間9 夏祭り
良子は、勝太郎と昭雄の会話を中ほどから聞いていた。
巳代に、面白そうだから隠れてなさい、と言われたからである。
お父さんは私と勝太郎の関係を、間違いなく勘違いをしている、と良子は話の流れから理解していた。
勝太郎が、何の他意もなく本心からお父さんの質問に答えていたのだろう、と察してもいた。
良子は一年間の付き合いの中で、勝太郎は嘘を吐くような人ではない、嘘を吐くぐらいなら黙っていることを選ぶ人だ。と知っていたからである。
知っていたからといって、何も感じない訳でもなかった。
性格を褒められたのは嬉しいと思ったし、自分ではあまり好ましく思っていない容姿を褒められたのも、まあ悪い気はしない。と良子は思ったのである。
だから、という訳ではないけれど、何度も誘いを袖に振るのも申し訳ないし、そもそも私に気を回して誘ってくれたのだろうし、特別他意はないのだし、昨日はちゃんと寝れたし、夏祭りは単純に楽しそうだし。
と良子は勝太郎の誘いを受けることにしたのである。
なぜかお母さんが大興奮し、浴衣を着て、慣れない下駄を履く羽目になったけれども、夏祭りらしくていいかもしれない。と思った良子は深く考えることをやめたのであった。
目当ての夏祭りは花笠などの大イベントとは異なり、どちらかと言えば地域民向けの規模の小さなものである。
会場は吉田家から二つ隣町の公園で、簡素なやぐらが建ち、縁日特有の屋台と出店が並ぶ。
少々距離はあるけれども歩いてゆけない距離でもない、と思った良子は、運転免許を取得したばかりで金欠気味であるはずの勝太郎の懐事情を鑑みて、徒歩で会場に向かう事を提案した。
勝太郎は、良子が慣れない装いである事を指摘したけれども、良子の意思が変わらないことを認めて、良子の提案を受け入れることにしたのである。
道中の話題の肴は、正道や指導力向上会の話題がほとんどであるが、話題が尽きる事は無く、二人は目的の公園へと到着した。
大学やサークル活動以外で顔を合わせる機会もなく、よくよく考えてみれば、お互いの事を大して知らない、と良子は明るく照らされ、すっかり夏祭りの会場になっている公園を見て思った。
ただ勝太郎と二人で遊びに行く、というのは今までなかった事だ、と良子は気が付いたが、せっかくの夏祭りを満喫することを優先した。
寝不足に陥るのは毎度のことだけれども、毎度貧血を起こすわけではない。
いつも寝不足と戦いながらではあるが、縁日の思い出だって良子にはあった。
けれども、何の不安もなく縁日を楽しめるというのは、いつぶりだろう、という思いも良子の胸中には確かにあったのである。
やはり祭りの花形は普段はお目にかかれない独特な食べ物を提供する屋台であると、良子は確信していた。
夏祭りに相応しいかき氷などを筆頭とした氷菓子、市販されている物を提供する店もあるけれども、縁日で食べると普段から食べているようなものだって一味違う。
色鮮やかな飲み物だって、馬鹿にはできない。普段店に並んでいても、好んで買い求める人は少ないように思えるが、いざ縁日となれば瓶入りラムネがどうしてこんなにも魅力的に見えるのだろう。
定番の今川焼、串焼き、焼き物系は絶対に外せない。甘いもの、塩辛いものを網羅したラインナップは、いつだって体系維持という戦いに身を投じている戦乙女を、ただの少女に変えてしまう魔力を持っている。
と良子は思うのである。
そして食べてしまうのである。
例えば今日食べ過ぎて、明日の朝、私は年甲斐もなく何をやっているのか、という自責の念に確実に苛まれるとしても、それは今の私の知ったことではない、と良子は居直ったのだった。
たこ焼き、という縁日では珍しい焼き物を物は試しと買い求め、吟味する。
中々に美味だと思った良子は、一口大に揃えられた丸い焼き物を、いまいち縁日を楽しめていない様子の勝太郎の口に突っ込んだ。
言葉で勧めれば、勝太郎は遠慮するに違いないから、否応なく口に押し付け無理矢理食べさせる良子である。
縁日に節制遠慮は無粋の極み、と考えた良子は、常ならざる状況のせいで完全に舞い上がっていた。
腹が膨れたならば、次は遊戯である、と良子は心の中でたすきをかけた。
くじ系、遊戯系、いろいろと屋台はある、欲しい賞品なんてほとんど何もないが、それでもやるのが縁日を楽しむ秘訣だ、と良子は疑わない。
この、縁日に参加している、という浮ついた感覚が楽しいのだった。
型抜きだって、できると思っていないけれど、一番難しい奴に挑戦する。成功すれば賞金が出ると知った勝太郎も真剣な表情で、そこそこ現実的な難易度の型を懸命に抜いている。それを見るのが楽しい、と良子は思った。
ぱきりと予期せぬ所が割れてしまい、良子の挑戦は失敗に終わったけれども、勝太郎はあと一歩のところである。
勝太郎はもう少し時間がかかりそうだ、と感じた良子は、夏祭りの会場である公園を見渡した。
提灯や屋台の照明で照らされ、ただの公園だった場所は縁日に相応しい会場に変貌している。
こういうのが好きなのだ。
と良子は思った。
沢山の人たちが一つの目標に向かって努力をして、準備をして、それが達成された瞬間が何よりも好きなのだ。
私は沢山の子供たちにもそれを教えてあげたくて、教員になろうと決めたのだった、と良子は不意に思い出したのである。
「よしっ」
と勝太郎が言った。
一瞬自分の名前を呼ばれたと思った良子が勝太郎の座っていた方を見ると、屋台主にあれこれ文句をつけられて結局賞金は受け取れず、目に見えて消沈している勝太郎がいた。
型抜きは祭りの雰囲気を楽しむ為の、らしい要素の一つであって、賞金目当てに挑戦するものではない、ということを勝太郎は知らなかった。
良子は、型抜きに未練があるのか、じっ、と一回いくらの値札を見つめている勝太郎の腕を捕まえて、型抜き屋を後にした。
屋台主に文句を言うのではなく、もう一度挑戦してみようかと苦悩している勝太郎は、健気でちょっとだけ可愛らしいと、良子は感じた。
「でもそれは底なし沼だから」
良子は型抜きにおける暗黙の了解を勝太郎に教授し、締めの言葉としてそう言って、すぐそばにあった屋台で綿飴を二つ買った。
一つは良子が自分で食べようと思って求めたものである。
「私から残念賞」
良子はもう一つを勝太郎に手渡した。
あれこれと遠慮する旨の言葉を吐く勝太郎を無視して、良子は自分の分の綿飴にかぶりついた。
ただザラメの塊であるはずの綿飴は、どうしてこんなにも祭りらしい味がするのだろう。
お面なんて何の役に立たないのに、夏祭りには必ずと言って良いほどお面屋があって、結構売れてたりする。
お面が役に立つ場面なんて、何も思いつかない良子である。でも、らしいから、という理由で良子はお面も買って、すぐに頭にかぶった。
「早く食べないとしぼんじゃうよ?」
綿飴に口をつけない勝太郎を見かねた良子がそう言うと、勝太郎も観念して良子に礼を述べてから、綿飴にかぶりついた。
「甘い」
と勝太郎は言った。
「あ、甘いの嫌いだった?」
と良子は尋ねた。
「いや、甘いのは好きだけど」
「そう、良かった」
もう一年以上の付き合いがあるのに勝太郎の好き嫌いも知らない、と良子は思った。
指導力向上会の活動で、毎日のように顔を合わせ、毎日のように言葉を交わしてきたのに、思い出せるのは正道と稽古や話し合いをする真剣な表情だとか、正道の思いつきに振り回されて少しだけ困ったような笑顔だとか、私を看病するときの心配そうな目だとか、そんなことばかりだ、と良子は反省した。
「っ」
不意に弄んでいた綿飴の芯である割り箸を手放して、良子がしゃがみ込んだ。
勝太郎が半分近く残っていた綿飴を放り投げ、良子の体を支えるように腕を回したのは、良子がまた貧血を起こしたと思ったからだった。
「ああ、もったいない」
と放られた食べかけの綿飴を見て、良子が言った。
「は?」
勝太郎は驚いていた。良子に意識があったからである。
「貧血じゃないよ、足が痛いなって思って」
「足?ああ、下駄だから」
勝太郎は良子の足を見た。
鼻緒に当たる部分の皮がむけていた。
「ちょっとはしゃぎ過ぎたかな、はは、っはぁ!?」
良子が笑って誤魔化そうとし、頓狂な声を上げたのは、勝太郎が良子をひょいと横抱きにしたせいである。
鼻緒が重力に従って良子の傷口に触れるけれども、今の良子に痛みを感じる余裕はなかった。
「やめて下ろして!恥ずかしいから!」
「は?その足じゃ歩くのは辛いだろう。運営本部に救急箱的なものがあれば良いのだけど」
「はぁ!?本部まで行く気なの?本当にやめて!大丈夫だからそこのベンチに下ろして!」
「何が大丈夫なのかさっぱりわからん」
「私をそこに下ろして、本部には一人で行ってください、お願いします」
「なるほど」
勝太郎は良子をベンチに下ろし、放置されていた割り箸と半分残った綿飴を拾い、一瞬だけ、捨てるのは惜しいか、と悩んでからごみ箱に捨てて、それから本部へと向かった。
ベンチに一人残された良子は、このベンチは針でできているに違いない、と思っていた。
いくら小さな規模の地域向け夏祭りとはいえ、人出はそれなりにあって、今の出来事を目撃した人がいる。
私は足が痛いせいで逃げも隠れもできず、居心地が悪い中で顔も上げられず勝太郎の帰りを待つしかない。地獄とはここの事である。と良子は確信した。
「お嬢ちゃん、大丈夫?優しいお兄ちゃんがすぐ帰ってきてくれるから、泣かないで」
もしかすると、仲睦まじい恋人同士を突如襲ったトラブル、のように周りから見えているのかも知れない。いや違うのです、私と勝太郎は全くそういう関係ではないのです、と誰に言うでもなく心の内で思っていると、親切そうな表情をした子供連れのおばさんに、良子は声をかけられたのである。
良子は、ありがとうございます、とだけ応えた。
まさか私がちんちくりんだから恋人同士には見えないと?いや、実際に恋人同士などではないが、周りからは仲の良い兄妹に見えていると?おいおい冗談は良子ちゃんだ、私は二十歳も過ぎた立派な成人女性ですぜ。子供じゃ、ないんだぜ。
と、胸中でひとしきり反抗心をあらわにした後、良子は気が付いた。
何の不安もなかった夏祭りではしゃいだ結果こしらえた足の怪我も、普段起こす貧血も、結局は自己管理ができていないことの証左である。
では自己管理ができない人の事を、他人は何と呼ぶのだろうか。
子供である。
私は子供だ、と良子は自覚した。
自覚してしまえば、気分が落ち込むのを止めることが良子にはできそうになかった。
勝太郎の妹だと思われても仕方がないのかもしれない、と良子は思ったのである。
「お待たせ、足見せて、両方」
勝太郎が救急箱を片手に戻ってきた。
良子が黙ったまま下駄を脱ぎ、ベンチの上で体育座りをするような体勢になったのを認めると、勝太郎はしゃがんで傷の具合を確認した。周囲には祭りらしい照明がいくつもあって、傷を確認するのに十分な明るさがあった。
裸足をじっと観察されるのがこんなに恥ずかしいとは、と良子は思ったが、言葉にはできなかった。
救急箱の蓋を開け、中身を物色している勝太郎は、消毒液と脱脂綿を見つけて手に取った。
「しみるけど我慢してね」
勝太郎の物言いが、まるで子供を諭すような優しさにあふれているのを感じ取った良子は、なんとも言えない苦い気分にさせられた。
このくらい自分で処置できる、けれども、今の情けない表情をしているに違いない私の顔を見せるのは嫌だ。だから、勝太郎に処置してもらう。という自身の考えが、いかにも子供らしく思えて、良子は一層陰鬱な気分になったのである。
勝太郎の手際は良子から見て見事なものだった。
さっと消毒液を拭ったと思えば、絆創膏をぺたと貼り、良子がそこまでしなくて良いと言う間も無い内に軽く包帯を巻いてしまった。
まあこんなもんか、と言って、勝太郎は救急箱を運営本部へと返しに行った。
一人残された良子は、ついさっきまでは楽しかったのに、私は何をやっているんだろう、と考えていた。
これでは、いつもと何も変わらない。私が失敗して、その尻拭いを勝太郎にさせている。
普段から迷惑をかけて、勝手に落ち込んで心配をかけて、気を回してもらった先でも、また迷惑をかけている。
こんな友人、愛想をつかされたとしても仕方がないな、と良子は思った。
だって自分では、頑張っているのだ。と良子は自分に言い訳をした。
せっかく気分転換に誘ってくれた勝太郎の期待に応えたいと思ったから、全力で夏祭りを満喫した。
貧血の事だって、今まで何もしてこなかった訳ではない。できるだけ翌日の事を気にしない様にしたり、一時的に忘れる努力をしたり、疲れて体が勝手に寝るように頑張ったことだってある。
どれもうまく行かなかっただけなのだ。
頑張ったけど、ダメだったのだ。
努力が結果に繋がらないことは確かにあるのだ、と良子は改めて痛感していた。
「痛い?」
良子が膝を抱えるようにして考え事をしている間に、勝太郎は戻ってきて、良子に声をかけた。
「大丈夫、ありがと」
鼻の奥がツンとして、良子は顔を上げることができなかった。
「帰ろうか」
と勝太郎は言って、良子の下駄を地面からひょいと救い上げて、良子の手に持たせた。
「え、なに、わぁ!?ちょっとまたか!」
勝太郎は、良子を横抱きにした。
「暴れないで、持ちにくいから」
「そう言う問題じゃない!恥ずかしいから下ろして!歩けるから、もう大丈夫だから!」
「いや、痛そうに歩かれるのも嫌だし」
「じゃあ、せめておんぶにしてよ!」
横抱きとはつまるところいわゆる俗称お姫様抱っこと言うやつであろう、なら、おんぶの方が百倍マシだ。と良子は思った。
「おんぶだと胸が当たっちゃうかもしれないですけど、どっちがいいです?」
勝太郎は、努めてふざけた調子で言った。
子ども扱いされるのを嫌がる良子が気にするだろう、と勝太郎なりに気を回したのであるが、同時にお前はそんなことを気にしているのか、と思われるのが照れ臭かったからである。
良子は、お前がそれを言うのか、と思ったが、言葉にはしなかった。
勝太郎が自分の事を異性として見ているのだと初めて気づかされ、途端に恥ずかしくなったからである。
「抱っこのままでお願いします」
良子は、数秒間真剣に考え抜いた結果、そう言った。
指摘され、もうすでに意識してしまった異性相手の背中にしがみつくことは、良子には耐えられそうになかった。
成長は人並み以下だが、ある物はあるのだ。ならば、横抱きの方がまだ精神的なダメージは少ない、と良子は考えることにしたのである。
勝太郎は平然と歩き出した。
良子には周囲を見渡す余裕は無かった、周囲にいるであろう人達から視線を頂戴しているような気がしたからだった。
「重くない?」
蚊の鳴く様な声で良子は尋ねた。
「全然」
と勝太郎は答えた。
内心では、いくら小柄な女性とはいえ人間一人分の重さはあるのだから、重くない訳はない、と思う勝太郎であるが、吉田家に良子を送り届けるまでならば問題はなさそうな程度には実際に軽かったので、内心を口から漏らすことはなかった。
勝太郎が内心に秘していることは、もう一つあった。
怪我人や病人を抱えて移動することには何の抵抗も感じなかったのであるが、顔を真っ赤にして恥ずかしがる良子を近くで見ている内に、勝太郎にも羞恥心が芽生え始めていたのである。
もしや、俺はとんでもなくキザで恥ずかしいことをしているのではないか、と勝太郎は思ってしまったのだった。
勝太郎はそれを表情には出さない様に努めていた。
俺が抱えているのは、小さい子供。少年団の子供たちにおんぶや抱っこを要求されたりするのは慣れたもの、子供相手にそうしても恥ずかしくもなんともない。
と呪文のように繰り返し、頭の内で唱えれば、勝太郎はもう大丈夫なのである。
「そう」
と良子はつぶやいた。
良子が勝太郎に横抱きにされる、という事自体は珍しいことではなかった。
良子が貧血を起こして倒れるたびに、勝太郎は良子を抱き抱えて安全な場所まで移動させる、と言うのは今までの付き合いの中で確立されたルーチンである。
いつもと違うのは、良子がはっきりと意識を保っている、という所である。
知らぬ間に事が済んだ後で、こういうことがありましたよ、と言われるのと、実際にその事を体験するのとでは、恥ずかしさの程度が天と地ほどには違う。と良子は心底から痛感した。
「人に見られたらどうしよう」
という言葉が良子の口からこぼれたが、これは無意識な感情の吐露であり、良子本人は言葉を発した自覚は無かった。
勝太郎は年相応な体つきをした、父親とみるには若すぎる男性で、浴衣を着こんだ女の子を抱えている。
この時期、この時間帯でちょっと洒落た感じの浴衣を着こんだ裸足の女の子を抱えて夜道を歩く若い男性がいたら、そんなのどう見てもデートか何かの帰りにしか見えないに違いない。
もしそんな二人を見かけたら、わぁ、仲睦まじい恋人同士。と冷やかしの視線をつい向けてしまうであろう自信が私にはある。
問題は、その抱えられている女の子と言うのが、私自身であるという事だ。
少しでも良く思われたくて、慣れない浴衣と下駄で完全武装し、気合満々でデートに赴き、哀れにも醜態を晒したものの、彼が優しくて良かったじゃない。みたいに思われたら?
いや、実際に恋人同士ならそれも良かろう、しかして私と勝太郎は、そう言う関係ではない。
そう言う関係でもないのに、いわゆるお姫様抱っこなどされている現状は恥ずかし過ぎて他人には見せられない。
どうにかしなければならない。
しかし実際に足は痛いし、勝太郎は平気な顔をして私を家まで運ぶ気満々である。
どうすれば良いのか。
と良子は考えていた。
「お面で顔を隠したら少しはマシになるんじゃない?」
勝太郎の言葉を聞いた良子は、すぐさま頭にかぶっていた雰囲気だけのお面を顔にかぶせた。
お面が役に立つ状況を実際に体験した良子は、妙な感動を覚えたのである。
勝太郎の言う通りに顔を隠してしまえば、幾分気持ちが楽になったのを良子は感じた。
誰ともわからない女の子を勝太郎が抱えていたと誰かが目撃したとしても、その話が私という個人と関係づけられることはないのだから、これはもう、私は恥ずかしくない。
恥ずかしいのは勝太郎だけである。と良子は考えた。
この時ようやく、良子は周りを見るだけの精神的余裕を取り戻したのだった。
お面で顔を隠しているせいで視界は狭く、はっきりと確認できるのは時折街頭で照らされる勝太郎の表情ぐらいのものであった。
なんて平気そうな顔をしているのだこの男は、と良子は思った。
私のようなちんちくりんの女をお姫様抱っこしても、頬を赤らめることなどないと言いたいのか、と不満に思った。
そして良子は、そう言う事ではない、と気が付いた。
勝太郎は単純に、何の下心もなく、ただいつもと同じように、完全な善意だけを行動の根拠として、手間のかかる相手の世話を焼いているのだ。
と良子は思ったのである。
「勝太郎は大人だ」
良子は自分の心の内の思いが、口を突いて出たことに驚いた。
「何の話?」
勝太郎がすぐに返事をしてしまったものだから、良子は今まで心の内でせき止め、言葉にならない様に気を張っていた苦悩が、堰を切ったように溢れた。
「ほら、私は背も低くて、年相応に見てもらえないじゃない?でも気分は大人になったつもりでいたんだけれど、いろいろと、うまく行かないじゃない?よく倒れちゃうし、今日も勝太郎に迷惑かけちゃうし、頑張ってはいるつもりなんだけれど、結果に結びつかないのはきついし、悔しいし、もっと頑張らなくちゃって思うんだけど、マサとか、勝太郎もそうだけれど、すごく頑張っているじゃない?剣道の事とか、大学の事とか、自活してるだとか、私なんかよりずっと頑張ってるんだろうなって思っちゃうと、なんか頭がこんがらがっちゃって。ほら、大人ってさ、なんでもこう、スマートにできるでしょう?だから、私は子供なのかなぁって」
良子はそこまで言って、口を噤んだ。
重たくて大きなものから先に流れ出て、胸中の堤防が粗方空っぽになって、それから自分の内心の苦悩を勝太郎に聞かせてもどうにもならない、と良子は気が付いたからだった。
これは自分の問題なのだから、人に聞かせる話ではない、と良子は思うのだ。
「ごめん、なんでもない。忘れて」
勝太郎は何も答えなかった。
このお面が悪いに違いない。顔を隠して、自分と言う存在をすっぽりと隠しきれていると勘違いして、気が大きくなって、訳の分からないことを口にしたのだ、と良子は思った。
「考えてみたんだけど」
と、少し時間がたってから不意に勝太郎が口にした。
「スマートに何でもできるって言うのは、たぶん大人かどうかは、あまり関係がないような気がする」
良子は、注目するのはそこなのか、と少し面白く感じた。
「元から何でもできる人も、きっとどこかには居るのだろうけど、スマートに何でもできるように頑張った人の方が多いんじゃないか?だから、頑張っている内に大人になった。というか、まあ、そんな感じなんじゃないか」
勝太郎は断言出来なかった。
勝太郎の心の内にも、明確な答えが見つからなかったからである。
良子は黙ったまま勝太郎の言葉を聞いていた。
「自分は頑張れてない、みたいに聞こえたけど、俺は良子も頑張ってると思うよ。結果に結びつかないのは悔しいだろうけど、頑張ったことは無駄にはならない」
と勝太郎は断言した。
「良子が頑張ってたのは、一年、もう一年半にもなるのか。すぐそばで見てきたから、俺はよく知ってる。正道はもっとよく知ってる」
良子は黙ったまま、勝太郎の言葉を聞いていた。
なんだか鼻の奥が痛み出したせいで、そんなことはない。と良子は言えなかった。
「だって普通は、今日は倒れるかもしれない、ってわかってたら、怖くて何にもできないだろ。でも良子は何度倒れてもサークル活動を休むとは一度も言わなかったし、体調が回復したら子供たちと一緒になって稽古もした。そう言えば先生が褒めてたぞ、良子が一番根性がある、って」
良子には、お面越しの勝太郎の表情が、もうよく見えなかった。
「でも、沢山迷惑かけてきたし」
と良子はお面でも隠しきれない鼻声で言った。
「もう気にならないけど?」
勝太郎はなんでもない声色で答えた。
「そりゃあ、何度も目の前で倒れられたら心配もするし、手間も少しはかかるけど、迷惑とは思わない」
もうやめてくれ、と良子は心の内で絶叫した。
良子の心の叫びなど聞こえる筈もない勝太郎は喋ることを止めない。
「良子は、正道にはもう付き合いきれない、って思ったことがあるか?」
少しだけ間をおいてから、唐突に勝太郎は良子に尋ねた。
「何度も」
良子は正直に答えた。
自分の口からするりと言葉が出た事に、良子は驚いた。
「ははっ、正道は自分から好きに行動する奴だから、巻き込まれる方は結構大変だよな。でも、今も正道とは友達だろ」
「そりゃあ、そうだけど」
「正道は、一つの目標に向かって必死に努力してる。努力してるのがわかるから、無理して怪我しないかとか、やる気をなくさないかとか、心配になるけど見守る。どれだけお前は上達してるって説明しても納得しないから、手間もかかるけど、できる限りは手を貸す。まあ仕方がないか、あいつ頑張ってるもんな、って思えるからだ」
幼馴染だから、そう言うものなのだろう。切ろうと思って切れる縁ではない、腐れ縁という奴だ。としか良子は思ってこなかった。
しかし勝太郎の言葉は、良子の胸に溶けるようにして馴染んだ。
あの自己中心的で厄介さの塊のような幼馴染との関係を断たなかったのは、私自身が辻正道という一途で努力家な幼馴染を、思いのほか気に入っていたせいなのだ、と良子は気づいた。
「努力した結果、上手く行かないことは、確かに結構ある。頑張っても目標が達成できないのは悔しいし、辛いのもわかる」
勝太郎は話を続ける。
良子は、話の結末がどこに向かうのか、なんとなしに読めていた。
「でも努力した分、きちんと目標に向かって進んでるはずだから安心して良い。良子が頑張ってたのは、俺も正道も見てたから知ってる」
やめて欲しい、言わないで、と口に出すべきだと良子は思ったが、震えてうまく動かない唇は、言葉を吐きだす役に立ちそうになかった。
「良子が頑張ってないだなんて絶対に思わない。良子は頑張ってたよ」
お面を買って良かったと、良子は心から思った。
「だから迷惑だ、とも思わない」
流れ出して止まらない涙を隠すのに、お面がとても役に立ったからである。
「で、何の話をしてたんだっけ?喋ってる間に忘れたな、はは」
と勝太郎はおどけて言った。
それは嘘っぽいな、と良子は思った。
泣くとすっきりするというのは本当だな、と良子は思った。
そう思うと途端に、私が泣く様な事を言ったくせに、この男は終始涼しげな様子でいる。という事が、良子はなんだか我慢ならないような、そんな気がしてきた。
夏と言えど夜は肌寒いし、お姫様抱っこは安定感がなくてふらふらしてちょっと怖いし、この男はなんだか上から目線で腹が立つし、こんな時間に通行人なんてよく考えればそんなに居るはずもないし、とにかくそういう諸々の理由があるから大丈夫。と考えて、良子はたった今閃いた悪戯を実行した。
「なに?ちょっと持ちにくいんだけど」
と勝太郎は尋ねた。
良子は勝太郎が納得できそうな理由を探していた。
冷静になれば、どうして私は勝太郎の首に両腕を回しているのだろう。と良子は我に返った。
「揺れるから怖い、もっとゆっくり歩いて」
「あ、ごめん。気を付けるよ」
と勝太郎は答えた。
勝太郎が、首にしがみつく小さな娘を抱きかかえる父親の様に良子を抱えなおしたから、とっさに口をついて出た言い訳を勝太郎はそのまま信じたらしい事は良子でも分かった。
初め胸がどうこう、と言っていた勝太郎が、その実良子の事を異性として認識していない、という事は、勝太郎の表情態度を見れば自明であると、良子は思った。
まあ、安心したともいえるし、なんか悔しい。と良子ははっきりと理解したのである。
だが、何の心配もなく勝太郎が家まで運んでくれると安心しきっていた良子は、家に到着するまでの時間が延長されたことには、しばらく気が付かなかった。
二人はまだ目的地の吉田家までは、まだ道半ばといった所に来ていた。
先はまだ長いのだから、何か雑談でもして暇をつぶすのが良いだろう、と良子は考えたのである。
まだ長い付き合いになるに違いないのだから、つまらない個人的な話をしてみよう、たとえば
「勝太郎は好きな食べ物とかないの?」
「急にどうした?」
「暇でしょ。やっぱりご飯系?学食でもお代わり自由の日替わりばっかりだもんね」
「いや、それは金がないからだけど。そうだな、ご飯は好きだ、塩結びとか」
「塩結びって、白いご飯から離れたら?もっと他にも何かあるでしょう?」
「えぇ?ご飯好きなんだけど。ん~、あ、カレー?」
「やっぱりご飯ものなのね、他には?ご飯禁止」
「他?みそ汁、とか?」
「なぜ疑問形なのか」
「俺は特に好き嫌いがないんだ、急に言われても思いつかないな」
「あぁ、なんかぽいけど。そう言うのは作る側から聞いたらすごい腹が立つから、言わない方が良いよ」
「いや、俺自炊してるから関係ないし」
こういう、どうでもよい様な会話が、私たちには不足していたのではないか、と良子はふと思ったのである。




