間3 人斬り剣次郎
中学卒業を目前に控えた冬の事である。
勝太郎は家に帰るなり、剣次郎に尋ねた。
「俺が人斬りの子だと言うのは、どういう意味なんだ」
三年間苦楽を共にした剣道部の仲間と最後の試合をしようという話が決まって、勝太郎はこれまでと同じく、仲間たちにとってより実り多い稽古にするための戦い方をした。
勝太郎が父剣次郎の元で剣術修行をつけてもらっていることは周知の事実であり、剣道部の仲間たちの中には、勝太郎と同じく剣次郎に稽古をつけてもらっている者もいたことから、新庄勝太郎と倉内竜生の二人がとびぬけて腕が立つという事は仲間の誰もが知っていた。
一通り試合を終えた後で、仲間の一人が、勝太郎と竜生はどちらが強いのか。と疑問を口にした。
二人とも、部活動では指導に回る事が多く、二人が対戦することはほとんどなかったが故の疑問である。
誰かが、せっかく最後なのだし、と言い出して、二人は内心で、どうしたものかと困りながらも試合をすることになった。
互いに様子を伺いながらも結局はらちが明かず、相面を打ち合っても、仲間たちは満足しなかった。
陽気な声で本気でやれ、などとヤジを飛ばされながら何度も試合をした。
その内に二人とも、ほぼ同等の技量の相手と戦える機会に熱が入ってきて、どちらからともなくお互いに防具を脱いだ。
本気でやれと言うのであれば、防具は邪魔以外の何物でもないと、勝太郎も竜生も同じように感じていたからである。
短竹刀をくれ。
と二人は言った。
これに剣道部の仲間たちは熱狂した。
防具もつけず、帯に短竹刀を差したまま相対する二人の立ち合いは、どのようにみても剣道とは別のものであり、この立ち合いが新庄夢想流同士の真剣な試合である事が理解できたからだった。
始め二人は僅かずつ距離を詰めた。隙があれば即座に打ち込む腹積もりだが、互いにそのような隙は見せないことを選択した。
竹刀が触れ合うほどの距離になると、竜生が勝太郎の竹刀を外に外す動きを見せた。
竹刀を相手の竹刀の上に滑らせ、体を接近させながら手首を返し、ゼロ距離からすり抜けるようにして脇腹を斬りつける。竜生が得意としている技が来るのは明らかだと勝太郎は思った。
気付かぬ間に竹刀を外されてしまって体を懐に入れられてしまえば、斬るなり組み付くなり拳打するなり、兎角攻め手が有利であるから、これを素直に受けてやる道理はなかった。
距離をとっても埒が明かない勝負になるのは目に見えていた。だから互いに短竹刀を帯に差し、組打ちによる決着を予想したのである。
竜生も、この技が入るとは思ってはいなかった。
勝太郎は竜生の手の内を良く知っていた、それと同じくらい竜生も勝太郎の手の内を良く知っている。
勝負は技の読み合いになると、二人とも確信していたのである。
勝太郎は力ずくで竜生の外しを受け返した。
竜生は竹刀に意識が残っていて、もし遅れて短竹刀に意識を向ければそのまま押し勝つ。真剣なら刀が痛むからあまり好ましくないとされる方法だが、一度きりの真剣勝負となればそんな話知ったことではない。優位な鍔迫り合いに持ち込むことができれば良い。と勝太郎は割り切ったのである。
形勢は勝太郎優勢の鍔迫り合い、とはならなかった。
竜生にとって勝太郎の返しは予想外のものであった。しかし即座に考えを改め、脱力しながら竹刀を受け、勝太郎の押す力と自身の両足と後ろに転がるような体捌きを利用して巴投げを仕掛けた。
勝太郎は宙を舞った。
このままでは着地もままならないと判断した勝太郎は竹刀を捨てて転がるような受け身をとり、既に起き上がって竹刀を構えている竜生に短竹刀を抜きながら肉薄しようとする。
勝太郎が竹刀に拘って受け身を失敗するなら、竜生は自分から打ちかかる気でいた。しかし竹刀を捨て、短竹刀に持ち替え即座に打ちかかってくるならば間合いの有利を生かすだけで勝ったも同然であるから、やすやすと懐に入らせるつもりは竜生には無かった。
投げられてしまった時点で勝ち目の薄い状況に陥ったことを勝太郎は理解していた。
攻めるのは間合いの不利がある勝太郎である。しかし懐に入れば短竹刀の短さこそが有利に働く。竜生はそう考えているに違いないと勝太郎は確信した。
勝利を確信し、堅実に守り勝利を拾おうとしている竜生には、短竹刀は短い。という先入観があった。
それは事実だが、誤った認識でもあった。
新庄夢想流は、古流武術と呼ばれるものが総じてそのようにあるのと同じように、剣術のみを伝える流派ではない。
代を重ねるごとに工夫を加えられ、異なる技術体系を取り入れ統合効率化が図られた総合的な戦闘技術と理念が新庄夢想流兵法である。
武器があれば武器を、武器がなければ身体を、状況を、ありとあらゆる要素を総合的に判断し、効率的に利用する。
印地術(※投石術の事)を元に、刀や脇差などを投擲する技も古くから伝えられている。
たった一度きりではあるが、短竹刀でも、竹刀以上の間合いを得ることができる。
勝太郎は竜生の間合いの外から短竹刀を投げつけた。
竜生の予想には、最後の武器である短竹刀を投げつける、という後先考えない攻撃は無かった。勝太郎は不利を承知で竹刀を受け、組み付くかして優勢に転じようとしているのだと思っていた。
受けに回るのは勝太郎を容易に懐へ入れてしまう悪手であり、間合いの優位を使って迎撃するのが最上の方策だった。
竜生の体はすでに攻めの姿勢に入っていて、正中線を正確に狙っている短竹刀も回避することは不可能な距離、無視して体で受けることができない以上は撃ち落とすほかない。
竜生は短竹刀を撃ち落とした。返す竹刀で勝太郎を打つことをちらと考えたが、すでに間に合わぬと悟ってそのまま竹刀を捨て、組み合いに備えようとした。
突進の勢いがあり体勢の整っている勝太郎が圧倒的に優勢であり、組打ちでも勝太郎に一日の長がある事は竜生も承知の上である。
しかし武器のない無手の組打ちであれば容易に決着をつけさせないことぐらいはできる。どうにか優位をもぎ取れば、未だ腰に短竹刀がある自分の方が有利だ、と竜生は考えることにした。
勝太郎が低い体勢から左手で竜生の右腕を掴みにかかった。
これは予備動作で本命は右腕だと、竜生は読んでいた。
勝太郎の右腕は竜生の正中線、最も掴みやすいであろう帯を狙っている。左腕を引きながら体を入れ、掬いあげるような軌道で迫る右腕は、明確に担ぎ投げを狙っている、それをあえて防がずに、左腕で勝太郎の肩を捕まえ交差法で脇腹に膝を入れる。
そうなれば勝太郎は投げ切ることができず、短竹刀を抜く時間的猶予が生まれる。と竜生は確信していた。
勝太郎は投げ技を狙っているように見せかけて、竜生の短竹刀を狙っていた。
投げ技が来ると思っていた竜生は、勝太郎の手が帯を通り過ぎ短竹刀の柄に伸びるのを見て、既にそれを防ぐ手立てがないと気が付き、負けを認めた。
力も乗らない時間を稼ぐだけの膝うちは例え急所に当たったとしても決定打になり得ない。しかし短竹刀は真剣と仮定するものだから、切っ先を添えるだけでよい。相打ちを狙っても命を落とすのは自分だけだと竜生は理解した。
二人が動きを止め、数歩分距離をとって一礼した所で、仲間たちは歓声を上げた。
剣道とは異なる、普段目にすることのできない白熱した立ち合いにある者は絶叫し、ある者は二人の技量をたたえた。
そして極度の興奮状態にあったのは剣道部の仲間たちばかりではなく、勝太郎もまた同じような興奮を共有していた。
勝太郎の視野が常よりもずっと広く広がり、仲間たちの僅かな動きも目の端で捉えていた。道着のすれる音や、荒い呼吸の一つ一つまで耳が吸い寄せる様な、不思議な全知感が勝太郎を包んでいたのだ。
それゆえに、仲間の内の誰かが発した小さな呟きも、勝太郎の耳には届いたのである。
「そのままの意味だろう」
と剣次郎は言った。
木剣を持てば不動心となる剣次郎の瞳が、わずかながら確かに揺れるのを、勝太郎は見逃さなかった。
「父さんは、人を、斬ったのか」
勝太郎に剣を教えたのは剣次郎である。
新庄夢想流が今の時代においては不殺の流派であり、勝利ではなく自衛と守護を重んじる流派であると説いたのは外ならぬ剣次郎であった。
勝太郎の声が途切れ途切れになったのは、まるでその剣次郎が人を斬ったことがあるような口ぶりで答えたからである。
「沖縄で六人。ここでは一人」
勝太郎は、確かにその音を聞いた。
耳の中、頭の奥底のあたりで、何か大切なものに亀裂が入ったような奇妙な音である。
剣士としては新庄夢想流の遣い手として極致にあり、父としては寡黙ながらも男手一つで自分を育て上げた剣次郎を、勝太郎は尊敬していた。
未熟ながらも一人の剣士として師の言動に不信を覚えたからと言って、父としての剣次郎に対する信頼すら失うわけではない。
食事をするのも、買い物に行くにも、稽古をするにも、何をするにも父と二人でないことはなかった。
二人きりの家族なのだ、俺が信じないで誰が父を信じるのだ、と勝太郎は思った。
新庄家には近しい親戚もなく、勝太郎は母の顔も名前も知らなかった。
剣次郎が自身の事を多くを語ることはなかったし、勝太郎も聞かずに今まで生きてきた。
それが、異常なことであると気が付いたのは勝太郎が今よりもずっと幼かった時分の事である。
父が語らない以上は聞いてはならない事なのだと、自分には母などいないのだと、それが当たり前なのだと勝太郎は思うことにしていた。
不意に、勝太郎の心の内に、おぞましいひらめきが湧いて出た。
それは頭の奥底あたりの亀裂から這い出てきたに違いなかった。
「どうして、うちには、母さんが、居ないの?」
それは違うと父が言ってくれたなら、このおぞましいひらめきも霧散して、にわかに生じた亀裂もきっと塞ぐことができるに違いないと、勝太郎は信じていたのである。




