解けた封印
極小サイズの羽虫に化け、リッペはこそこそとドアの隙間に入り込んだ。深手を負って帰ってきたイデアールの部屋にゲシュタルトが向かうのが見えたからだ。
イデアールが魔物たちを集め、都に進軍したのは数日前のことだった。帰還してから今日まで彼に目立った動きはない。一応主人であるハルムロースが帰ってきたときのため、情報収集ぐらいしておこうと己も努力しているのである。
(つってもあの陰険ヤロー、本気で音沙汰無しだけどな)
水門の街にいるという連絡を最後にハルムロースからの交信は途絶えている。ゲシュタルトは何か知っている様子だったが、教えてくれと頼めるほどリッペは命知らずになれなかった。まさかあの性悪眼鏡がくたばったわけではないと思うのだが。
「随分手酷くやられたのねえ?」
ゲシュタルトはそう嘲笑いながら翼を出して休むイデアールに語りかけた。治癒に専念しているからか、今戦っても勝てる自信がないからか、或いは背中にユーニが隠れているからか、イデアールは何も言わない。ただ無言で彼女を睨みつけるだけである。
「そんなに怖い顔しないでよ。少しの間、あなたと協力しようと思って足を運んだんだから」
「……協力?」
不穏な言葉にリッペもぴくりと耳を揺らした。長いこと共同戦線の案など欠片も持ち出してこなかったくせに、一体どういう了見なのだろう?
「都にいた連中、あの中のひとりにアンザーツがいるの。あなたの父親を気狂いの亡霊にした男よ」
笑みを引っ込めたゲシュタルトにイデアールは「何だと?」と声を荒げた。旧敵の名を思わぬところで耳にして男は憎しみを剥き出しにする。
「だが人間が百年も生きていられるのか?」
彼の疑問はもっともだった。人間なんて長生きしてせいぜい七十か八十だ。何か特殊な呪法を用いているなら話は別だが、普通は五十年も生きればなんのかんので死んでしまう。
「ヒルンヒルトよ。彼が今までアンザーツを人知れず眠らせていたの。都でヒュドラを倒したのも彼ら。……もしあなたが辺境の遺跡からせしめた古代魔法を譲ってくれるなら、私が彼らの戦力を殺いできてあげるわ。個人的に恨みがあるのよ。報復が成功すれば私は魔王の座を諦めても構わない。……どうかしら?」
「本当か?」
「ええ、もちろん」
ゲシュタルトの赤い瞳は復讐の炎に染まっていた。
魔王の座を諦めるという言葉にイデアールはそそられたらしい。「いいだろう」と警戒しつつも承諾する。
「どんな魔法が必要だ? すべてを譲ることはできんが、極力意には沿ってやる」
形の良い唇が再び薄笑みを浮かべた。じわじわ相手を追い詰めてやろうという般若の顔だった。
リッペは怖々ゲシュタルトを見上げる。この女がこうまで苛烈に瞳を燃やすところを見るのは初めてだった。
「私が欲しいのは死霊の憑依を強制解除する魔法よ」
あるんでしょう、と女が笑う。
そんなものを何にどう使うのだろうと訝るが、ゲシュタルトはそれ以上詳しく説明しなかった。
******
荒野の旅は人数の割に静かなものだった。それぞれ物思いに耽る時間が長く、たまに思い出したように会話する程度である。
明るい空気が当たり前だったベルクやノーティッツにとって重苦しい旅路だった。ノーティッツの方は努めていつも通り振る舞おうとしていたが、ベルクはウェヌスとアラインのことが気にかかって仕方なかった。
「お兄様にオーバスト……どうなさるおつもりなのでしょう……」
ウェヌスは時折溜め息を零し、祈るように手を合わせる。こんな風に静かに落ち込む彼女は見たことがなく、困惑した。神鳥の剣が輝かない事件のときはもっとコミカルに壊れていたし、それ以外でもウェヌスは常にテンションが高い。そういう彼女を鬱陶しいと思ったこともあるけれど、今に比べればずっとましだった。
「大丈夫だよ、ベルクが上手くやってくれるって」
「おい」
オーバストはともかく、いくらなんでもウェヌスの兄まで思い留まらせる自信はない。
勝手にこちらに全部委ねようとしてくる幼馴染を軽く小突くと女神はくすりと笑みを浮かべた。
「……そうですわね。私がひとりで思い悩んでも仕方ありませんわ! ベルク、どうぞお願いいたします」
「だからちょっと待てっつうの! そりゃなんとかしてやりてえとは思ってるけどなあ」
「ええ、ですからあなたの選択を信じますわ。私の選んだ勇者はあなたなんですもの」
「……」
そこまで言われると照れるなと黙り込んでしまったベルクを、今度は幼馴染が嬉しそうに小突いてきた。その手を無言で押し返したり引っ掻いたりしているうちに、ウェヌスの表情は少しずつ明るいものに変わっていく。
ちらりとノーティッツと顔を見合わせ、互いにほんの少し安堵した。いつの間にかウェヌスは自分たちのムードメイカーになっていたようだ。旅に出ろと押し切られたときはどうしてくれようこの女と思ったが、変われば変わるものだ。
(……あいつにも色々あったんだろうなあ。旅に出てからここに来るまで……)
視界の片隅に捉えた隣国の勇者は辺境の都を出て以来ほとんどずっとひとりでいる。仲間のはずのクラウディアはアラインよりもエーデルを案じているようだし、彼の側を飛び回るのは神鳥バールくらいだった。
(アンザーツに会えたら話したいこといっぱいあるっつってたのに……)
何をどう話しかけてもアラインは上の空だった。ひとりで歩きたいからとベルクからも離れてしまう。塞ぎ込んだ背中を見る度に喉から嘆息が出かかった。アラインが落ち込んでいることをアラインに当たっても仕方がないのに。
「どうしても勇者の血筋じゃなきゃ駄目なもんかね」
思わず漏らした言葉にはノーティッツの溜め息が返る。幼馴染は沈むアラインを遠目にかぶりを振った。
「血統の重みくらいお前でもわかるだろ。もしお前んとこの兄貴が実は王様と血が繋がってませんでしたって言われたらどうすると思う? きっと王位継承権を放棄するって言い出すぜ」
「……」
わかりやすすぎる例えにベルクは唸らされる。うちの兄どもなら「国民をたばかるとは、この上は死んでお詫びを!」と腹を切る可能性も否めない。
流石にアラインはそこまでの短絡思考ではないだろうが、非常に不安定になっていることは確かだった。
それでも彼が「勇者」を諦めるわけがないと信じているけれど。
******
徒歩移動より飛行移動の方が遥かに迅速である。辺境の都でベルクたちと袂を分かった数日後には、オーバストとディアマントは水門の街まで引き返してきていた。
表面上ディアマントの態度は落ち着いているが、彼の場合落ち着いていることの方が珍しいので、やはり常の精神状態ではないと考えていいだろう。
エーデルのことを思っているのだろうか。何度か尋ねようとしてみたが、ディアマントはオーバストにその隙を与えてはくれなかった。
「……で、アンザーツの身体はどこにあるんだ?」
国境を隔てる河を見下ろしながらディアマントが問う。オーバストは「多分あの辺りです」と岸辺を指差した。
ヒルンヒルトがハルムロースに憑依したことを考えると、賢者が離脱した水門の街が最も怪しい。そうでなくても尋常でない数の魔物が出現していたようだし、彼らがみな勇者の器に引き寄せられて集まったならアンザーツの肉体が付近にある可能性は高かった。寧ろそう考えるのが自然だろう。
「水で隠れているのかもしれんな」
ふむ、と思案した後ディアマントはオーバストに河を堰き止めるよう命じた。自然のものに介入するのは疲れるし気合いがいるのだが、そんなこと彼はお構いなしだった。
「……えい!」
まだ痛む脇腹を極力気に留めないようにしてオーバストは空中に魔法陣を描く。竜巻で水を吸い上げ、薄くなった部分を凍らせた。淡々とやってはのけたが結構な大技である。
「あれか?」
「うわっ……!」
河の水量が一時的に減少したことで洞窟の入口らしきものが出現する。だがそれは到底中に入ることなどできそうにない状態だった。何もかも氷漬けなのだ。洞穴の内部を完全に水で満たしてから、溶け出さないよう氷の魔法をかけたものらしい。
試しに最大火力で炙ってみたが、強固な封印に弾かれ少しも水に変えることはできなかった。真空波で傷をつけてみようともしたが、これも徒労に終わる。
「何か策を練らないとアンザーツまで辿り着けそうにありませんね」
「……時間がかかりそうだな」
チッと舌打ちしたディアマントは暇潰しに街へ行ってくると告げ、オーバストを洞窟の前に置き去りにした。これはまさかひとりでアンザーツを掘り出せということなのかと戦慄する。だがどうやら本当にそういう意味らしい。あっという間に後ろ姿は見えなくなってしまった。
お前ならできるだろうと任せてくれるのは有り難いが、今は自分も都での連戦で疲れている。できればほんの少しでも休ませてほしかった。そこまでの気遣いを自分がディアマントに求めてもいけないと思うけれど。
(……傷の治りが悪いのは肉体が古いから、か)
何百年も昔の器を無理に酷使しているのだ。仕方ないと言えば仕方ない。そのうえ己は魂も不完全だ。
クラウディアはア・バオ・ア・クーから分離したのがオーバストかと推測したけれど、事実はその逆である。オーバストからア・バオ・ア・クーが切り離されたのだ。
世界を繰り返すための魔法に最初に異議を唱えたのは自分だった。地上の塔に落とされた神鳥も。
魔物の肉体を与えられ、今後は聖獣としてひとりで神具を守るよう言い渡されたとき、オーバストはまだ欠けたところのないオーバストだった。
ぽつんと孤独に何年過ごしたろう。寂しいと言って自分を天に呼び戻したのはツエントルム――罰を架した当の神であった。何もかも知っているお前にはやはり側にいてほしい。そう言って。
魂を分けられ塔に残されたのは「ツエントルムに同調できない自分」「ツエントルムから離れたい自分」「ツエントルムの友人であった自分」――そのどれかだったのだろう。天界に戻ったとき、オーバストはもう神とされる男に逆らえなくなっていた。
大陸史上最強無比と謳われた大魔導師のなれの果て。神鳥たちの楽園である天界において、ツエントルムはひとりだけ形を異にする精神体だった。最初こそ肉体と同じ男の形をしていたが、何百年と経つうちに輪郭はゆっくりと失われ、やがて青白く発光する水晶に似た球体となった。
何人もの勇者が生まれ、死んでいった。その間にツエントルムの書庫を覗いた神鳥と、地上を覗いた神鳥が相次いで塔に落とされた。そうしておよそ百年前、生まれたのがファルシュとアンザーツだった。
ツエントルムは神として生まれた神ではない。だから全知全能というわけにいかない。同じ家系からしか勇者を輩出できないのは、勇者が彼の子孫だからだ。ヒルンヒルトと同じようツエントルムも己の血筋にまじないをかけた。魔王の方は彼の魔法から作られた。魔王城に配した玉座を寄る辺に姿を持つように。
勇者や魔王を、まして大陸すべてを常に監視することは難しかった。ゆえに彼らの反逆を見過ごした。アンザーツがファルシュを倒していないと気づいたとき、事態は既に手遅れで、彼らはとっくに肉体と精神を分離させていた。アンザーツは子を成していなかった。今までと同じやり方で世界を続けるためには何か手を打たなければならなかった。
――昔のお前のように、またわたしに抗議しようという者が現れたよ。
ツエントルムはもう光と声だけの存在になっていたけれど、彼が笑ったのがオーバストにはよくわかった。
「……」
眼下の洞窟をじっと見つめてオーバストはかぶりを振る。覚えのある眩暈と耳鳴りに息を震わせながら。
呼びかけられていた。薄ら寂しい神殿の奥から、頭の中に直接。
新しい命令がまたオーバストに下される。神の声は喜々とすらしていた。
(……まるで試されるために遣わされたようだ)
今度こそ自分が彼の意向に従うかどうか見定めようとしているのだろうか?
逆らう意志と自由を奪ったのはあちらなのに、おかしな話だ。
対岸からずっと見えていた街ではあるが、実際に訪れるのはこれが初めてだった。
ディアマントは特にすることもなく雑踏を歩いた。人間の住む場所は寂れた田舎村と崩壊寸前の都しか知らない。普段はこれほど活気あるものなのだなとぼんやり思う。
石畳の道をエーデルくらいの若い女が何人も歩いていた。造形の良し悪しなどわかりもしないが、まったく心惹かれないことだけはわかる。
明るい色の髪をした女が赤毛には何色の髪飾りが合うかとお喋りしていた。無難なのは黒だが緑や紫も良いだろうと連れの男が答えている。
――目の前にいない女のことで何故こうも頭が埋まるのか。
ふたり連れの去った店の前でディアマントは立ち止まった。店先に並んだリボンを手に取って戻して、結局また掴んでしまう。
贈れるわけもないのだからと選んだ色はあの女の髪と同じ紅だった。地上の貨幣など持っていないので代わりに胸の宝石を毟り取る。慌てた店主がもっと持って帰れとうるさく騒いだ。仕方がないので青い硝子玉の埋め込まれたペンダントを懐に突っ込んだ。こんなものであの女が笑いかけてくれるはずもないとわかっているのに。
本当に、私はここで一体何をしているのだろう。
(殺さねばならん女だぞ……)
そう言えばウェヌスも髪にピンク色のリボンをつけていた。連れの少年のどちらかから受け取ったのだろうか。そうだとしてももう尋ねる機会もなさそうだが。
「ディアマント様!」
従者の声に振り向けば、へらへら笑う彼がいた。正直今はこの顔を見ているだけで腹が立つ。もっと早く、あの女に出会うより早く魔王の血のことを知っていれば、情を移すことなどなかったのに。
「アンザーツはどうした? 掘り起こせるまで私を呼びに来るな!」
「いえ、あの、掘り起こせたので来たんですけど……」
「……何? もうか?」
「ええ、ですのでお越しいただければ」
促されるまま洞窟近くの岸まで戻ると地滑りでも起きたかのよう古い土壌が露出していた。洞窟のあった周辺は無残に崩れ落ち、付近の水を茶色く濁らせている。
オーバストは長剣で次元の裂け目を作り、ディアマントにその中を覗かせた。まだ全体が氷漬けではあったものの、暗闇に浮かんでいるのはアンザーツの肉体に他ならなかった。
手こずりそうな様子だったのに、もう回収を終えてしまったのか?
不思議に思い「これはお前がやったのか?」と問いかける。
「ここには私しかいませんよ?」
「……まあそうだな」
何か奇妙なやりとりをしていると思ったが、気に留めないことにした。オーバストは時々ディアマントも知らないような魔法を使う。ともかく勇者の身体が手に入ったならそれでいい。
「どうやって潰す?」
「いえ、しばらくはこのまま持ち運びましょう。まだ利用価値があるかもしれません」
「……そうか、そうだな」
肉体破壊は敢えて強行しようとは思わなかった。
頭のどこかではわかっていたのだ。それをすれば決定的な亀裂になると。
すんなり提案を受け入れたディアマントを見てオーバストはホッとしたようだった。




