第三話:迷子の人魚
空は暗く、風は冷たく。
太陽は月に、人々は家に。
アドアストラが営業を終えた頃には、夜の帳が下り始めていた。
こうなれば、日傘も帽子も必要ない。
当初より動きやすくなったアドアストラは、獣道を迂回し、ユルカの森に入った。
否、帰ってきた。
「───キューン。」
「おっと、珍しい。この時間に会うのは初めてだね。
今はお前だけ?弟たちはどうした?」
「クルルル、ウゥーン……。」
「……そうか。それでわざわざ、警告に来てくれたんだね。
大丈夫。あの辺りは彼女の縄張りだと、今日も噂を流しておいたから。
少なくとも、お前たちの寝床が荒らされる心配はないよ。」
「キュンキュン、キュー。」
「お互い様。
弟たちにも、よろしく伝えてやってくれ。」
森に帰還したアドアストラに、通りすがりの狐が挨拶する。
獣の彼らに名前はないが、アドアストラと獣たちは大の仲良しだ。
人を嫌い、森を愛し、人から森を守るためならば、種族の垣根を越えて結託する。
言ってしまえば、森を営む同士の間柄なのだ。
「───グゥー。」
「これはこれは、良きところに。噂をすれば何とやら、かな?」
「グウゥー。」
「欠け尾の兄さんに聞いたよ。また国境近くで狩人が出たそうじゃないか。
あれだけ化かしてやったのに、性懲りのない奴らだ。」
「グルルル……。」
「分かってる。君は引き続き、警戒を頼む。
牽制は私が引き受ける。なに、いつものことさ。
私たちの爪を前には、どんな兵も敵になるかよ。」
狐が去ると、今度は熊が現れた。
アドアストラに代替わりする前は、彼女の母熊こそが、ユルカの森の主だった。
アドアストラも親子熊も、互いに人間から救い救われた過去がある。
親子熊が認めたからこそ、他の獣たちもアドアストラに心を開いたと言っていい。
「(今夜は人獣とも来客が多いな。
特に気配はしないが、嵐の前触れか……?)」
帰途に獣たちと交流するのも、アドアストラのルーティンのひとつ。
そしてそのルーティンには、獣たちとは関わりない、個人的な寄り道も含まれる。
「ここだけは、いつ来ても変わらないな。」
"ニンファエアの寄る辺"。通称、"ニアの池"。
ユルカの森の中腹に位置する、狭く深く静かな湖。
鬱蒼とした木々に囲まれながらも、湖そのものには月明かりが射す、不思議な場所。
ここでアドアストラは、身を清めたり、怒りを鎮めたりしている。
すなわち、沐浴場にして礼拝堂。
今やローガン邸と並び、アドアストラの秘密を仕舞っておける、聖域のひとつなのである。
「やれやれ。
か弱く見せるのも、楽じゃないぜ。」
湖畔に立ち、アドアストラは目を閉じた。
月明かりを吸い込むように、胸いっぱいまで深呼吸をする。
すると、丸かった耳と牙は鋭く尖り、黒かった髪と瞳は赤く染まっていった。
人間の擬態の解除。
吸血鬼としての力を取り戻す瞬間。
フラフスとの行き来の折、アドアストラはこうして自らの姿を変えている。
「仕事をするから、どうかそのままで。
雲に隠れるのは、私が済んだ後にしておくれよ。」
もうしばらく月明かりを浴びてから、アドアストラは木の根に腰を下ろした。
自前のバッグから取り出したるは、営業で集めたポーチやケース、更には古びたハンドブック。
前者には件の小瓶と羊皮紙が入っており、後者にはアドアストラ直筆の暗号が綴られている。
「"19歳女性、妊娠の疑いあり……"。
最初の女か。筆跡は雑だが、識字が可能なら、家柄は悪くないな。
はてさて、お相手の血筋はいかがでしょうか、と。」
ポーチのひとつを確かめたアドアストラは、中身の小瓶と羊皮紙を両手に持った。
左手に持った羊皮紙は、目を通して直ぐ畳んだ。
右手に持った小瓶は、月明かりに曝して揺らした後、蓋を開けて口に含んだ。
「(甘ったるい中に、ザクロに似た酸味と風味がある。妊娠してるのは間違いないな。
後から追ってくる苦味は……、煙草か?本人が違うなら、相手が喫煙者か。
フラフスに煙草を扱う店屋はなかったはずだから……、なるほどな。
流れ者と火遊びを、ということなら、町医を頼れないのも頷ける。)」
対象者の血液を経口摂取し、対象者の体質や病状を診断する。
一見するとワインのテイスティングのようだが、やっていることは精密検査に他ならない。
人類がこのさき何百年とかけて獲得していく文明を、アドアストラは本能的かつ原始的に行えてしまうのである。
「(鼻を抜ける香りからして、子どもの性別は男。人数は一人。
恐らくは本人の寝不足と、相手の喫煙習慣が気掛かりだが、さしたる問題はないだろう。
強いて言うなら、やや早産の気が高いくらいか。)」
甘い味のする血は、健康である証。
酸っぱい味のする血は、発症をしている証。
苦い味のする血は、発病をしている証。
そこから吟味を重ねて、対象者の遺伝子レベルまでを紐解いていく。
そうして明らかになった情報をハンドブックに書き込み、書き込まれた情報を基に調薬するのだ。
「(こちとら、存亡の危機に瀕しているというのに。
せっかくの子宝を手放しに喜べんとは、人間社会も難儀なことだ。)」
決して楽な仕事ではない。
いくら吸血鬼は血を好むといえど、対象者は何かしらの病を抱えている場合が殆ど。
ましてや鮮血を啜るのではなく、小瓶に採取された血液を舐めるなど、不衛生の極みだ。
吸血鬼でなければ死んでもおかしくないし、吸血鬼であっても単純に美味しくない。
「次は───、ゲ。デブのおっさんじゃねえか。
デブの血は不味いんだよなぁ、しかもおっさんだし。
やっぱ最後に回すか。舌が鈍るといかん。」
その上で、アドアストラには天職なのだ。
純血主義を貫くためには、誰彼構わず吸血するわけにはいかず。
かといって、貴重な栄養源である人の血なくしては、吸血鬼の力を保てず。
ならば、眷属を増やさずに、血だけを手に入れる方法を。
ブレイクと出会ったことは、彼が薬種商であったことも含め、とても幸運だったのである。
「───あー、終わった終わった。
帰ったらメシ食って、家畜たちのお世話して、湯浴みは………」
本日分の全作業を終えたアドアストラが、寝起きのようなストレッチをした時だった。
人間には遥か遠く、吸血鬼には割と近くから、馴染みのない音が響いてきた。
「なんだ、この音。」
水音だった。
生き物が溺れているかのような、バシャバシャと忙しない水音だった。
人間の耳では拾えない微音を、アドアストラの尖り耳は確と捕まえた。
「(川の方角……。
魚じゃないな。獣の水浴びにしても様子がおかしい。
さては人間?にしては声が聞こえない。)」
この激しさは、肉食動物が暴れているか、草食動物が怯えているか。
あるいは森に入った人間が、迷ったのか荒らしているのか。
いずれにせよ、捨て置くには不穏な気配がする。
まずは正体を暴いて、次に対処を考えるべきか。
手早く荷物を片付けたアドアストラは、身ひとつで音の発信地へと駆け出した。
「こいつは────」
あっという間に着いた目的地には、とんでもないものが居た。
肉食でも草食でも、動物でもなく、ましてや人間でもなく。
肉食でも草食でも、動物でもあり、人間としての一面もありそうな、そんな生き物。
「人魚、だよな。」
人魚。
半人半魚の姿をした、吸血鬼に劣らぬ伝承を持つ、見目麗しき怪物。
森に流れる小川にて、その人魚は倒れ伏していた。
魚の半身のみが川に浸かった状態で、尾鰭に当たる部分は岩場に隠れている。
状況から察するに、岩場に尾鰭が挟まったせいで身動きが取れなくなったのだろう。
先程の水音は、抜け出そうと暴れる様子だったのかもしれない。
「(人魚って普通、海にいるもんじゃないのか。
……いや、考えてる暇ないな。)」
とはいえ、どうして人魚が、こんな森に。
水場は水場でも、ここは川で、海からも遠く離れているのに。
信じがたい邂逅にアドアストラは呆然としかけたが、人魚の憔悴ぶりを見て我に返った。
「おい、息しろ!
……くそ、エラついてないぞコイツ。どこで呼吸するんだ。」
岩場の岩を取り除き、人魚の尾鰭を解放してやる。
人魚の顔を川に浸け、魚でいうところのエラ呼吸をさせてやる。
しかし、水量が足りないのか、水質が合わないのか。
水中に於いても、人魚は息を吹き返さなかった。
「ッああもう!駄目でも恨むなよ!」
このままでは、人魚が死んでしまう。
悩んだアドアストラだったが、人魚を抱いて再び駆け出した。
アドアストラの足でも四半刻はかかる、海へ連れて行くか。
人魚との相性は不明ながら、目と鼻の先にある湖に連れ込むか。
後者を選んだのは、一か八かの賭けだった。
「(間に合え───!)」
行きよりも早く戻ったアドアストラは、人魚を抱いたまま湖に飛び込んだ。
激しい水音と共に上がった飛沫は、月明かりを纏ってキラキラと光った。
「(死ぬな。)」
寄り添った2匹の体が、水底まで到達する。
アドアストラは抱擁を解くと、人魚の顔を両手で持ち上げた。
これ以上どうしていいか分からず、ただ人魚が生き返ってくれるようにと、アドアストラは祈るしかなかった。
「 ! 」
アドアストラの祈りが通じたのか、間もなく人魚は目を開けた。
あまりに真っすぐで真っさらで、自分と対をなすような青い瞳だったものだから、アドアストラは驚いて浮上してしまった。
「ぷは、はぁ、げほっ、げほげほっ、は───」
驚いた拍子に飲み込んでしまった水を、息継ぎと同時に吐き出すアドアストラ。
すると一足遅れて、人魚も湖面に上がってきた。
アドアストラが人並みの速度で浮上したのに対し、人魚は湖全体が揺れるほどの勢いで浮上した。
「─────。」
湖面から人魚が飛び上がる。
大きな尾をくねらせて、長い髪をたなびかせて。
実際の夜空と、湖面に映った夜空との間を縫うように、光る雫を散らして舞う。
アドアストラの視界には、それらは酷くスローモーションな光景だった。
夜を越え、空を裂き、いっそ星まで届くのではと、アドアストラには思えた。
「わ……ッ!
こンの、体積オバケが───」
人魚が着水した衝撃で、激しい波飛沫がアドアストラに襲いかかる。
アドアストラは腕で自らを庇い、波が収まったのを感じてから、俯けていた顔を上げた。
「アナタが助けてくれたのね!」
いつの間に迫っていたのか、人魚はアドアストラと息が交わる距離にいた。
アドアストラは水中で退けない代わりに、顔だけを仰け反らせた。
「ワタシはユタ!アナタはワタシの命の恩人!
この感謝と感激を、どう伝えたらいいかしら!」
アドアストラと対をなす青い髪に瞳、
アドアストラ二人分はあろうかという全長を持ち、
アドアストラよりは大人っぽく、
アドアストラに比べて朗らかな笑顔が印象的な、
世にも珍しい人魚の女性。
「とりあえず、私は人じゃない。」
「えっ?」
"ユタ"と名乗った彼女を、改めて前にした瞬間。
アドアストラの胸に、ひとつの星が芽吹いたのだった。




