ツメタイ、クチビル。
世間様は元旦。家も、臨任から正規の教員になりこっちの高校へ赴任が決まった姉、芙幸が帰って来て、てんやわんやの大騒ぎだった。
明朗快活な姉の帰還。姉と颯稀は学校こそ被らなかったけれど一個違いの姉弟だ。大学時代は姉が地方に招かれたため実家を離れ、高校時代は颯稀の頭がすこぶる良かったのでバラけたと言う話。バスケの特待だった姉は教員免許を取得し卒業後体育の先生になった。
妹の咲雪もバレーで推薦を勝ち取り、姉と同じ私立校に行った。今は怪我のせいで成績を維持せねばならぬ状態だが、小鳥遊家の頭は基本悪くない。概ね表面上は問題無く、むしろ理想の子供たちのモデルケースと言って過言では無かった。
颯稀と、咲雪の内面以外は、間違いじゃないのかもしれない。
颯稀は成長過程で、咲雪は怪我が元でモデルケースには遠く歪んでしまった。
だからだろうか。お互い示した訳でも、お互いそこに踏み入った訳でもないのに。しあわせで圧迫される息苦しさに、同じタイミングで家を出るようだった。
「出掛けるのか」
「お兄ちゃんこそ。また、どこ行くの?」
「トモダチんとこ」
「また?」
「そ。お前は?」
「私も。みんなでお参りに行く」
「ふぅん。気を付けてな」
「……有り難う」
出て行く咲雪と部屋に戻る颯稀は、部屋の前で鉢合わせし簡素な会話を交わした。
いつからか咲雪は颯稀を避けていた。本能が察知したか幼いころ、気が付けば咲雪は颯稀と距離を空けていた。
颯稀はわかっていたが、特に気に掛けなかった。────未だに。
「……」
妹の変容に、幾つかの惑いは在ろうとも。
家を出て駅に向かう。その間、コンビニに寄ったりしながら目的地を目指した。近年、定時帰宅や自由出勤、二十四時間営業廃止など脱ブラック社会の風潮は在れど、終わらない不況が関係しているのかは定かじゃないが、元旦であろうと正月休みを返上して商売をしている店は減ってはいない。消費者には有り難いことだが、不景気に在る今、拍車を掛けるだけではないかと少し不安を感じる。
駅に着きICカードを改札に通す。普段なら通学に使う磁気定期券を使用するが冬休みと同時に期限が切れた。ふと目に入るICカードの、銀色の下地にプリントアウトされた陽気そうなペンギンがウザく思えた。
ホームまで来ると見計らったようにやって来た電車にゆるりと足を運ぶ。出入り口そばの座席が空いていたので腰掛けた。途中購入した品物のビニールが、がさりと音を出す。
連絡はしていない。去年の元旦里帰りした“あの男”は、今年は自宅待機しているのを知っていたから。
出掛けるとき、男は常に颯稀に一報を入れた。今日は貰っていないから、間違いなく家にいるだろう。揺られながら颯稀はしばし瞳を閉じた。
かくして、目指した部屋に、部屋の主はいた。外気と変わらない室内で身動ぎせず眠っていた。
去年、主たる男が消えたとき、颯稀が男の部屋に訪問した際に使った鍵が今回も役に立った。────電話しても出ないはずだ────颯稀は、溜め息を吐いた。
電車から降りて直後に、颯稀は男に電話していた。携帯を片手に優雅な仕草で改札に再び陽気振ったペンギンのICカードを翳し外へ出、ICカードを入れた定期入れを仕舞う間中も、ずっとコールした。だのに、回数も長さも相当数だったであろうに男は爆睡していた。見れば携帯はベッドの上。男はリビングのソファだ。ベッドの柔らかさが振動も音も殺して加えて一つ壁を隔てれば、起きていても着信に気付かなかったかもしれない。
「……心配して損したな」
舌打ちながら、颯稀はぼやいた。前回の正月、この男が過ごしたのは理不尽且つ密やかな迫害だった。息を潜めたこの悪意は、現在颯稀の眼下で眠る男を疲弊させた。気力を削り上げて。
家から逃げ出したかったのは確かだ。だがもしかしたら、颯稀は早く男を見付けて置きたかったのかもしれない────今日の早朝、夜間とも言って差し支え無い時間帯に呼び出され無理やり連れて行かれ、二人連れ立って山奥に向かったのに。
夕方の今、離れた時間を計算すればたったの十二時間。眠っていて、当たり前かと考える。
「……」
まじまじと颯稀は男を眺めた。別段面白くはない。だらしないようできちっとするように躾られた男は、寝ていても乱れることは無かった。
不細工では有り得ない程度に整った顔も、涎の痕跡すら見当たらなかった。
不意に、微動だにしない男が生きているのか颯稀は疑った。
まさか莫迦莫迦しいと一笑したが、満更笑い捨てる可能性じゃない気がした。揺り起こしたい衝動を御しつつ、そうっと指を伸ばす。
「……つめたい……」
指先が触れた唇は微かに繰り返す呼吸を教えた。けれど体温の無さも同時に伝えた。
こいつこんなにつめたかったっけ? と記憶を探る。恋人なんて気色悪い関係などでは無いから、答えは無かった。颯稀は指を離す。
冷えたのだろうか。身を翻しベッドルームに向かった。寒い部屋だ。暖房も点けず毛布すら掛けていない。風邪を引いても道理な状態だった。
毛布を持って戻ると男が上体を起こしていた。ぼんやりとした双眸は覚醒が不完全だと訴えている。
「起きたのか」
一応、話し掛けた。
「……」
対して、寝起きの男は目を瞬かせるだけで返事をしない。眉間に皺を挟みながら、颯稀はある一考を浮かべる。
「お前……また薬飲んだのか?」
以前消えたとき、この部屋で同じように発見した男は常用していた睡眠薬を酒で呷り、現状のような風体だった。脳裏に過る過去の光景が、より濃厚な状況証拠となって颯稀へ突き付ける。
だけれど杞憂で在ったと、男が示した。
「……飲んでない。……眠れなくて……起きてて……で、」
今さっき、寝たのだと。颯稀は返答に多少罰の悪さを飲んだが、嚥下させる罪悪に比べれば圧倒的に安堵が勝った。毛布を放り頭を撫でる。遥か昔、妹にしたみたいに。
「寝ろ。いてやるから」
愛なんか無い関係だった。どちらかと言えば穢れていて、近ごろは恐怖が支配した。
颯稀は己が実に利己主義で在ることを、ここ最近痛感した。男の死を友人として憂いたのでは無く、友人で在りながら罪を被るやもしれないことを怖がったのだ。
自分のせいで人が死ぬなど真っ平だと言う、身も凍る恐れ。
男は颯稀の有無で命を左右する、たったこれだけで颯稀を縛り上げていた。
離れられないのだ。
今や男はただの安定材料では無い。逆の存在としても颯稀を搦め取る象徴だった。
颯稀は目の前で安心し再度眠る男────『遠矢』から、多分、この先も。
逃れられない。
「……放さないでいてやるよ。『人殺し』にだけはなりたくないからな……」
遠矢の死が自殺だったとしても。颯稀が理由だとすれば颯稀が殺したも同然なのだ。颯稀に取っては。
ならば。
「見張っててやるよ。……お前が一生俺のせいで死なないように」
要子が言った。颯稀は、遠矢の『サチコ』なのだと。偏執なまでに“兄”を愛するあの“妹”はゆえに颯稀を手に入れようとしている─────そうして颯稀も拒まない。
上等じゃないか。颯稀は己の瞼を片手手の平で覆った。
上等じゃないか。見張るには、相手から求められる、これ以上は無いのだから─────。
時は元旦。
めでたい一年の年明けは、一日の夜明けは、颯稀に措いて長い舞台の幕開けだった。
【Fin.】




