王子とアホ2
殿下のポケットに突っ込まれて、どれほど経ったのかわからない。
召喚石の中は快適だった。お茶が飲みたいと思えばお茶が出てくるし、つまらないと思えばどこかの本がランダムに出てくる、真っ白くて便利な空間だ。
「……にしても、今はどこにいるのかしら……?」
外の様子を見たいと思えば、上にうすらぼんやりと大きな窓が見える。けど画面の向こうは真っ暗で、何も見えない。どうやらわたくしの石は、まだポケットに入れたままみたい。
耳を澄ますと、音が聞こえる。
「ノエル殿下よ!」「まあ、美しいわ……」「このようなところに何の御用かしら」「護衛はいらっしゃらないのかしら」
その多くが女性だ。
殿下は人気者なのか。
そして時々すれ違うのが、優雅な水流と真っ白な街並みと夏の眩しさを褒め称える特徴的な歌だ。前から向かって来て、すいーっと後ろに流れていく。これは舟歌だ。きっと殿下は、小舟が滑らかに通れるほど幅の広い水路の横を歩いているのだ。
ぴんとひらめく。
ここは、小舟が行きかう水路が有名な地方都市だ。
「パメリア、といったかしら」
道中でたくさんの女性から熱い視線をもらいながら、殿下は迷いなく歩を進める。
きっと、パーティーの時のように微笑んでいるのだろう。けれどその目は恐ろしいくらい温度のないものだろうと、わたくしはなんとなくわかっている。
一室を二泊ほど借り受けた殿下は、さっそくわたくしを呼び出した。
ちょろっと魔力を流されれば、それまで読んでいた本も飲みかけの紅茶もそこに置いたまま、引っ張られてしまう。
なんて迷惑なこと。
様子を窺ってはくださらないの?
着替えていたらどうなさるおつもりなの。
文句はあるけれど、わたくしは賢明な淑女。殿下に失礼はできない。目の前の黒い霧が晴れていけば、そこにはベッドに腰掛けて膝を組んだ殿下がいた。感情の読めない目で、こちらを見ている。
わたくしは立ったまま。
(……頭が高いわね?)
殿下より高くいることはできないので、わたくしはそこに膝を着く。
「殿下、ご機嫌麗しく。どのようなご用向きでしょうか」
「詳しい話を聞いていなかっただろう。まず初めに、お前はどうして召喚獣になった?」
問われて、考える。
目の前に傷だらけの殿下を確認する前、意識が途切れる以前に、わたくしはとても絶望していた気がする。
――はっ!
「いま思い出したのですけど、わたくしは死んでいるのでは?」
「なるほど」
殿下は納得したように頷いているけれど、ちょっとくらい動揺してくれても良いと思う。
「私も噂に聞いた程度だが、ひと月ほど前からお前は行方不明になっている。なるほど、死んでいたのか」
「そうみたいですね」
「原因は? 私の愚弟か?」
第一王子の彼と、わたくしの元婚約者である第二王子は、双子の兄弟だ。あまり似ていないけれど。
「それもありますけど、直接的な原因は賊によるものですね。追いかけられて落ちて岩に潰されたりした気がします」
「魔法で応戦しようとは? お前ほどの魔力があるなら、魔法など使いたい放題だろう」
殿下が言うには、わたくしの中には膨大な魔力があるのだそうだ。わたくしがただの令嬢であった時から、それを感じ取っていたらしい。
けれど、魔力があるからといって、魔法が使えるとは限らない。
「生前は、魔法をろくに使えませんでしたわ」
「……魔力が大きすぎて、制御ができなかったか。悲劇だな」
肉体と魔力の大きさが釣り合わない、といったことが間々ある。
薄い膜の器に、大量の水を注ぐ。膜のどこかにぷちりと穴を空けると、重く速い水流に撒けて、その穴自体が大きく拡がり、閉じようとしても手の付けようがなくなってしまう――イメージするなら、こんな状態だ。肉体は本能的に魔力行使の危険性を悟り、生まれ持った魔力を、肉体の内側へ完全に閉じ込めてしまう。
結果、魔法が使えない。
わたくしは生前、そんな体質だったのだ。
「それが召喚獣として生まれ変わった結果、こうなるわけだな。魔法使いの研究レポート用に譲り渡せば、泣いて喜ばれることだろう」
「それは止めていただきたいです」
「冗談だが」
殿下は面白そうに眼を細めて、
「それにしても、随分あっさりしているな。己の死をなんとも思っていないように見える」
「そうでしょうか」
小首を傾げてみる。殿下は「ああ」と言って、なんだか可哀想なものを見るような目で見下ろしてくる。
わたくしは自分の体を見た。
そして今更、自覚した。
見覚えのない、黒いドレス。召喚されてから今まで一度の疑いもなく着ていた、豪奢なもの。これだけ布をたっぷりと使ったドレスなら、重くて動きにくくて大変なはずなのに、わたくしはこれを鬱陶しいとすら思えなかった。
それならば。
「……そうかもしれません。なんとも、思っていない、かも」
わたくしはすでに、人間ではないのだろう。
「けど、清々しい気もするのです。なんだか解放されたみたい」
「なるほどな」
殿下はわたくしを見たまま、また何かに納得している。何を考えているのかしら。
「社交界の時よりアホっぽく見えたわけだ。肉体が死して、召喚獣として受肉し、その際に何か変化が起きたのだろう。つまりコレット嬢の本性は、これということだな」
またアホって言われた。むっとした彼を睨み上げると「何か?」と笑顔で威圧されて、あえなく押し黙る。
「通常のコレット嬢なら、これくらいの軽口も動じないはずだろう?」
「……そうですわね、わたくしもおかしいと思っていたのです。つまりこれは、令嬢としての上っ面も建前もすべてぶん投げて生きても良いと、世界に許されたというわけですね。生まれて初めて呼吸をしている気分です」
「呼吸は止まっているけどな」
もっと言い方があると思います殿下。
「お前の事情は、少し理解できた。だが私は、これでも王族だ。権力はむやみに振りかざすものではないが、お前にあまり奔放にされてもいけない。無礼を許すにも限度はある」
わたくしは頷いた。いくら人外になってしまったとはいえ、獣ではない。元令嬢として、王族への敬意を表するのも必要だ。
彼は勇者である前に、王族なのだ。「そうだな……」彼は思案し、
「ポイント制にしよう。不敬ポイントだ」
「不敬ポイント」
なんだそれは。
「お前の不敬に点数を付けて、それが合計で百になったら不敬罪で処す」
「つまりは殿下の匙加減」
「いつの世も、不敬の基準などそんなものだろう」
あれ?
もしかしてこれ、わたくし死ぬのでは??