第一話 あじのなめろう
日本国首都 京都 右京区
モニターを凝視し、文字を一心不乱に入力する。書いているのは長期にわたった調査の報告書。委細を漏らさぬよう、そして客観的な視点を心がけて。
数時間前にここへ帰ってきたばかりだが、お楽しみがこの後にある。そのために柊太は今、最大能力を発揮していた。
見た目はアラサー、と言われるようになっても全く衰えを感じさせない無尽蔵の体力に任せての苦行。
気が遠くなるような時間だったが、そんな国家への奉仕も終わりがやってくる。
「よし。あとは課長に送って、と」
業務の終了が確約された瞬間。送付した後も念のためにもう一度確認。常人を遥かに上回る速度で再チェックを行い、安堵の息を漏らす。再提出を求められてここへ戻ってくるなど絶対にごめんなのである。
終わるやいなや、ボロボロになった服を脱ぎ捨て、専用オフィスに備え付けのシャワー室に飛び込む。時間に余裕はあるが、大急ぎで身を清める。伸び放題だった髭も、かろうじてまともに見えるよう剃り落とし、身だしなみを最低限整える。
「準備完了!」
身軽な服装を身につけると、いそいそと庁舎を後にする。体感時間では3週間ぶりのご褒美が待っている。
そろそろ夕暮れ時だが、初夏の京都は暑い。少し歩いただけでも汗が噴き出る。そんな古都の街中をすいすいと歩き、10分もしないうちに店へ辿り着く。
『居酒屋かぐら』
行きつけの店である。通い出して何年になるか。
柊太にとっての桃源郷であり、仕事でためたストレスなどを洗い流す場所。
かぐらと粋な字体で書かれた暖簾。過ごした時間を感じさせる年季の入ったそれをくぐり、カラカラと小気味よい音をたてる戸を開くと、良く通る大将の声が出迎えてくれる。
「らっしゃい」
出汁や炭火の香りも漂っており、この香りだけで酒が何倍も飲めるほどの極上な空間。
まだ早い時間。ついでに今日は火曜日なこともあって、客はまだ入っていない。混み始めるのはもっと後。
カウンターの左端という定位置へ真っ直ぐ。椅子に腰掛けると、すぐにほどよく冷えているおしぼりが手渡される。
「ありがとう。ほんとに暑いね」
「そうですね」
寡黙な大将ではあるが、手を止めぬまま少し笑顔を見せてくれる。包丁さばきはいつ見ても惚れ惚れとするほどに見事。今も丁寧に椎茸の飾り切りをしているようだ。
厳かな仕込み風景から視線を外して、本日のおすすめが書かれている黒板へ。十種類ほどメニューが書かれていて、じっくりと一つ一つを吟味する。
どれも甲乙つけがたいが、今日のメニューで一際輝いていたのはこれだった。
「大将、アジのなめろうをお願い。あとは辛口で冷たいのをお任せでいいかな?」
「あいよ」
仕込みの作業をいつの間に止めたのか、スッと付き出しの高野豆腐の煮込みが出てくる。
手を合わせ、心のなかでいただきますと呟く。あらかじめ置かれてあった箸を手に取って、まずは小さく一口。
柔らかくも、歯に跳ね返ってくる不思議な弾力。噛むと旨味を完璧に引き出した煮汁があふれ出してくる。丁寧にとったであろう出汁。しばらくの間、粗食生活を強制された舌には甘美すぎる味わい。
もう一口食べてしまおうかと悩んでいるところへ、大きめの徳利とお猪口がトンと置かれる。
満面の笑みを浮かべてしまっていることを自覚しながら、零さぬよう慎重に傾ける。質素ながらも洒落た設えのお猪口に注がれる、澄んだ液体。
完璧なタイミングで注ぐのを止め、大事にお猪口を持つ。そしてゆっくりと口に含む。
キリっとした口当たり、そして広がる芳醇な香り。強く残る甘みを帯びた長い余韻。
大将のおすすめに外れなし。
トントンと小気味の良い包丁の音は、きっとなめろうを仕上げているもの。その心地よいBGMに否が応でも期待してしまう。
調査で行っていた先には、鮮度の良い魚などを食べることができる贅沢な環境はなかった。
まるでプレゼントが貰えるのを待っている子供のような逸る気持ちで、大将の手元をチラチラと盗み見ながら待つ。
しばらくして完成したそれは、派手ではないものの、しっかりとした器へ丁寧に盛られて差し出された。
「どうぞ」
アジのなめろうに見た目の美しさはあまりないと言えるかもしれない。しかし、大葉の鮮やかな緑の上にたっぷりとのせられている様は、まるで色とりどりの宝石のよう。
急ぎすぎてはいけない。
慎重にこんもりと積み上げられた山から一口分を箸でつかみ、ゆっくりと口へ運ぶ。
「美味い……!」
幸福である。
ここから先も慌ててはならない。幸福の余韻をじっくりと堪能しながらお猪口へと手を伸ばす。
ぐい、と一口。
「さいっこう!」
小さな叫びを思わず漏らすほどの至福の時間。
これを何度も繰り返す幸せが今目の前に山となっている。今日も完璧なスタートを切ることができた。すでに大満足の夜となることを確信している。後はどれだけ時間をかけて味わうか。
「らっしゃい」
戸が開く音と共に新たな客が現れる。
「おや、柊太じゃないか」
「局長、お疲れ様です。早いですね」
「やるべきことを片付けることができてね」
真っ直ぐ柊太の隣に座る。
「柊太はなめろうか、いいね。大将、私も同じものを。お酒も同じものでいいかな」
「あいよ」
差し出されたおしぼりで手を拭きながら、黒板に視線を向ける。
「茄子の田楽も後でいただこうかな」
「あいよ」
スッと出された徳利とお猪口に手を伸ばし酒を注ぐ。どこからどう見ても異国人にしか見えない彼には絶妙に似合っていない。
黄金色に輝く金髪も鮮やかすぎて、このお店では間違いなく浮いている。しかしその楽しそうな姿は妙に馴染んでもいた。
「じゃ、柊太お疲れ様。乾杯」
「はい局長、乾杯」
クイッとあおってしばらく余韻を楽しんだ後、互いに満足そうな笑みを浮かべて杯を置く。
「それで、今日帰ってきたんだっけ?」
「えぇ、課長には報告書を出しておきましたので、そのうちそちらにも行くと思いますよ」
「まだ客も入ってないようだし、せっかくだから今概要を聞いておこうかな。たしかミドア王国の件だっけ」
「そうです。一言で言うと、酷い目に遭ってきました。もはやゲリラ活動でしたね、あれは」
それはまた、と少し呆れを含んだ反応。
「密かに赴いてみると、例の彼女が行方不明になっているから捜索に協力してほしいと第二王女に言われまして」
「よくあってほしくはないけど、よくある話ではあるね」
「ただ、陛下や王子殿下も行方不明。第一王女は最前線に行ったきり。最初からきな臭くはありました」
「不穏な状況のバーゲンセールじゃないか」
「バーゲンセールなんて言葉、よく知ってますね。行ったことあるんですか」
「興味本位で」
はぁと相槌を打ち、なんとも言えない間が流れる。
視線も逸らしてひとまず口の渇きを癒すことに集中する。
リズムよく鳴っている包丁の音と静かなBGMが、気まずい時間をゆっくりと流していった。
「……それで、その他にも色々あったんですが、第二王女ってのが強大な力を持つ例の人を洗脳して利用する。それが今回の核心部分でした」
「早めに派遣して良かったね」
「本当に。それにしても事態を把握するのにだいぶ時間かかりました。……あぁ、美味いなぁ。最高」
「私のも楽しみだ」
合間の一口がさらに幸福を呼ぶ。この脂のよくのった、ぷりぷりとした食感が癖になる。大将のなめろうは少し粗めで食感が少し強く、他では味わえない特別なもの。
「第二王女の言う敵軍とやらも、何かを焚き付けて仕立て上げられた紛い物だったそうですが、それは今あんまり関係ないか」
「つくづく厄介なことに巻き込まれたね」
「とにかく洗脳されかけていた彼女を見つけ出して、ついでに第二王女の派閥を壊滅させて、陛下と殿下も救い出して、どうにか戻ってきました」
「詳しい報告書も読むけど、聞くだけでもなかなかの冒険譚だったね」
ははは、と乾いた笑いが出てしまう。
局長のなめろうも出され、しばし二人とも無言で舌鼓を打つ時間が流れる。
「……私の管轄外や交渉できていない相手だとどうしてもいい加減になりがちだね。あちらの管理者にも交渉の打診はしてるけど反応はないし」
「その噂は本当だったんですね」
「そうだね。厄介なのが管理してるっぽくて、テーブルに座らせるための実力行使も考える段階に来てるかもしれない、と官房長官は言ってきてる」
「それ、もしかしてまた俺が駆り出される?」
「間違いなくね」
長いため息が盛大に漏れ、やけくそ気味に酒を煽る。
「またしばらくここに来られなくなります」
「そこまで近いうちじゃないよ、きっと」
「嘘ですね。俺は知ってるんだ、そんな甘いことなんて一度だってなかったこと。大将、もう二合! あとまいたけの天ぷらもお願いね!」
「あいよ」
愚痴は止まらないが、美味しい肴と酒の時間はゆったりと過ぎていく——。




