第12話:碧眼に宿る真実(モノ)
まぶたの裏に、光が差し込んだ。
仁はゆっくりと目を開けた。
そこは、白一色の病室。無機質な天井、消毒液の匂い。点滴の機械音が一定のリズムを刻んでいる。
体を起こそうとすると、まだ全身に倦怠感が残っているのを感じた。上半身を動かすだけで骨の奥に響くような重さがあった。
どうやら、自分は椅子に腰掛けたまま眠っていたらしい。
視界の先には白いベッド、
そしてそこに横たわる人影。
「おはようございます」
柔らかい声が耳を打った。
仁はハッと顔を上げた。そこにいたのは——碧眼と紅眼、異なる光を宿すオッドアイの少年。
「クリス……」
少年は小さく笑みを浮かべ、背筋を伸ばして座っている。
血色は悪くない。
あの夜の、畏怖すら漂わせるオーラを纏った姿とは違い、どこにでもいる無邪気な少年のように見えた。
「もう大丈夫なのか?」
「ええ、おかげさまで。仁さんが助けてくれましたから」
仁は胸をなで下ろした。
無理をしているようには見えない。
だが、そのオッドアイにちらつく不思議な光が気になって仕方がなかった。
あの目は、確かに常人ではあり得ない力を放っていた。
あれは何だったのだろうか。
好奇心から、仁は唇を開きかけた。
しかし——。
「お、起きてたか」
病室の扉が開き、田楽刑事が姿を現した。独特の煙草の匂いと共に、いつもの落ち着いた声。
「田楽さん……」
「朗報だ。指輪の解析から、連中の潜伏先がほぼ特定できた。それと……スネメアの件だがな」
仁とクリスは思わず顔を見合わせる。
「留置所内で自殺していた。詳細は伏せられているが……まあ、そういうことだ」
「スネメアが……」
スネメアは既にその力を失い、ただの老人になっていたはずだ。
それが自殺とは……。
疑問は尽きなかったが、田楽刑事の目が語っていた。
それ以上、聞くな……と。
「ここから先は警察の仕事だ。お前らはもういい。退院の手続きが済んだら帰れ」
そう言い残すと、田楽刑事は病室を後にした。
仁は、言いそびれた疑問を飲み込むしかなかった。
それからしばらくして、退院の手続きを終えた二人は事務所に戻った。
夜の街を抜け、煌びやかな照明のビルに戻ると、不思議と安堵が胸を満たす。
クリスの事務所は、すでに仁にとって「帰る場所」になり始めていた。
荷物を置いた瞬間、クリスが小さく呟いた。
「仁さん、本当にありがとうございます」
その声音は、普段の快活さとは違い、どこかしっとりとしていた。
「な、なんだよ急に」
「眼の話。前にも有ったんですよ。その時は、気が付いたら周りがグチャグチャになっていて……。でも、僕は何も覚えてないんです。でも、今回は違いました」
クリスは、神妙な面持ちで手を差し出した。
「無理にお誘いしたにも関わらず、あんなことまで。ありがとうございました」
仁は気恥ずかしさを覚え、頭をかいた。
仁にとって、何か特別なことをした感情はなかった。
困っている人を見たら、放っておけない。それは、彼にとって自然なことだった。
「俺は……困ってる奴を見たら、どうしても助けたくなるだけだ。お前が子供だろうが、天才だろうが関係ない」
クリスは目を細めた。どこか、微かに震えるような笑みを浮かべていた。
その瞳に、冷静さの奥に隠された喜びが揺れているのを、仁は見逃さなかった。
「なあ、クリス……あの目のこと、聞いてもいいか?」
仁は、ようやく本題を切り出した。
「そうですよね。気になりますよね……」
クリスは黙って一度目を閉じる。長い沈黙の後、ふっと吐息を漏らした。
「実は、僕自身もよく分かっていないんです」
「え?」
「自分の意思で出せるものではありません。突発的に発動するだけ。いつ、どんな条件で……それすらも分からない」
仁は言葉を失った。
いつも冷静沈着で、知識も豊富で、論理的にすべてを見通すクリス。
だが、その本人が理解できない力に戸惑っていることを知り、仁は胸が痛んだ。
「お前……怖くないのか? 自分の中にある、わけのわからん力なんて」
その問いに、クリスは小さく笑った。
「怖いですよ。だからこそ、仁さんがいてくれるのは心強いんです」
その言葉に、仁は一瞬言葉を失った。
いつも強がっているように見えた少年が、ほんの少しだけ弱さを見せた気がした。
やがてクリスは表情を引き締めた。
「でも、今回で一つだけはっきりしました」
その声は、どこか確信を帯びていた。
「スネメア……『ネメアーの獅子』の力を持っていましたよね」
「ああ、あのおっさんもそう言ってたな」
「『ネメアーの獅子』、これ、何の物語に登場するか、ご存じですか?」
クリスのオッドアイが、一瞬だけ強く輝いた。
紅と碧が交錯するその瞳に、仁は息を呑む。
「ヘラクレス英雄譚です」
「ヘラクレス……?」
「ええ。その英雄譚に登場する神の試練。その獅子の肉体は、武器を通さず、打撃も効かない。だからスネメアはあれほどの怪物になった」
神事が、何らかの神話に添っていることは既に確認されている。
当然、名のある神話ほど、その力は強大だ。
それがヘラクレス英雄譚ともなれば、その強さは明白だった。
(ということは……)
クリスは静かに笑った。
「僕の目も……おそらく、その系譜に繋がるものです」
(やはりそうか……)
仁でもわかる。
著名な神話に登場する神事。
そして、それを打ち倒せる力。それに類する神事であるということ。
クリスの言葉には確信よりも探求の色が濃かった。
けれど、そこにはほんのわずかに、喜びがにじんでいた。
自分の真実に触れた、その一歩の喜び。
仁はそんなクリスを見て、胸が締め付けられるような感情を覚えた。
この少年は、まだ十二歳に過ぎない。背負うには重すぎる運命だ。
だからこそ、仁は強く思った。
「……大丈夫だ。お前がどんな目をしていようと、どんな力を持っていようと、俺はお前を放っておかない。困ってるなら、必ず助ける」
クリスは一瞬驚いたように仁を見つめ、それから小さく微笑んだ。
「仁さんは、本当に不思議な人ですね」
その声音には、少年らしい柔らかさと、何か大切なものを守りたいという静かな決意が重なっていた。
窓の外には、夜の街灯が瞬いている。
二人はその光を眺めながら、言葉少なに、しかし確かに心を通わせていた。
仁は思った。
この少年の真相を共に追い求めていくことが、自分の役目なのかもしれない。
クリスは思った。
この人となら、自分の「真実」に向き合えるのかもしれない。
——静かな夜が、次なる戦いの幕開けを告げていた。