予想外
青年はユカラを抱き上げると、突然のことに唖然とする自分と、驚き泣き止んだままポカンと口を開けるカジの目の前を横切り部屋を出ていった。
「おい、何をする気だ!」
慌てて杖代わりの枝を掴んだ。立ち上がった拍子に負傷した足へ痛みが走り、思わず壁に手をつき歯を食いしばる。
青年がちらりとこちらの足に目を向けたままポツリと言う
「洗う」
「は?」
「汚いだろう」
あまりに淡々とした返答に、言葉を失った。
言うに事欠いて苦しむ女性に臭…
あまりのデリカシーのなさに化け物を見るような目で青年を見つめてしまう
ユカラは何日も高熱に苦しんでいた。呼びかけても反応は乏しく、息をするだけでも苦しそうだった。そんな彼女を、まるで荷物でも運ぶように連れ出そうとしている。
いや、荷物よりは丁寧かもしれない。青年はユカラの頭が揺れないよう、腕の位置を何度も直していた。その度にユカラの小麦色の髪がサラサラと揺れる
「おかあさんを、どこにつれていくの……?」
カジが青年の服を掴んだ。
「水場だ。すぐ戻る」
「ぼくもいく!」
ラビツが止めるより早く、カジは青年の後を追った。
仕方なくラビツも杖を頼りに歩き出した。足はまだ満足に動かない。少し進むだけで傷が疼き、息が上がる。それでも、ユカラを見失うわけにはいかない意地で前に進む
村の外れにある水路へ着いたとき、青年はすでにユカラを芝生の上に横たえていた。
水を含ませた布で、額の汗を拭っている。
首筋、腕、指先。皮膚にこびりついた汚れを、ひとつずつ丁寧に落としていた。
意外な光景だった。
あの青年は、ユカラが助かることを望んでいるのだろうか。
いや、そう決めつけるには、先ほどの言葉があまりにも冷たかった。
『今夜、もたないな』
あの金色の瞳の奥で何を考えているのか。自分には見当もつかない
「熱いな」
青年がユカラの額に触れ、小さく目を伏せるその横顔は憂いを帯びている。
その仕草に、ラビツは胸を締めつけられた。
今朝までの自分は、残りわずかな薬草の何を試しても効果は薄く、あれほど広がった青黒い痕は、そもそも病の原因すら分からず無力さに絶望感を味わっていた
なぜ広がるのかすらわからない
接触を避けても、隔離しても周りに移る、まるで同じ村にいる以上意味がないかのように次々に移っていく
自分が薬師でありながら、何もできない、助けられない
その事実が、無力か自分に指を突きつけ攻め立てているかのように重くのしかかる。
青年の手が止まる
ユカラの鎖骨の下で、皮膚がかすかに盛り上がったのだ。
「……何だ?」
青年はその場所を指で押さえた。
ラビツも目を凝らした。
皮膚の下で何かが動いている。
まさか。
あの虫は皮膚の上だけにいるのではなかったのか。
青年が爪先でなぞるように患部を探った、そのときだった。
指先から血が滲み、一滴、ユカラの肌へ落ちた。
直後、ユカラの身体が跳ねた。
「ユカラ!?」
ラビツは杖を投げ出し、彼女のそばへ駆け寄ろうとした。足の痛みなど、もう気にならなかった。
ユカラの喉がひゅっと鳴る。
口元から、黒ずんだ液体がこぼれた。
「おい、何をした!!」
「何も」
青年は平然と答えた。
その目は、ユカラの口元をじっと見つめていた。
黒い液体の中で、青いものが蠢いた。
虫だった。
小さな脚を動かしながら、ユカラの唇から這い出してくる。水路へ落ちる前に、その動きが鈍った。身体を縮め、やがて動かなくなる。
ラビツは息を呑んだ。
次の瞬間、ユカラが激しく咳き込んだ。
黒い血とともに、何匹もの虫が吐き出される。
「ユカラ!」
青年の腕を掴んだ。力の入らない手で、それでも必死に引き離そうとする。
「何もしていない」
「ふざけるな! 血を吐いているんだぞ!」
「虫が出てきただけだ」
あまりにも平坦な声だった。
ラビツは青年の顔を見た。布に隠れて表情は分からない。それでも、少なくとも狼狽しているようには見えなかった。
この男には、人の命がどう見えているのだろう?
ユカラの身体が、また小さく震えた。
ラビツは彼女の肩へ手を伸ばしかけ、止めた。
皮膚の下を何かが這う感触が、目の前で消えていく。
先ほどまで鎖骨の下に浮かんでいた盛り上がりが、ひとつ、またひとつと消えていた。
青年の血が落ちた場所から、虫たちが逃げるように動いている。
いや、逃げているのではない。
ユカラの身体の内側から、外へ押し出されているのだ。
最後の一匹が唇から落ちる
ラビツは動けなかった。
青年は、指先の傷を一瞥してから、ユカラの額へ手を当てた。
「……熱が少し下がっている」
その声に信じられず、思わず嘘だ,とつぶやいた自分の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
先ほどまで触れるのもためらうほど熱かった肌が、わずかに冷めている。浅く乱れていた呼吸も、少しずつ落ち着いてきた。
皮膚の上だけなく、衰弱した身体の中にまで入り込み、ユカラの命を更に深く深く削っていた虫が完全にいなくなったことで、今まさに消えかけていた命の灯火が、火の粉一つ分、残ったのか
「ユカラ」
ラビツは彼女の首筋に指を当てた。脈は弱い。だが、確かに打っている。
胸が上下している。
生きている。
ユカラは、まだ生きている。
カジが母親の手を握った。
「おかあさん……?」
小さな声に応えるように、ユカラの指がかすかに動いた。
カジは目を見開き、母親の胸へ顔を埋めた。堪えていたものが一気に溢れたように、声を上げて泣き出す。
ラビツも、しばらく言葉が出なかった。
ユカラが死ぬかもしれないと考えるたび、胸の奥が冷たくなった。子供の頃から知っている女だった。気が強く、無茶をして、困っている人間を見つければ放っておけない。
そのユカラが、自分の命を削って息子を守っていた。
ラビツは何度も薬を探し、手当てをし、声をかけた。だが、何ひとつ間に合わなかった。
それを、この見知らぬ青年が。
「お前……いったい、何をしたんだ」
ようやく出た声は、責める響きを失っていた。
「…虫が出てっただけだ」
「それは分かっている。だが、どうやって……」
そう聞くと青年は自分でもわかってないかのように悩むそぶりを見せた
無意識なのか自分の指先を擦っている。
「…知らない」
青年は指先の傷を眺めていた。
まるで、自分でも初めて知ったことを確かめているようだった。
「お前の血が……あの虫の毒になっているように見えたが」
「…」
その問いに答えられる答えを持ち合わせてないように青年が俯く。指の傷はいつの間にか手のひらごと隠すように服の中に引っ込められている
なんとなく見てはいけない気がして、足元に散らばった虫の死骸に視線を移す
青かった身体は色を失い、乾いた葉のように縮んでいる。村中に蔓延した病の正体がこの虫どもの仕業だったのだとすればすべて説明がつく。
だが、どうしてこの青年の血が効くのか。
自分でもそれがよくわかってない様子のこの青年が、なぜこの村に来たのか
疑問はいくつも浮かんだ。けれど、今はひとつだけ確かなことがあった。
ユカラは、まだ生きている。
「……ありがとう」
ラビツは頭を下げた。
青年は、何を言われたのか分からないというように金色の目を瞬かせる
「礼を言われるようなことはしていない」
「お前がいなければ、ユカラは死んでいた」
「…いや…別に」
青年の声に、安堵も喜びもなかった。
ただ、事実を確かめるような響きだけがあった。
ラビツは顔を上げ、青年を見つめた。
礼を言いたい。助けてもらったのだから、当然だ。
それでも、背筋の奥に残る警戒心を拭い去ることはできなかった。
この男は、ユカラを救った。
だが、彼女を救おうとしていたようには見えなかった。
「おにいさん、ありがとう!」
カジが涙に濡れた顔を上げた。
青年は黙ったまま、子供の頭へ手を置く。
ぎこちない動きだった。撫でるというより、何か確かめるような手つきだ。
カジがまた泣き出すと、青年は困ったように手を引っ込めた。
その様子に、ラビツは一瞬だけ言葉を失った。
人の命を救う力を持ちながら、人の心の扱い方を知らない。
そんな人間がいるのだろうか。
青年の顔を覆う布の奥で、何が考えられているのか。
ラビツには、まだ分からなかった。
まみーも相当生命力強いですよ




