第二十八話:徐州視察ツアーと、勘違いされた聖人
徐州は乱世の要地である。
兵を得れば州を制し、州を制すれば天下への道が開ける。
ゆえにこれを奪うには、本来ならば軍を動かし、血を流し、城門をこじ開けねばならない。
だが、我らが主は違った。
笑って招かれ、礼を尽くして迎えられ、相手の方から城の鍵を差し出させる。
そんな悪夢のように美しい策を、最初から最後まで本気でやってのけるつもりだったのである。
昨夜の歓迎の宴で、私はほんっとうに久しぶりに、真正面から「女の子」として扱われちゃったんだ。
自慢の筋肉でもなく、戦場のコマでもなく、便利な侍女でも、優秀な警備部長としてでもなく。
ただ純粋に、一人の「綺麗な女」として。
それが、あんなにも脳みそを溶かす毒になるなんて思ってもみなかった。
認めるのはすごく癪なんだけど、効くのよ、これが。めちゃくちゃ効くんだから。
向こうにいた頃なんて、誰も彼もが私を見ると「仕上がった良い筋肉だな」とか「高い耐久性を誇る」とか「優秀な護衛兵」とか、ひどい時には「まだ計算能力が足りないぞ」なんて、そんな殺伐とした評価しかしてこなかったのに。
それをいきなり「きらめく宝石」だの「咲き誇る花」だのって甘い声で囁かれたら、そりゃあ鉄の心だってぐらっときちゃうでしょ。
もちろん、だからといってその言葉を全部鵜呑みにするほど、私もおめでたい馬鹿じゃない。
……って、胸を張って言いたいところなんだけど、今朝の私は自分でもわかるくらいだいぶ危ない状態なんだよね。
なにしろ、隣を機嫌よく歩く奉先様まで、やたらとニコニコしてるんだもん。
「うん!やはり劉備将軍は話のわかる豪快でいい男だ!酒も強いし笑い方も大きい!気が合う!」
いやいや、そのガバガバな判断基準で人をあっさり信用しないでくださいよ、ってツッコミが喉の奥まで出かかる。
でも、私も昨夜あれだけ甘く褒められてふわふわ舞い上がっちゃった手前、奉先様の単純さを強く責められないんだよね。ああもう、すごく悔しい。
「そうですわね、奉先様。彼は物の真価を見る目がありますわ。私のことも、ちゃんと『女』として見てくださいましたし」
私がちょっとお嬢様っぽく取り繕ってそう言うと、奉先様は「むう」と唸って、わかりやすく面白くなさそうな顔をした。
いや、そこ、拗ねるところじゃないからね。普段からあんたが私をもっと女の子として褒めてくれれば済む話じゃん。
「……俺だって、お前が美しいと思ってるぞ」
「昨夜もお聞きしました」
「う、うむ」
「ですが、その直後に『あと飯も作れる』と続けましたでしょう?」
「だって本当だろうが」
「そういうところです」
ほんっとうにそういうところなんだよね、この人。
私の美貌と、料理の腕前と、鍛え抜いた筋肉と、戦場での戦闘能力を、全部同じ棚に並べて語っちゃうの。女心っていうデリケートな商品の棚卸しが雑すぎるんだってば。
少し後ろを歩く陳宮は、朝からずっと苦虫を噛み潰したような嫌な顔をしている。
別に昨日の酒が残って体調が悪いわけじゃない。最前線で働く常識人にしか察知できない、遠くない未来に確実にやってくる胃痛への予感ってやつね。
今回の徐州視察ツアー、表向きの看板は「徐州の素晴らしい行政と軍備を見学させていただき、今後の友好的な関係を深めましょう」っていう最高に平和的なお題目なんだけど、裏の実態は全然違う。
李司様からの命令は、いつだって極めて明快で冷酷なんだ。
「合法的に、一切の手を汚さず、血も流さずに、徐州の全権を乗っ取りなさい」
客観的に考えて怖すぎるよね。愛想のいい笑顔を振りまく視察が、そのまま丸ごとの買収案件なんだから。
でも、私はその命令をきっちり完遂する気満々だし、陳宮様だってとっくに腹を括ってる。
唯一、奉先様だけが、心の底から100パーセント純粋に「みんなで親睦を深めよう!」って本来の目的を忘れてる。そこが大型犬みたいで可愛いところなんだけど、同時にものすごく危なっかしいんだよね。
「お二人とも、少しは警戒なさってくださいませ」
私が釘を刺すと、奉先様は心の底から不思議そうに小首を傾げた。
「何をだ?劉備将軍はいい奴だぞ」
「その『いい奴』という評価を下す速度が異常に速すぎるのです」
「だが、お前のこともちゃんと褒めてくれただろう?」
「……それは、そうですけれど」
「ほらな」
ほらな、じゃないんだってば。
危ない。ものすごく危ない。この人、視察に来たはずなのに私より先に敵のトップに懐柔されちゃってる。
「呂布将軍。人物の評価は、せめて現場の実務を見てからにいたしましょう。口先がうまいだけの人物など、この乱世には掃いて捨てるほどおります」
「むう。陳宮は疑り深いな」
「慎重と言っていただきたい。これは軍師の脆弱な胃壁を守るための、最低限の防衛本能なのです」
◆
最初に私たちが案内されたのは、練兵場だった。
乾いた風が吹き抜ける広い土の広場に、屈強な兵士たちが何列にも綺麗に整列している。
先頭に立つ張飛の野太い号令が響くたび、無数の長槍の切っ先がぴたりと恐ろしいほど正確に揃う。盾を持った前衛が前に出るタイミングも、後衛が滑らかに入れ替わるタイミングも、芸術的と言っていいほど見事。
単なる勢いや力任せじゃなくて、指揮官がちゃんと部隊全体を俯瞰して、緻密に計算して動かしているのが一目でわかる。
「おお……」
これは私から素で漏れちゃった感嘆の声。
隣に立つ奉先様も、太い腕を組んだまま何度も深く頷いている。
「見事だな。歩兵の訓練とはかくあるべき手本だ」
陣頭指揮を執る張飛は、見た目だけなら凶悪な顔をしてるのに、その指揮のやり方は驚くほど理詰めで論理的だった。
兵士たちの足の運び方も、休憩の指示を出した時の散り方にも、一切の無駄がない。しかも、限界を超えて無理をさせすぎない絶妙なラインを見極めている。兵たちがこの熊みたいな男を心底怖がりつつも、深く慕って信頼しているのが、返事の声のハリで痛いほど伝わってくる。
「よし!今日の午前の調練はここまでとする!全員、たっぷりと水を飲め!自分の限界を見誤って無理して倒れた奴は、訓練の前に俺が直々に殴るぞ!」
兵士たちが「オウッ!!」と地鳴りのような声を返して、一斉に散っていく。
その散っていく後ろ姿まで統制が取れているんだから、敵ながら本当に大したものだわ。
「素晴らしいですわ」
私は思わず素直な称賛を口にしていた。
張飛が私の声に気づいて、少し照れくさそうに無精髭の生えた頭をかく。
「いやあ、専門家に見られるとちっとばかし気恥ずかしいな。うちの兵は、上の兄者と関羽の兄者がだいぶ自由に動くもんだから、その分俺がきっちり底辺を締めねえと部隊が歪んじまうんだ」
「そのご苦労、痛いほどお察しいたします」
「私たちの陥陣営にも、あの陣形の滑らかな切り替えを取り入れたいくらいですわ。あの移行速度、実戦の乱戦でかなり有効に機能しますもの」
「ん?構わねえぞ。良い戦術ってのは広く共有されるべきだ。減るもんでもねえし、あんたらの部隊で好きに持っていって使ってくれ」
えっ、そんなにあっさりノウハウを渡しちゃうの?
シビアだったら、兵士の腕の振り方一つ、足の踏み出し方一つにだって、きっちり高い値札がつくっていうのに。
陳宮様も、清涼な風に吹かれたみたいにちょっと感動して呟いている。
「……なんと気持ちのよい、裏表のない男でしょう」
うんうん、その高い評価、すごくよくわかる。
でもね、その美しい平和な空気は、一分も長く続かなかったんだ。
「待て待てぇい、翼徳!」
突然、広場の物陰からひょいっと、安い舞台役者みたいな大げさな身振りで劉備が飛び出してきた。
本当にこの人、登場する角度からタイミングまで、いちいちあざとすぎるのよ。
「うちの大事な企業秘密をタダで持っていこうってんなら、それ相応の対価をきっちり払ってもらおうか!」
「は?」
「特許使用料だよ、特許使用料。歩兵一人にその素晴らしい陣形を教えるごとに金十枚。……いやいや、俺たちはもう熱い友情で結ばれてるからな、特別に親友価格で金二十枚にしておこう!」
「どこが親友価格ですのよ。堂々と値上がってますわよ」
限界を超えて思わず素でツッコミを入れちゃった。
でもそれくらい言ってもバチは当たらないよね。あまりにも堂々としたぼったくりなんだもん。
「兄者ァ!!」
怒号と同時。次の瞬間、太い蛇矛の硬い石突が、劉備の無防備な後頭部にカーン!ときれいな軌道を描いてクリーンヒットする。
「来客の前でみっともない真似はやめろ!!恩着せがましくケチくさいこと言って、小銭をせびろうとするんじゃねえ!!」
「いったぁぁぁ!翼徳、お前いま絶対本気で殴っただろ!」
「まだまだ足りないくらいだ!!」
「……前言撤回ですわ」
「何をですかな」
「現場の指揮官がいくら優秀で健気でも、組織のトップが根本から金に汚いと、すべてが台無しになるのだな、と」
「全面的に同意いたします」
陳宮様の同意の返事が異常に早い。
ほんっとうに早い。食い気味だった。
それでも劉備は全然懲りていない。
赤く腫れた後頭部を両手で押さえながらも、へらへらと人懐っこく笑っている。
「いやあ、お堅い空気が少しは和むかと思ってさ!」
「和ませるための手段に請求書を使うな!!」
「それはそれとして、さっきの特許料の件は今後も前向きに検討の余地が」
「余地なんかこれっぽっちもねえ!!」
悔しいけど、結果的にガチガチだった場は和んじゃったんだよね。そういう意味では、本当に殺意が湧くくらい腹立たしい才能を持ってるわ、この男。
◆
次に私たちが視察に向かったのは、徐州の司法を司る裁判所だった。
私は正直なところ、ここが一番まともに機能しているはずだと思っていたの。
関羽殿って、あのやたら長い髭さえ絡まなければ、基本的には真面目で義理堅い人だし、司法という重責を任されているなら、そこそこ筋の通った真っ当な裁きをしているはずだって、そう信じていたのに。
前半の数件までは、たしかに私の期待通りだった。
お白州の中央にどっしり座る関羽殿の顔つきは、威厳に満ちていて厳格そのもの。
双方の証言を静かに聞き、提出された証拠を冷静に照合し、個人の感情を一切差し挟まずに淡々と論理的な結論を出していく。
私の想像以上にちゃんとした裁判官っぷりで、少し感心して見直したくらいだったんだ。
「ふむ。双方の提出した証拠と証言を詳細に照らし合わせるに、この件は明らかに原告側に理がある。被告は速やかに定められた賠償を支払うように」
うん、まとも。すごくまともで理路整然としてる。
やればできるじゃないの、関羽殿。
次のお白州に入ってきた被告の男が、やたらと立派な、胸元まで届く見事な長髭を蓄えていたの。
その瞬間、関羽殿の細い目の色が、ギラリと危険な光を帯びて変わった。
「あっ」
まずい。この異常な反応、嫌というほど見覚えがある。
そう、私が初めてこの人のあの長い髭を見た時と、まったく同じ種類のヤバい熱量。つまり、関羽殿の意識の百パーセントが、完全に目の前の「髭」に持っていかれている状態。
「むむっ……この男の髭……実に見事な仕上がりだ」
「豊かな毛量、絹のような艶、均整のとれた長さ、どれを取っても一級品の芸術だ。日頃から持ち主の手入れが隅々まで行き届いているのがわかる。これほど立派で美しい髭を深く愛する者に、心のねじ曲がった悪人などいるはずがない」
「いますわよ!!普通に!!」
ここで私が表に出て行って「髭の質と人間の人格は一切無関係です!」って大声で叫んだら、これもう視察じゃなくてただの重度な介護になっちゃう。
訴えを起こした原告の貧しい農民が、涙ながらに必死に訴えた。
「お、お奉行様!こやつは私の家から、毎日卵を産んでくれる大事な鶏を盗み出したのです!」
すると関羽殿が、信じられないものを見るような、ひどく嫌悪感に満ちた目でその農民を睨みつけた。
「黙れ。これほど神聖で気高い髭の持ち主が、他人の鶏などというちっぽけなものを盗むはずがないだろう」
「どういうトンデモ理屈なんですの、それは!」
今度こそ、我慢できずに声に出しちゃった。
でもこの場で私を責められる人なんて誰もいないと思う。だって言ってる意味が微塵もわからないんだもん。
「よってこの件は無罪!むしろ、このような立派な髭の持ち主を疑った原告の者こそが、誣告の罪にあたる!」
「だめですわこの司法制度」
「よし、先ほどの判決も今すぐ覆そう!髭が薄い貧相な者は、全員無条件で有罪とする!」
「いい加減にしなさい!!」
そこへ、頭上から黒い影が弾丸のように飛んできた。
駆けつけた張飛の、怒りに満ちた鋭い飛び蹴りだった。
横からきれいにクリティカルヒットして、関羽殿が重たい裁判官の席ごと派手に吹き飛んでいく。
「兄者ァァァ!!髭は免罪符じゃねえんだよ!!お前の個人的な変態トラウマのせいで、司法の判断基準が根底から完全におかしくなってるぞ!!」
「ぐふっ……翼徳、今日の蹴りはやけに重い……」
「軽くやってやる価値もねえ!!」
私はうんうんと本気で頷いた。
張飛、あんた本当にまともだよ。
この劉備陣営、もしかして張飛たった一人で全体のコンプライアンスをギリギリ支えているんじゃないの?
隣の陳宮様も、さっきまでの「気持ちのよい男」という好印象が一気にしぼみきったらしく、生気のない真顔で虚空を見つめて呟いた。
「……前言撤回いたします。こちらも完全に駄目です。極めて悪徳かつ腐敗しています。まだあの李司殿の血も涙もない恐怖政治の方が、処罰の基準が明文化されている分だけ、はるかに公平でマシです」
その評価、身内としてものすごく嫌なんだけど、現状を見せつけられると一ミリも否定できないのが悲しいところなんだよね。
◆
最後の視察先は、城から少し離れた郊外の寂れた農村だった。
ここでは私も、陳宮様と一緒にかなり身構えながら近づいた。
だって、遠くから土煙の向こうに見えたのが、劉備が柄の悪いゴロツキみたいな男たちを地面に土下座させて、激しい剣幕で怒鳴り散らしている恐ろしい場面だったから。
「さあ!血を吐くまで働け!!そしてきっちり税を払え!!お前らが床下の壺に隠している金があるのは、とっくにわかってるんだぞ!さっさと出さないなら身ぐるみ全部引っぺがして、内臓まで売り払って金に換えてやろうか!!」
最低だわ。
昨夜の宴で、あんなに優しく甘い言葉を囁いて一緒に踊ってくれた男が、真昼間は血も涙もない悪徳取り立て屋そのものって、どういう情緒なのよ。
「ひどい……」
「劉備将軍!!」
奉先様が、大地を踏み鳴らして大股で前に出る。その顔は完全にブチギレている。
この人、根っこが純粋な武人だから、強い者が弱い者をいじめる光景を見ると、理屈抜きで反射的に怒りが沸騰しちゃうのよ。
「民あっての国ではないか!か弱き者に対して、なんて酷い仕打ちをするのだ!!」
あ、まずい、止めなきゃ。そう思う間もなく、慌てた様子の張飛が全力で私たちの間に飛び込んできた。
「待て待て待て!!早まるな、これは誤解だ!!」
「誤解だと?」
「こいつら、善良でか弱き民なんかじゃねえよ!前々から近隣の村を襲って荒らし回り、略奪と税の滞納を悪びれず繰り返していた、タチの悪い山賊崩れの犯罪者集団だ!兄者はこいつらのアジトを摘発して、奪われたものを取り返してるだけだ!」
私は思わず、地面に額をこすりつけている男たちをまじまじと見直した。
言われてみれば、たしかによく見ると顔つきが凶悪に歪んでる。日焼けした腕の筋肉のつき方も、鍬を振るう農民のそれじゃない。
なんなのよもう。危うく私たちの方が、事情も知らずに首を突っ込む空気の読めない正義マンになっちゃうところだったじゃん。
「おお……!劉備様が、また憎き悪党どもを懲らしめてくださった!」
「我々のために自ら手を汚してくださる、なんと民思いの素晴らしいお方だ!」
「劉備様、万歳!徐州の希望!」
農民たちの歓声を受けて、劉備は一瞬だけ「え?」ときょとんとした顔をしたけれど、次の瞬間には見事なまでに聖人君子の表情へと切り替えた。
「あ?ああ!そうそう!そういうことだ!俺はこの徐州で、悪の蔓延ることを絶対に許さん!俺はいつだって、お前たち愛する民の味方だからな!」
張飛が少し離れた横で渋い顔をしている。
たぶん内心では「どうせ没収したあいつらの隠し金、あとで全部自分の懐に入れる気だろ」って呆れてるんだろうけど、それを大勢の前では決して口に出さないのが、この人の深い苦労人たる所以なんだよね。
そんな裏事情に気づくはずもない奉先様は、すっかり心を打たれて感動してしまっていた。
「おお……!悪を心底憎み、民を救うために自ら泥を被る汚れ役を買って出るとは!やはり俺の目に狂いはなかった、劉備将軍は真の英雄だ!」
私はそこまで手放しに褒める気にはなれず、「まあ、結果としては正義が勝ったんですものね……」くらいの薄い感想に留めておいた。
危ない危ない。昨夜褒めちぎられた甘いフィルターの残骸が、まだ私の目に若干残ってるわ。
「……結果オーライではありますが、最初の動機が不純すぎます。この男、強運と天性の人たらしの才能だけで、この過酷な乱世をここまで泳ぎ切っているのでは?」
「それが一番タチが悪くて、怖いところですわね」
本当にその通りなんだよね。
だってこの人、根っこは自分の金目当てで動いてるだけなのに、結果だけを切り取って見れば「虐げられた民を救う輝かしい英雄」にすり替わっちゃうんだもん。
理屈や大義名分が通じる真っ当な相手より、こういうナチュラルな詐欺師の方がよほど厄介で手強いわ。
◆
そして夜。
予定されていたすべての視察日程を終えた後の、広間での最終協議。
奉先様は、今日一日の視察を通じて完全に「劉備は裏表のない素晴らしい人物である」という強固な結論に達してしまっていた。
単純と言えばこれ以上なく単純。でも、だからこそ裏で糸を引く側としては使いやすい。
「劉備将軍」
「貴方のこの徐州統治、実に見事で感服した。民からの信頼も厚く、兵もよく鍛えられている。ぜひとも、許昌におわす陛下も、貴殿のような立派な長官に直接お会いしたいとの仰せだ。どうだろう?都へ行き、帝に謁見してみては?」
これこそが本題。
私たちがここに来たのも、昼間の視察ツアーに付き合ったのも、すべてはこの甘い一言を放つための布石だったのよ。
「ほほう……俺が許昌へ?帝に直接謁見を?」
この人、本当に欲望に忠実でわかりやすい。金になりそうな旨い話を聞いた瞬間、目元の緩み方からして全然違うんだから。
「それは誠に光栄の至りだな。俺みたいな田舎者にも、立派な箔がつくってやつだ」
「ええ、もちろんですわ。我が陣営のトップである曹操様、そして許昌本社の李司様も、貴方のその卓越した手腕を非常に高く評価しておいでですの。以前の不幸な敵対関係のことは綺麗に水に流し、新たなビジネスパートナーとして強力なアライアンスを結びたいと。都へいらっしゃれば、大いに歓迎されること間違いなしですわ」
この一言で、十分すぎるほどだった。
歓迎される。高く評価される。華やかな都に呼ばれる。
このキラキラした三つの単語の羅列は、劉備みたいな上昇志向と金銭欲の塊みたいな男には、強烈な麻薬みたいにズブズブ効く。
「せ、拙者は……ここ徐州に残って留守を守っていてもよいのではないか?」
「あら、なぜですの?」
「その……誰か一人くらいは、有能な者が留守番として残らねばならんし……。それに、都の乾燥した乾いた風は……私のデリケートな髭にひどく悪い。髭の大事なキューティクルが傷んでしまう……」
やっぱりそこ気にしてるのね。
この人の中で、許昌=恐ろしい李司様=愛する髭の切断危機、という恐怖の数式が、骨の髄まで深く刻み込まれているらしい。
「ご安心ください、関羽殿。李司殿は、ただ衛生管理と身だしなみに極端に厳しいだけです。毎日丁寧に洗浄し、トリートメントを欠かさず清潔を保っていれば、問答無用で根元から斬り落とされるようなことは……たぶん、ございません」
「たぶん!?」
「ええ、あくまで『たぶん』です」
「たぶんでは困るのだ!!確証が欲しい!!」
でも、その個人的な髭への怯えも、金と名誉に目が眩んで劉備を都へ引っ張ろうとする巨大な流れをせき止めるほどの力はない。残念ながらね。
「しかしよ……兄者と関羽の兄者、それに俺まで揃って都へ行っちまったら、この徐州の防衛が手薄になる。前の長官の陶謙殿から預かったこの土地を、無責任に空っぽにして離れるわけにはいかねえぞ」
「それならば、どうか俺たちに任せてもらいたい!」
何の裏表もない、純粋な善意と絶対の自信。
この人の最強の武器であり、同時に私たちが操る上での最高の扱いやすさでもあるやつ。
「貴殿らが許昌へ出張して戻ってくるまでの間、俺と陳宮、そして貂蝉の三人で、責任を持ってこの徐州を完璧に守り抜こう!我々の拠点の小沛から徐州城の本丸へと主力軍を移動させ、蟻の子一匹通さない完璧な防衛体制を敷いてみせる!」
つまりこれって、「徐州城の鍵を全部私たちに預けてください」と堂々と言っているのと同じなんだけど、発言している奉先様本人には、恐ろしいことにその自覚が一切ない。
主人に褒められたい忠犬みたいなキラキラした顔で、底なしの善意を差し出してくる巨大な人食い虎。本当に怖いんだよね、こういう無自覚な暴力が一番。
「おお!天下無双の呂布将軍が直々に留守を預かってくれるって言うなら、これ以上安心で心強いことはないな!」
えっ、そこ、あっさり安心しちゃうんだ。
でも、それだけこの人たちは、根っこが馬鹿みたいに真っ直ぐなんだよね。真っ直ぐに人を信じるから騙されるし、真っ直ぐすぎるから簡単に利用される。扱いやすいかどうかって言えば、これ以上なくちょろくて扱いやすい。
一方の劉備は、そんな熱い友情劇の裏で、完全に別の黒い算段をつけていた。
私は一番近くで観察してるからよくわかるんだ。笑顔の奥の瞳が妙にせわしなくギラギラ動くのよ。
たぶん、頭の中でこんなことを考えてる。
都に行けば、帝から直々に莫大な褒美が下賜される。
大金持ちの曹操からも、うまく泣きつけば何かしらの支援金を引き出せる。
あの許昌本社の李司様だって、うまく機嫌を取って丸め込めば、莫大な活動資金を出してくれるかもしれない。
しかも、その長期出張の間、一番金と手間のかかる徐州の防衛費と警備の苦労は、全部呂布たちにタダで丸投げできる。
ノーリスクでハイリターン。最高じゃないか。
……絶対、そういう顔してる。
「よし!」
「交渉成立だ!俺たちが留守にしている間、この徐州のことはすべて頼んだぞ、呂布将軍!俺たちの目指すは輝く花の都・許昌!いざ行かん!!」
軽い。一国を預ける決断が、あまりにも軽すぎる。
でも、こっちからしてみれば、その危機感のなさと軽さが最高にありがたい。
「ええ、どうか安心してお任せくださいませ」
◆
「……思い通り、うまくいきましたわね」
「ええ」
「まさか向こうのトップから、直々に城の鍵を渡して『留守番』を頼み込んでくるとは思いませんでしたよ。これで、李司殿の描いた事業計画の通り、合法的な無血開城が完璧に成立です」
「劉備様のことですから、都に着いたら営業活動と資金集めに夢中になるでしょうしね」
「彼が都で浮かれている頃には、ここ徐州の権利書と実効支配は完全にこちらのもの。まことに隙のない、美しい流れです」
ああ、本当に胸がすくほど気持ちがいい。
圧倒的な武力で力ずくで城を奪い取るのも嫌いじゃないけれど、相手が自分の欲に目が眩んで、自ら深い穴を掘って喜んで落ちてくれるのを見るのは、また別格の快感だわ。
「さあ皆の者!俺たちの新たな熱い友好と、輝かしい徐州の未来に乾杯だ!」
「乾杯!!」
この人、本当にこういうお祭り騒ぎの時の、人の心の盛り上げ方だけは天才的なんだよね。
本質は詐欺師で、金に汚くて、やることなすこと全部胡散臭いのに、その場を一瞬でめでたいハッピーな空気に塗り替えてしまう才能だけは、間違いなく天下一品。
だからこそ、敵に回すと本当に厄介なのよ。
奉先様は、その熱狂的な歓声のど真ん中で、心から満足げに笑っている。
私の愛する夫は、本当にどこまでも単純だ。
私は膨らみ始めたお腹に、そっと手を当てる。
中にいる子が、私に呼応するように少し動いた気がした。
昔の未熟だった私なら、劉備の甘いお世辞にすっかり浮かれてしまって、そのまま誰が敵か味方かも見失って自滅していたかもしれない。
でも、今の私は違う。
女の子として褒められて嬉しいのは本当。おだてられて舞い上がったのも本当。
でも、その上で冷静に相手の懐の深さを探って、隠し持った鍵束の鳴る音まで聞き分けられるくらいには、したたかに育ってしまった。
……魔王みたいな上司に、無理やり育てられちゃった、と言うべきかしらね。
「貂蝉!」
「どうした!上機嫌で笑っているぞ!」
「ええ、そうですわね」
「楽しいか!」
「ええ、とっても」
それは嘘偽りのない本心だった。
この宴の空気はひどく危ういし、だらしないし、コンプライアンスの欠如そのもの。
でも、その気の緩みと無防備さこそが彼らの最大の隙であり、その隙こそが、私たちの利益に変わる。
だから、今夜の私は最高に機嫌がいい。
久しぶりに一人の女としてきちんと美貌を褒められたし、その上で、厄介な仕事もきっちりこちらの手のひらの上で転がってくれたんだもん。
「奉先様」
「なんだ?」
「今夜はあまりお酒を飲みすぎないでくださいませね。明日から、目の回るように忙しくなりますわよ。この徐州城の管理、兵站の維持、複雑な税務処理、城門の厳重な警備、その全部を私たちが責任を持って回さなければなりませんから」
「おう!細かいことはよくわからんが、任せておけ!」
「細かい実務を任されるのは、全部私です」
「む?」
「貴方はまず、劉備様が嬉々として置いていく城と兵士たちを、きっちり完全に掌握してください。誰よりも愛想よく、堂々と、一点の曇りもない善人の顔で」
「善人の顔、か?」
「ええ、簡単にできますわ。だって実際、奉先様は本当に善人ですもの」
「そうか!ならば任せておけ!」
本当にそういう単純なところなんだよね。
ああ、李司様。
貴女が緻密に描いたこの絵図、本当に嫌になるくらい、いやらしいほど完璧によくできていますわ。
劉備様が夢と希望を抱いて都へ到着する頃には、この徐州の鍵はもう完全にこちらの手の中。
向こうが「騙された!」と気づく頃には、すべてが手遅れ。
100パーセント合法的で、平和的で、笑顔と善意に満ちた無血買収。
なんて甘美で、素敵な響きなのかしら。
今回は『徐州無血買収編』でした。
貂蝉が女として褒められて揺れる感情と、裏で着々と進む乗っ取り計画を並走させてみたのですが、楽しんでいただけたでしょうか。
個人的には、現場の苦労人すぎる張飛と、髭で司法を壊す関羽を書くのがとても楽しかったです。
もしよろしければ、
・どの場面が一番好きだったか
・劉備の胡散臭さはうまく出ていたか
・貂蝉の語りが可愛く見えたか
など、気軽に感想をいただけると嬉しいです。




