ウェヌスの献身
真っ黒な霧の中、オーバストは慄然と周囲を見渡す。
また惨い古代魔法を発掘してきたなと全身総毛立った。あの賢者が使ったのは大量虐殺だけを目的とする即死魔法だ。
(全滅してしまうんじゃ……)
天に護られたディアマントや自分はともかく、他の者は死を免れないだろう。どうすべきかと心は震えた。神の命を第一とするならこのまますべて見過ごさねばならない。アンザーツの身体を奪われホッとしていたくらいなのに。
どうする、どうすると自問する。ディアマントも狼狽を隠せぬ様子だった。
初めに動いたのはオーバストではなかった。主人でもなかった。
暗黒の中でふわふわした金色の浮遊物体が膨らむ。その中心にいるのは金髪の少女だった。
「……ウェヌス様!?」
思わず声に出して叫んだ。ベルクと約束して女神の力は使わないと制約を設けたはずの彼女の名を。
何をやっているのだあの方は。確かにこんな古代魔法は天界の力をもってせねば退けられぬが、己に架した戒めを忘れたわけではあるまい。
祈る女神の身体から際限なく光は溢れた。とっくに人間の僧侶の限界など越えていた。
瀕死だったノーティッツやベルクの指がぴくりと動く。色を失っていた頬にも赤みが差してくる。ウェヌスは更に祈りを強め、ハルムロースを真っ直ぐ見据えた。大聖女の威容を双眸に宿らせて。
「あなたがそんな術を使うから、ベルクとの約束を破ってしまったではないですか……!!」
絶対に許しません、と彼女は掴んだ杖の先から黄金光を放射する。半ば唖然としているハルムロースを包み込み、聖なる光は彼を侵食した。
「……ッ!!!」
凄い光景だ、とオーバストは息をするのも忘れて見入る。魔法を食い荒らす魔法など今まで一度も拝んだことがない。ウェヌスは天性の才能だけであれをやってのけているのだ。天然とは凄まじい。
「ぅく、ぁううっ……!」
だがそれはハルムロースの魔法を封じ切るところまでいかなかった。女神としての力を使った反動に、彼女の身体が先に耐えられなくなったのだ。
もがく賢者は光を振り払うべく梟の翼を広げた。地上では倒れていたベルクたちが次々起き上がる。起き上がって、辺りを満たす浮遊物体を見て、勇者は女神の元へ駆け寄った。力尽き倒れんとする彼女の元へ。
おい、とかけた声は柄にもなく震えていた。
ウェヌスの細い体を抱き上げた腕も。
「……すみませんベルク、女神の力はなしだと言われておりましたのに……」
そうじゃねえだろと言いたいのに声が出てこない。キラキラとこんなときまで輝かしい浮遊物体は次第に薄まり消えていく。
どうして力を使ったんだなんて聞くまでもなかった。この女が簡単に約束を反故にするはずないのだから。
(俺らのためかよ……!!!)
泡となって消えると話していた通り、女神の全身をあぶくのような光が覆った。これが全部消えてしまったらどうなるかなんて想像したくもなかった。
繋ぎ止める方法を必死で考えるのに何も浮かばない。ウェヌスにかけてやるような言葉も。
「何とかならねえのかよ!!!」
怒鳴り散らしたベルクにノーティッツは首を振った。その仕草に目の前が暗くなる。
幼馴染はウェヌスに回復魔法を唱えたが、閉ざされた瞼は少しも開かなかった。光はますます薄まって、ほんの一握りだけになる。
すみませんなんて言葉で終わる気か?そんなもの認めやしないぞ。
「ウェヌス!!!」
妹の異変を察してディアマントが叫んだときにはもう最後の光も消えかかっていた。
だがその声に弾かれたよう、オーバストが離れた場所から魔力の塊を放出する。
「……っ!」
僅かに残った黄金はウェヌスの心臓に戻っていった。横たわったままの女神に近づきオーバストは短い印を切る。そうして固まった身体をベルクから受け取った。
「……何したんだ?」
「……肉体の時間をお止めしました。ですが魔法を解けばウェヌス様は再び……」
何の解決にもなっていない返答にベルクは拳を叩きつける。どうしてやればいいのだ。
「まったく、天界人というのは目障りな存在ですねえ。そんな馬鹿女にこれほどの力があるんですから……!!」
折角用意した魔法が半分駄目になったじゃないですか、と文句を垂れつつハルムロースは無数の光刃をベルクたちに向けた。悪徳賢者は腕と足だけ梟のそれに変わっており、褐色の額には魔族の紋様が浮かんでいる。どうやらこれがハルムロースの正体らしい。
「悲しんだって無駄ですよ。どうせ全員殺して差し上げますからね」
八つ裂きにでもするつもりなのか、白い刃はかわす隙間もないほどに地上へと降り注ぐ。ウェヌスを庇ってやるためにベルクは一歩たりとも退かず、攻撃を弾き返すため剣を取った。
(――許さねえ。あの野郎だけは絶対にだ)
パン、と高らかな音が目の前で響いた。ハルムロースの魔法を消滅させたのはベルクの剣ではなくアラインの結界だった。
「ベルク、僕はアンザーツの加勢に行く。こっちは任せていい?」
紅いマントを翻し、アラインは浮かぶ光刃を次々に撃ち落としていく。普通に考えて賢者を相手にするのなら大賢者の力は必須だろう。だがそんな打算はベルクの頭にはもうなかった。あの男だけは己のこの手でぶちのめさねば気が済まない。
「おう、行ってこい。ちゃんと戦士の兄ちゃん連れて帰ってくんだぜ」
「……ああ!」
いつも通りに声をかけてやれたのだろうか。はらわたが煮え繰り返って頭がどうかなりそうだ。
オーバストにつきっきりで術をかけられているウェヌスを振り返り、ベルクは待ってろと唇を結んだ。
何があっても、何をしてでも助けてやる。それまで死ぬな、ウェヌス。
下半身を大蛇の姿に変貌させ、ゲシュタルトは多大な魔力を必要とする大魔法を連発した。その攻撃をかわしながら、己の肉体を取り戻そうとアンザーツはリッペの元へひた走る。
「ゲシュタルト、待ってくれ! 話を聞いてくれ!!」
叫ぶ勇者に聖女は容赦などしなかった。そう簡単に辿り着かせはしまいとアンザーツの足元を狙い炎や氷を撃ち続ける。
「こんな姿になった私に今更何をどう弁明したいの!?」
何をどう言っても怒りを沸騰させるだけで、ゲシュタルトはまったく話し合いに応じそうにない。傍らの戦士にもアンザーツを足止めするよう指示を出し、リッペの元へは彼女自ら飛び立とうとした。
そうはさせるかとアラインは鞭のごとく稲妻をしならせる。背後から襲ったそれをゲシュタルトが結界で相殺すると、ハッと気づいた戦士がこちらに顔を向けた。
「……アライン様」
苦い表情だ。アラインは臆すことなくマハトを見つめる。ぐっと息を飲み戦士はこちらに斬りつけた。斧を弾いた剣が硬い金属音を響かせた。
ハルムロースと向き合って、ディアマントは「一時休戦だな」と呟く。声音から感情を読み取ることができず、エーデルは眉根を寄せた。
「……本気であたしを殺す気だったの?」
問いかければこちらを振り向くこともせず、彼はそうだと言い切る。
「これが終わったら覚悟しておけ」
「……」
そう言う割に後ろ姿は無防備だ。普通の人間ではないからだろうか?考えていることがまったく読めない。殺そうと思うなら庇わなければいいのに、さっきも彼は風魔法でエーデルの周囲から黒霧を吹き飛ばそうとした。殺意があるなどと明言されてはこちらとしても警戒せざるを得ないけれど。
何か意図や目的があるのかもしれない。天の神様からの言いつけが。それで行動がちぐはぐなのかも。
「あなたが本当はいい人なのか嫌な人なのかよくわからないわ」
ディアマントは答えなかった。ただ空の賢者に向かって大剣を抜いただけだった。
地上から梟を見上げるのは五人。ベルク、ノーティッツ、クラウディア、そしてエーデルとディアマントだ。オーバストは命がけで自分たちを助けてくれたウェヌスにぴたりと寄り添っている。神鳥たちはそんな神の使者を見張るよう側についていた。
(……さっきは少し動揺してたわね)
身内が倒れたのだから当然か。やはりディアマントと言えど妹が心配なのだろう。いくら袂を分かっても、家族というのは変わらず心を砕く相手なのかもしれない。
エーデルも彼女のことは好きだ。兄に似ず明るくて素直だし、できるなら助けてあげたい。
「ねえ、一時休戦するなら肩に乗せてちょうだい」
「はあ!?」
「流石にあたしもあんな高くまで跳べないのよ。構わないでしょ?」
「……」
断られなかったのをいいことにエーデルは背中の鞘に手をかけた。金色の粒が寄り集まって翼に変わり、ディアマントはふわりと大きな身体を浮かせる。不機嫌そうないつもの表情に戻ったのが何故か少し嬉しい。
「落ちても平気だから拾いには来なくていいわ」
「ふん、誰が貴様なぞ拾ってやるか!」
同じ空から賢者を狙うエーデルたちを見て、ノーティッツもベルクの足元に風を送り始めた。
アラインに魔力の刃をすべて落とされたハルムロースが「ふむ……」と唇に手をやり次の手を考えている。どれだけの知識を溜め込んで生きてきたのか知らないが、余裕ありげなのが腹立たしかった。
エーデルはディアマントの背中を蹴って跳躍した。小憎らしい銀髪男の顔面に蹴りを入れるつもりで踵を落とすが、透明なバリアが金剛石のごとき強度を持ってエーデルの攻撃を阻む。
「貴ッ様この私を足蹴に……!!」
憤慨しつつディアマントも剣で突く。だがやはりハルムロースのバリアを貫くことはできなかった。
「ちっ……それも古代魔法か!」
「ふふふ、天界人でも魔法の理を歪めることはできないようですねえ? それでは反撃させていただきますよ?」
賢者は結界の中から掌大の黒い球体をいくつか撃ち出した。それらは落下するエーデルの足首やディアマントの手首に吸い寄せられるよう近づき、吸着と同時に鉛のようなおもりに変わった。
「!!!」
ちょうどそこへノーティッツの風魔法を受けベルクが舞い上がってくる。黒い球体は彼にも複数向かっていった。
「小僧、叩き切れ!!」
ディアマントの助言が少しでも遅れていれば彼も餌食になっていただろう。ベルクは類稀な剣技の才能をもって五つも六つも襲いかかってきた球体を残さず真っ二つにした。黒い物体は綺麗に弾け、跡形もなくなる。代わりにハルムロース本人を攻撃するところまで行かなかったようだが。
そうこうする間にエーデルは湿原に着地した。まるで枷でもつけられたよう両足が重い。避け切れなかったディアマントもおそらくこうなのだろう。
「エーデル!」
クラウディアが確認してくれたが、案の定簡単には解けない魔法のようだった。解けないなら解けないで仕方がない。このまま戦うよりほかはない。
「こんなのよりあの結界よ。攻撃が届かないんじゃ倒しようがないわ」
何か手はないかと問えば「アラインさんの攻撃のとき、彼の周囲だけ次元が歪んでいるように見えました」とクラウディアが分析した。それを耳にして反応したのはノーティッツだ。
「次元か。あの鎧の剣士のときを思い出すな」
「ええ」
「……もしかしたら何とかなるかも! クラウディア、悪いけどベルクが上まで飛べるように補助してやってくれる? ぼくちょっとオーバストさんのところへ行ってくるよ!」
常々ベルクやウェヌスが賢い、頭の回転が速いと誉めちぎる少年は何か思いついたらしく戦場にくるりと背を向けた。出会ったときは一番普通そうな印象だったのに、頼りになる男の子だ。
「おっと、行かせませんよ」
そのときハルムロースのにこやかな声が天から響いた。反射的にエーデルは今しがた走り去ったノーティッツの背中を追う。黒ずんだ気弾が彼に襲いかかろうとするのを二本の腕で受け止め、エーデルは地面に大きくバウンドした。
「ぁぐ……ッ!!」
「……っの腐れハム!!!!」
ノーティッツは急ブレーキをかけ、空へ向かい何本もの矢を放った。魔力を注入してあるらしい矢はバリアを越えこそしなかったものの、深々と空に突き刺さる。
「ほほう、辺境の都で古代魔法のお勉強でもしましたか? でも残念です、私の扱う魔法の方が数倍強いんですよ」
結界に刺さった矢をあっさり引き抜きハルムロースは一本ずつへし折った。その間もディアマントは賢者に斬りつけようとしていたが、剣は空しく弾かれるのみだ。
「何か思いついたんでしょ? ここはあたしに任せて行って!」
「……ごめんね! 後で好きなB級グルメごちそうするから!!」
くすりと笑ってエーデルは間髪入れず襲いくる気弾をすべて受け止めていった。クラウディアも結界を作って護ろうとしてくれたけれど、賢者の魔法があまりに速い。すぐ側に着地してきたベルクとふたり舌打ちしながら応戦した。もっと速く動ければもう少し回避できるのに、さっき受けた攻撃が手痛い。いつものように足が動いてくれない。
クラウディアが光魔法で速度補助を何重にもかけてくれたが、術の構成の違いか何かか効果は表れなかった。ディアマントもかなり苛立った様子で一旦湿原に降りてくる。
「おい、ウェヌスの兄貴。空飛べるんなら俺も乗せろ」
「貴様まで私を乗合馬車扱いするつもりか!?」
「っるせえガタガタぬかすな!! ウェヌスあんなんにされて黙ってられっかよ!!! てめぇも兄貴ならあいつボコボコにする一番いい方法考えろッ!!!」
フーッ、フーッと荒れる呼吸をベルクは必死に抑えている。エーデルから見ても彼の怒りは振り切れていた。攻撃しても当たらないもどかしさが更にそれを増幅させているようだ。
「……」
妹の名を出されたことでディアマントは言葉を飲んだ。
「仕方がないから掴まらせてやる」
低く唸りってそう返し、重いはずの腕を差し出す。
一時休戦などと言わず、ずっとそうしてくれたらいいのに。天界のしがらみなど自分にはわからないが、できるならディアマントと戦うようなことはしたくない。
とんでもなく失礼でデリカシーのない男だが、エーデルの寂しさを紛らわせてくれた男であるのもまた事実なのだ。
エーデルとベルクがハルムロースの攻撃を凌いでくれている隙にノーティッツは土魔法で地面を掘り、こっそりとオーバストに近づいた。
モグラにでもなった気分だが今ここで自分が倒れたら反撃の糸口は永遠に掴めない。頭の上に草と土を乗せたままボコリと顔を出すとオーバストがギョッと目を剥いた。静かにと言うよう人差し指でジェスチャーする。ハルムロースに勘づかれたくない。
「オーバストさん、水門の街で魔剣士と戦ったとき次元の亀裂を塞いでたよね? あの要領であいつのバリア壊せない?」
「……申し訳ありません。今の私にはウェヌス様の時をお止めするので精一杯です」
「ううーん、ぼくじゃ代行できないかな? それか天界人のディアマントか」
「ディアマント様には難しいかと……。非常に繊細な魔法組成を必要としますので……」
暗に彼にはそういう細やかさがないと言っているらしい。普段の自分ならすかさず突っ込んでいたろうなとノーティッツは思う。そう、普段の己であれば。
苛々しているのはベルクだけではない。どうしてウェヌスを守れなかったんだとノーティッツも内心発狂寸前だった。幼馴染に比べても温厚な性格であるこの自分をここまで怒らせたのはあの賢者が初めてだ。将来ベルク伝記が残されることになったとき、検閲でストップがかかるレベルでどうにかしてやりたくて堪らない。もしウェヌスが消えていたらこんなことを思う理性も残ってはいなかっただろう。
「……ノーティッツ殿は何故まだ私を頼ってくださるんです? 我々はあなたがたに刃を向けたのに」
「何故って今そんなこと……ああまあいいや。ウェヌスを助けてくれたんだからぼくたちまだ仲間だろ。兄貴の方も、ほら、ベルクと一緒に戦ってるよ」
突然そんな疑念を投げかけたオーバストにノーティッツはごくシンプルな答えを返す。ともかく今はあのいけ好かないハルムロースをどうにかしなくてはいけないのだ。置いておけることは一旦置いておきたい。
「……私の剣をクラウディアに渡していただけますか?」
「え?」
オーバストはウェヌスに術をかけたままそう聞いた。なんであの子に、と思ったがそれこそ尋ねている暇はない。
「次元を断ち、次元を塞ぐこの神剣……彼にならもしかして使いこなせるかも」
「わかった。必ず渡す。他に伝えることは?」
ありません、とオーバストが言い背中の長剣を放り投げる。片手で切り札を受け取るとノーティッツは再び土中に潜り、今度はクラウディアを目指した。
勇者候補だとかアンザーツ殺しを命じられたとか、愛らしい顔に反して不穏な気配がぷんぷん漂う僧侶である。オーバストが彼を指名した理由もその辺りにあるのだろうか。
(今はどうだっていいや、そんなもん)
ハルムロースに一撃食らわせ思い知らせてやれるなら、あとは野となれ山となれだ。
精々いい気になっておけ。その高そうな縁無し眼鏡、百万回叩き割ってやる……!




