間8 夏の始まり
後日勝太郎は、改めて正道の要請を受け、指導力向上会に入会した。
実際に目の当たりにした指導力向上会の活動が、気に入ったのである。
剣道部や剣道同好会に勝太郎が物足りなさを感じたのは、あくまでも自分が剣道をする事が目的、と言う所だったのだ。
勝太郎は、自己の強さや技量に、もはやこだわりは持っていなかった。
まるっきり知識も経験も持たずに指導することは難しいであろうが、最低限度の実力と知識は既に持ち合わせているという自負が勝太郎にはあったのである。
正道の剣道に対する熱意は本物で、自習に充てることにした虫食い状の空き時間は指導力向上会の会合と言う名の雑談で消費され、元々自習時間に充てていた講義後からアルバイトまでの時間も指導力向上会の活動により消費されることもあり、一年の時よりも多忙に過ごすことになったが、勝太郎は全く苦にならなくなっていた。
指導力向上会の三人で過ごす時間が増えたのは、正道の発言がきっかけである。
すぐに勝太郎の指導力の高さに気が付いた正道は、三人で同じ講義を無駄なく選択することで、可能な限り多くの時間を共有することを画策した。
三人とも学業に不安がなく、強烈なリーダーシップを発揮する正道がいて、実際に指導力向上会の活動が将来教員として必ず役に立つと考えた勝太郎と良子の判断があって、これは実現した。
正道は、勝太郎という奇しくも同じ源流を持つ夢想流の遣い手を指導役に得たことで、さらに熱意を燃やしていた。
良子は、熱を上げ過ぎた正道の監視役となりながら、子供たちと一緒になって学ぶという、自身の目標とする教育方法の研鑽に勤めていた。
勝太郎は、正道に真剣に指導しながらも、教員となるには不足していた経験を指導力向上会の活動で補い、予定を組めば時折体調を崩す良子のサポート役としてサークル活動に精を出した。
正道が合宿を行うと言い出したのは、三人が三年生になった直後の事である。
正道は行き詰っていた。
およそ一年間勝太郎から指導を受け、術理の理解、技術の習得には何の問題もないと太鼓判を押され、課題は身体の錬成と、精神鍛錬であると断言されたものの、正道自身の認識では何一つ上達していない、という思いがあったのである。
勝太郎は、正道が父親に剣の才能がないといわれた理由を、おおよそ理解していた。
正道の運動神経は平均以上であり、運動というくくりで見れば、剣道が上手にできない。と言うのは理屈が合わない。
実際に正道には人並み以上の能力が備わっている、と勝太郎は確信していた。
しかし、運動が得意な人には剣が振るえる、と言うのは、体を上手に動かせる人が刀を持てば、人が斬れると言っていることに等しい。
竹刀で相手を打つ、という行為は、人によっては嫌悪感を伴う行為である事を、勝太郎は知っていた。
いかに防具で体を守り、竹刀が衝撃を伝えにくい構造をしていて、ルールの定まった競技なのだとしても、相手を棒で打ち据える、という本質的な部分を無意識下で暴力であると認識してしまう人は意外と多い。
戦闘や格闘技というもの自体に嫌悪感を抱く人は、一定数いるのである。
技量も身体も十分鍛えられているのに、いざ相手と向き合ってみると途端に精彩を欠く正道は、まさにこういう性分の男に違いなかった。
一般的にそういう人は、早々に格闘技関係の習い事を止めることがほとんどなのだが、正道の極端に負けん気の強い性格と、実家が道場であり自意識上では、剣道と暴力は違うと理解しているせいで、自分では気が付くことができずに今まで来たのだろう。と勝太郎は分析した。
正道の父親が、剣の才能がない。と言ったらしい事も、おそらくは正道の精神的な歪みを見抜き、息子を思いやっての言葉であるに違いなかった。
正道の剣は、基礎も、術理の理解も、状況判断も高いレベルにあった。それは父親が師としてきちんと指導してきたという事に他ならない。正道が負けん気を発揮したという事は、言い方は良くなかったのだろうが、言葉の根底には、息子を剣道に縛るべきではない、という親心があったのだろうと勝太郎は思ったのである。
そして、今まで改善されなかった正道の問題が、一朝一夕で改善されない心の深い部分の問題であることは勝太郎も理解していた。
しかし、苦手を克服したいという正道の気持ちも理解でき、応援したい。やる気を失くしてしまった相手に無理に教えることは決してしないが、やる気があるなら応えたい、と勝太郎は思うのである。
自己の現状に不満を持ち、まとまった時間で剣道だけに打ち込み、現状の打破を図りたいという正道の想いが理解できる勝太郎は、アルバイトの予定を修正しなければならない、と考えながら、合宿を行う事に賛成した。
良子には反対する理由がなかったため、指導力向上会で合宿を行うことが決まったのである。
すぐにでも予定を組もうとする正道を抑え、どうせならと指導力向上会の表向きの目的も果たすため、継続的な付き合いができていた剣道少年団と協議し、合同で合宿を行う段取りをつけたのは良子である。
良子の働きの結果、合宿は夏季休講期間と夏休み期間が重なり、双方にとって都合が良い八月初頭にいつもと同じ武道館で行うこととなった。
合宿と言っても、寝食を共にする訳でもなく、用意しなければならないことは多くなかった。
そのため勝太郎は、以前からいずれはと考えていた、運転免許を取得するために自動車学校に通うなどして、大学生活を謳歌していた。
なにも問題なく八月になり、合宿が始まると、良子が倒れた。
ああ、やっぱりか。と正道は言った。
勝太郎は、どうにかならないものか、と思った。
正道も勝太郎も、心から楽しみにしていることに限って実現できない良子を哀れに思う事はあっても、責める様な気持ちはかけらほども持たなかった。
良子の事を責めていたのは、良子自身に他ならなかった。
普段の生活にも運動にも、何の不安もない程度には健康だというのに、少し寝不足になるだけで正道の邪魔をしてしまい、勝太郎には面倒だろうに世話をかけてしまう。
正道も勝太郎も優しいから何も言わないけれど、本心では文句の一つでも言いたいのではないか、と良子は不安に思っていたのである。
体調はすぐに良くなっても、また面倒をかけるかもしれない、と考えた良子は、合宿の間は見学とごくごく軽い稽古に参加するだけに留めた。
指導力向上会が行った初めての合宿は、こんな有様で教員が務まるのだろうか、という良子自身の不安を浮き彫りにしただけで終わったのである。
「花笠を見に行かない?」
と勝太郎が一人で良子を誘ったのは、合宿の翌日の事だった。
合宿の工程が済んだ後、並ならぬ消沈した様子を見せた良子を元気づけることができないか、と考えた勝太郎は、正道と二人で話をする時間を設けていた。
そこで良子の幼少時を知る正道の話を聞き、勝太郎は、そもそも予定を立てるという行為自体が良子にとって都合が悪い、という事に気が付いたのだった。
初め三人で気分転換にでもと考えていた勝太郎だが、正道は、僕がいたら良子は気が休まないだろうから、と早々に不参加を表明したため、勝太郎は一人で良子の実家に足を運んだのである。
「今日は、やめとく。来てもらって申し訳ないのだけれど、昨日もあんまり寝れなくて」
良子は、わざわざ自分のために気を回してくれたに違いない勝太郎の誘いを断らなければならないのが、悲しかった。
花笠祭りは県内で最も大きな祭事の一つで、良子も毎年楽しみにしているのだけれども、つい先日迷惑をかけたばかりだから、さすがに自重しよう、と良子は考えたのである。
「わざわざ誘いに来てくれたのに、そんなこと言ったら可哀そうでしょう、ねえ?」
暗い表情で言った良子の後ろから、ひょっこり現れて言ったのは良子の母、巳代であった。
「初めまして、新庄と言います。いいえ、急にお邪魔しましたし、じゃあ、また今度」
良子の顔色と心の内をいくらか察した勝太郎は、吉田家を後にして帰路についた。
勝太郎は花笠見物には特別な興味はないのである。良子の気分転換になるのなら何の催し物でも構わなかった。
花笠はタイミングが良くなかった、良子の気持ちを考えれば、断られるのも想像できたはずだと、勝太郎は良子に余計に心労を与えたのではないかと少しだけ不安になったのである。
盆が明けた八月の中旬、良子の心中もいくらか落ち着いただろうと読んだ勝太郎は、事前の連絡なく吉田家に訪れていた。
花笠は規模の大きな催し物で、地元民でも楽しみにしている。それは良子にとっては、都合がいいとは言えなかった。
勝太郎は、規模がそこまで大きくなく、あちこちで競うようにして行われる地域の夏祭りを狙っていた。よほどの祭り好きでない限り、幾ら距離が近くても、そのすべてを楽しみにしている人はそういない、と考えたのである。
「娘とはどういう関係だね?」
吉田家の居間で、家長である昭雄から、勝太郎は尋問を受けていた。
良子の父である昭雄が突然の来客の応対を買って出てきたためである。
「大学のサークル仲間です」
勝太郎は、昭雄から矢継ぎ早に撃ちかけられる質問に全て正直に答えていた。
巳代がゆっくりと温かいお茶を勝太郎の前に差し出し、今良子を呼んでくるから、ちょっとだけ待ってて、と勝太郎に耳打ちした。
「何の連絡もなく、こんな時間に自宅を訪れるなんて、少し非常識じゃないのかね?」
年頃の娘を持つ父親として、昭雄は明確な敵意をもって勝太郎に尋ねた。
可愛い一人娘に、どこの馬の骨ともわからない下心がありそうな若い男が近づいている、と昭雄は思ったのである。
自身の妻である巳代の事は、今は視界にも入っていなかった。
「それは本当に申し訳ありませんでした。ですが、そうする理由がありました」
「ほう、理由」
「はい。まず、私はこちらの電話番号を知りません。毎日のように大学で顔を合わせていたので、必要性を感じなかったというのが一つ」
「なるほど」
納得できない話ではない、と昭雄は思った。
普段から直接会って話ができる様な間柄であれば、わざわざ連絡先を交換する必要を感じなかった。と言うのはわからないでもなかった。
家庭用電話も随分普及しはじめたとはいえ、一人暮らしの大学生らしい男が電話に馴染みのない生活をしていたとしても変ではない、と昭雄は思ったのである。
「それと良子さんには、予定を知らせない方が良いだろうと思いました。良子さんの寝不足から貧血、という流れは幼い頃からあまり改善できていないと正道から聞きましたから、何も知らせずお邪魔させてもらったのです。確かに非常識でした、お父さんが心配なさるのも当然だと思います」
「君にお父さんと呼ばれる筋合いはないのだが、まあいい。娘を慮っての事だというのはわかったし、ありがたくも思う。しかし何か予定があったらとか、不在だったら、とかは考えないのかね?」
「その時は、帰ります」
と勝太郎は言った。
昭雄は、既に家族内でも試した方策を勝太郎が短期間で発見した、という事に内心では感心していた。
隠し事が下手らしい家族内では上手く機能しなかった方策ではあるが、赤の他人が行うならば、また違う結果が出るかもしれない、と昭雄は思ったのである。
「無駄足を踏むことになるかもしれないのに、君はどうして娘を誘いに来るのだね?」
昭雄は本題を切り出した。
結局のところ昭雄にとっては、新庄勝太郎がどんな男だったとしても、可愛い娘についた悪い虫であることに違いはなかった。
「サークルの大事な仲間だからです。良子さんと正道のおかげで、私は自分で考えていた以上に充実した、楽しい大学生活を送れています。でも良子さんは楽しむことができない事も多い。それは不公平だと思うのです。どうせなら皆で楽しい方が良い」
昭雄は内心で、勝太郎の事が気に入っていた。
悪い子ではないが癖の強い正道と、よくできた子だが健康面のごく一部に不安のある良子と、たった一年間友人として関係を持った。
たった一年間、と昭雄は思っていた。
切ろうと思えばいつでも切れる、希薄とも言える様な短い付き合いである。
だというのに、この新庄勝太郎という男は、それぞれ面倒な所がある二人と、自分から率先して関係を持ち続けようとしている。
正道に剣を教えて金が貰える訳でもない、良子を慮る行動をしたとして誰かに褒められる訳でもない。
ある意味では、親愛の情という奴は何の見返りも産まないものだ。
それでも人の為になる事を、自分の為だと言い張って行動する。
その行いは新庄勝太郎という男が持つ、そもそもの善性を証明している、と昭雄は思ったのである。
「娘を異性として狙っているのではないのかね?」
しかし、私は何よりも優先して良子の父親であり、巳代の夫である。
一人の人間としてこの男の事を好ましく思おうが、それはまた別の話。
子を守るのが親の務めであるのなら、私は心を鬼にして、この男が娘に相応しい男なのかを試さなければならない。
勝太郎が潔く言い訳せず、率直に男らしく娘に対しての好意を認めるなら、男女の交際を認めてやっても良い。
さあ、男らしく腹を割って話して見せろ。
と、息子を得ることに内心では憧れがあった昭雄は、そのように考えていた。
「異性として?いいえ。それはありません」
と勝太郎は言った。
「どうして!?娘に魅力がないとでも!?」
と昭雄は吠え、あらあら、と巳代が居間の入口で意味のない言葉を吐いた。
善性の塊のような男にだって下心がない保証はない。雰囲気満点の夜祭りに正道を排して一人で娘を誘うのだから、当然そんな狙いがあるに違いない。と昭雄は思っていたのである。
昭雄は混乱していた。
「いいえまさか。良子さんは懐が深くて、優しいですし、とても魅力的な女性だと思います。はい」
「そうだろう!よくできた子なんだ良子は」
「そうでしょう。こう言うと悪口みたいであれですが、正道と長く付き合っている、というだけで人間として相当よくできた人だ、というのは疑いようが無いと思います」
「それはわかる。正道も悪い子じゃないんだが、ちょっとあれな所があるから付き合うのには根気が必要と言うか」
「ちょっと一途すぎる所がありますからね、もう少し視野を広げてくれたら良いのですけれど」
「全くその通り。ん?じゃあ見た目か、見た目が好みじゃないのか。確かに娘は少し背が低いけれども」
「いいえ、良子さんはとても可愛らしいと思いますが、そう言う事ではなく」
「君は娘が好きなんじゃないのか?」
「好きか、嫌いかで言えば、そりゃあ好きですが」
「だったらどうして」
素直に言えば認めてあげるのに、と昭雄はやきもきしながら思った。
初め居丈高に質問を重ねたのは、少し印象が悪かったかもしれなかった。
威圧的に見せすぎてしまったせいで、本心を言い難い相手だと思われてしまったのかも知れなかった。
もし、娘と勝太郎君がすでに付き合っているとしたら、私のせいで二人の関係が悪くなってしまうのではないかと、昭雄は不安になった。
少し話しただけだが、中々の好青年であるらしい事はわかっているし、娘の相手として、よほどおかしな男でないのなら別に不満は無いのである。
本心では既に勝太郎の事を気に入っているのだ。
まして、娘が正道以外の異性と親しくしていたことなどなかったはずなので、もしかすると本当に私は余計なことをしたのでは、あとで良子と巳代に物凄く怒られるのではないか、と昭雄は恐れおののいていた。
勝太郎が本心から良子を異性として見ていない、とは夢にも思わない昭雄である。
「そういうことを考えたことがないので、よくわかりません。とにかく下心は一切ありませんので、ご心配なく」
「まて、それは困る」
と昭雄は言った。
昭雄は、私のせいで目の前の青年は、思ってもない事を言っているに違いない、私のせいで想い合う二人の間に何か禍根を生んでしまうのではないか。という考えにとらえられていた
「今困ってるのは私なんだけれど?」
良子は少し頭に血が昇ったような顔色で言った。
逆に顔から血の気が失せたのは昭雄である。
勝太郎は、巳代が淹れた緑茶にやっと口をつけた。
ずっと良子の様子を横目で見ていた巳代は、にやにやと笑っていた。




