■第68話 確率
『リュータ・・・ ごめん・・・。』
アカリはそう呟くと、涙ぐんで頭を下げた。
長い髪の毛が重力に従って真っ直ぐ垂れ、ツヤツヤのそれが水のように
たゆたう。
ここで初めて、あの日のナチの行動の理由を知ったリュータ。
『もー、いいよ・・・。』
リュータは俯いたままアカリに言った。
一人暮らしのアパートの決して広くはないリビングの床に、気怠そうに
胡坐をかいて座るリュータが深く深くため息を吐きながら背を丸める。
そして小さく呟いた一言は、疲れ果てたような声色のそれだった。
『・・・お前は、もう、家に帰れよ・・・。』
リュータもナチも、そしてアカリも傷付いていた。
各々、どうしようもないやり場のない思いに苛まれ、あの日のことばかりが
頭の中に浮かんでは消え、また浮かんではモヤモヤといつまでも停滞する。
あれはアカリが仕出かした事だと判明しても、リュータはナチに連絡できな
いでいた。きっと今更謝ろうとしたところで、ナチは笑って流すだけだろう。
あの夜、ナチは敢えてそれをリュータに告げなかった。問題は ”そこ ”で
はないのだと気付く。中途半端に優しくする自分の態度が事の発端なのだと
改めて痛感していた。
何度も何度も『ごめん』と繰り返すアカリから目を逸らし、リュータは俯い
て胡坐で組んだ足をぼんやり見つめる。
(・・・もう、 遅せぇんだよ・・・。)
心の中で呟いた一言は、アカリのイタズラへのそれでもあり、自分が考え
なしにしてきたナチへの思わせぶりな態度への怒りでもあった。
心の中に埋められそうもない様な大きな穴がぽっかりと開いた気がして、
息苦しくて必死に胸を上下して息を吸う。どんなに吸い込んでも吸い込ん
でも空回りするばかりで一向に肺は、心は、満たされない。
握った拳で胸をドンと殴る。ドン、ドン、ドン。
『くそっ・・・。』 殴れば殴るほど、歯がゆい心が物言いたげで。
うな垂れてぎゅっと目を瞑ると、ナチの子供のように泣きじゃくる顔、
拗ねる顔、そして真夏の太陽みたいに眩しく笑う顔がリュータの心に広が
っていた。
ナチはそれ以来、活動的に日々を送っていた。
少なくとも詳しい事情を知らない周りの人間には、至って普通に見えて
いた。
リコが進路を決めた今、ナチもしっかり先の事を考えねばならない。
散々悩んだ結果、敢えてナチの成績では少し難しい地元の女子短大を目指
し受験勉強をスタートしていた。
放課後になると、学校の自習室にこもって必死に勉強をした。
休日になるとたまにリコとお茶をしておしゃべりしたりしたが、以前の様
に5人での集まりには参加しなくなった。
たまにリコの口から出る ”イラスト描きの話 ”から、今もコースケとの
繋がりがある事を知り内心ホっとする。一番の気懸りだったそれ。自分の
勝手な都合でリコとコースケの関係に変な溝が出来ることを、何より恐れ
ていたのだった。
とにかく毎日毎日、ナチは忙しく過ごしていた。
目まぐるしい日々に忙殺され、少しも頭の中に隙が出来ないように。
考えないように。
思い出さないように。
あの顔を、声を、背中を、大きな手を。
リュータのことを考えないように。
それでも、夜になりベッドに潜って目を瞑るとリュータの顔が浮かんだ。
ブンブンと頭を振ってなんとかそれを締め出そうとするも逆効果で考え
ないようにすればする程ナチの心の中はリュータでひたひたに満たされ
てしまう。
そっとベッドを抜け出し、机の上にあるケータイを指先でタップする。
着信履歴の画面を表示すると、あの夜ナチの安否を心配するリュータか
ら数分おきに着信があったことを示すそれが目に入る。何十件も羅列さ
れたその名。
今までに貰ったリュータからのメッセージも何度も何度も繰り返し読み
返した。それはもう暗記してしまうほどで、たった数文字のなんて事な
いそれにすら、胸は泣きたくなるほど締め付けられる。
(逢いたいよぉ・・・
声・・・ 聞きたいよぉ・・・。)
そんな想いに胸が切り裂かれそうになりながらも、必死に気持ちを抑えた。
胸に閉じ込めれば閉じ込める程、その反動のようにその瞳からは大粒の涙
が溢れてこぼれる。
(私の一方的な気持ちは、
結局、リュータさんの迷惑にしかならないんだから・・・。)
ナチは人知れず涙を流して、長い長い夜を過ごしていた。
リコは相変わらず日曜になると、コースケの園に通いイラスト描きをして
いた。コースケにとっては保育士になる為の、リコにとっては美術学校へ
入学する為のいい勉強になっていた。二人ともこの時間を大切に思い真剣
に過ごしていたのだった。
ある時、コースケが言いにくそうにぽつりとリコに切り出した。
『リュータとナッチャンって・・・
・・・どうなっちゃうんだろうな・・・?
もう・・・ 顔も合わせないつもりなのかな・・・。』
それは誰よりもリコが一番胸を痛めていた事だった。
ナチの気持ちも、リュータの気持ちも分かる。分かり過ぎるだけにつらか
った。でも何をしてあげられるのか、周りが手を出していいのか決め兼ね
てただただじっと見守ることしか出来ずにいたのだ。
『寂しいですよね・・・。』
模造紙の上を走らせていた筆先がピタリと止まり、リコがため息のように
切なげに呟く。
『自分の好きな人が、
自分を好きになってくれる確率って、
どのくらいなんでしょうね・・・。』
リコも、そしてコースケも、各々胸に秘めるものを感じながら黙りこくっ
てしまった。




