逃走
「──マリー。マリー、ちょっといいですか」
「んう……? どうかした、クリス……」
ぼうっとしていた意識が、不安そうなクリスの声に呼び起こされる。
どれくらい時間が経っただろう?
どうも感覚がはっきりしないが……。
「何か変なんです。胸騒ぎというか……妙な気配がずっとしていて」
「……疲れてるんじゃない? クリスも少し休んだら……?」
「それは……」
逡巡が見え隠れする。
妙な気配とやらを感じてはいても、確信にまでは至っていないらしい。
……まあ、他でもないクリスの言うことだ。
「ん、しょっと……。気になるなら見に行こ、クリス」
「……でも」
「私は大丈夫。ちょうど寝れなくなってきたとこだし」
「……ありがとう、マリー」
手を繋ぎ、ベッドから這い出す。
しっかりと自分の足で立つ感覚。
衰弱感は否めないものの、もうだいぶ快方に向かっていた。
クリスの料理? とルーシーちゃんの薬のおかげもあるだろうか。
「どこが気になるの? 廊下?」
「ううん、全体的に……ここに来てからずっと、どうも気分が変なんです。……特に、お母様は」
「ふうん……?」
私は特にそんな気はしなかったけど。
ここで生まれ育ったクリスには、何か思うところがあったのかもしれない。
私には感じ取れないくらいの微妙な変化。
小さな小さな、異変……。
「──あら、ふたりとも。どこへ行くのかしら?」
「っ! お、お母様……!」
「マリーちゃん、あなた……もう出歩いて大丈夫なの? 随分と酷い様子だと聞いたけれど」
毎度の如く、不意に背後に現れたクレアさん。
心配するような、それでいてどこか訝しむような視線をこちらに向けてきた……クリスの話を聞いたあとだと、どこか妙に聞こえなくもない。
……いや、考えすぎだろう。
「まあ……それなりには。少し散歩がしたくなって」
「散歩ねえ。ふうん……?」
「な……なんです?」
何を考えているのか、頭の上からつま先まで余すところなくじろじろと見てくる。
視線に気づいてかクリスの手がぎりぎりと締め付けてきた……いや痛い痛い。
折れるって。
「……悪いことは言わないわ。もう少し部屋で休んでおきなさい」
「えっ? で、でも」
「でもじゃありません。クリスも一緒にね。ふたり一緒なら、寂しいこともないでしょう?」
「……?」
……ほんのりとした違和感を覚えた。
クリスが感じているそれと同じものかは分からない。
けれど……。
「……どういうつもりですか、お母様」
「クリスこそ、どういう意味かしら」
「わたしたちを部屋に閉じ込めておきたい理由でも? 少し出歩くのなんてこちらの勝手でしょう」
「あら、何かおかしいかしら? 治ったように見えてぶり返したら大変でしょう?」
その理屈は決して間違ってはいない。
論理的には、決して。
だけど……!
「……お母様……白々しいことを言うのはやめなさい」
「何のことかしら?」
「……っ! マリーに、わたしのマリーに! あれだけ苦しむような毒をマリーに盛ったのは、あなたでしょう……!?」
クリスは、一歩踏み込んだ。
危うい橋を渡った。
きっと証拠は何もなく……どこか決めつけにも等しく。
それでも。
「そうよ。それが何か?」
クレアさんは、あっさりとそれを肯定した。
その表情には凍ったような笑みが張り付いている。
「……離れてください、マリー」
クリスが右手を前に掲げる。
殺意に染まった瞳には、ほんの少しだけ迷いが見えた。
「ごめんなさいね、マリーちゃん。苦しめたくはなかったの、だけど……」
「黙りなさいっ! わたしのマリーに手を出すな!」
「…………。クリス、あのね」
「何も……聞きたく、ありませんっ!」
そんな叫びに一瞬遅れ、空を割るような凄まじい音が響く。
目では知覚できないそれは、確かに魔法だった。
以前見たよりずっと乱暴で。
何より、悲しげな。
「く……クリス……」
「……行きましょう、マリー。一刻も早くこの場所を出ましょう」
「ちょ、ちょっと待ってよ! こ……殺し、て……?」
いつかのジャンさんと同じく、クレアさんは何かに押されるように飛ばされていった。
遥か遠く、廊下の端で倒れ伏しているのが見える……ぴくりとも動いていない。
「……この程度で死ぬ人じゃありませんよ。ただ吹き飛ばしただけ……今気にするべきことじゃありません」
「い、いや、万が一ってことも……」
「マリー」
諌めるように名前を呼ばれる。
けれど、瞳はいつになく寂しげだった。
「……分かったよ」
……無下にすることなど、できるわけがない。
クレアさんの意図と安否は気になるが……クリスはそれでも、力づくで押しのける選択をした。
実の母親であろうと関係なく……何よりも私を優先して。
その是非は、正誤は、確かに今問うべきことじゃない。
「離れないでくださいよ、マリー。荷物は……いえ、今はいいでしょう」
「でもクリス、どこに行く気?」
「……頼るようで癪ですが。きっと、わたしの予想が正しければ……」
そう言いながら、クリスは外を見た。
その意図するところはすぐに察することになる。
「──マリーちゃん、クリスちゃんっ!? ちょっと、凄い音したけど……!?」
「……! ルーシーちゃん!」
焦燥した様子の少女が、飛んでくるなり窓から侵入してきた。
疑惑は確信に変わる。……遅すぎたくらいだ。
「ルーシーさん。……今は、どういう状況ですか」
「……うん。ふたりとも、ボクと一緒に来て。説明はあとでいくらでもするから」
また、何かが起きている。
まだ、かもしれない。
この状況にはきっとまた、誰かの悪意が絡んでいる。