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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第57話 クロエの優雅な挑発

 秋の深まりを感じさせる柔らかな日差しが、神宮寺グループ本社、特命担当室の窓際を明るく切り取っていた。


 分厚い防音扉に守られた密室には、大西明日香が叩き出す正確無比なタイピング音と、空調の微かな駆動音だけが流れている。


 佐野真二は、革張りのソファに深く腰を下ろし、ローテーブルに広げた数枚の書類に静かに目を通していた。その隣の一人掛けのソファでは、茶トラの子猫――レオが、奇妙な姿勢で鎮座している。


 生後3ヶ月を過ぎ、特命室の主のように堂々と育ったレオは、後脚をだらんと前方に投げ出し、背もたれに体を預けるようにして座っていた。まるで人間がくつろぐ時と全く同じ姿勢だ。さらに、真二が書類をめくるたびに、レオもピンと尖った耳を動かし、真剣な顔つきで紙の束を覗き込んでいる。


 最近のレオは、どうやら自分を猫ではなく、この特命担当室で働くスタッフの一員だと思い込んでいる節があった。


 真二が傍らに置かれたミネラルウォーターのグラスに手を伸ばすと、レオも短い前脚を伸ばし、自分もそれを飲もうとグラスの縁に顔を近づけてくる。


「レオ、これは俺の水だ。お前の飲み水はあちらだろう」


 真二が書類から目を離さず、低く穏やかな声で諭す。するとレオは「ミャッ」と短く不満げな声を上げ、今度は真二の膝の上に乗り、タブレットの画面を肉球でスワイプしようと手を伸ばした。


「本当に、自分が人間だと思っているみたいですね」


 給湯室から新しいお茶を運んできた菊地凛が、その様子を見て口元を押さえてくすくすと笑った。


「真剣な顔をして画面を見ていますよ。案外、オメガの資金洗浄の経路を一緒に解析してくれているのかもしれません」


 凛の言葉に、真二はタブレットの角度を少しだけ傾け、レオの視界に入りやすいように調整してやった。レオは満足そうに喉をゴロゴロと鳴らし、画面に並ぶ複雑なグラフを見つめている。


「……猫にアカウント権限は付与できません。ですが、彼の存在が当室の作業効率を上げているのは事実です」


 奥のデスクから、明日香がモニターを見つめたまま、一切の抑揚のない真顔で淡々と告げた。


 その真面目すぎる報告に、真二は小さく肩を揺らして笑い、凛も堪えきれずに吹き出した。巨大な資本と冷酷な買収劇がすぐ足元まで迫っているというのに、この部屋の中だけは、誰もが互いを信頼し合う確かな温かさが満ちている。


 真二はレオの柔らかな背中をゆっくりと撫でながら、視線を再び手元の資料へと戻した。


「大西。今夜のレセプションの出席者リストの最終確認を」

「はい。政財界の重鎮クラスが約40名。そして主賓として、オメガ・インベストメントの代理人、ヴィクター氏がすでに入館を済ませています」


 明日香のタイピング音が一段と速くなる。


 昨日の朝、システム上で強行されそうになった神宮寺マテリアル等の事業譲渡の承認を、明日香がロックをかけて防いだ。システムという「物理的な壁」に阻まれたヴィクターが次に取る行動は、容易に予測できた。日本の古い体質そのものを金と権力で殴りつけ、政治家や官僚のトップダウンから特例としてシステムをこじ開けさせることだ。今夜のレセプションは、その根回しと圧力のための最適な舞台だった。


「エレノア社長には、予定通り別件の対応で動いていただいています。ヴィクターの視界に彼女を入れる必要はありません」


 真二の落ち着いた声に、明日香が静かに頷いた。


「室長。彼らに好き勝手に場を仕切らせておいて、よろしいのですか」


「構いません。むしろ、彼が完璧に場を支配したと思い込んだ瞬間こそが、最も足元が脆くなる」


 真二はグラスの水を一口飲み、静かに微笑んだ。


「それに、あの場にはすでに、最も厄介な『特命のジョーカー』を放ってありますから」


★★★★★★★★★★★


 同日、午後7時。都内の外資系高級ホテル、メインバンケット。


 シャンデリアの眩い光が、クリスタルグラスと磨き上げられた大理石の床を照らし出している。弦楽四重奏の生演奏が優雅に流れる中、会場には日本の政財界を牽引する重鎮たちが集っていた。


 その中心に立つのは、オメガ・インベストメントの執行人、ヴィクターだった。


 仕立ての完璧なダークスーツを纏い、一切の感情を読み取らせない冷徹な眼差しで、彼は周囲を取り囲む財界人たちとグラスを交わしている。彼の口から紡がれるのは、圧倒的な資本力を背景にした甘い利益の提示と、従わなかった場合の容赦のない未来の暗示だ。老獪な日本の権力者たちも、この冷酷な青年の前では、ただ愛想笑いを浮かべて頷くことしかできなかった。


「システム上の些細なトラブルは、数日以内に解決するでしょう。皆様には、新しい神宮寺グループとオメガの『建設的な未来』にのみ、ご期待いただきたい」


 ヴィクターが氷のように冷たい声でそう告げた、その時だった。


「なんだか、すっごく退屈なお話をしているのね」


 重厚なバンケットの扉が開き、弦楽四重奏の音色を切り裂くように、明るく透き通るような声が響いた。


 会場の視線が一斉に入口へと向けられる。


 そこに立っていたのは、鮮やかなアプリコットカラーのホルターネックドレスを纏った、クロエ・ルルーシュだった。


 健康的なブロンドヘアがシャンデリアの光を浴びて輝き、17歳という若さ特有のあどけなさと、生まれ持った洗練された色香が同居している。背後には屈強なSPを数名従え、彼女はレッドカーペットを歩く女優のように、一切の物怖じなく会場の中央へと歩みを進めた。


「ル、ルルーシュ家の令嬢……!?」

「なぜ、あのような巨大資本のトップの娘がここに……」


 その名がバンケットに響いた瞬間、それまでヴィクターの前にへりくだっていた財界人たちの表情が、驚愕と混乱に塗り替えられた。


 ヴィクターの冷徹な仮面に、ほんのわずかだが警戒の色が走った。彼は周囲の財界人たちを軽く手で制し、歩み寄ってくるクロエに向き直った。


「これは、クロエお嬢様。このような場でお会いできるとは光栄です。本日はどのような御用件で?」


 ヴィクターは慇懃な態度で一礼したが、その目は決して笑っていなかった。


 クロエはヴィクターの目の前でピタリと足を止め、手にしたシャンパングラスを軽く傾けた。かつて真二が「君の肌のトーンに一番映える」と言って選んだアプリコットのドレスが、彼女の太陽のような魅力を極限まで引き出している。


「遊びに来たのよ。ここなら、少しはマシな退屈しのぎができるかと思って」


 クロエは小悪魔のように微笑み、ヴィクターの顔を至近距離で覗き込んだ。


「でも、期待外れね。オメガ・インベストメントのお掃除係さんって、もっとスマートに仕事をするのかと思ってた。日本の古いハンコ文化やシステムに足止めされて、慌てて政治家のおじさまたちに泣きついて回るなんて。……まるで、泥遊びをしてる子供みたい」


 会場の空気が、完全に凍りついた。


 誰もが恐れるオメガの執行人に対し、一切の躊躇なく放たれた残酷なまでの侮蔑。しかし、彼女の背景にある巨大な資本の力を知る者たちは、誰も彼女を咎めることができない。


 ヴィクターの目が、すっと細められた。


「……システムの一時的な不具合です。すぐに修正される些末な問題に過ぎません」

「ふーん。些末な問題のために、わざわざこんな派手なパーティーを開いて根回しするの? 余裕がないのね。パパが言ってたわよ。『オメガは最近、強引すぎて品がない』って」


 クロエの言葉は、天真爛漫な響きのまま、ヴィクターの最も隠したい「焦り」という急所を正確に抉り出していた。


 常に完璧な合理性だけで盤面を支配してきたヴィクターの眉間が、損得勘定を一切無視して笑うクロエを前にして、微かに強張った。


「お嬢様。投資の現場は、遊び場ではありません」


 ヴィクターの声に、初めて微かな苛立ちが混じった。


「遊び場よ。私にとっても、彼にとってもね」


 クロエはあっけらかんと笑い、ヴィクターに背を向けた。そして、立ち尽くす財界人たちに向かって、グラスを高く掲げた。


「オメガの泥船に乗るか、新しい神宮寺グループの船に乗るか。せいぜい慎重に選ぶことね。パパのファンドは、賢い選択をする人だけと取引するつもりだから!」


 その言葉が持つ意味の重さに、財界人たちの顔色が一斉に青ざめる。ヴィクターが築き上げようとしていた強固な圧力の壁に、決定的な亀裂が入った瞬間だった。


★★★★★★★★★★★


「……クロエの奴、見事に場を荒らしてくれたわね」


 特命担当室のスピーカーから、ルシア・カルヴァーリョの楽しげなハスキーボイスが響いた。彼女は会場のセキュリティシステムを掌握し、リアルタイムで映像と音声を真二たちに転送していた。


 モニターに映るヴィクターの表情は、完全に硬直している。


 真二はソファに深く寄りかかり、手元のタブレットでオメガ側の通信トラフィックの変動を確認しながら、静かに口角を上げた。


「ヴィクターは、常に論理と資本の暴力で相手をコントロールしてきた。だからこそ、論理が全く通用しない『純粋な娯楽』で動く人間の前では、ペースを崩される」


 真二の隣で、レオがモニターに映るクロエの姿に向かって「ニャウ」と短く鳴いた。まるで、彼女の鮮やかな手口を称賛しているかのようだった。


「見事な揺さぶりです。これで、オメガ側が強引にシステムをこじ開けるための政治的ルートは、一時的に機能不全に陥ります」


 明日香が、画面から視線を外さずに報告する。


「ええ。その間に、我々は次の盤面を構築する。ヴィクターが息を吹き返す前に、彼らが決して逃れられない精緻な舞台を」


 真二は手元のグラスを静かに置き、ヴィクターの完璧な包囲網を内側から食い破る、次なる罠の配置を静かに頭の中で描き始めていた。

【書籍発売のお知らせ】


作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、発売中です。


もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。


書籍の詳細は活動報告をご覧ください。

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