表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/10

第10話 新しい仕事

第10話 新しい仕事


 レティシア・ローゼンクロイツは、自分の名前が呼ばれるたびに少しだけ不思議な気持ちになった。


 会議室にいる全員が、自分の言葉を待っている。


 かつては考えられなかったことだった。


 王宮中央庁舎の最上階。


 王国予算編成会議室。


 大きな窓から朝の光が差し込み、磨かれた長机を明るく照らしている。


 室内には上質な紙とインクの匂いが漂っていた。


 壁際には湯気の立つ紅茶と軽食が用意されている。


 焼きたての胡桃パン。


 蜂蜜を塗った小さなスコーン。


 果実の砂糖煮。


 長時間の会議に備えた簡単な朝食だ。


 半年前なら、この会議に自分が座っているとは想像もしていなかった。


 だが今、彼女は会議卓の中央付近に座っている。


 財務省。


 商務省。


 騎士団。


 地方行政局。


 各部署の責任者たちが並ぶ中で。


「レティシア財務官」


 商務省の局長が声を掛けた。


「南部街道整備計画ですが、この予算では厳しいと思われます」


 白髪の局長は少し緊張している。


 以前なら自分より遥かに立場が上の人物だった。


 それなのに今は意見を求めている。


 レティシアは資料を確認した。


 数字を追う。


 予算。


 資材価格。


 輸送費。


 人件費。


 しばらく考えた後、顔を上げた。


「輸送費が高すぎます」


「やはりそう思われますか」


「はい。ただし街道整備そのものを削る必要はありません」


 彼女は地図を広げる。


「こちらの河川輸送を利用してください」


「河川ですか?」


「三か月前に整備された航路です」


 商務省の局長が目を見開いた。


「そうか……!」


 周囲から感心した声が漏れる。


 輸送費が下がる。


 工事は継続できる。


 予算も守れる。


 誰かを切り捨てる必要もない。


 その場にいた人々は頷いた。


 反対する者はいない。


 信頼されているのだ。


 それがレティシアにはまだ少し不思議だった。


 会議は昼まで続いた。


 税収予測。


 農業支援。


 騎士団予算。


 教育投資。


 次々と議題が進む。


 そして気づけば、誰もが自然に彼女へ視線を向けていた。


 困った時。


 判断に迷った時。


 レティシアなら答えを持っている。


 そんな空気が生まれていた。


 昼休みになる。


 窓際のテーブルには温かな昼食が並んでいた。


 鶏肉の香草焼き。


 野菜たっぷりのスープ。


 焼き立てのパン。


 果物の盛り合わせ。


 以前の王太子宮ほど豪華ではない。


 だが無駄がなく、どこか温かい。


「お疲れ様です」


 若い財務官が声を掛ける。


「ありがとうございます」


 レティシアは微笑んだ。


「今日も助かりました」


「私は自分の仕事をしただけです」


 そう答えると、周囲が苦笑する。


 皆その言葉を知っていた。


 レティシアは昔からそう言う。


 成果を誇らない。


 自慢しない。


 ただ仕事だと思っている。


 だから余計に尊敬されるのだ。


 午後。


 会議は無事に終了した。


 参加者たちは満足そうな顔で帰っていく。


 怒鳴り声もない。


 責任の押し付け合いもない。


 全員が納得した予算案だった。


 窓の外では夕方の陽射しが王都を黄金色に染めている。


 レティシアは資料をまとめていた。


 そこへクラウスがやって来る。


 黒い上着を脱ぎ、ネクタイを少し緩めている。


 珍しく疲れた顔だった。


「終わりましたね」


「ええ」


 レティシアは笑った。


「大きな問題もなく」


「それが一番驚きです」


 クラウスは椅子へ腰を下ろした。


「以前は予算会議が戦場でしたから」


 その言葉に二人とも笑う。


 しばらく沈黙が続いた。


 会議室には夕暮れの光だけが残っている。


 どこか穏やかな時間だった。


 やがてクラウスが静かに口を開く。


「レティシア」


「はい」


「君は昔から、誰かのために働いていましたね」


 レティシアは少しだけ目を伏せた。


 王太子宮の日々が脳裏をよぎる。


 商人との交渉。


 予算調整。


 帳簿整理。


 誰にも気づかれない仕事。


 誰にも褒められない仕事。


 だが嫌いではなかった。


 誰かの役に立つことは好きだった。


「そうかもしれません」


 小さく答える。


 クラウスは窓の外を見た。


「君は婚約者のために働いた」


「王太子宮のために働いた」


「商人や騎士たちのためにも働いた」


 そして彼は微笑む。


「今度は国のために力を貸してほしい」


 レティシアは目を瞬いた。


 不思議な言葉だった。


 だが嫌ではない。


 むしろ胸の奥が少し温かくなる。


 昔は誰かを支えることが当然だった。


 けれど今は違う。


 自分の仕事として評価されている。


 自分の意思でここにいる。


 それが嬉しかった。


「もちろんです」


 彼女は静かに答えた。


「それが私の仕事ですから」


 クラウスは満足そうに頷く。


「やはりそう言いますか」


「変ですか?」


「いいえ」


 彼は笑った。


「君らしい」


 二人は並んで窓の外を見る。


 王都の街並み。


 遠くの鐘楼。


 人々の暮らし。


 市場の灯り。


 ゆっくりと沈む夕日。


 その景色を見ながら、レティシアは思う。


 半年前まで、自分は誰にも必要とされていないと思っていた。


 どれだけ働いても当たり前。


 どれだけ頑張っても見えない。


 そんな日々だった。


 けれど違った。


 努力は消えていなかった。


 数字が覚えていた。


 人が覚えていた。


 そして今、自分はここにいる。


 窓の向こうでは、新しい朝を約束するような柔らかな光が地平線を照らしていた。


 誰も見ていないと思っていた仕事は、決して無意味ではなかった。


 ようやくレティシアは、自分の居場所を見つけたのである。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ