第136話 「震」
「普通の地震……ではなさそうですわね」
フィリアが低く言う。
その声にかぶさるように、ニナが小さく息を呑んだ。
「……ちがう」
顔色が、見る間に変わっていく。
ニナは胸元のペンダントを押さえたまま、何か遠くの音を聞くみたいに目を見開いていた。
「ニナ?」
ティタニアが呼ぶ。
ニナはすぐに答えない。唇が震え、肩がこわばっている。
「……いやな、感じがします」
やっと絞り出した声は、ひどくか細かった。
「下のほうで……何かが、起きてる」
その横で、ヒカリも同じように顔を青くしていた。
「私も……」
ヒカリは両腕を抱くようにして立っている。
「胸の奥が、ざわざわして……。あの夢の時と、似てます」
室内の空気が、一気に冷えた。
クロエはすでに立ち上がっていた。赤くなった髪をかき上げ、窓際へ歩くと、目を閉じる。
「……クロエ?」
「静かに」
短く言って、クロエは外へ意識を伸ばすように黙り込んだ。
数秒。
誰も口を開けない。
やがてクロエが、ゆっくり目を開く。
「魔力場が変わってる」
その声音には、いつもの軽さがなかった。
「虚牢の蕾が、起動段階に入った」
その一言で、レクスの顔つきが変わる。
「……本当に、そこまで進んだのか」
レクスの声は低かった。普段の皮肉っぽさが綺麗に消えている。
カイルも、机の上の地図へ視線を落としたまま、短く息を吐く。
「予定より早いですね」
「早すぎる」
クロエは断言した。
「地下の儀式が、予定より早く始まってる」
俺の背中を、嫌な汗が伝う。
明日、搬入されるはずだったグラン・クリスタリア。それを合図に、こっちが動くつもりだった。だが向こうは、そんな予定表どおりには待ってくれない。
「でも、まだ結晶の搬入は……」
アイラが言いかけたところで、別の声が割り込んだ。
「あっ」
イオナだった。
青い髪を揺らしながら、慌てて懐を探る。
「虹貝が……!」
イオナの手の中に現れた七色の貝殻が、淡く脈打つように光っていた。以前は光にかざすと色が変わる程度だったものが、今はまるで生き物みたいに震えている。
「さっきまではこんな反応してなかったのに……」
イオナは目を細める。
「なにかに共鳴してる? 僕の仮説通りなら……いや……ちょっとまだ検証が必要だね……」
「……結局どうなんだ、クロエ?」
俺が言うと、クロエが頷いた。
「もう始まってるとみていい。少なくとも、起動の第一段階には入った」
ヒカリが唇を噛む。
「奴隷の人たち……」
それ以上、言葉は続かなかった。
でも、十分だった。
虚牢の蕾が動き始めたってことは、向こうはもう供物を必要としている。ぐずぐずしてる暇はない。救うなら、今しかない。
「すぐに突入するしかないな」
俺が言うと、レイラが鋭く頷いた。
「あたしもそう思うよ、少年。もう待ってる場合じゃない」
「ですが、王族用避難路はまだ開いていません」
カイルが即座に指摘する。
「搬入前に封印が解かれる保証はない。現時点では、正面の地下入口は封鎖済み。避難路が閉じたままなら、突っ込む先がありません」
「別ルートは?」
「探します」
カイルは地図を何枚もめくる。
その手つきはかなり速い。
「管理用水路、古井戸、排熱路……いくつか候補はあります。でも、どれも狭すぎるか、途中で塞がっている可能性が高い。大人数で通るのは難しい」
「少人数なら?」
ミラが聞く。
「儀式場まで届く保証がない」
カイルは、悔しそうに答えた。
「賭けにするには、あまりに不確定です」
行き詰まりだった。
急がなきゃいけない。だが、入口がない。
誰もがその矛盾に歯噛みしていた、その時だった。
「……でしたら」
静かな声が、室内を切った。
フードの協力者だ。
部屋の隅で話を聞いていた女が、一歩前に出る。
「私が、王族用避難路を開きます」
全員の視線が、そちらへ向いた。
ミラがわずかに目を細める。
「それは、簡単に言うね」
「簡単ではありません」
女は言った。
「ですが、できます」
「封印魔法の解除術式を知っているのは、王族と限られた連中だけだろう?」
クロエの問いに、女はしばし黙った。
そして、ゆっくりと顔を覆っていた薄布に手をかける。
止める者はいなかった。
布が外れる。
そこにあった顔を見て、部屋の空気が凍った。
「……王妃、様……?」
フィリアが、信じられないものを見るみたいに呟く。
レクスもカイルも、さすがに目を見開いていた。
ミラだけは一歩も引かなかったが、それでも狼耳がぴくりと動く。
「……いいのですか?」
ミラの問いに、王妃は静かに頷いた。
「身分を隠していた非礼はお許しください。ですが、今は一刻を争います」
その顔には、気品があった。
けれど、それ以上に強かったのは覚悟だった。追い詰められている顔じゃない。自分が何を捨てるのか、もう決めている人間の顔だった。
「私なら、避難路の封印を解けます」
「王妃様」
ミラが、珍しく言い淀んだ。
「それをやれば、もう後戻りはできない。あなた自身も――」
「かまいません」
王妃は、ためらいなく言い切った。
「ここで立ち止まれば、あの子も、多くの者も救えない」
あの子。
たぶん、王女のことだ。
王妃の指先が、胸元で小さく組まれる。
「青龍さまのお導きなのでしょう」
その言葉に、ニナがはっと顔を上げる。
王妃は、ニナをまっすぐ見た。
「龍の娘がここにもいて、こうして道を示している。ならば、私もまた果たすべき役目を果たします」
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
もう、迷ってる時間はなかった。
俺は息を吸って、みんなを見渡した。
「……強行突入だ」
言葉にした瞬間、全員の顔つきが変わる。
「王妃様に避難路を開いてもらう。王宮突入組は王女の救出を優先。奴隷救出組は搬入路から地下へ突っ込んで、奴隷の救出と陽動」
そこで一度言葉を切って、俺は残っている顔ぶれを見た。
「残留組は、市場を軸に動く。けど、拠点に張りつける気はない」
アイラたちの表情が少し引き締まる。
「王宮側で崩れが出たら援護、奴隷救出側で退路が必要になればそっちを支える。向こうの動きに合わせて、一番足りない場所を埋めるのがこっちの役目だ」
「つまり、何でも屋ですのね」
フィリアが言う。
「そういうことだ。向こうが何を起こしても、こっちも止まらない」
「了解だよ。でも、アル。無理はするなよ」
クロエが答える。
「わかってる。それじゃあみんな頼む」
「ええ」
レイラが頷く。
「行きます」
ヒカリも、震える声のまま言い切った。
「……はい」
ニナの返事は、小さいのに不思議とよく通った。
準備不足だ。
本当なら、もっと詰めたかった。もっと安全な手も考えたかった。
でも、もうそんな時間はない。
決戦は、向こうの都合で前倒しになった。
なら、こっちも腹を括るしかない。見過ごせないものが多すぎる。
俺は机の上の地図を掴み、最後に一度だけ王妃を見た。
王妃は、静かに頷いた。
その目に迷いはない。
もう行くしかなかった。




