第四話:大食らいのユタ
翌日、早朝。
珍しく早起きをしたアドアストラは、寝間着のまま日傘だけを差した状態で、ニアの池へと赴いた。
一歩近づくごとに大きくなる水音は、そこで何が起きているかをアドアストラに予感させた。
「………いる。」
ユタ。
昨夜にアドアストラが助けた人魚は、何事もなかったかのように湖を泳ぎ回っていた。
呆れつつも胸を撫でおろしたアドアストラは、しばらく遠目に眺めたのち、ユタの前に姿を現した。
「あっ、昨日の赤髪さん!
今日もいらしてくれたのね!」
アドアストラの姿を視認したユタは、大喜びで湖畔へと身を寄せていった。
同じく湖畔に集まっていた鳥たちは、ユタの起こした波紋に驚いて飛び立っていった。
「おはよう!今朝はいいお天気ね!」
「……お前こそ、いいご身分だな。
"頭のぼんやり"とやらは、もう治まったのか?」
「おかげさまで!」
湖畔に半身を預け、元気に返事をするユタ。
その髪と瞳は、昨夜とは微妙に異なる色合いをしていた。
あざやかな青色から、くすんだ緑色へ。
色素そのものが変わったというよりは、光の加減で見え方が変わるようだった。
「(こっちの気も知らないで、暢気な魚め。)」
ユタの額を小突いてやりたいのを堪えて、アドアストラは浅く溜め息を吐いた。
というのも、昨夜の邂逅から今まで、アドアストラは一時も気が休まらなかったのだ。
"───ああ、ごめんなさい。
とりあえずお礼のキスでも、と思ったのだけど。
まだ頭がぼんやりして、落ち着いて話はできないみたい。"
"は?"
"本当にごめんなさい。
ワタシは少し眠るから、アナタもどうぞ家に帰って。"
"おい、"
"このご恩は一生忘れないわ。
運が良ければ、また会いましょう───。"
アドアストラが湖に連れ帰ったおかげで、ユタは息を吹き返した。
しかし全快には至らず、もう少し休む必要があると告げたユタは、水底へと潜っていってしまった。
それからアドアストラは、自分のベッドをたびたび抜け出しては、ニアの池へと赴いた。
湖面から水底を覗いて、微かな息遣いや身動ぎの音に耳を澄ませて、ユタが生きていることを確認するために。
「それにしても、ここ、いいところね!
空気は澄んでるし、水質も池にしては悪くない。
強いて言うなら、ワタシが泳ぐには狭いのと、ワタシの食べられる魚が少ないことかしら。」
そんなこととは露知らず、当のユタはあっけらかんとした様子。
余計な拾い物をしてしまっただろうかと、自らの行動をアドアストラは後悔しかけた。
「"食べられる"とは、選り好みをするという意味か?
それとも、ここに生息する魚の、絶対数が少ないという意味か?」
「後者ね。
生きている物なら、ワタシは何でも食べられるから。
人間以外は、だけど。」
「見かけの割に、悍しいことを言う女だ。」
「そう?
例えば、ほら。あそこに成っている、木の実かしら?
ああいうのだって、並の人魚なら口にしないでしょうけど、ワタシくらいの食通になれば───」
"あそこに成っている木の実"、とユタが近くの茂みを指差した瞬間。
ユタの腹の虫が、ユタ自身の声を掻き消すほどに激しく鳴いた。
「……腹、空いてるのか。
あれから何も、食ってないのか。」
短い沈黙を挟んで、アドアストラは気まずそうに尋ねた。
ユタはもっと気まずそうに、顔の下半分を湖畔に隠した。
「たべたわ、おさかな、ちょっとだけ。」
「何匹?」
「……2匹。」
「2匹?それしか居なかったのか?」
「居るには居るわ、もっとたくさん。
でも、ほとんどがその、一口で終わってしまうような、可愛らしい子ばかりで……。」
「なんだ、気が引けたのか?そもそも主食にしているくせに?」
「む、イジワルな言い方をするのね。
仮にもワタシは、ここに置いてもらっている立場なのよ?
ワタシの無体が原因で、生態系を崩すわけにもいかないし……。遠慮するのは当然でしょう。」
腹は空いているが、腹を満たす手段がない。
食べられるものは有るが、食べていいものが無い。
意外にも慎ましいユタの態度に、アドアストラは少し前のやり取りを引き合いに出した。
「"何でも食べられる"、と言ったな。」
「え?ええ……。
生き物に限れば、ですけど。」
「元が生き物なら、今は生きていなくてもいいんだな?
例えば海以外の、それこそ、人間の食う物でも構わないんだな?」
「うーん……?
人間そのものは無理だけど、人間が食べている物なら、それもだいたいは生き物でなくて?」
「要するに、いいんだな?」
「まあ、食べられないことはないでしょうね。」
よし、と呟いたアドアストラは、踵を返して去っていった。
残されたユタは首を傾げつつ、件の木の実を食べるか否かで一人、頭を悩ませたのだった。
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「───あら、おかえりなさい。もう戻ってこないかと思った。」
ローガン邸に戻ったアドアストラは、身嗜みを整えるついでに、あるものをニアの池へと持ち寄った。
「それは?」
アドアストラが両手に提げたあるものに、ユタがさっそく興味を示す。
一見にはバスケットとハンカチーフに包まれたそれだが、明らかに自然物ではない匂いを放っている。
「食い物だ。人間のな。」
「人間の……。」
パンにチーズ。
ソーセージにベーコン。
野菜に果物に嗜好品。
そして、アドアストラ自身が食べる分の、取れたての鶏卵に牛乳。
あるものとは即ち、人間用の食料品。
身嗜みを整えるついでに、朝食の準備も済ませるため、アドアストラはローガン邸に戻っていたのだ。
「口に合うかは別として、腹の足しくらいにはなるだろ。
少なくとも、そこの木の実よりはな。」
ユタが食べようか悩んでいた木の実を一瞥して、アドアストラは鼻で笑った。
ユタは木の実とアドアストラとバスケットを順に見て、アドアストラの意図をようやく察した。
「あ……。
もしかして、ワタシの分も?」
「自分だけで、こんなに食うわけないだろう。」
「それでわざわざ、取ってきてくれたの?」
「どのみち、私も朝食にするところだったんだ。
一人分も二人分も変わらないってだけだ。」
話しながら、アドアストラは湖畔にどっかりと胡座をかいた。
先程より目線の近くなったアドアストラの顔を、ユタはまじまじと見詰めた。
「なんだよ?」
「あ、いえ。
こういうこともあるんだなって。」
「どういうことだよ?」
「ワタシたちは……。
人魚という種族は、基本的に穏やかで、優しげな個体が多いとされているの。
人魚の誘いに乗ってはいけないと、どんなに固く言いつけられても、守れない人間が後を絶たないように。」
「それが人魚ってもんだからな。」
「そうね。」
卑下のような物言いをするユタを、アドアストラは否定しなかった。
ユタは寂しそうな笑みを零して、尚も話し続けた。
「でも、それは上辺での話。
多くの人魚は、優しそうに見えて、優しくない。
実際は卑劣で陰険で、敵対する相手にも、仲間内でも、心を開かないことが殆どよ。
だから、すぐには分からなかったのだけど───」
ユタが身を乗り出す。
湖畔に肘をつき、アドアストラの顔に自分の顔を近づける。
瑠璃色と翡翠色が渦巻く瞳。
昨夜とは異なる輝きを前に、昨夜とは異なる衝撃がアドアストラを襲った。
「アナタは逆なのね。」
「逆?」
「陰険そうに見えて、実は優しいのねってこと。」
今度は照れ臭そうな笑みを零して、ユタは勢いよく仰け反った。
ばしゃん。
ユタの半身を受け止めた湖から、今日一番の水音と水飛沫が舞う。
水中に潜んでしまったのは、決まりが悪いのを誤魔化すため。
人間でいうところの、頭を冷やしたり、お茶を濁すためだった。
「知った風な口を。」
頬に跳ねた水飛沫を拭いながら、アドアストラはまた鼻で笑った。
口ぶりこそ不機嫌だが、その顔はユタに次いで上機嫌な笑みを浮かべていた。




