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シモンの協力を得たことをきっかけに、俺は多くの事を知った。
今までは雰囲気で察することしかできなかったことが、きちんと人から学べるという事が嬉しい。
ここはローマで、暴君として有名なネロ帝の時代だという。ローマ史には明るくないから、今が西暦何年なのかはわからない。のだが、いわゆるタイムスリップ的な、あるいは夢的な現象によってローマに居るという事が、俺の心の中で確定した。
これは少しだけ、心にくるものがあった。
やっぱり、どうすれば帰れるのか、見当もつかない。
知れてよかったという思いもあるし、知りたくなかったという思いもある。
しかし、ああだこうだ悩んでいても、どうにもならないことがはっきりしたので、それは良かった。
ふとローマで目覚めたのだから、同じようにふと日本で目覚めるかもしれない。望み薄だがそう思っておくことにした。
何せ、無理やりにでも心を落ち着かせなければ、また以前のようにとんでもない醜態を晒すことになるかもしれない。それは御免被る。
それはさておき。
聞けば俺はどうもローマ人であるらしかった。
テルティウスさんが俺の保護者となる事で身柄を保証されており、ローマ市民としての権利を国家から約束されている。
テルティウス・ユリウス・ロー。
それが俺の名前であるらしい。
まず、戸籍登録がなされていることに驚く。聞くからに古代ローマ時代っぽいのに、意外と進んでいる。と思ってしまうのは失礼だろうか。
それに、どこの馬の骨かも知れない俺が、そんな簡単にローマ市民に認められて良いのだろうか。
いや、戸籍登録なんてことをきちんと行っている国家で、簡単にできる訳がない。
日本に帰化するのは大変だと聞いたことがあるのだから、ローマだってそう変わらないだろう。きっとたくさんの苦労があって、それを俺に言わないだけなのだろうと思う。
本当に申し訳ない、そしてありがたいことだった。
また、返さなければならない恩が増えてしまった。
しかしそう思うと、大人しくしていることはできなかった。
ローマに来て、たくさんの人達に親切にしてもらったのだ。
俺にはまだ返せるものは何もないのだが、せめて感謝を伝えるべきだと思った。
ウェスタの巫女の女性たち。
テルティウスさん。
剣闘士として雇ってくれたご老人と、気のいい筋肉たち。
それと、俺が目覚めた所で声をかけてくれた女性にもだ。
幸い、今はシモンがいてくれる。
出来れば自分の言葉で伝えたいものだが、こういうことは思い立ったが吉日だ。
だが、失敗だったかもしれない。
ティベリアが竈番だったので、まずはテルティウスさんに感謝を伝えた。しかしシモンの存在によって意思の疎通が容易になったせいで、テルティウスさんが当然と言わんばかりに、俺に給料を渡す気になっていることに気づかされた。
どれだけ固辞してもテルティウスさんが折れないので、むしろ俺が折られた。一度でも恩を受けてしまうと、もう自分の意地を通すなんて、よほどの事がない限り俺には無理だった。
次に治療院で親切にしてくれた神官医師のコルネリアさんに感謝を伝えた。そして川べりから俺を助けたのはティベリアだと知らされ、度肝を抜かれた。
コルネリアさんの父親で治療院の神官医師長であるコルネリウスさんは、俺についての根ほり葉ほり聞いてきた。どういう理由で川べりに流れ着いたのかという質問以外にはすべて正直に答えたが、俺自身がわかっていないことは、沈黙と曖昧な笑顔を答えとした。
そのせいか、コルネリウスさんに不信感を持たれてしまったようだったが、恩ある人に嘘はつきたくなかったので仕方がないと諦めるほかない。
そしてコルネリウスさんとコルネリアさんの丁々発止の親子喧嘩が勃発した。
シモンも二人のあまりにも早口なラテン語の応酬と、俺に対する通訳に四苦八苦しながら、喧嘩の内容が、俺を信頼するか否か。である事を伝えてくれた。
俺擁護派のコルネリアさんに一層の感謝を感じ、保守静観派のコルネリウスさんの言い分にも納得しながら、なんて仲裁しにくい喧嘩を始めてくれるのかと途方に暮れた。
頃合いを見て改めてお礼を伝え、俺とシモンは逃げるようにして、治療院を後にした。
申し訳なさ過ぎて後ろ髪をひかれる思いであった。
最後に俺を剣闘士として雇ってくれたクィントゥスさんの所へ。
俺の勘違いや、あの剣闘試合のせいで、クィントゥスさんへの印象があまり良くないのだが、雇ってもらった上に、約束通りきちんと報酬まで頂いたのだし、感謝しない理由はない。
こうして暖かい格好ができるのも、必要雑貨を買い求めることができるのも、言うなればクィントゥスさんのおかげなのだ。
あの時はさっぱりラテン語がわからなかったが、今はある程度聞き取れるし、シモンもいるから意思の疎通で困ることは無い。
もしもう一度誘われたとしても、もう剣闘士として戦うつもりはないと断ることができる。
懐かしさすら感じる石壁に囲まれた集合住宅。
格子門の両脇に立っている門番に用件を伝え、しばらく待つと囲いの中へと誘導された。
広場では、やはりあの時と同じように筋肉質な男たちが稽古に励んでいた。以前よりも剣術的なでたらめさが少なくなって、より実践的な気配を感じた。
スパルティコと言う名前らしい試し試合をした大男にアキレウスなどと身に覚えのない名前で呼ばれ面食らうも、自己紹介がてらに感謝を伝え、クィントゥスさんにも感謝を伝えた。
そして、いくらか理解できるようになったラテン語を随分と褒められ、暇があれば剣術の指導をしてくれないかと要請され驚いた。
あの剣闘試合以降、俺の剣術を真似したいと言う剣闘士が出てきているらしかった。
それは単純に嬉しかったが、俺があの剣闘大会で盛大にやらかしていたことをティベリアやユリアから聞いていて知っていたから、受けて良いのか大変悩んだ。
しかしクィントゥスさんの、剣闘士をさらに鍛え上げ、ガイウスさんと言う人を出し抜きたい。という並ならぬ熱意に押され、副業が可能なのかをまず確認しなければならないので、即答はできない。というかなりイエスに近い返事をしてしまった。
思いつく限り感謝を伝えて回って、なぜかより一層膨れ上がるご恩。もう、どうしたら良いのだろう。
それに、ティベリアにはまだ感謝の言葉すら、伝えられていない。
俺を川べりから助けたなんて話は、文字通り剣闘試合以前の話で、聞かされていなかった。
なぜ、教えてくれなかったのか。と聞くのも無粋だろうか、無粋なのだろう。
そんなことは。わざわざ言うまでもないとティベリアは判断したのだ。
何となく、わかる気がした。
別に、感謝してほしくて助ける訳ではない。
俺がペンテシレイアと言う名前らしい女剣闘士を助けたいと思ったのと同じだろう。
自分がそうしたいから、そうした。
それだけだ。
ティベリアはもしかしたら、お礼なんかされたくないのかもしれない。
感謝の言葉なんて、これっぽっちも求めていないのかもしれない。
しかし、助けられた身としては、きちんとお礼がしたいのだ。少なくとも俺はそう思う。
もしかしたら、俺は誰に助けられることもなく、川に流されて死んでいたかもしれない。
もしかしたら、闘技場で百人の兵士に殺されていたかもしれない。
もしかしたら、どこに行けばよいかもわからず、路頭に迷って飢え死にしていたかもしれない。
何度考えたって御免被ると言いたくなるような最後から、ティベリアが助けてくれたのだ。
大恩と言うにも大きすぎるような恩を、俺は返しきることができるのだろうか。
しかしそれは、実際問題。どうやって返すことができるというのだろうか?




