徳にこの身を捧ぐ!』とか言って、勝手に弟分に名乗りを上げたんだよ」


「その時点では、まだ誰の兄でもないでしょうに」


「そうなんだよ!でもあいつ、息を吐くように劉備のことを兄者って呼び始めたんだ。正気の沙汰じゃないだろ?」


恐怖すら覚える図々しさである。


「で、俺が『事業の立ち上げ資金は俺が出すから、三人で義勇軍を結成しよう』って流れになって――そこで、あの忌まわしき誓いだ。『生まれた日は違えども、死する時は同じ日同じ時を願わん!』ってな」


張飛は吐き捨てるように言い放ち、杯の残りを喉に流し込む。


「いま振り返れば、俺の大切な不動産が、見ず知らずの男の遊興費へと錬金される最悪の契約締結の瞬間だった」


その後の展開は、筆舌に尽くしがたい惨状であった。桃園を売却して得た莫大な資金で、三人は挙兵のための武具を揃えることになった。張飛は当然、切れ味鋭い槍と、関羽に見合う名刀、そして立派な甲冑が手に入るものと信じて疑わなかった。己の血肉とも言える土地を切り売りしたのだ。それくらいの対価を期待するのは当然の権利である。


だが、現実はあまりにも無慈悲だった。


「兄者が意気揚々と持ってきた蛇矛、振る前から先端がグラグラ揺れてたんだぜ」


「構えただけで刃が落ちそうだった。『おい、ちょっと待て』と思って雲長の刀を見たら、あっちはあっちで最初から刃が大きく欠けてて、おまけに刀身が真っ赤に錆び付いてた」


「それはもはや武具の調達ではなく、粗大ゴミの回収では?」


「その通りだよ!で、兄者だけやたらとパンパンに膨れ上がった大きな巾着袋を背負ってて、逃げ足が速くなるように草鞋の紐をきつく結び直してやがるんだ」


「まさか」


「そのまさかだよ」


「『最近は物価が高騰しててさぁ!悪徳業者に中抜きされちゃったかなー!』とかへらへら笑いながら、そのまま回れ右して全速力で逃走しようとしやがったんだよ、あいつ」


「軍資金の持ち逃げ……?」


「完全な計画的犯行。金だけ抜いて消える気満々だった。だから俺が背後から首根っこを引っ掴んで、力任せに地面へ叩きつけてやった」


「極めて真っ当かつ正しい判断ですな」


「雲長も即座に退路を塞いで、あの錆びだらけのなまくら刀を兄者の首筋に突きつけた。あの瞬間の連携だけは、我ながら完璧な判断だったと思う」


若き日の劉備は、その時ばかりは顔面を蒼白にして半泣きで命乞いをしたという。「冗談だってば!首が切れる!離してくれ、俺の金だー!」と見苦しく叫び散らした。本来なら即座に斬り捨てて然るべき下劣な悪党だ。


しかし、そこに奇妙な愛嬌と明るさが付き纏うのが、劉備という人間の恐ろしい業であった。絶望的なまでにクズでありながら、どこか憎めない隙がある。だからこそ、張飛も関羽も、その場で彼を見限ることができなかったのだ。
















「……と言うわけだ」


「資金を持ち逃げしようとした詐欺師を、俺と雲長で物理的に拘束して、無理矢理に義勇軍を立ち上げた。それが真実さ。あの桃園を売った金、九割は兄者が長安の女郎屋と酒場に溶かした。俺の桃園を返せ。いまでも夢に見るくらい返してほしい」


陳宮は完全に言葉を失った。呂布という規格外の猛将の専属軍師として、常人には理解しがたい地獄を数多く渡り歩いてきた自負があったが、これは全く別次元の真新しい地獄である。


「……根っからの詐欺師ではありませんか」


「そうだよ」


「よく今日まで見限らずについてきましたね、貴殿らも」


「まあな……」


張飛の険しい表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「でも、不思議と憎みきれねえんだよ。あの人は。金には汚いし、口から吐き出す言葉の半分以上はその場しのぎの出鱈目だ。けどな、嘘を吐き出す時の『熱量』だけは、本物以上に熱いんだ」


熱量だけは本物。その言葉の響きに、陳宮は思考を巡らせる。たしかに、歴史を動かすのは必ずしも清廉潔白な真実ではない。時として、本人が狂信的に信じ込んだ巨大な嘘の方が、万民の心を強く酔わせ、巨大なうねりを生み出すことがある。


「ほら、あそこを見ろよ」


顎で示した宴の喧騒の中心では、まさにその『熱量』が暴力的なまでに炸裂していた。


劉備が貂蝉の細い手を取り、情熱的な瞳で見つめている。ただ手を取るだけではない。指先の角度、視線の運び、声の抑揚に至るまで、無駄に洗練されており、無駄に笑顔が眩しい。


「いやあ〜!奥さん、本当に可愛らしいねえ!」


よく通る声が広間に響き渡る。周囲の兵たちから「あ、また病気が始まった」という生温かい空気が漂い始める。


「肌は新雪のように透き通っているし、所作の一つ一つがため息が出るほどに美しい!こんな絶世の美女が徐州に降臨してくれるなんて、俺はなんて幸運なんだ!呂布将軍が心の底から羨ましいよ!」


その瞬間、貂蝉の瞳に眩い光が宿った。張飛も陳宮も「あっ」と危険信号を察知したが、時すでに遅し。彼女は洛陽という殺伐とした土地で、長らく「素晴らしい筋肉構造だ」「戦力として極めて有能」「物理的な護衛として最適」という、およそ女性らしさとは無縁の即物的な評価ばかりを下されてきた。


そんな渇ききった心に、「美しい」という純度百パーセントの賛美が真正面から叩き込まれたのだ。効かないはずがなかった。


「まあ!」


頬を桜色に染め上げた貂蝉は、暗殺者の気配を完全に消し去り、恋を知った乙女のような表情を浮かべた。


「やっと……やっと私の『美貌』を真っ当に評価してくれる殿方が現れましたわ!」


張飛は「あーあ、火がついた」という顔で天を仰ぎ、陳宮は「この宴、終わったかもしれん」という顔でこめかみを押さえた。


貂蝉の堰を切ったような早口はもう止まらない。


「長安の男たちときたら、私を見るなり『良い広背筋だ』とか、『重武装の護衛兵にぴったりだ』とか、『論理的思考力と計算能力が欠如している』とか!誰一人として、私を『女』として扱ってくれませんでしたのよ!!」


「信じられない暴挙だ!」


劉備は彼女の鬱憤を、大げさな身振りで全面的に肯定する。


「君は奇跡のように咲き誇る一輪の名花だ!暗闇を照らす光り輝く宝石だ!さあ、もっと回って!その麗しい姿を、この俺に焼き付けてくれ!」


「はい!舞いましょう!!私、今夜は誰よりも最高に輝いてみせますわ!!」


宣言するや否や、貂蝉は本当に華麗なステップを踏み始めた。妊娠六ヶ月の身重とは思えないほどの異常な軽やかさである。生来の恐るべき体幹の強さもさることながら、何より長年飢え続けてきた「承認欲求」という最強の燃料が、彼女の身体能力を限界突破させていた。


称賛され慣れていない人間ほど、真っ向からの甘い言葉には致命的に脆い。


対する劉備も無駄に芸達者極まりなく、リードの手つきがプロのそれであった。足さばきにまで妙なキレがある。一国の長官たる男が、いかなる修羅場を潜り抜けてその社交ダンスの技術を体得したのか、誰にも説明がつかない。


その一方で、宴の主役たる呂布は完全に顔面を土気色にしていた。


「ちょ、ちょっと待て貂蝉!!」


「腹ん中には、新規アセットがいるんだぞ!!そんな激しい有酸素運動は絶対安静の規律違反だ!もし流産でもしてみろ、俺が李司の奴に物理的に解体処理されちまう!!」


気にするポイントはそこか。いや、確かにそこも極めて重要だが。


「おい劉備!俺の妻をブンブン振り回すな!遠心力で胎児の脳がシェイクされるだろうが!!」


「硬いこと言うなよ呂布将軍!」


劉備は必死の抗議を笑顔で一蹴した。


「楽しい夜は、楽しく踊るもんだ!俺も全力で踊るぜ!!」


そして本当に踊り狂い始めた。見たこともない謎のステップで。無駄にキレッキレの動きで。どう見てもアルコールが回っているはずなのに、腹立たしいほどに上手い。周囲を取り囲む兵たちが爆笑の渦に包まれ、手拍子と歓声が湧き上がる。


「わはははは!劉備様、最高ーッ!!」


「呂布将軍の奥方も、とびきりの美人だー!!」


「回れ回れーッ!!」


広間全体が、完全に謎の熱狂的なグルーヴに支配されていた。その中でただ一人、呂布だけが真顔でオロオロと右往左往している。天下無双と恐れられる最強の武将が、身重の妻のダンス一つでここまで狼狽し、取り乱すのだ。


愛という感情は恐ろしい。あるいは、骨の髄まで染み付いた恐妻家根性と親バカのハイブリッドが引き起こす悲劇か。


張飛はやれやれと首を振り、再び盃を持ち上げた。


「……見ろよ、陳宮殿。息を吐くように嘘をつくクズ野郎だが、あの通り、不思議と人を惹きつける人望だけはあるんだ」


「……認めたくはありませんがね」


「底抜けに明るくて、一瞬で場を掌握しちまう才能だけは天下一品なんだよ。理屈じゃない。理屈が通用しない相手だからこそ、余計に厄介なんだ」


陳宮は複雑な感情が入り混じった瞳で、熱狂の中心にいる劉備を見つめた。軍師の目から見れば、論外に等しい嫌な男だ。金は巻き上げる、経歴は盛る、少しでも油断すれば他人の懐に土足で踏み込んでくる。だが、それでも人々を笑わせ、熱狂させ、魅了する。呂布のような『圧倒的な武力』による支配でもなく、李司のような『圧倒的な管理』による統制でもない、全く別次元の引力がそこにはあった。


「……漢の高祖である劉邦も、大の酒好きで女好き、随分と品性に欠ける無頼漢であったと歴史書には記されています」


陳宮は杯の酒面を見つめながら、静かに呟いた。


「案外、万民の心を惹きつける真の英雄の資質とは、ああいう理屈や計算を超越したところにあるのかもしれませんな。李司殿が構築する冷徹な完全管理社会とは、まさに対極に位置する魅力……」


「ま、俺の桃園の資産価値は、永遠に俺の手元へは帰ってこねえけどな」


張飛はすべてを悟ったような、さっぱりとした口調で断言した。その短い一言の中に、深い諦観と、主君に対する愛憎のすべてが凝縮されている。


「飲むか、陳宮殿」


「ええ、飲みましょう。……明日からまた、あの笑顔の詐欺師を相手に神経をすり減らす交渉が待っていると思うと、胃の粘膜が溶け落ちそうですがね」


二人は夜気の中で静かに杯を打ち合わせた。報われない苦労人同士の、ささやかな乾杯の音が鳴る。


だが、いくら無防備な宴の席とはいえ、この場にいる全員が同じ温度で完全に気を緩めているわけではない。例えば貂蝉だ。彼女は甘い賛美に浮かれきっているように見えるが、致命的な警戒心までは手放していない。


李司から直接、「美しい笑顔を張り付けたまま、相手の喉笛を的確に引き裂けるようになりなさい」と徹底的な洗脳教育を施された女である。歓喜に頬を染めつつも、足運びの重心は決してブレない。劉備に手を引かれて華麗に回転しても、着地の瞬間には必ずいつでも迎撃可能な中心姿勢へと戻っている。その微細な体術の片鱗に気づき、張飛が小さく感嘆の息を漏らした。


「……やっぱ只者じゃねえな、あの奥方」


「ええ。あの足さばき、隙だらけに見えて完全に武の達人のそれです」


陳宮も鋭い視線を向けながら同意する。


「しかも、満面の笑みで喜悦に浸っている時ほど、逆に致命的な隙がない。李司殿の施した教育の底知れぬ恐ろしさですな」


その軍師の評価は、半分正解であり、半分は大きく外れていた。たしかに貂蝉の身体制御は完璧であったが、肝心の精神の半分以上は「もっと私を褒め称えてくださいまし!」という承認欲求の海へ盛大にダイブしていたからだ。


「劉備様、今の回転の軌道、美しかったですわよね?」


「綺麗どころの騒ぎじゃない、完璧な美の結晶だとも!夜空から月の精霊が舞い降りてきたのかと思ったよ!」


「まあ!」


「その黒髪の揺れ方も最高だねえ!風に乗って香る匂いまで、気品に満ち溢れている!」


「そんな細部に至るまで見てくださいますの!?」


「当然さ!俺は世の美女鑑定にかけては、並々ならぬ一家言を持っているからね!」


そのイチャつきにも似たやり取りを間近で見せつけられた呂布は、飼い主に置いてけぼりにされた大型犬のような、悲痛な顔つきになっていた。


「おい、貂蝉……」


「なんですの、奉先様?」


「……俺だって、その……お前のこと、綺麗だと思ってるぞ」


言い放った直後、己の言葉の気恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、呂布は耳の先まで真っ赤に染め上げた。明らかにアルコールだけのせいではない。周囲を取り囲む屈強な兵たちの何人かが「おおっ」と囃し立てるような奇声を上げる。


だが貂蝉はその瞬間、ピタリと舞の動きを止めた。劉備が「ん?どうした?」と不思議そうに繋いだ手を緩めるほど、不自然なほど明確に停止したのだ。


「……今、なんと仰いました?」


「いや、だから……その……綺麗だと、そう言ったんだ」


「もう一度」


「綺麗だ」


「もっと魂の底から感情を込めて」


「む、無茶を言うな!」


劉備が横から腹を抱えて愉快そうに吹き出す。


「わははは!呂布将軍、天下無双の男が嫁の前で照れるのかい!奥さん、もっと絞り出して言わせてやれ!」


「当然ですわ!」


貂蝉はすっかり機嫌を良くし、巨漢の夫の目の前までつかつかと歩み寄った。やはり妊婦とは思えない猛烈な踏み込みの速度だ。張飛が「あぶねえ」と小声で呟き、陳宮が「あれは止めに入らなくてよろしいのですかな」と視線だけで問いかけるが、この夫婦の間に割って入れる命知らずなど存在するはずもない。


「奉先様。普段から『今日の筋肉の仕上がりは最高だな』とか『体幹のブレがない素晴らしい立ち姿だ』ばかりではなく、たまには純粋に『美しい』と口に出して褒めなさいませ。私はこれでも、か弱い女ですのよ」


「いや、だってお前は実際、俺の次に強いし……」


「私が今この瞬間に求めているのは、客観的な戦力評価のフィードバックではありませんわ!!」


「む、むう……」


呂布は本気で困惑し、視線を泳がせた。戦場において無数の矢の雨が降り注ぐ死地へ突撃する時よりも、はるかに追い詰められた顔をしている。


「……美しい。すごく美しいぞ。あと、強い。あと、すげえ頑張って鍛錬してる。あと、飯もめちゃくちゃ上手く作れる」


「最後の最後で、生活感の押し売りがひどいですわね!?」


緊迫した空気が弾け、兵たちが一斉にどっと吹き出した。貂蝉も「まったくもう、仕方のない人ですわ」と呆れたように肩をすくめながらも、その口元には確かな喜びが滲んでおり、完全には怒っていない。その絶妙な隙間を縫って、劉備が再び軽快に口を挟む。


「いいじゃないか奥さん!不器用だけど、それはそれで真っ直ぐな愛情表現だよ!いやあ、見てるこっちまで心が温まって幸せな気分になるねえ!」


「兄者は黙ってろ!火に油を注ぐな!」


張飛の容赦のないツッコミが飛ぶ。壁際に控えていた関羽も、珍しく深く頷いて同調した。


「翼徳の言う通りです。兄者は、こういう自分に不利益が及ばない時だけ、妙に滑らかに口が回る」


「こういう時だけってなんだよ雲長!」


「……奥方様」


関羽が、刺激しないようにそっと慎重な声をかける。


「なあに、関羽殿?」


貂蝉は軽やかなステップを踏み続けながら、満面の笑みで応じた。


「その……本日は、大層楽しんでおられるようで何よりです」


「ええ!とても楽しい夜ですわ!劉備様は本当に気の利いたお話がお上手で!」


関羽の顔が引きつり、極めて複雑な表情へと歪んだ。自分の主君が褒めちぎられているというのに、微塵も安心できない顔である。


「兄者は……その……話がうまいと言いますか、口が異常に達者と言いますか」


「あら、主君を褒めておいでですの?」


「警告です」


「なんですのそれ」


貂蝉が鈴を転がすように笑うと、劉備がすかさず二人の会話に割り込んでくる。


「おお、雲長!宴の席でなにをそんなに固い顔をしてるんだい!こっちへ来て、一緒に踊ろうぜ!」


「断固としてお断りする」


「恐ろしいほどの即答だな!?」


「拙者は決して踊りません。激しい運動は、大切な髭の毛並みが乱れます」


「そんな理由で!?」


劉備はたまりかねたように腹を抱えて大笑いした。貂蝉もつられて笑い声を上げる。周囲の兵たちも釣られて笑う。その狂騒の中で、関羽一人だけが仏像のように真顔を貫いていた。













「どうした、陳宮殿。何を企んでる」


「いえ」


陳宮は音を立てずに杯を卓へ置いた。


「今夜の宴は、あまりにも無防備に過ぎるなと思いましてね」


「……まあな。兄者が本気で気分良く酔っ払ってる時は、陣営全体の警戒心が完全に死滅する」


「我が君である呂布将軍も同じことです。酒が入ると、持ち前の善意と豪快さばかりが前面に押し出されてしまう。こうした夜は、表面上は平和で大いに結構。しかし、平和の空気に溺れきっている時ほど、足元の泥濘は滑りやすいものです」


張飛は自嘲気味に鼻を鳴らした。


「お互い、主君の尻拭いには苦労するな」


「まったくの同感です」


「でも、あのお祭り騒ぎを止めるか?」


「いいえ、止めません」


「意外だな。てっきり水を差すのかと」


「今ここで止めたところで、不平不満という名の面倒が増えるだけです。ならば今夜は、あえて好きに泳がせる。限界まで泳がせて、奴らがどこまで理性を手放し、浮かれるかを徹底的に観察する。その上で、明日からの交渉における強力なカードとして利用する方が、よほど実務的というものです」


やはりこの男は話が早い。泥にまみれた現場監督同士、綺麗事や無駄な理想論を挟まずに会話ができるのは、この乱世において何よりの救いであった。


「呂布将軍!踊りの次は歌だ!高らかに歌え歌え!」


「よし来た!俺の故郷、并州仕込みの勇壮な軍歌を聞かせてやるぞ!」


「やめろ兄者、あいつら酔っ払いの軍歌はやたらと長いんだよ!」


「うるさいぞ翼徳!お前も腹の底から声を出して歌え!」


「俺は帳簿の赤字計算以外で、無駄に声を張り上げたくねえんだよ!」


「相変わらず嫌な若者だなあ!」


「俺の性格を歪ませたのはどこのどいつだ!」


少年のような馬鹿馬鹿しい口論が飛び交う中で、貂蝉は頬を熱く上気させたまま、心底楽しそうに笑い声を上げている。


その浮かれ具合を、張飛はやや渋い顔で見つめている。対照的に、陳宮はもはや心配すらしていなかった。


この場で誰が、どれだけ気を緩めているか。誰が誰に対して、どの程度の隙を見せたか。その目に見えない数値のすべてが、明日の交渉の場において、呂布陣営を優位に立たせるための強力な武器へと変換されるのだ。


「一度油断すれば高くつくぞ……」


陳宮は誰の耳にも届かないほどの微かな声でそう呟き、残った酒を静かに煽った。


宴席の中央では、劉備の無尽蔵の語彙力が、また新たな賛美の言葉を紡ぎ出している。


「奥さん、君は本当に舞い踊ると見栄えがするねえ!美しい大輪の花が、そのまま人の姿を借りて歩いているみたいだ!」


「まあ!嬉しい!もっと、もっと仰ってくださいまし!」


「よしきた、任せておけ!」


「兄者、いい加減にしろ!これ以上調子に乗せるな!」


「雲長、お前もいつまでも髭の毛並みばかり気にしてないで、少しは空気を読んで楽しめ!」


「極めて冷静に読んでいる!読んでいるからこそ、明日の朝が怖いのだ!」



しかし、その極限まで無防備な空気こそが、裏を返せば最も危険な刃を隠し持っていた。


この場でその事実を最も冷酷に理解しているのは、間違いなく陳宮だけであろう。張飛もまた、野生の勘で事態の危うさを察知してはいる。だが、無邪気に笑い転げている主君の襟首を掴み、無理やり自室へ引きずって帰るほどには、まだ事態は最悪の臨界点に達していないと踏んでいた。


明日の朝、容赦なく差し込む朝日の中で、果たして誰がどのような顔をして頭を抱え、絶望の後悔に苛まれるのか。


その答えはまだ、深い夜の帳の向こう側に隠されている。

桃園の誓い、たぶん史書のどこにも「土地は詐欺で奪われた」とは書いていないと思いますが、うちの世界線ではこうなりました。

個人的には、張飛と陳宮の胃痛同盟がけっこう気に入っています。

劉備の胡散臭さや、貂蝉の承認欲求爆発ぶりをどう感じたか、ぜひ感想をいただけると嬉しいです。

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